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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

ティマール制とは わかりやすい世界史用語2322

著者名: ピアソラ
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ティマール制の起源と発展

オスマン帝国のティマール制は、国家の軍事力と地方行政を支える根幹をなす、封土と軍事奉仕を交換する独特の制度でした。この制度の起源は、オスマン帝国が歴史の舞台に登場する以前の中東イスラム世界に深く根差しています。特に、8世紀から11世紀にかけて中東を支配したセルジューク朝が用いたイクター制は、ティマール制の直接的な前身と見なされています。イクター制は、スルタンが軍人や官僚に対し、給与の代わりに特定の土地からの徴税権を与える制度でした。この土地の保有者(ムクター)は、徴収した税収から自身の生計を立てるとともに、戦時にはスルタンの命令に応じて定められた数の兵士を率いて出征する義務を負っていました。このイクター制の仕組みは、中央政府の財政負担を軽減しつつ、広大な領土に軍事力を効果的に配置するという点で画期的なものでした。オスマン帝国は、アナトリア(現在のトルコ)でセルジューク朝の後継国家の一つとして台頭する過程で、このイクター制の理念と構造を継承し、自国の国情に合わせて発展させました。



オスマン帝国初期のスルタンたちは、征服活動によって急速に拡大する領土を効率的に統治し、強力な常備軍を維持する必要に迫られていました。14世紀のオルハンやムラト1世の治世において、ティマール制の原型が形成され始めました。彼らは、征服したバルカン半島やアナトリアの土地を、軍功を挙げた騎士(シパーヒー)にティマールとして分与しました。ティマールを与えられたシパーヒーは、その土地の農民から定められた税を徴収する権利を得る代わりに、平時は領地の治安維持にあたり、戦時にはスルタンの召集に応じて武装した兵士(ジェベル)を率いて参戦することが義務付けられました。この制度は、主に騎兵によって構成されるオスマン軍の中核を形成する上で、決定的な役割を果たしました。シパーヒー騎兵は、その機動力と戦闘能力の高さから、オスマン帝国のヨーロッパおよびアジアにおける軍事的成功に大きく貢献しました。
ティマール制がその完成形に至ったのは、15世紀後半のメフメト2世の治世です。コンスタンティノープルを征服し、オスマン帝国を世界帝国へと押し上げたメフメト2世は、帝国の統治機構を再編し、中央集権化を強力に推進しました。その一環として、ティマール制に関する詳細な法典(カーヌーン)が編纂され、ティマールの授与、継承、没収に関する厳格な規則が定められました。この法典化により、ティマールはシパーヒーの私有財産ではなく、あくまでスルタンから貸与された国家の土地であることが明確にされました。シパーヒーが軍役義務を怠ったり、領民に対して不正を働いたりした場合には、スルタンはティマールを没収し、別の功績ある者に与えることができました。この中央集権的な管理体制は、地方の封建領主が独立した勢力として台頭することを防ぎ、スルタンの絶対的な権威を帝国全土に行き渡らせる上で極めて重要でした。メフメト2世によって確立されたこの洗練されたティマール制は、続くスレイマン1世の治世において最盛期を迎え、オスマン帝国の黄金時代を支える社会経済的基盤となったのです。

ティマール制の構造と機能

オスマン帝国のティマール制は、その収入額に応じて三つの主要な階層に区分されていました。最も小規模な封土が「ティマール」であり、これが制度全体の基本単位を形成していました。ティマールの年間収入は通常2万アクチェ未満とされ、主に一般の騎士であるシパーヒーに授与されました。ティマールを保有するシパーヒーは、その収入に応じて、自身を含めて数名の武装した騎兵(ジェベル)を戦時に提供する義務を負いました。彼らはオスマン軍の騎兵部隊の根幹をなし、帝国各地の戦線で活躍しました。
ティマールよりも上級の封土が「ゼアメット」でした。ゼアメットの年間収入は2万アクチェから10万アクチェ未満とされ、主にサンジャク(県)の総督(サンジャクベイ)配下の上級将校や、中央政府の官僚などに与えられました。ゼアメットの保有者は、ティマール保有者よりも多くの収入を得る代わりに、より多くのジェベルを率いて出征する責任を負いました。彼らは地方軍の中核をなす指揮官層として、シパーヒー部隊を統率する役割を担いました。
そして、ティマール制の最高位に位置するのが「ハス」でした。ハスの年間収入は10万アクチェ以上と莫大な額に上り、スルタン自身や皇族、大宰相(ヴェズィリアザム)、州の総督(ベイレルベイ)といった帝国の最高権力者層にのみ与えられました。ハスからの収入は、彼らの宮廷や行政機関の運営費用、そして私兵の維持費などに充てられました。特に、州総督であるベイレルベイは、自身のハスからの収入を用いて大規模な軍隊を編成し、担当する州全体の防衛と治安維持に責任を負いました。このように、ティマール、ゼアメット、ハスという階層構造は、封土の収入額と軍事奉仕義務を連動させることで、帝国の軍事力と行政機構を効率的に組織化し、維持するための精緻なシステムとして機能していました。
ティマール制の中心的な担い手は、シパーヒーと呼ばれる騎士階級でした。彼らはティマールを授与される見返りとして、二つの大きな役割を担いました。第一に、そして最も重要なのが軍事奉仕です。戦時にはスルタンの召集令状(フマユン)が発せられると、シパーヒーは定められた数の武装した兵士(ジェベル)を率いて、指定された集結地に出頭しなければなりませんでした。ジェベルは、シパーヒーがティマールの収入から装備や馬を整えさせた従者であり、シパーヒーと共に戦場で戦いました。このシパーヒー騎兵軍は、近世初期において世界最強と謳われたオスマン軍の主力であり、その機動力と突撃力は、モハーチの戦いやウィーン包囲戦など、数々の歴史的な戦闘で威力を発揮しました。
第二の役割は、地方行政と治安維持です。平時において、シパーヒーは自身のティマールが所在する村落の管理者として機能しました。彼らは、農民から定められた税を徴収する責任を負うと同時に、領内の治安を維持し、農民間の争い事を調停する役割も担いました。ただし、シパーヒーの権限はあくまで行政的なものに限定されており、司法権はイスラム法学者であるカーディー(裁判官)が保持していました。シパーヒーは農民に対して絶対的な支配者ではなく、むしろ国家と農民を媒介する地方の代理人に近い存在でした。彼らは農民が土地を放棄して逃亡しないよう、農業生産を安定させることに努めました。安定した農業生産こそが、彼ら自身の収入と軍役義務の遂行を保証する基盤であったからです。このように、シパーヒーは軍人であると同時に地方行政官としての顔も持ち合わせており、ティマール制を通じて帝国の末端統治を支える重要な存在でした。

ティマール保有者(シパーヒー)の権利と義務

ティマール制の中核を担うシパーヒーは、スルタンから授与された封土(ティマール)に関して、一定の権利を有していました。その最も重要な権利は、ティマール内の農民から定められた種類の税を徴収する権利でした。主要な税には、イスラム教徒の農民に課される十分の一税(ウシュル)や、非イスラム教徒の農民に課される地租(ハラージュ)がありました。これらの税は、主に収穫された農産物の一部を現物で徴収する形をとり、シパーヒーの主たる収入源となりました。この収入によって、シパーヒーは自身の生活を維持し、戦時に動員する兵士(ジェベル)の武具や馬を調達しました。また、シパーヒーは結婚税や市場税といった、農業生産以外の様々な地方税を徴収する権利も認められていました。これらの権利は、スルタンが発行する証書(ベラート)によって公式に保証されており、シパーヒーは国家の代理人として徴税活動を行いました。
さらに、シパーヒーには、ティマールを自身の息子に継承させる権利が、一定の条件下で認められていました。シパーヒーが戦死した場合や、老齢により軍役を果たせなくなった場合、その息子が軍務に適格であると判断されれば、ティマールの一部または全部を相続することができました。この限定的な世襲制は、シパーヒー階級の安定と、軍事技術や忠誠心の世代間継承を促す効果がありました。これにより、経験豊富な騎士層が継続的に育成され、オスマン軍の戦闘能力を長期にわたって高く維持することが可能となったのです。ただし、この継承権は絶対的なものではなく、最終的な決定権は常にスルタンと中央政府が握っていました。息子が軍務に不適格であったり、他に功績のあった候補者がいたりする場合には、ティマールは没収され、再分配されることもありました。この点が、西ヨーロッパの封建制における世襲領地とは大きく異なる特徴でした。
一方で、シパーヒーはティマールを保有する見返りとして、国家に対して厳格な義務を負っていました。その最も根本的な義務は、スルタンの召集に応じ、軍事奉仕を行うことでした。戦役が布告されると、シパーヒーは自身のティマールの収入額に応じて定められた数の完全武装した騎兵(ジェベル)を率いて、指定された期日までに集結地へ参集しなければなりませんでした。この軍役義務を正当な理由なく怠った場合、シパーヒーはティマールを没収されるという厳しい罰則が科されました。シパーヒーとそのジェベルからなる騎兵軍は、帝国の軍事力の根幹を形成しており、彼らの迅速な動員と高い戦闘能力が、オスマン帝国の急速な拡大を可能にした原動力でした。
軍事奉仕に加えて、シパーヒーは平時において自身のティマールが所在する地域の行政と治安維持に責任を負いました。彼らは、領内の農民が耕作を放棄して土地が荒廃することのないよう監督し、農業生産の維持に努めることが求められました。農民の安定した生活と生産活動は、シパーヒー自身の収入基盤であると同時に、帝国の食糧供給と税収を支える上で不可欠だったからです。また、シパーヒーは領内の軽微な犯罪を取り締まり、道路や橋の安全を確保するなど、地方の治安管理者としての役割も担いました。彼らは農民に対して過度な搾取を行ったり、不正を働いたりすることを固く禁じられていました。オスマン帝国の中央政府は、定期的に監察官を派遣してシパーヒーの統治状況を調査し、不正が発覚した場合には厳しく処罰しました。このように、シパーヒーの権利と義務は明確に規定されており、彼らはスルタンの権威の下で、軍事と行政の両面にわたって帝国の統治機構を支える重要な歯車として機能していたのです。

ティマール制と農民

ティマール制の下での農民(レアヤ)の地位は、複雑なものでした。法的に、農民は自由民であり、西ヨーロッパの封建制における農奴のように、土地や領主に人格的に束縛されている存在ではありませんでした。彼らは結婚し、家族を持ち、一定の私有財産を所有することが認められていました。しかし、その自由には大きな制約がありました。農民は、自身が耕作する土地(チフト)に強く結びつけられていました。彼らはシパーヒーや国家の許可なく、耕作地を放棄して他の場所へ移住することを原則として禁じられていました。もし農民が土地を離れて逃亡した場合、シパーヒーは一定期間内であれば彼らを強制的に連れ戻す権利(チフト・ボザン)を持っていました。この制度は、農業生産の担い手である労働力を確保し、耕作地の放棄による税収の減少を防ぐことを目的としていました。
農民は、耕作する土地の保有権を事実上、世襲することができました。父親が亡くなった後、その息子が土地を引き継いで耕作を続けることが一般的でした。この安定した土地保有権は、農民に農業生産への意欲を持たせる上で重要な役割を果たしました。しかし、この土地はあくまで国家(ミーリー)に帰属するものであり、農民はスルタンから貸与された土地の耕作者に過ぎませんでした。したがって、土地を売買したり、担保に入れたりすることはできませんでした。農民が耕作を怠り、土地を3年間以上放置して荒廃させた場合、その土地は没収され、他の耕作意欲のある農民に与えられました。このように、農民の地位は、人格的な自由と安定した土地保有権を享受する一方で、土地への強い束縛と国家による厳格な管理下に置かれるという二面性を持っていました。
農民は、国家とティマール保有者であるシパーヒーに対して、様々な税を納める義務を負っていました。税の種類と税率は、農民の宗教や耕作する土地の種類によって異なりました。最も基本的な税は地租であり、イスラム教徒の農民は収穫物の十分の一を現物で納める「ウシュル」を、非イスラム教徒の農民はより高い税率の「ハラージュ」を支払いました。これらの地租は、シパーヒーの主たる収入源となりました。
これに加えて、農民は「チフト・レスミ」と呼ばれる土地登録税を支払う義務がありました。これは、農民が耕作権を保有する土地一区画(チフト)ごとに課される定額の貨幣税であり、シパーヒーに支払われました。非イスラム教徒は、人頭税である「ジズヤ」を国家に直接納める義務も負っていました。これは、イスラム国家の保護下で信仰の自由を保障される見返りとして課される税でした。
さらに、農民は結婚税、家畜税、市場での取引にかかる税など、日常生活の様々な場面で臨時の税(アヴァールズ)を課されることがありました。これらの税の徴収は、シパーヒーの重要な権利の一つでしたが、その行使は国家の法典(カーヌーン)によって厳しく規制されていました。シパーヒーが法外な税を取り立てたり、農民に不当な負担を強いたりすることは固く禁じられていました。オスマン帝国の中央政府は、農民層を「スルタンの家畜(レアヤ)」とみなし、彼らを過度な搾取から保護することが帝国の繁栄に不可欠であると考えていました。そのため、政府は定期的に検地(タフリール)を実施して土地と人口を調査し、税負担が公平になるよう努めました。また、農民はシパーヒーから不正な扱いを受けた場合、地方の裁判官(カーディー)や、さらには首都イスタンブールのスルタンの御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)に直接訴え出ることができました。この保護と救済の仕組みは、ティマール制が比較的長期間にわたって安定的に機能する上で、重要な役割を果たしたのです。

ティマール制の衰退

16世紀末から17世紀にかけて、オスマン帝国の社会経済構造は大きな変容を遂げ、かつて帝国の繁栄を支えたティマール制は、徐々にその機能を失い、衰退への道を歩み始めました。この衰退の背景には、複合的な要因が絡み合っていました。その一つが、ヨーロッパで起こった「価格革命」の影響です。16世紀にアメリカ大陸から大量の安価な銀がヨーロッパへ、そしてオスマン帝国領内へと流入しました。この銀の流入は、帝国全土で激しいインフレーションを引き起こし、貨幣価値の急落を招きました。ティマール制において、シパーヒーの収入の多くは、ティマールやゼアメットの公定収入額として貨幣単位(アクチェ)で固定されていました。インフレーションによってアクチェの購買力が著しく低下したため、多くのシパーヒーの実質的な収入は激減し、経済的に困窮するようになりました。彼らは、軍役義務を果たすために必要な数の兵士(ジェベル)を養い、その装備を整えることが次第に困難になっていきました。
同時に、この時代には軍事技術の革新、いわゆる「軍事革命」が進行していました。ヨーロッパで発展した火縄銃や大砲といった火器が戦争の主役となり、従来の騎兵中心の戦術は時代遅れになりつつありました。オスマン帝国もこの変化に対応するため、火器で武装した歩兵部隊であるイェニチェリを大幅に増強する必要に迫られました。イェニチェリは、スルタンに直属する常備軍であり、彼らの給与は中央政府の国庫から現金で支払われました。火器を装備した大規模な歩兵部隊の維持には莫大な費用がかかり、中央政府の財政を著しく圧迫しました。その結果、政府は、時代遅れになりつつあったシパーヒー騎兵軍よりも、即戦力となるイェニチェリの増強を優先するようになりました。戦場におけるシパーヒーの重要性が相対的に低下したことは、ティマール制そのものの存在意義を揺るがす大きな要因となったのです。
財政難に陥った中央政府は、新たな歳入源を確保するため、ティマール制の根幹を揺るがす政策へと舵を切りました。その代表的なものが、徴税請負制(イルティザーム)の導入と拡大です。政府は、シパーヒーの死後や義務不履行によって空席となったティマールを再分配するのではなく、それらの土地からの徴税権を競売にかけるようになりました。最も高い入札額を提示した徴税請負人(ミュルテジム)は、政府に落札額を前納する代わりに、一定期間その土地から税を徴収する権利を得ました。この制度は、政府にとっては即座にまとまった現金収入を確保できるという利点がありましたが、長期的に見れば多くの弊害を生み出しました。
徴税請負人は、シパーヒーのようにその土地の長期的な生産性や農民の生活に配慮する動機に乏しく、契約期間内に投資額を回収し、利益を最大化しようと、しばしば過酷な搾取を行いました。その結果、多くの農民が重税に苦しみ、土地を捨てて逃亡するケースが頻発しました。耕作地は荒廃し、農業生産は減少し、地方の治安は悪化しました。これは、国家の税収基盤そのものを侵食する深刻な問題でした。
さらに、18世紀には終身徴税請負制(マリキャーネ)が導入され、徴税権が事実上世襲化されるようになると、地方ではアーヤーンと呼ばれる有力者が台頭し、中央政府から半ば独立した勢力を築くようになりました。彼らは、かつてシパーヒーが担っていた地方の軍事・行政機能を掌握し、中央の権威を脅かす存在となっていきました。このように、イルティザームとマリキャーネの拡大は、ティマールを国家の管理下から切り離し、シパーヒー階級を解体させ、地方社会の構造を根本的に変質させていきました。かつて帝国を支えた軍事封土制は、短期的な財政収入を優先する中央政府の政策によって、自らその土台を崩されていったのです。

ティマール制の廃止とその影響

19世紀に入ると、オスマン帝国はヨーロッパ列強の軍事的、経済的圧力に直面し、国家存亡の危機感を深めていました。この状況を打開するため、スルタン・セリム3世に始まる一連の西欧化改革、いわゆる「タンジマート(再編)」が本格化します。改革の核心にあったのは、中央集権的な近代国家の建設であり、その最大の眼目は近代的で強力な軍隊の創設でした。スルタン・マフムト2世は、この改革を強力に推進し、帝国の伝統的な軍事・行政システムを根本から刷新しようとしました。
1826年、マフムト2世は、長年にわたって政治に介入し、改革の障害となっていた特権的な常備軍団イェニチェリを武力で解体するという、歴史的な出来事(「吉祥事件」)を断行しました。イェニチェリの廃止は、新たな西洋式軍隊を創設するための道を開きました。そして、この新しい軍隊は、徴兵制に基づいて兵士を募り、給与は中央政府の国庫から直接支払われる仕組みでした。このような近代的常備軍の創設は、もはや軍事奉仕と封土を結びつけるティマール制の存在意義を完全に失わせるものでした。シパーヒー騎兵は、新しい軍隊の編成において役割を与えられず、その軍事的重要性は過去のものとなりました。
この流れの中で、1831年、マフムト2世はついにティマール制の公式な廃止を宣言しました。この決定により、シパーヒーは封土からの徴税権という最後の特権を失いました。帝国全土のティマール、ゼアメット、ハスはすべて国家の直轄地とされ、それらの土地からの税収は、新設された財務省の管理下に置かれることになりました。これにより、数世紀にわたってオスマン帝国の軍事と地方行政の根幹を支えてきたティマール制は、その歴史的役割を終えたのです。この廃止は、単なる一制度の終焉ではなく、オスマン帝国が中世的な封建国家から、中央集権的な近代官僚国家へと転換する上での、象徴的な出来事でした。
ティマール制の廃止は、オスマン帝国の社会、特に地方社会に深く、永続的な影響を及ぼしました。まず、かつてのティマール保有者であったシパーヒー階級は、その経済的基盤と社会的特権を完全に失い、事実上消滅しました。一部のシパーヒーは、新しい官僚機構や軍隊に職を得ることができましたが、多くは地方の地主や一介の農民へと転落していきました。彼らが担っていた地方の治安維持や行政機能は、中央から派遣される役人に取って代わられることになりました。
土地所有のあり方も大きく変化しました。ティマール制の下では、土地は原則として国家に帰属する「ミーリー」であり、私有は厳しく制限されていました。しかし、ティマール制の廃止と、それに続く1858年の土地法の制定によって、土地の私有が広く認められるようになりました。この法律は、農民に土地の所有権を与えることを意図していましたが、実際には多くの複雑な問題を引き起こしました。土地の登記手続きに不慣れな農民が土地を失ったり、都市の商人や高利貸し、地方の有力者(アーヤーン)が広大な土地を買い集めて大地主となったりするケースが頻発しました。その結果、多くの地域で、自作農が減少し、小作農や農業労働者が増加するという現象が見られました。
地方行政の面では、中央集権化が強力に推進されました。シパーヒーに代わって、首都イスタンブールから任命された知事や県令が地方統治の全責任を負うようになり、税の徴収も中央政府の財務官僚が直接管理する体制が築かれました。これは、国家の統制力を強化し、歳入を安定させる上である程度の効果を上げました。しかしその一方で、地方の実情に疎い中央の官僚による画一的な統治は、しばしば地域社会との間に摩擦を生み出しました。かつてシパーヒーが果たしていた、国家と農民を媒介し、地域の利害を調整する役割が失われたことで、農民の不満が直接中央政府に向けられることも多くなりました。ティマール制の廃止は、オスマン帝国を近代国家へと導くための不可欠な一歩でしたが、その過程で生じた社会経済的な歪みは、帝国の末期から現代のトルコ共和国に至るまで、長く影響を及ぼし続けることになったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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