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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

シパーヒーとは わかりやすい世界史用語2323

著者名: ピアソラ
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シパーヒーとは

オスマン帝国の軍事組織と社会構造の中核をなしたシパーヒーは、その歴史的役割と重要性において、帝国そのものの盛衰と深く結びついています。シパーヒー制度は、単なる騎兵部隊という枠を超え、帝国の行政、経済、そして社会の根幹を支える多面的な機能を持っていました。その起源は、オスマン帝国以前のセルジューク朝にまで遡ることができ、イスラム世界の軍事伝統と中央アジアの遊牧民の騎馬文化が融合した独特の制度として発展しました。



シパーヒー制度の起源と発展

オスマン帝国のシパーヒー制度は、歴史的に見て、先行するイスラム諸王朝、特にルーム・セルジューク朝の軍事・行政制度から多大な影響を受けています。その根幹にあるのは、軍事奉仕と引き換えに土地の徴税権を与えるという概念であり、これは中東世界において古くから見られる統治手法でした。ルーム・セルジューク朝では、「イクター」として知られるこの制度が、国家の軍事力を維持し、地方を統治するための重要な手段として機能していました。イクター制は、スルタンが功績のあった軍人や官僚に対し、特定の土地からの税収を徴収する権利を授与するもので、その見返りとして、受領者は定められた数の兵士を養い、戦時にはスルタンの召集に応じて出征する義務を負いました。この制度は、中央政府の財政的負担を軽減しつつ、広大な領土にわたって軍事力を分散配置することを可能にしました。オスマン帝国がアナトリアで台頭し始めた頃、彼らはこのセルジューク朝のイクター制を継承し、自らの統治体制に合わせて発展させました。これが後に「ティマール制」として知られるようになる制度の原型です。
オスマン帝国初期の指導者たちは、征服活動を効率的に進め、新たに獲得した領土を安定的に支配するために、既存の統治システムを積極的に取り入れました。特に、オルハンやムラト1世の治世において、バルカン半島への進出が本格化すると、軍事力の増強と地方行政の確立が急務となりました。この過程で、セルジューク朝のイクター制を基盤としたティマール制が、オスマン帝国の軍事・行政制度の中核として確立されていきました。ティマール制は、イクター制の基本原則を踏襲しつつも、より中央集権的な管理体制の下に置かれた点で独自性を持っていました。スルタンは帝国全土の土地の唯一の所有者とされ、シパーヒーに与えられたのは土地そのものではなく、あくまでその土地からの税を徴収する権利でした。この徴税権は「ティマール」と呼ばれ、その規模に応じてシパーヒーは騎兵としての軍役を負いました。ティマールは世襲されることもありましたが、原則としてスルタンの権限下にあり、軍役を怠ったり、不正を働いたりした場合には没収される可能性がありました。
シパーヒーという言葉自体は、ペルシャ語で「兵士」や「軍人」を意味する言葉に由来し、歴史的には騎兵を指す用語として広く使われてきました。オスマン帝国においては、特にティマールを保有し、軍役を務める封建的騎兵を指す呼称として定着しました。彼らは、オスマン帝国の軍事力の根幹をなし、特に14世紀から16世紀にかけての帝国の急拡大期において、その征服活動の主力を担いました。バルカン半島やアナトリアの征服、さらにはハンガリーや中東への遠征において、シパーヒー騎兵はその機動力と戦闘能力を遺憾なく発揮しました。彼らは単なる兵士ではなく、地方におけるスルタンの代理人としての役割も担っていました。ティマール保有者として、彼らは領内の農民から税を徴収し、治安を維持し、農地の生産性を管理する責任を負っていました。このように、シパーヒーは軍事、行政、経済の各側面に深く関与する存在であり、オスマン帝国の地方統治システムそのものでした。
シパーヒー制度の発展は、オスマン帝国の領土拡大と密接に連動していました。新たな土地が征服されるたびに、その土地は測量され、ティマールとして分割され、功績のあった兵士たちに分配されました。これにより、帝国は征服地の安定化を図ると同時に、さらなる征服活動のための軍事力を確保することができました。このシステムは、兵士たちにとって大きなインセンティブとなりました。戦場で手柄を立てれば、ティマールを与えられて地主階級の一員となり、安定した収入と社会的地位を得ることができたからです。このため、多くの若者がシパーヒーとなることを目指し、帝国は常に質の高い騎兵を確保することができました。また、ティマール制は、キリスト教徒の旧領主層をオスマン帝国の支配体制に組み込む手段としても機能しました。バルカン半島の征服初期には、キリスト教徒の領主がイスラム教に改宗することなく、ティマールを保有し続けることを認められるケースも少なくありませんでした。これは、オスマン帝国が被征服民の既存の社会構造をある程度尊重し、急進的な変革を避けることで、支配の安定化を図った現実的な政策の表れでした。しかし、時代が下るにつれて、ティマール保有者の資格は次第にムスリムに限定されるようになり、制度はよりイスラム的な性格を強めていきました。

ティマール制度の構造と機能

ティマール制度は、オスマン帝国の軍事力と地方行政を支えるための精緻なシステムでした。この制度の根幹には、国家がすべての土地の所有権を持つという原則がありました。スルタンは、帝国の最高主権者として、土地からの収益を徴収する権利を、軍事奉仕と引き換えに個人に授与しました。この授与された徴税権付きの土地が「ティマール」です。ティマールを保有する者は「ティマール保有者」または一般的に「シパーヒー」と呼ばれ、その土地からの税収を自らの収入とすると同時に、その収入額に応じて定められた数の武装した騎兵(ジェベル)を養い、戦時には彼らを率いてスルタンの召集に応じる義務を負いました。この制度により、オスマン帝国は中央政府の国庫から直接給与を支払うことなく、数十万規模の常備騎兵軍を維持することが可能になりました。
ティマールは、その年間収入額に応じて三つのカテゴリーに分類されていました。最も小規模なものが「ティマール」であり、年間収入が2万アクチェ未満のものでした。これを保有するシパーヒーは、自身の軍備を整えるとともに、収入額に応じて数名のジェベルを従えることが求められました。次に大規模なものが「ゼアメット」で、年間収入が2万アクチェから10万アクチェ未満のものでした。ゼアメットの保有者は「ザイム」と呼ばれ、より多くのジェベルを率いる義務がありました。そして、最も大規模なものが「ハス」であり、年間収入が10万アクチェを超えるものでした。ハスは、スルタン自身やその家族、宰相、州総督などの最高位の官僚に与えられ、その保有者は大規模な軍隊を維持する責任を負いました。この階層構造は、軍事的な功績や政治的な地位に応じて報酬を与えるインセンティブシステムとして機能し、帝国への忠誠心を高める役割を果たしました。
ティマールの分配と管理は、中央政府によって厳格に行われていました。新たな領土が征服されると、まず詳細な土地台帳(タフリール・デフテリ)が作成されました。この台帳には、村ごとの土地の種類、耕作面積、推定収穫量、人口、そして徴収されるべき税の種類と額が詳細に記録されました。これらの情報に基づき、土地はティマール、ゼアメット、ハスに分割され、資格のある個人に割り当てられました。このプロセスは、中央の財務局によって監督され、恣意的な分配や不正を防ぐための仕組みが整えられていました。シパーヒーが死亡したり、軍役を怠ったりした場合には、そのティマールは没収され、新たな候補者に再分配されました。ティマールは、原則として一代限りのものでしたが、実際には、シパーヒーの息子が父親の跡を継いでティマールを相続することが慣行として広く認められていました。ただし、そのためには息子が騎兵としての適性を証明し、スルタンの承認を得る必要がありました。この限定的な世襲制は、経験豊富な軍事エリート層を維持しつつも、スルタンが土地に対する最終的な支配権を保持するための絶妙なバランスの上に成り立っていました。
シパーヒーの義務は、軍事的なものに留まりませんでした。彼らは、自らのティマールが所在する地域の地方行政官としての役割も担っていました。その主な任務は、法律(カーヌーン)で定められた税を農民から徴収することでした。税は、収穫物の一部を現物で納める十分の一税(ウシュル)や、土地税、人頭税など、様々な種類がありました。シパーヒーは、これらの税を公正に徴収し、自らの収入とジェベルの維持費を差し引いた後、余剰分があれば中央政府に納める義務がありました。また、彼らは領内の治安維持にも責任を負っていました。軽微な犯罪の取り締まりや紛争の調停を行い、地域の秩序を守ることが期待されていました。さらに、農地の生産性を維持・向上させることも重要な任務の一つでした。農民が土地を放棄したり、耕作を怠ったりしないように監督し、必要であれば農業インフラの整備を支援することもありました。このように、ティマール制度は、軍事、行政、経済の機能を統合した地方統治システムであり、シパーヒーはその末端を担う重要な存在でした。彼らは、イスタンブールの中央政府と地方の農村民とを結ぶ結節点として機能し、帝国の広大な領土を隅々まで統治するための不可欠な装置でした。この制度の効率的な運用こそが、オスマン帝国が数世紀にわたって繁栄を維持できた大きな要因の一つでした。

シパーヒーの軍事組織と役割

シパーヒーは、オスマン帝国の軍隊、特に16世紀後半に火器を装備した歩兵であるイェニチェリが台頭するまで、その中核をなす存在でした。彼らは主に重装騎兵として編成され、戦場ではその衝撃力と機動力を活かして決定的な役割を果たしました。シパーヒー軍団は、帝国の地理的な行政区分である州(エヤレト)ごとに組織されていました。各州には州総督(ベイレルベイ)が置かれ、その州に属するすべてのシパーヒーは、戦時においてベイレルベイの指揮下に入りました。さらに、州は県(サンジャク)に分割され、各県には県軍政官(サンジャクベイ)が置かれていました。サンジャクベイ自身も大規模なティマール(ゼアメットやハス)を保有するシパーヒーであり、平時には県の行政を担当し、戦時にはその県のシパーヒーを率いてベイレルベイの軍に合流しました。この指揮系統は、地方の軍事力を効率的に動員し、スルタンの命令の下、迅速に大軍を編成することを可能にしました。
シパーヒーの装備は、時代や地域によって多少の違いはありますが、基本的には重装騎兵としての役割を果たすためのものでした。彼らは、鎖帷子やプレートアーマーで身を固め、兜をかぶっていました。主な武器は、ランス(槍)、サーベル(湾曲した刀)、メイス(棍棒)、そして弓矢でした。特に、中央アジアの遊牧民の伝統を受け継ぐオスマン騎兵にとって、弓矢は非常に重要な武器であり、馬上から正確な射撃を行う技術に長けていました。彼らは、敵陣に対してまず矢の雨を降らせて混乱させた後、ランスを構えて突撃し、敵の戦列を突き崩すという戦術を得意としました。突撃後は、サーベルやメイスを用いての白兵戦に移行しました。馬もまた、シパーヒーにとって最も重要な装備の一つであり、頑健で持久力のあるアラブ種やトルクメン種の馬が好まれました。シパーヒーは、自身のティマールからの収入を用いて、これらの武器、防具、そして馬を自前で用意し、常に戦闘準備を整えておくことが義務付けられていました。収入額の大きいシパーヒーは、より質の高い装備を揃えることができ、また、定められた数の従者騎兵(ジェベル)にも同様の装備をさせて従軍しました。
戦場におけるシパーヒーの役割は多岐にわたりました。彼らは、オスマン軍の主力部隊として、会戦の序盤で敵の戦力を削ぎ、中央に陣取るイェニチェリや砲兵部隊への圧力を軽減する役割を担いました。両翼に配置されることが多く、その機動力を活かして敵の側面を攻撃したり、敵の騎兵部隊を誘い出して孤立させたりする戦術も頻繁に用いられました。また、偵察や哨戒、追撃、そして後方の補給線の防衛など、騎兵ならではの任務も彼らの重要な役割でした。特に、ハンガリー平原のような広大な開けた地形での戦闘において、シパーヒー騎兵の価値は絶大でした。1526年のモハーチの戦いでは、オスマン軍のシパーヒーがハンガリー軍の重装騎兵を巧みに誘い込み、中央の砲兵とイェニチェリの射撃の的とすることで、壊滅的な打撃を与え、歴史的な大勝利を収めました。この勝利は、シパーヒーを中核とするオスマンの古典的な軍事システムが、その頂点にあったことを示す象徴的な出来事でした。
しかし、シパーヒーは単なる戦場の兵士ではありませんでした。彼らは、軍事エリートとしての誇りと強い共同体意識を持っていました。各州のシパーヒーは、サンジャクベイやベイレルベイを長とする一つの軍団を形成し、平時においても訓練や交流を通じて結束を固めていました。戦役の際には、スルタンからの召集命令(セフェル・エミリ)が発せられると、各県のシパーヒーは指定された集結地に参集し、そこから大軍として戦地へ向かいました。遠征は数ヶ月から時には数年に及ぶこともあり、彼らは故郷を遠く離れて過酷な環境で戦い続けました。その忠誠心と士気を支えたのは、軍功を立てればより大きなティマールを得られるという物質的な報酬への期待だけでなく、スルタンと帝国に仕えるという名誉や、イスラムの戦士(ガーズィー)としての宗教的な使命感でした。彼らは、自らを帝国の守護者であり、その繁栄を支える柱であると自負していました。この強固なアイデンティティと組織的な結束力が、オスマン帝国が長きにわたって軍事的な優位を保ち続けた原動力の一つであったことは間違いありません。

シパーヒーの社会的地位と経済的基盤

オスマン帝国社会において、シパーヒーは支配階級である「アスケリ」に属し、高い社会的地位を享受していました。アスケリとは、文字通りには「軍人階級」を意味しますが、実際にはスルタンに仕える軍人、官僚、ウラマー(イスラム法学者)など、納税を免除された特権階級全体を指す言葉でした。彼らは、納税者である被支配階級「レアーヤ」(主に農民や商人、職人)とは明確に区別されていました。シパーヒーは、このアスケリの中核をなす存在であり、ティマールを保有する地主として、地方社会において絶大な権力と威信を持っていました。彼らは、自らのティマール内の村々において、領主として振る舞い、農民たちから敬意を払われる存在でした。
シパーヒーの経済的基盤は、彼らが保有するティマールからの収入でした。ティマール制度の下で、シパーヒーは特定の土地からの税を徴収する権利を与えられていました。この税収が、彼ら自身の生活費、武器や馬などの軍備の維持費、そして従者であるジェベルを養うための費用を賄う源泉でした。徴収する税の種類と税率は、帝国の法律であるカーヌーンによって詳細に定められており、シパーヒーが恣意的に農民から過剰な搾取を行うことは禁じられていました。主な税は、農産物の収穫高に対して課される十分の一税(ウシュル)でしたが、その他にも土地税、結婚税、家畜税など、様々な税がありました。シパーヒーは、これらの税を徴収する責任を負う一方で、その土地の生産性を維持し、農民の生活を保護する義務も負っていました。農民が耕作を放棄して土地が荒廃すれば、シパーヒー自身の収入も減少するため、両者の間にはある種の共存関係が成り立っていました。公正なシパーヒーの下では、農民は安定した生活を送ることができ、地域の経済も発展しました。
シパーヒーの生活は、そのティマールの規模によって大きく異なりました。小規模なティマールしか持たない下級のシパーヒーは、自らも農作業に従事することもあったと言われ、その生活は裕福な農民と大差ないものでした。彼らの主な関心は、次の戦役で手柄を立て、より大きなティマールを得ることにありました。一方、ゼアメットやハスといった大規模なティマールを保有する上級のシパーヒーは、地方の名士として豪華な邸宅に住み、多くの使用人や従者を抱える豊かな生活を送っていました。彼らは、地域の政治や経済に大きな影響力を持ち、時には中央政府の政策に対しても発言力を持つことがありました。サンジャクベイやベイレルベイといった高位のシパーヒーは、まさにその地域の支配者であり、その権力はスルタンの代理人として絶大なものでした。
シパーヒーの地位は、原則として軍功によって得られるものであり、出自よりも個人の能力や功績が重視される実力主義的な側面を持っていました。これにより、平民出身者であっても、戦場で勇敢に戦い、手柄を立てればシパーヒーとなり、支配階級の一員に加わることが可能でした。この社会的な流動性は、オスマン帝国の活力の源泉の一つでした。しかし、時代が下るにつれて、ティマールが特定の家系によって事実上世襲される傾向が強まり、シパーヒー階級は次第に固定化・貴族化していきました。父親がシパーヒーであれば、その息子もまたシパーヒーになるのが当然と見なされるようになり、外部からの新規参入は困難になっていきました。これは、制度の硬直化を招くと同時に、シパーヒーの質の低下をもたらす一因となりました。
また、シパーヒーは地方社会における文化の担い手でもありました。特に上級のシパーヒーは、イスタンブールの宮廷文化に触れる機会も多く、詩作や音楽、書道などの芸術を嗜む教養人でもありました。彼らの邸宅は、地域の文化的な中心地となり、学者や詩人、芸術家たちが集うサロンのような役割を果たすこともありました。彼らは、中央の洗練された文化を地方に伝えるとともに、地方の伝統文化を保護・育成する役割も担っていました。このように、シパーヒーは単なる軍人や行政官に留まらず、オスマン帝国の地方社会において、政治、経済、文化のあらゆる面で中心的な役割を果たす多面的なエリート層を形成していたのです。

シパーヒー制度の変容と衰退

16世紀後半から17世紀にかけて、オスマン帝国が内外の様々な課題に直面する中で、帝国の根幹を支えてきたシパーヒーとティマール制度は、深刻な変容と衰退の過程をたどりました。その背景には、軍事技術の変化、経済の変動、そして帝国の政治構造の変化など、複合的な要因が絡み合っていました。この制度の衰退は、オスマン帝国の古典的な軍事・行政システムの終焉を意味し、帝国の長期的な停滞と近代化の遅れにつながる重大な転換点となりました。
衰退の最も大きな外的要因は、軍事技術の革新、すなわち火器の普及でした。ヨーロッパで発展した火縄銃や大砲は、16世紀を通じてオスマン軍にも導入されましたが、その影響は軍の構造を根底から揺るがすものでした。火器で武装した歩兵部隊は、従来の騎兵中心の戦術に対して優位に立つようになりました。重装鎧で身を固めたシパーヒーの突撃は、訓練された銃兵の一斉射撃の前には効果が薄く、その戦場における価値は相対的に低下していきました。これに対応するため、オスマン帝国は火器を装備した常備歩兵軍であるイェニチェリの増強に力を注ぐようになりました。イェニチェリは、中央政府から直接給与を支払われる職業軍人であり、その数は急速に増加しました。軍事の中心が、地方の封建騎兵であるシパーヒーから、中央の常備歩兵であるイェニチェリへと移行していったのです。この変化は、長期にわたる対ハプスブルク帝国との戦争(1593年-1606年)で決定的となりました。この戦争では、大規模な銃撃戦が頻発し、シパーヒーの伝統的な戦術では対応が困難であることが明らかになりました。
軍事的重要性の低下と並行して、シパーヒーの経済的基盤であるティマール制度もまた、内側から崩壊し始めました。その一因は、16世紀後半にアメリカ大陸から大量の銀がヨーロッパ経由で流入したことによる、世界的な価格革命(インフレーション)でした。銀の価値が下落し、物価が高騰する中で、ティマールからの名目的な収入額は変わらない一方、シパーヒーの実質的な収入は大幅に減少しました。これにより、多くのシパーヒーが経済的に困窮し、法律で定められた数のジェベルを養ったり、自身の軍備を維持したりすることが困難になりました。生活に窮したシパーヒーの中には、農民から不法な税を取り立てたり、ティマールを放棄して都市に流入したりする者も現れ、地方の治安の悪化と農業生産の低下を招きました。
中央政府もまた、財政的な困難からティマール制度の解体を加速させました。イェニチェリの増強や長期化する戦争の戦費を賄うため、政府は新たな財源を必要としていました。そこで注目されたのが、ティマール領でした。政府は、所有者の死亡や不正などを理由にティマールを没収し、それを競売にかけて民間の徴税請負人(ミュルテジム)に売り渡すようになりました。この徴税請負制度(イルティザーム)の下では、徴税請負人は一定額を前もって国庫に納める代わりに、特定の土地から税を徴収する権利を得ました。彼らの目的は、支払った金額以上の税を徴収して利益を上げることだけでした。シパーヒーのように土地の生産性維持や農民の保護に責任を負わない徴税請負人による過酷な搾取は、農村の荒廃をさらに深刻化させました。また、多くのティマールが、スルタンの寵臣や宮廷の有力者にハスとして与えられ、私有地化されていきました。これらの土地は「チフトリク」と呼ばれる大農園となり、もはや軍役とは結びつかない純粋な収益源となっていきました。
これらの変化の結果、かつて帝国の軍事力の中核であったシパーヒーは、その数を大幅に減らし、軍事エリートとしての地位を失いました。17世紀には、彼らは主に地方の治安維持や後方支援といった補助的な役割を担う存在となり、戦場の主役は完全にイェニチェリやその他の俸給兵に移っていました。制度の形骸化は、シパーヒー自身の士気や規律の低下をもたらしました。軍役の義務を怠り、ティマールを単なる収入源としか見なさなくなる者が増え、かつての誇り高き戦士集団の面影は失われていきました。18世紀には、ティマール制度はもはや名ばかりのものとなり、地方の有力者が土地を私有化する動きが加速しました。そして、19世紀初頭、スルタン・マフムト2世による西欧式の近代的な軍隊の創設を目指す改革の中で、シパーヒー制度は1831年に正式に廃止されました。これは、数世紀にわたってオスマン帝国の屋台骨を支えてきた一つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事でした。シパーヒーの衰退とティマール制度の崩壊は、オスマン帝国が近代世界に適応していく過程で直面した、深刻な構造的危機の表れであったと言えます。

カプクル・シパーヒー:スルタン直属の精鋭騎兵

オスマン帝国の軍事組織を語る上で、ティマールを保有する地方の封建騎兵であるシパーヒーとは別に、もう一つの重要な騎兵部隊の存在を忘れてはなりません。それが「カプクル・シパーヒー」または単に「シパーヒー」と呼ばれる、スルタン直属の常備騎兵軍団です。彼らは、イェニチェリと同じく「カプクル(宮廷の奴隷)」と呼ばれるスルタンの家産奴隷から構成されるエリート部隊であり、ティマール制に依存する地方シパーヒーとは出自も組織も全く異なる存在でした。カプクル・シパーヒーは、スルタンの身辺警護と、戦場における最終予備兵力としての役割を担い、オスマン軍の中でも最高の格式と名誉を誇る部隊の一つでした。
カプクル・シパーヒーの起源は、14世紀のムラト1世の治世にまで遡ると考えられています。イェニチェリ軍団の創設とほぼ同時期に、スルタンの権威を内外に示すための直属の精鋭騎兵部隊として組織されました。彼らの兵員は、当初はデヴシルメ制度(キリスト教徒の少年を徴集し、イスラム教に改宗させて軍人や官僚に育成する制度)によって集められた者や、戦争捕虜、あるいは功績のあったイェニチェリの中から選抜された者たちで構成されていました。彼らはイスタンブールの兵舎で厳格な訓練を受け、スルタンから直接給与(ウルーフェ)を支給される職業軍人でした。ティマール保有者のシパーヒーが地方に分散して居住していたのに対し、カプクル・シパーヒーは首都に常駐し、スルタンの儀仗兵としての役割も果たしました。パレードや外国使節の歓迎式典など、帝国の威光を示す重要な場面では、彼らの壮麗な軍装と威風堂々とした行進が欠かせないものでした。
カプクル・シパーヒー軍団は、内部で六つの部隊(アルトゥ・ベリュク・ハルク)に分かれていました。これらの部隊はそれぞれ独自の旗印と階級制度を持ち、互いに競争し合うことで全体の士気と練度を高めていました。六部隊の中でも特に格式が高かったのが、「シパーヒー」と「シラフタール」の二部隊でした。シラフタールはスルタンの武器を警護する役目を持ち、戦場ではスルタンの右側に陣取りました。一方、シパーヒー部隊はスルタンの左側に陣取りました。これらの部隊は、戦場においてシパーヒーとシラフタールの両翼を固め、スルタンの本陣を厳重に防衛する役割を担っていました。これらの部隊への配属は、兵士の経歴や能力に応じて決定され、下位の部隊で功績を立てれば、より名誉ある上位の部隊へと昇進することができました。この階層的な組織構造は、兵士たちに強い競争意識と上昇志向を植え付け、軍団全体の精強さを維持する上で効果的に機能しました。
戦場におけるカプクル・シパーヒーの役割は、極めて重要でした。彼らは、ティマール・シパーヒーが敵の戦列を乱し、イェニチェリが銃撃で敵を消耗させた後、戦いの帰趨を決する決定的な瞬間に投入される最終兵力でした。スルタン自身の指揮の下、温存されていたカプクル・シパーヒーが戦場に投入されるとき、それはオスマン軍の総攻撃の合図であり、敵にとっては最大の脅威でした。彼らは最高の馬に乗り、最も優れた武器と防具を身につけたエリート中のエリートであり、その突撃力は絶大でした。また、彼らはスルタンの最後の防衛線でもありました。万が一、戦況が不利になり、敵がスルタンの本陣に迫った場合には、文字通り自らの命を盾にしてスルタンを守ることが彼らの至上の任務でした。
しかし、ティマール・シパーヒーと同様に、カプクル・シパーヒーもまた時代の変化と無縁ではありませんでした。17世紀以降、デヴシルメ制度が形骸化し、トルコ系のムスリム市民の子弟が縁故や賄賂によって入隊するケースが増加しました。これにより、かつての厳格な規律は緩み、部隊の質は徐々に低下していきました。また、彼らは首都に常駐する大兵力であったため、しばしば政治的な影響力を持つようになり、イェニチェリと共に給与の増額や待遇改善を求めて反乱を起こしたり、スルタンの廃位に関与したりするなど、政治の不安定要因となることもありました。特に17世紀から18世紀にかけては、彼らの反乱が頻発し、帝国の統治を揺るがす深刻な問題となりました。最終的に、カプクル・シパーヒーもまた、マフムト2世の軍事改革の過程で、反乱を繰り返していたイェニチェリ軍団と共に1826年に解体されました。ティマール・シパーヒーとカプクル・シパーヒーという、オスマン帝国の二つの偉大な騎兵軍団の終焉は、帝国が古い殻を脱ぎ捨て、新たな時代へと移行せざるを得なかったことを象徴しています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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