カーヌーンとは
オスマン帝国の法体系におけるカーヌーンは、イスラム法であるシャリーアを補完する世俗法として極めて重要な役割を果たしました。その起源は、オスマン帝国以前のイスラム王朝、特にセルジューク朝やイルハン朝の法制度にまで遡ることができます。これらの王朝では、シャリーアだけでは統治のすべてをカバーできないという現実的な必要性から、君主が発布する勅令や法令、すなわちヤルリグやフェルマンといった形で世俗法が発展しました。オスマン帝国もこの伝統を継承し、独自の統治体制と社会状況に合わせてカーヌーンを発展させていきました。初期のオスマン帝国の君主たちは、征服した地域の既存の法や慣習を尊重しつつ、帝国の統治を確立するために必要な法令を随時発布しました。これらの法令は、当初は個別の勅令として存在していましたが、帝国の拡大と統治機構の複雑化に伴い、より体系的な法典へと編纂される必要性が生じました。この過程で、カーヌーンは単なる君主の命令を超え、帝国の行政、財政、刑法、土地制度など、多岐にわたる分野を規定する包括的な法体系へと進化していきました。特に、コンスタンティノープルを征服し、帝国を再編したメフメト2世の時代には、最初の体系的なカーヌーン法典である「カーヌーンナーメ」が編纂されたとされています。この法典は、帝国の官僚制度、儀礼、刑罰、そしてライヤ(非ムスリム臣民)の地位などを定め、後の法典編纂の基礎を築きました。メフメト2世のカーヌーンナーメは、帝国の統治理念を法的な形で具体化したものであり、君主の絶対的な権力と、それを支える官僚機構の秩序を確立することを目的としていました。この法典の編纂は、オスマン帝国が単なる軍事国家から、高度に組織化された官僚制帝国へと変貌を遂げる上での重要な一歩でした。
メフメト2世の後継者たちも、帝国の変化するニーズに対応するため、カーヌーンの整備を続けました。バヤズィト2世の治世下では、メフメト2世の法典が改訂・拡充され、より広範な社会経済的問題に対処するための規定が盛り込まれました。そして、カーヌーンの発展が頂点に達したのは、スレイマン1世(「立法者」を意味する「カーヌーニー」の称号で知られる)の治世です。スレイマン1世の時代には、シェイヒュルイスラーム(イスラム法の最高権威)であったエブッスード・エフェンディをはじめとする優れた法学者の協力のもと、それまでに蓄積された個別のカーヌーン、勅令、判例などが集大成され、包括的かつ体系的な「オスマン・カーヌーン」として完成されました。この法典は、シャリーアとの整合性を保ちながら、帝国の広大な領土と多様な臣民を統治するための詳細な規則を網羅していました。スレイマン1世のカーヌーンナーメは、土地制度、税制、刑法、市場の管理など、帝国の隅々にまで及ぶ規定を含んでおり、数世紀にわたってオスマン帝国の統治の根幹を支えることになります。この法典の編纂作業は、単に既存の法令をまとめるだけでなく、シャリーアの原則と矛盾しない形で、新たな社会問題に対する法的解決策を模索する創造的なプロセスでもありました。エブッスード・エフェンディのような法学者は、シャリーアの解釈を柔軟に行うことで、スルタンの立法権に正当性を与え、カーヌーンがイスラム法体系の中で機能するための理論的基礎を築きました。このようにして、カーヌーンはオスマン帝国の独自の法文化の象徴となり、シャリーアと並び立つ二元的な法体系の中核を成すに至ったのです。その発展の歴史は、オスマン帝国が直面した統治上の課題と、それに対応しようとした君主や法学者たちの努力の軌跡を映し出しています。
シャリーアとカーヌーンの関係性
オスマン帝国の法体系は、シャリーアとカーヌーンという二つの法源から構成される二元的な構造を特徴としていました。シャリーアがイスラム教の聖典であるクルアーンと預言者ムハンマドの言行(スンナ)に由来する神授法であるのに対し、カーヌーンはスルタン(君主)の立法権に基づいて制定される世俗法でした。この二つの法体系は、理論上は明確に区別されていましたが、実際の統治においては相互に補完し合い、時には緊張関係にありながらも、密接に連携して機能していました。オスマン帝国の支配イデオロギーにおいて、スルタンはシャリーアの守護者であり、その施行に責任を負う存在とされていました。そのため、スルタンが制定するカーヌーンは、原則としてシャリーアの根本的な教義や原則に矛盾してはならないと考えられていました。この原則は、カーヌーンに正当性を与える上で極めて重要でした。法学者たちは、スルタンの立法権を「公益(マスラハ)」や「慣習(ウルフ)」といったシャリーアの法理概念を用いて正当化しました。つまり、シャリーアが明示的に規定していない事柄に関して、社会の秩序を維持し、臣民の福祉を増進するためにスルタンが必要な法令を定めることは、イスラム法の精神に合致すると解釈されたのです。この理論的枠組みにより、カーヌーンはシャリーアの管轄外とされる行政、財政、刑法、土地制度といった分野で、その役割を大いに発揮することができました。
シャリーアとカーヌーンの具体的な役割分担は、分野によって異なっていました。家族法(結婚、離婚、相続など)や宗教的義務に関する事柄は、ほぼ完全にシャリーアの管轄下にあり、カーディー(イスラム法廷の裁判官)がシャリーアに基づいて判断を下しました。一方、国家の行政組織、官僚の職務、税制、土地の保有形態といった分野は、主にカーヌーンによって規定されていました。刑法は、両者が交錯する興味深い領域でした。シャリーアには、窃盗、姦通、飲酒などに対する固定刑(ハッド刑)が定められていますが、その適用条件は非常に厳格でした。そのため、カーヌーンはシャリーアのハッド刑が適用されない犯罪や、社会秩序の維持を目的とした様々な犯罪に対して、罰金、笞刑、投獄、強制労働といった裁量的刑罰(タアズィール)を幅広く定めました。これにより、カーディーは具体的な事件に応じて、シャリーアとカーヌーンの両方を参照しながら、より柔軟な判決を下すことが可能になりました。例えば、カーヌーンは特定の犯罪に対する罰金額を具体的に定めており、これにより刑罰の標準化と公平性の確保が図られました。このように、カーヌーンはシャリーアの枠組みの中で、その隙間を埋め、現実の社会情勢に即した具体的な法的解決策を提供する役割を担っていたのです。
シャリーアとカーヌーンの間の調和を保つ上で中心的な役割を果たしたのが、シェイヒュルイスラームと彼が率いるウラマー(イスラム法学者)層でした。シェイヒュルイスラームは、帝国の最高宗務官であり、シャリーアに関する最高の権威でした。スルタンが新たなカーヌーンを制定したり、重要な政策決定を行ったりする際には、それがシャリーアに適合しているかどうかについて、シェイヒュルイスラームに法意見(フェトヴァ)を求めるのが通例でした。シェイヒュルイスラームが「適合する」というフェトヴァを発行すれば、その法令や政策は法的な正当性を得ることができました。この制度は、スルタンの権力に対する一定の抑制として機能すると同時に、カーヌーンの制定にイスラム法的な正統性を付与する重要なメカニズムでした。特に、スレイマン1世の治世におけるシェイヒュルイスラーム、エブッスード・エフェンディは、その卓越した法知識を駆使して、カーヌーンとシャリーアの調和に大きく貢献しました。彼は、土地制度や税制といったカーヌーンの主要な領域が、シャリーアの「公益」の原則に基づいていることを巧みに論証し、スルタンの立法活動を強力に支持しました。しかし、両者の関係は常に調和的であったわけではありません。時には、スルタンの政策がシャリーアの原則から逸脱しているとして、ウラマーから批判を受けることもありました。スルタンの権力とウラマーの権威との間の緊張関係は、オスマン帝国の法と政治のダイナミズムを生み出す源泉の一つであり、カーヌーンがシャリーアという神聖な法の枠組みの中で、いかにして世俗的な統治の道具として機能し得たかを示す重要な側面です。
カーヌーンナーメの内容と構造
カーヌーンナーメ、すなわちオスマン帝国の法典は、帝国の統治機構と社会秩序を支えるための包括的な規則集でした。これらの法典は、特定のスルタンの治世に編纂され、そのスルタンの名を冠することが多いですが、実際にはそれ以前からの法令や慣習を集成し、体系化したものでした。カーヌーンナーメの内容は多岐にわたりますが、大きく分けて、国家組織、刑法、そして州ごとの法典という三つの主要なカテゴリーに分類することができます。第一のカテゴリーである国家組織に関する法典は、帝国の統治の根幹をなす官僚制度や宮廷儀礼について詳細に定めていました。メフメト2世のカーヌーンナーメがその代表例であり、宰相(ヴェズィル)や財務官(デフテルダル)、書記官(ニシャンジュ)といった高官の序列、権限、俸給、さらには宮廷における席次や服装に至るまで、細かく規定されていました。これらの規定は、帝国の権力構造を明確にし、官僚機構の円滑な運営を保証することを目的としていました。また、スルタンへの拝謁の作法や祝祭日の儀礼などを定めることで、君主の権威を可視化し、神格化する役割も果たしていました。これにより、オスマン帝国は属人的な支配から脱却し、法と制度に基づく恒久的な官僚制国家としての性格を強めていきました。
第二の主要なカテゴリーは刑法です。カーヌーンナーメにおける刑法規定は、シャリーアが定める固定刑(ハッド刑)を補完し、より広範な犯罪に対処するために設けられました。シャリーアのハッド刑は、立証要件が非常に厳格であるため、実際に適用されるケースは限られていました。そこでカーヌーンは、殺人、傷害、窃盗、偽証、姦通、飲酒といった様々な犯罪に対して、より現実的で適用しやすい裁量的刑罰(タアズィール)を定めました。これらの刑罰の中心となったのが罰金刑です。カーヌーンナーメは、犯罪の種類や加害者・被害者の社会的地位に応じて、科されるべき罰金額を詳細な一覧表の形で示していました。例えば、誰かの歯を折った場合の罰金額、畑の作物を盗んだ場合の罰金額などが具体的に定められていました。これにより、刑罰の恣意性を排除し、一定の公平性と予測可能性を確保することが意図されていました。罰金以外にも、笞刑、身体刑(手足の切断など、ただしシャリーアのハッド刑とは区別される)、投獄、強制労働、追放といった多様な刑罰が規定されており、裁判官(カーディー)は事件の状況に応じて適切な刑罰を選択することができました。これらの刑法規定は、社会秩序を維持し、臣民の生命と財産を保護するという、国家の基本的な責務を果たすための重要な手段でした。
第三のカテゴリーは、各州(サンジャク)の状況に合わせて編纂された州別カーヌーンナーメです。オスマン帝国は広大な領土と多様な民族・宗教の臣民を抱えており、帝国全土に単一の法を画一的に適用することは非現実的でした。そのため、中央政府は各州の征服時に、その地域の土地制度、税制、社会慣習などを詳細に調査し、それを基に個別のカーヌーンナーメを作成しました。这些法典は、ティマール制(軍事奉仕と引き換えに徴税権を与える制度)の具体的な運用方法、各種税金(地租、人頭税、市場税など)の税率と徴収方法、農民の権利と義務、地域の市場における取引のルールなどを定めていました。例えば、エジプト州のカーヌーンナーメは、ナイル川の灌漑に依存する現地の農業事情を反映した规定を含み、バルカン半島のキリスト教徒が多数を占める州の法典は、彼らの共同体の自治や教会に関する慣習を考慮に入れていました。このように、州別カーヌーンナーメは、帝国の統一的な支配を維持しつつも、地域の特殊性を尊重するという、オスマン帝国の柔軟な統治戦略の現れでした。これらの法典は、中央の財務当局が各州の歳入を正確に把握し、公正な課税を行うための基礎資料としても極めて重要でした。カーヌーンナーメのこのような多層的な構造は、オスマン帝国が巨大な複合国家をいかにして効率的に、かつ安定的に統治しようとしたかを示す貴重な証拠と言えます。
カーヌーンと経済・社会
カーヌーンは、オスマン帝国の経済活動と社会構造を規定し、形成する上で不可欠な役割を果たしました。特に、帝国の経済的基盤であった農業と、その根幹をなす土地制度は、カーヌーンによって詳細に管理されていました。オスマン帝国の土地の大部分は、理論上スルタンに属する国有地(ミリー)とされ、カーヌーンはこの国有地を耕作する農民の権利と義務を明確に定めていました。農民は、土地を世襲的に耕作する権利(タプ)を保障される一方で、国家に対して地租(レスミ・チフト)や十分の一税(ウシュル)といった税金を納める義務を負っていました。カーヌーンは、これらの税率や徴収方法を地域ごとに具体的に定め、農民が過酷な搾取に苦しむことのないよう保護する規定も盛り込んでいました。例えば、ティマール保有者(軍事奉仕の見返りに徴税権を与えられた騎士)が農民に対して不当な要求をすることを禁じ、農民が耕作地を放棄して逃亡することを防ぐための措置も講じられました。これは、安定した農業生産と税収を確保することが、帝国の存続にとって死活問題であったためです。カーヌーンは、土地の売買、賃貸、相続に関するルールも定めており、土地をめぐる紛争を解決するための法的な枠組みを提供しました。このように、カーヌーンは国家、ティマール保有者、農民という三者の関係を調整し、帝国の農業経済の安定を図るための中心的なメカニズムとして機能したのです。
経済のもう一つの柱である商業活動も、カーヌーンによる厳格な規制の下に置かれていました。特に都市部においては、「ヒスベ」と呼ばれる市場監督制度が重要な役割を果たしました。カーヌーンは、市場監督官(ムフテシブ)の権限と職務を定め、彼らが市場における公正な取引を監督するための具体的な基準を提供しました。これには、商品の品質管理、度量衡の検査、そして価格統制(ナルフ)が含まれていました。政府は、パン、肉、油といった生活必需品を中心に、適正な販売価格をカーヌーンによって定め、商人が不当な利益を得ることを防ごうとしました。違反した商人には、罰金や商品の没収、さらには叱責といった罰則が科されました。また、カーヌーンはギルドと呼ばれる同業者組合の内部規則にも影響を与えました。ギルドは、職人の養成、生産技術の維持、組合員の相互扶助などを担う自治組織でしたが、その活動は国家の監督下にありました。カーヌーンは、ギルドの設立認可や親方の資格認定、生産できる商品の種類や数量に関する規定を設けることで、ギルドを介して都市の産業をコントロールしました。
カーヌーンは、オスマン帝国の多様な臣民が共存するための社会秩序の形成にも深く関わっていました。オスマン帝国は、イスラム教徒(ムスリム)が支配者層を形成する一方で、キリスト教徒やユダヤ教徒といった多数の非ムスリム(ズィンミー)を臣民として抱える複合社会でした。カーヌーンは、ミッレト制として知られる統治システムの中で、非ムスリム共同体の地位と権利、義務を法的に規定しました。非ムスリムは、人頭税(ジズヤ)を支払うことを条件に、生命、財産、そして信仰の自由を保障されました。彼らはそれぞれの宗教指導者(総主教、ラビなど)のもとで独自の共同体を形成し、結婚、離婚、相続といった身分法に関する事柄については、自らの宗教法に基づいて自治を行うことが認められていました。しかし、共同体間の紛争や、ムスリムが関わる刑事事件や商取引については、シャリーアとカーヌーンが適用されるオスマン帝国の法廷で裁かれました。カーヌーンは、非ムスリムの服装、住居、乗り物などに関して一定の制限を課す差別的な規定も一部含んでいましたが、全体としては、彼らを帝国の構成員として法的に保護し、その経済活動を帝国の繁栄に結びつけようとする現実的な政策が取られました。例えば、国際交易で活躍したアルメニア商人やギリシャ商人、金融を担ったユダヤ教徒などは、カーヌーンの保護の下で、帝国の経済において重要な役割を果たしました。このように、カーヌーンは、オスマン帝国の多文化・多宗教社会を法的に統合し、管理するための精緻な道具として機能していたのです。
カーヌーンの執行と司法制度
オスマン帝国においてカーヌーンを執行し、法秩序を維持する上で中心的な役割を担ったのは、カーディー(裁判官)が主宰するシャリーア法廷でした。カーディーは、イスラム法学の教育を受けたウラマーであり、帝国各地の都市や町に任命され、管轄地域における司法全般を担当しました。彼らの法廷は、シャリーア法廷と呼ばれていましたが、その名が示す印象とは異なり、シャリーアだけでなくカーヌーンも同様に適用する司法機関でした。訴訟が提起されると、カーディーはまず事件がシャリーアとカーヌーンのどちらの領域に属するかを判断しました。家族法や相続に関する紛争であれば主にシャリーアが、土地の保有権や税金をめぐる争い、あるいはカーヌーンで定められた刑罰の対象となる犯罪であれば、カーヌーンが主要な法源として参照されました。実際には、多くの事件で両方の法源が複雑に絡み合っており、カーディーは双方の条文や法理を解釈し、具体的な事案に適用する高度な法的技術を要求されました。カーディーの判決は、法廷記録(シジル)に詳細に記録され、これらの記録は後世の裁判における先例となり、また、地域の社会経済史を知る上での貴重な一次史料となっています。
カーディーの職務は、法廷での訴訟处理にとどまりませんでした。彼らは、管轄地域におけるスルタンの代理人として、広範な行政的権限も有していました。カーヌーンの多くは行政法規としての性格を持っており、カーディーはその執行を監督する責任を負っていました。例えば、市場監督官(ムフテシブ)がカーヌーンに定められた価格統制や品質基準を遵守しているか、ティマール保有者が農民から法定以上の税を取り立てていないか、ワクフ(宗教寄進財産)が適切に管理されているかなどを監視しました。カーディーは、住民からの苦情を受け付け、職権で調査を行い、カーヌーンに違反した官吏や有力者を裁くこともできました。このように、カーディーは司法官であると同時に、地方行政の監督官でもあり、中央政府の意思を地方に浸透させ、臣民を不正な支配から保護する上で重要な役割を果たしました。臣民は、カーディーの法廷に訴え出ることによって、身分や宗教にかかわらず、帝国の法による保護を求めることができたのです。この司法アクセスの保障は、オスマン帝国の長期にわたる安定の要因の一つと考えられています。
帝国の最高司法機関として機能したのが、首都イスタンブールに置かれた帝室会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)でした。帝室会議は、大宰相(サドラザム)が議長を務め、主要な国務大臣や軍の司令官、そして最高法官であるカザスケルが出席する、帝国の最高意思決定機関でした。帝室会議は、立法や行政だけでなく、司法の最高審としても機能しました。地方のカーディー法廷の判決に不服な者は、帝室会議に上訴することができました。カザスケルは、上訴された事件を再審理し、判決がシャリーアとカーヌーンに照らして正当であるかを確認しました。また、帝室会議は、カーディー自身が判断に迷うような困難な法律問題について、最終的な判断を下す役割も担いました。さらに、高官による職権乱用や重大な反逆罪など、国家の根幹に関わる事件は、第一審から帝室会議で裁かれることもありました。スルタン自身は通常、会議に直接出席しませんでしたが、格子のついた窓の後ろから審議を聞き、最終的な裁可を下すことができました。この帝室会議による司法監督システムは、帝国全土における法の支配と司法の統一性を確保するための重要なメカニズムでした。カーディー法廷から帝室会議に至る階層司法制度を通じて、カーヌーンは帝国の隅々にまで及ぶ実効的な法として機能し、オスマンの統治を支える強固な柱となったのです。
スレイマン1世とカーヌーンの完成
オスマン帝国のカーヌーンの歴史において、スレイマン1世(在位1520-1566年)の治世は、その発展の頂点として画期的な重要性を持っています。彼が後世に「カーヌーニー」(立法者)という尊称で記憶されている事実は、カーヌーンの体系化と完成に対する彼の貢献がいかに絶大であったかを物語っています。スレイマン1世の時代、オスマン帝国は版図を最大に広げ、ヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる広大な領土と、多様な民族・宗教からなる臣民を抱える世界帝国となっていました。このような巨大で複雑な国家を効率的に統治するためには、場当たり的な法令の集積ではなく、首尾一貫した原則に基づき、帝国のあらゆる側面を網羅する、包括的で体系的な法典が不可欠でした。スレイマン1世はこの歴史的要請を深く認識し、即位後すぐに大規模な立法事業に着手しました。彼の目的は、それまでに存在したメフメト2世以来のカーヌーンナーメや、個別の勅令(フェルマン)、判例、各州の慣習法などを整理・統合し、シャリーアの原則と完全に調和した、一つの壮大な法体系を構築することにありました。
この壮大な事業を推進する上で、スレイマン1世の最も強力なパートナーとなったのが、当代随一のイスラム法学者であり、長年にわたってシェイヒュルイスラームの地位にあったエブッスード・エフェンディでした。エブッスードは、シャリーアに関する深い学識と、帝国の統治の現実に対する鋭い洞察力を兼ね備えた人物でした。彼は、スレイマン1世の立法顧問として、カーヌーンの編纂作業を主導しました。エブッスードの最大の功績は、スルタンの立法権、すなわちカーヌーンの制定が、シャリーアの枠内で完全に正当なものであるという理論的基礎を確立した点にあります。彼は、シャリーアが明示的に規定していない事柄について、為政者が「公益(マスラハ)」を考慮して規則を定めることは、イスラム法の精神に合致するという法理を巧みに用いました。これにより、カーヌーンは単なるスルタンの命令ではなく、シャリーアを補完し、その目的を実現するための正統な法源としての地位を確立しました。エブッスードは、スレイマン1世の求めに応じて数多くの法意見(フェトヴァ)を発行し、土地制度、税制、刑法といった具体的な問題について、カーヌーンの規定がシャリーアに抵触しないことを権威ある形で宣言しました。この二人の協力関係は、政治権力と宗教的権威が理想的な形で融合し、オスマン帝国の法体系を完成に導いた稀有な事例と言えます。
スレイマン1世の治世に編纂されたカーヌーンナーメは、その包括性と体系性において、以前のものとは一線を画していました。それは、単一の法典ではなく、「オスマン・カーヌーン」として知られる一連の法典群であり、帝国全体の一般法典と、各州(エジプト、シリア、ハンガリーなど)の特殊事情を反映した州別法典から構成されていました。一般法典は、官僚の位階や職務、刑罰、市場の規制といった帝国共通の事項を定めていました。特に刑法に関しては、様々な犯罪に対する罰金額が詳細に規定され、刑罰の標準化が図られました。一方、州別法典は、各州の征服時に作成された土地台帳(タフリール・デフテリ)に基づいて、その地域の土地保有形態、税の種類と税率、農民の地位などを具体的に定めていました。この二層構造により、帝国としての統一性を保ちながら、各地域の多様性にも柔軟に対応することが可能になりました。スレイマン1世のカーヌーンは、シャリーアの普遍的な原則と、帝国の具体的な統治の必要性との間を見事に調和させたものでした。この法典は、その後数世紀にわたって、ほとんど修正されることなくオスマン帝国の基本法として機能し続け、帝国の長期にわたる安定と繁栄の礎を築きました。スレイマン1世が「立法者」と呼ばれる所以は、彼が単に多くの法律を作ったからではなく、オスマン帝国という国家のあり方そのものを法的に定義し、完成させたことにあります。
カーヌーンの衰退と近代化
スレイマン1世の治世に完成の域に達したカーヌーンは、その後数世紀にわたりオスマン帝国の統治を支え続けましたが、17世紀後半から18世紀にかけて、帝国が内外の深刻な課題に直面する中で、その権威と実効性は次第に揺らぎ始めました。内部的には、中央政府の権力が弱体化し、地方ではアーヤーンと呼ばれる地方有力者が台頭しました。彼らはティマール制の崩壊に乗じて広大な土地を私有化(チフトリキ化)し、カーヌーンに定められた税制を無視して農民から重税を取り立てるようになりました。中央政府は、カーヌーンを地方で强制执行する力を失い、法典の条文は空文化していきました。また、官僚機構の腐敗も深刻化し、官職が売買され、カーディー(裁判官)の任命においても能力より縁故や賄賂が重視されるようになりました。これにより、司法の公正さが損なわれ、臣民の法に対する信頼が失われていきました。カーヌーンが前提としていた、スルタンの絶対的権力と、それに忠実で効率的な官僚機構という秩序が崩壊するにつれて、カーヌーンもまたその生命力を失っていったのです。
外部的には、ヨーロッパ諸国との軍事的・経済的格差の拡大が、オスマン帝国の法制度に根本的な変革を迫る圧力となりました。特に、18世紀末から19世紀にかけて、オスマン帝国はヨーロッパ列強からの政治的・経済的圧力を強く受けるようになります。ヨーロッパ商人たちは、カピチュレーション(恩恵的特権)を盾に、オスマン帝国内で治外法権を享受し、自国の領事裁判所で裁かれるようになりました。これは、カーヌーンとシャリーアに基づくオスマン帝国の司法主権を著しく侵害するものでした。オスマン帝国の法制度が時代遅れで野蛮であるというヨーロッパ側の批判に対し、帝国政府は近代化改革(タンジマート)を通じて法制度を西洋化させることで対抗しようとしました。この改革の波の中で、カーヌーンは決定的な転換点を迎えます。1839年のギュルハネ勅令に始まるタンジマート改革は、全臣民の生命、名誉、財産の保障を宣言し、法の下の平等を謳いました。この原則を実現するため、政府はヨーロッパの法典をモデルとした新しい法典の編纂に着手しました。
タンジマート期における法改革は、カーヌーンの伝統を完全に否定するものではなく、それを西洋的な法典の形式に再編しようとする試みから始まりました。1840年に制定された刑法典は、カーヌーンの刑罰規定を整理しつつも、公開処刑の廃止や拷問の禁止といった人道的な要素を取り入れました。しかし、改革が進むにつれて、ヨーロッパ法典の直接的な導入が主流となっていきます。1850年にはフランス商法典をモデルにした商法典が、1858年にはフランス民法典の影響を受けた土地法典が制定されました。そして、1869年から1876年にかけて編纂された「メジェッレ」は、シャリーア(特にハナフィー法学派)の取引法を近代的な法典の形式にまとめた画期的な民法典でしたが、これもまた家族法や相続法を除外しており、西洋法の影響を色濃く受けていました。これらの新しい法典の制定と並行して、混合商事裁判所や、シャリーア法廷とは別の世俗的な裁判所(ニザーミーイェ裁判所)が設立されました。これらの新しい法典と裁判所が台頭するにつれて、かつてオスマン帝国の法体系の中核をなしたカーヌーンと、それを執行してきたカーディー法廷の役割は急速に縮小していきました。カーヌーンは、もはや帝国の基本法ではなく、新しい西洋風の法典群に取って代わられた過去の遺物となっていきました。オスマン帝国末期の法近代化は、帝国の存続をかけた必死の努力でしたが、それは同時に、スレイマン1世の時代に完成されたカーヌーンという独自の法文化の終焉を意味するものでもありました。