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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

「スルタンの奴隷」(カプクル、デウシルメ制)とは わかりやすい世界史用語2324

著者名: ピアソラ
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「スルタンの奴隷」(カプクル、デヴシルメ制)とは

オスマン帝国の最も特徴的な制度の一つである「スルタンの奴隷」(カプクル、デヴシルメ制)は、帝国の軍事力と行政機構の中核を形成した人材供給システムです。この制度は、バルカン半島を中心とするキリスト教徒の臣民から、一定の年齢の少年たちを徴収し、イスラム教に改宗させた上で、帝国のための奉仕者として育成するものでした。デヴシルメの起源を理解するためには、オスマン帝国が成立し、拡大していく過程で直面した軍事的、政治的、社会的な課題を多角的に考察する必要があります。



オスマン帝国の前身であるオスマン侯国は、13世紀末から14世紀初頭にかけて、アナトリア北西部のビテュニア地方で誕生しました。この時期のアナトリアは、ルーム・セルジューク朝の衰退とモンゴル帝国の影響力低下に伴い、多くのテュルク系君侯国(ベイリク)が乱立する、政治的に分裂した状態にありました。これらの君侯国は、互いに競い合いながら勢力拡大を目指しており、その軍事力の中心は、ガーズィと呼ばれるイスラム教の戦士たちでした。ガーズィは、宗教的情熱に動機づけられ、異教徒であるビザンツ帝国との辺境での戦いに身を投じた、部族的な背景を持つ騎馬戦士が主体でした。オスマン侯国もまた、当初はこうしたガーズィの軍事力に大きく依存していました。
しかし、オスマン侯国がブルサ(1326年)、ニカイア(1331年)、ニコメディア(1337年)といったビザンツ帝国の重要都市を次々と征服し、ダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ大陸へ進出(1354年)するにつれて、従来の部族的な軍事組織だけでは、拡大し続ける領土を維持・統治することが困難になっていきました。ガーズィたちは、略奪品や新たな土地の獲得といった直接的な報酬を求める傾向が強く、君主への忠誠心も絶対的なものではありませんでした。彼らは、より多くの戦利品を約束する他の君主のもとへ容易に移動する可能性があり、中央集権的な国家体制を築こうとするスルタンにとって、その忠誠心の不安定さは潜在的な脅威でした。
このような状況下で、スルタンは自身の権力を強化し、ガーズィのような伝統的なテュルク系有力者の影響力を相対的に低下させるための、新たな軍事力と行政官僚を必要としました。スルタンに絶対的な忠誠を誓い、部族的な利害関係から切り離された、君主直属の精鋭部隊の創設が急務となったのです。
この課題に対する初期の解決策の一つが、戦争捕虜の活用でした。イスラム法には、戦争捕虜の5分の1を君主の取り分とする「ペンチック」と呼ばれる慣行が存在しました。オスマン帝国のスルタン、ムラト1世(在位1362年-1389年)の治世において、このペンチックの制度が体系化され、徴収されたキリスト教徒の捕虜の中から若く有能な者が選抜され、イスラム教への改宗と訓練を経て、スルタン直属の兵士として組織されるようになりました。これが、常備歩兵軍団であるイェニチェリの原型となります。イェニチェリは、火器で武装し、厳しい規律のもとで共同生活を送る、当時としては画期的な常備軍でした。彼らは給与をスルタンから直接受け取り、スルタン以外の誰にも従属しない、文字通り「スルタンの奴隷(クル)」でした。
しかし、帝国の拡大ペースが鈍化したり、大規模な戦争が途絶えたりすると、ペンチック制度による人材供給は不安定になりました。戦争捕虜の数と質は、戦況に大きく左右されるため、安定した人材確保の手段としては限界があったのです。帝国がバルカン半島に深く根を下ろし、広大な領土と多数のキリスト教徒臣民を抱えるようになると、より体系的かつ安定的な人材供給システムが求められるようになりました。
このような背景から、デヴシルメ制度が考案されたと考えられています。デヴシルメは、トルコ語で「集めること」を意味し、戦争捕虜という偶発的な供給源に頼るのではなく、帝国内のキリスト教徒臣民から直接、定期的に人材を徴収するシステムでした。この制度の正確な開始時期については、歴史家の間でも見解が分かれていますが、一般的には14世紀末から15世紀初頭、バヤズィト1世(在位1389年-1402年)またはメフメト1世(在位1413年-1421年)の治世に制度化されたと考えられています。デヴシルメは、ペンチック制度の論理的延長線上にあり、スルタンの権力を絶対的なものにするための「クル」システムを完成させるための決定的な一歩でした。
デヴシルメによって徴収された少年たちは、帝国の臣民の子弟であり、戦争捕虜ではありませんでした。この点は、デヴシルメ制度の法的な正当性を巡る議論の的となりました。イスラム法(シャリーア)では、ズィンミーと呼ばれる保護民(キリスト教徒やユダヤ教徒など)の生命、財産、信仰の自由は保障されており、彼らを強制的に改宗させたり、奴隷にしたりすることは原則として認められていません。しかし、オスマン帝国の法学者たちは、デヴシルメを「イスラムへの奉仕」という特別な義務であり、スルタンが持つ特権の一つとして正当化しました。また、慣習法(ウルフィ)の観点からも、国家の存立と安定のために不可欠な制度として位置づけられました。
デヴシルメ制度は、単なる兵士の徴兵制度ではありませんでした。それは、帝国の未来を担うエリートを選抜し、育成するための包括的なシステムでした。徴収された少年たちは、その才能や適性に応じて、軍事部門と宮廷(行政)部門の二つのキャリアパスに振り分けられました。最も優秀な者たちは、首都イスタンブールやエディルネの宮殿学校(エンデルーン)で最高水準の教育を受け、将来の宰相(大宰相)、州総督、高級官僚、軍司令官となるべく育てられました。それ以外の者たちは、主にイェニチェリ軍団をはじめとするカプクル軍団(スルタン直属の常備軍)に配属され、帝国の軍事力の根幹を担いました。
このように、デヴシルメ制度は、オスマン帝国が部族連合的な君侯国から、中央集権的な世界帝国へと変貌を遂げる過程で生まれた、独創的な社会工学の産物でした。それは、スルタンの権力を絶対化し、テュルク系の伝統的な有力者の影響力を排除すると同時に、帝国の軍事力と行政能力を飛躍的に向上させるという、複数の目的を同時に達成するための巧妙な仕組みだったのです。バルカン半島のキリスト教徒コミュニティにとっては、子弟を奪われるという過酷な負担を強いるものでしたが、一方で、徴収された少年個人にとっては、貧しい農村の出身であっても、才能と努力次第で帝国の最高権力層にまで上り詰めることができる、類まれな社会的上昇の機会を提供するものでもありました。この制度の複雑さと多面性こそが、オスマン帝国の長期にわたる繁栄を支えた要因の一つと言えるでしょう。

徴収のプロセスと対象

デヴシルメ制度の運用は、非常に体系的かつ厳格な手順に則って行われました。これは、帝国の将来を担う人材を確保するという制度の重要性を反映したものであり、恣意的な徴収ではなく、国家による計画的な事業として位置づけられていたことを示しています。徴収のプロセスは、対象地域の選定から、少年たちの選抜、そして首都への移送まで、いくつかの段階に分かれていました。
まず、徴収は定期的に行われるものではなく、スルタンの勅令に基づいて、必要に応じて実施されました。一般的には3年から7年に一度の頻度で、新たな兵士や宮廷見習いを補充する必要が生じた際に、徴兵官が任命され、特定の地域へ派遣されました。徴兵官は、通常、イェニチェリ軍団の高官などが務め、書記や護衛を伴って任務に当たりました。
徴収の対象となる地域は、主にバルカン半島のキリスト教徒が居住する農村部でした。具体的には、現在のギリシャ、アルバニア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、マケドニアといった地域が中心でした。これらの地域が選ばれた理由としては、第一に、帝国がヨーロッパへ拡大していく過程で新たに征服された地域であり、人口も多く、人材の宝庫と見なされていたことが挙げられます。第二に、アナトリアのテュルク系ムスリム住民は、デヴシルメの対象外とされており、制度の目的の一つがテュルク系有力者の影響力を抑制することにあったため、非テュルク系のキリスト教徒が意図的に選ばれたと考えられます。
都市部の住民は、比較的裕福で洗練されていると見なされ、徴収を免除されることが多かったようです。また、特定の職能を持つ職人や、鉱山労働者なども、国家にとって重要な労働力であったため、対象外とされることがありました。ユダヤ教徒は、デヴシルメの対象には含まれませんでした。これは、彼らが主に都市部で商業などに従事しており、農村部のキリスト教徒とは異なるコミュニティを形成していたことなどが理由として考えられます。また、孤児や、家庭の一人息子も、家族の労働力を奪うことになるため、徴収を免除されるのが通例でした。
徴兵官が対象の村に到着すると、地元のキリスト教聖職者や村の長に対し、洗礼記録の提出を命じました。この記録に基づき、徴収の対象となる年齢の少年たちが集められます。対象年齢は、一般的に8歳から20歳とされていますが、理想とされたのは14歳から18歳くらいの、まだ純粋で、かつオスマンの文化や言語、イスラム教の教えを吸収しやすい年齢の少年たちでした。
集められた少年たちは、徴兵官によって一人ひとり厳格な審査を受けました。審査の基準は多岐にわたりました。まず、身体的な健康状態が重視されました。病弱であったり、身体に障害があったりする者は除外されました。また、容姿端麗であることも重要な要素でした。特に、宮殿学校(エンデルーン)に送られる候補者にとっては、知性だけでなく、優れた容姿も求められたのです。
次に、知性と性格が評価されました。徴兵官は、少年たちとの短い対話や観察を通じて、その子の利発さ、素直さ、そして将来性を見極めようとしました。反抗的な態度を示す者や、知的に劣ると判断された者は選ばれませんでした。家柄も考慮されたと言われています。特に、地元の名士や貴族の家系の子弟は、リーダーシップの素質があると見なされ、優先的に選ばれる傾向がありました。これは、彼らが将来、帝国のエリートとして統治階級を形成する上で、有利な資質を持っていると考えられたためです。ボスニアのように、イスラム教への改宗に好意的だった地域の貴族層は、自ら進んで子弟をデヴシルメに差し出すこともありました。
徴兵官は、各村で徴収すべき少年の数をあらかじめ割り当てられており、その定員に達するまで選抜を行いました。選抜された少年たちの名前、年齢、父親の名前、出身地などの詳細な情報が台帳に記録されました。この台帳は、後に少年たちの身元を確認し、キャリアを追跡するための重要な公文書となりました。
選抜された少年たちは、親元を離れ、徴兵官に率いられて数十人から数百人の集団で、首都イスタンブール(または旧都エディルネ)へと向かいました。この旅は、彼らの人生における大きな転換点であり、故郷の文化や宗教との決別を意味するものでした。道中、彼らは赤い特徴的な帽子と衣服を与えられ、一目でデヴシルメの少年とわかるようにされました。
この徴収プロセスは、キリスト教徒の家族にとっては、愛する息子を奪われる悲劇的な出来事でした。多くの親が、息子を隠したり、徴兵官に賄賂を渡して見逃してもらおうとしたり、あるいは徴収を免れるために息子を早婚させたりした記録が残っています。イスラム法に反するという神学的な批判に加え、このような人道的な側面から、デヴシルメはしばしば「血税」と呼ばれ、バルカン半島の民衆の記憶に深い傷を残しました。
しかし、一方で、この制度を一つの機会と捉える家族も存在しなかったわけではありません。貧しい農村での生活には未来がなく、デヴシルメによって徴収されれば、息子は帝国の中心で最高の教育を受け、将来的には高い地位と富を得る可能性がありました。そのため、徴兵官に自分の息子を採ってもらおうと働きかける親もいたと言われています。特に、制度が形骸化し始めた後期には、ムスリムの親でさえ、我が子をデヴシルメのルートに乗せるために、キリスト教徒の隣人に預けて徴収させようとするケースも見られました。
このように、デヴシルメの徴収プロセスは、帝国の厳格な管理下で行われる一方で、対象となったコミュニティにとっては非常に複雑で、苦痛と機会が入り混じった矛盾した現実をもたらすものでした。それは、オスマン帝国という多民族・多宗教国家の統治のあり方そのものを象徴する制度であったと言えるでしょう。

教育と訓練のシステム

デヴシルメによって徴収され、首都イスタンブールに到着した少年たちの人生は、新たな段階に入りました。彼らは故郷や家族から完全に切り離され、スルタンに絶対的な忠誠を誓う「クル」(奴隷、奉仕者)として生まれ変わるための、長く厳しい教育と訓練のプロセスに組み込まれていきました。この教育システムは、少年たちの才能と適性を見極め、帝国の軍事と行政の各分野に最適な人材を配置することを目的とした、非常に精緻なものでした。
首都に到着した少年たちは、まずイスラム教への改宗の儀式を受け、割礼を施されました。そして、ムスリムとしての新しい名前を与えられました。これは、彼らが過去のアイデンティティを捨て、オスマン社会の一員として再出発するための象徴的な行為でした。
その後、少年たちは最初の選抜(トルコ語で「チュクマ」)を受けました。この選抜は、彼らの将来のキャリアパスを大きく左右する重要なものでした。最も容姿端麗で、知的に優れていると判断されたごく一部の少年たち、いわゆるエリート候補生は、「イチュ・オーラン」(内廷の少年)として選抜され、宮殿学校(エンデルーン)での教育課程に進むことになりました。これは、将来の帝国の中枢を担う最高級の行政官僚や軍司令官を育成するための特別なコースでした。
大多数の少年たちは、「アジェミ・オーラン」(新参者の少年)として、まずはトルコ人の農家や職人の家庭に預けられました。この「アナトリアでの奉仕」と呼ばれる期間は、通常3年から7年ほど続きました。この期間の目的は多岐にわたります。第一に、少年たちは日常生活の中で実践的にトルコ語を習得しました。帝国の公用語であり、軍隊や行政の現場で使われる言語を身につけることは、彼らがオスマン社会に溶け込むための必須条件でした。第二に、イスラム教の基本的な教えや慣習を学び、信仰を深めることが期待されました。第三に、農作業や手仕事といった肉体労働を通じて、忍耐力や規律を身につけ、強靭な身体を作ることが求められました。この期間は、彼らを都会の誘惑から遠ざけ、素朴で忠実な兵士としての素地を養うためのものでもありました。
アナトリアでの奉仕期間を終えたアジェミ・オーランたちは、再び首都に呼び戻され、「アジェミ・オーランラル兵団」として知られる訓練部隊に正式に配属されました。この兵団は、イェニチェリ軍団に昇格するための最終的な準備段階であり、少年たちはここで本格的な軍事訓練と教育を受けました。訓練は非常に厳しく、集団生活の中で徹底的な規律が叩き込まれました。彼らは、行進、武器の扱い(特に弓、剣、そして後にはマスケット銃)、築城や攻城戦の技術、その他の軍事的なスキルを学びました。同時に、読み書きやイスラム法に関する基本的な教育も続けられました。この訓練期間中も、彼らの適性は常に観察され、特に優れた者は、砲兵隊(トプチュ)、工兵隊(ジェベジ)、輜重兵隊(トプ・アラバジュラル)といった、より専門的な技術を要するカプクル(スルタン直属)の他の軍団に選抜されることもありました。
そして、最終的にアジェミ・オーランラル兵団での厳しい訓練課程を修了した者たちが、晴れてイェニチェリ軍団への配属を許されました。イェニチェリへの昇格は「カプヤ・チュクマ」(門に出る)と呼ばれ、彼らがスルタンの正式な兵士として認められたことを意味しました。イェニチェリとなると、彼らは定期的な給与を受け取り、兵舎での共同生活を送り、生涯をスルタンへの奉仕に捧げることになりました。初期のイェニチェリは、結婚が禁じられ、兵舎以外の場所に住むことも、他の職業に就くことも許されませんでした。彼らの生活のすべては、スルタンへの奉仕と軍務に集中するように設計されていたのです。
一方、最初の選抜でエリート候補生として選ばれたイチュ・オーランたちは、全く異なる道を歩みました。彼らは、トプカプ宮殿内にあるエンデルーン学校に入学しました。エンデルーンは、単なる学校ではなく、未来の帝国指導者を育成するための、世界でも類を見ないエリート養成機関でした。ここでの教育は、軍事訓練よりも学術的な側面に重点が置かれていました。
エンデルーンのカリキュラムは非常に広範で、イスラム神学、イスラム法、コーランの読解といった宗教教育に加え、トルコ語、ペルシャ語、アラビア語の三言語、文学、詩作、書道、歴史、地理、数学、音楽、そして宮廷儀礼といった、高度な教養が教えられました。同時に、乗馬、弓術、槍術といった武芸の訓練も行われ、文武両道の人間を育成することが目指されました。
エンデルーンの内部は、能力と年功に応じていくつかの「部屋」(オダ)に分かれており、生徒たちは段階的に昇進していきました。下位の部屋から始まり、厳しい試験と評価を経て、徐々に上位の部屋へと進んでいきました。この過程で、彼らは互いに競い合いながら、リーダーシップ、管理能力、そしてスルタンへの絶対的な忠誠心を培っていきました。宮殿内での日常生活そのものが教育の一環であり、スルタンの側近くで奉仕する中で、帝国の政治がどのように動いているかを肌で感じ、為政者としての感覚を磨いていったのです。
エンデルーンでの長い教育課程(10年から15年に及ぶこともあった)を優秀な成績で修了した卒業生は、「チュクマ」と呼ばれる儀式を経て、宮殿の外の重要な役職に任命されました。彼らは、イェニチェリ軍団長(アー)、州総督(ベイレルベイ)、県知事(サンジャクベイ)、そして最高位である大宰相(サドラザム)といった、帝国の軍事・行政のトップポストを独占していきました。デヴシルメ出身者が帝国の最高権力者である大宰相にまで上り詰めることは珍しくなく、15世紀から17世紀にかけてのオスマン帝国は、事実上、このエンデルーンの卒業生たちによって運営されていたと言っても過言ではありません。
このように、デヴシルメの教育システムは、少年たちを二つの主要なキャリアパス、すなわち軍事の専門家(イェニチェリ)と、行政のエリート(エンデルーン出身者)へと振り分ける、精巧な二元構造を持っていました。どちらの道に進むにせよ、彼らに共通して叩き込まれたのは、個人的な背景や出自から切り離され、ただひたすらにスルタン個人とその国家に忠誠を尽くすという「クル」としての精神でした。この徹底した教育と洗脳こそが、デヴシルメ制度を単なる徴兵制ではなく、オスマン帝国の権力構造そのものを支える根幹たらしめていたのです。

デヴシルメ出身者の役割と影響

デヴシルメ制度を通じて育成された人材は、オスマン帝国の軍事、行政、そして社会のあらゆる面で、極めて重要な役割を果たしました。彼らはスルタンに絶対的な忠誠を誓う「クル」として、帝国の権力構造の中核を形成し、数世紀にわたる帝国の繁栄と安定に大きく貢献しました。その影響は、単に有能な兵士や官僚を供給したというだけに留まらず、オスマン帝国の国家としての性格そのものを規定するほど深いものでした。
デヴシルメ出身者の最も顕著な役割は、軍事面、特にスルタン直属の常備軍であるカプクル軍団の中核を担ったことです。その中でも、イェニチェリ軍団はデヴシルメ制度の最大の産物であり、オスマン帝国の軍事力の象徴でした。厳しい訓練を受け、最新の火器(マスケット銃)で武装したイェニチェリは、当時のヨーロッパにおいて最も規律正しく、強力な歩兵部隊でした。彼らは、戦場において決定的な役割を果たし、モハーチの戦い(1526年)やウィーン包囲(1529年)など、オスマン帝国の輝かしい軍事的勝利の多くに貢献しました。イェニチェリの存在は、従来のテュルク系部族騎兵(シパーヒー)を中心とした軍事力に依存していたオスマン軍を、近代的で中央集権的な常備軍へと変貌させました。彼らはスルタンから直接給与を受け取り、スルタン以外のいかなる権威にも服さなかったため、スルタンは地方の有力者や伝統的な貴族層の意向に左右されることなく、自らの意志で軍隊を動かすことができました。これは、スルタンの権力を絶対的なものにする上で決定的な意味を持ちました。
イェニチェリ以外にも、砲兵隊(トプチュ)、工兵隊(ジェベジ)、輜重兵隊(トプ・アラバジュラル)といった専門技術を持つカプクル諸軍団も、その多くがデヴシルメ出身者によって構成されていました。彼らの専門知識と技術は、特に攻城戦において絶大な威力を発揮し、コンスタンティノープルのような難攻不落とされた要塞都市を陥落させる(1453年)原動力となりました。
軍事面と並んで、あるいはそれ以上に重要だったのが、行政面におけるデヴシルメ出身者の役割です。宮殿学校エンデルーンで最高水準の教育を受けたエリートたちは、卒業後、帝国の統治機構のあらゆる要職に就きました。彼らは、地方の州総督(ベイレルベイ)や県知事(サンジャクベイ)として広大な領土を統治し、中央政府では各部門の大臣として国政を担いました。そして、その頂点に立ったのが大宰相(サドラザム)です。大宰相は、スルタンの代理として、帝国の行政と軍事の全てを統括する最高責任者でした。15世紀半ばのチャンダルル・ハリル・パシャの処刑以降、17世紀に至るまで、大宰相の職はほぼ独占的にデヴシルメ出身者によって占められました。ソコルル・メフメト・パシャのように、ボスニアの貧しい村から徴収され、大宰相として長年にわたり帝国を実質的に指導した人物は、デヴシルメ制度がもたらした社会的流動性と、その成功を象徴する典型的な例です。
デヴシルメ出身者が行政の中枢を担うことの最大の利点は、彼らが特定の地域や部族、家系といった利害関係から完全に切り離されていた点にあります。彼らの唯一の忠誠の対象はスルタンであり、その昇進は個人の能力とスルタンへの奉仕のみにかかっていました。これにより、縁故主義や派閥争いが抑制され、比較的実力主義に基づいた官僚制が機能しました。これは、世襲貴族が権力を握っていた同時代のヨーロッパ諸国とは対照的な特徴であり、オスマン帝国の統治の効率性と安定性の源泉となりました。デヴシルメ出身のエリートたちは、ペルシャ語やアラビア語にも通じたコスモポリタンな知識人であり、帝国の多様な臣民を統治するために必要な高度な行政スキルと洗練された文化を身につけていました。
さらに、デヴシルメ出身者は、建築や芸術の分野でも大きな足跡を残しています。特に、史上最も偉大な建築家の一人とされるミマール・スィナンは、デヴシルメで徴収され、イェニチェリの工兵としてキャリアをスタートさせた人物です。彼は後に帝国の主席建築家となり、イスタンブールのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクをはじめとする、数多くの壮麗なモスク、橋、水道橋などを設計し、オスマン建築の黄金時代を築きました。彼の作品は、帝国の権威と繁栄を象徴する不朽のモニュメントとして、今日まで残っています。
しかし、デヴシルメ制度がもたらした影響は、肯定的な側面ばかりではありませんでした。制度が長期にわたって続く中で、デヴシルメ出身者は「クル」という本来の奉仕者としての立場を超え、それ自体が一個の強力な既得権益集団へと変質していきました。特に、イェニチェリ軍団は、その強大な軍事力を背景に、次第に政治への介入を深めていきました。彼らは、給与の増額や特権の拡大を求めてしばしば反乱を起こし、気に入らない大宰相や高官を失脚させ、時にはスルタンの廃位や殺害にまで関与するようになりました。1622年のスルタン、オスマン2世の殺害は、イェニチェリの増長を象徴する衝撃的な事件でした。
また、デヴシルメ出身のエリート官僚たちも、派閥を形成して権力闘争を繰り広げ、宮廷内の陰謀を助長しました。彼らは、スルタンの権威を支える存在であると同時に、その権威を脅かす潜在的な勢力でもあったのです。スルタンが政務から遠ざかり、ハーレムに籠もるようになると、デヴシルメ出身の大宰相や宮廷官僚たちが事実上の権力を掌握し、帝国の政治はしばしば彼らの個人的な野心や派閥間の対立によって左右されるようになりました。
このように、デヴシルメ出身者は、オスマン帝国の中央集権体制を確立し、その黄金時代を現出させる上で不可欠な原動力となりました。彼らがもたらした軍事力、行政能力、そして文化的洗練は、帝国の発展に絶大な貢献をしました。しかし、その一方で、彼らが形成した強固なエリート集団は、時とともに硬直化し、自己の利益を優先するようになり、帝国の衰退の一因ともなりました。デヴシルメ制度の光と影は、オスマン帝国の歴史そのものの複雑さを映し出す鏡であると言えるでしょう。
制度の変容と衰退

オスマン帝国の繁栄を支えたデヴシルメ制度も、16世紀後半から17世紀にかけて、帝国の内外で生じた様々な変化に対応する中で、その本来の姿を失い、徐々に変容し、最終的には衰退への道をたどりました。この変容は、単一の原因によるものではなく、軍事技術の変化、帝国の膨張の停止、社会経済構造の変動、そして制度自体の内的な矛盾が複雑に絡み合った結果でした。
制度変容の大きな外的要因の一つは、軍事技術の革新、特に火器の普及でした。オスマン帝国がヨーロッパ諸国との戦争を続ける中で、戦場における歩兵の重要性がますます高まり、より多くのマスケット銃兵が必要とされるようになりました。従来のデヴシルメ制度による人材供給では、この急増する需要に追いつかなくなりました。デヴシルメは、長期にわたる教育と訓練を前提としたエリート育成システムであり、大量の兵士を迅速に動員するには不向きだったのです。このため、オスマン政府は、デヴシルメのルートを経ずに、志願制によってアナトリアのムスリム農民などを直接イェニチェリ軍団に採用するようになりました。これにより、イェニチェリの兵員数は急増しましたが、同時にその構成員の質は著しく低下しました。デヴシルメ出身の、厳格な規律とスルタンへの絶対的な忠誠心を持つエリート兵士というイェニチェリの性格は失われ、様々な出自を持つ者たちが混在する、統制の取れていない集団へと変貌していきました。
帝国の膨張が限界に達したことも、制度の変容を促しました。16世紀末以降、オスマン帝国の領土拡大は停滞し、大規模な征服戦争の機会は減少しました。これは、デヴシルメの原型であったペンチック(戦争捕虜の徴収)制度の基盤を揺るがし、また、新たな領地や戦利品という形で兵士に報酬を与える機会も減らしました。軍務の魅力が相対的に低下する一方で、イェニチェリの数は増え続けたため、彼らを維持するための財政的負担は増大しました。
このような状況下で、イェニチェリ軍団そのものが内部から変質していきました。16世紀後半、スレイマン1世の治世末期には、それまで厳格に禁じられていたイェニチェリの結婚が黙認されるようになりました。やがて彼らは兵舎の外で家庭を持ち、商人や職人として副業に従事することが一般的になりました。兵士としてのアイデンティティは薄れ、彼らは首都イスタンブールの市民社会に深く根を下ろした、一種の利益団体、あるいはギルドのような存在となっていきました。
そして、決定的な変化は、イェニチェリがその地位を世襲化しようとし始めたことです。イェニチェリたちは、自分たちの息子を軍団に入隊させることを強く要求するようになりました。当初、政府はこれに抵抗しましたが、イェニチェリの圧力に屈し、次第に「クル・オウル」(奴隷の息子)と呼ばれる彼らの子弟の入隊を認めるようになりました。これにより、デヴシルメ制度の根幹である「キリスト教徒の子弟を徴収し、イスラム教に改宗させてスルタンの奉仕者とする」という原則が崩壊しました。生まれながらのムスリムが、デヴシルメの訓練過程を経ずにイェニチェリになる道が開かれたのです。
この傾向はさらに進み、17世紀には、影響力のあるムスリムの家庭が、金銭やコネを使って自分たちの息子をイェニチェリ軍団やエンデルーン(宮殿学校)に送り込むことが横行するようになりました。デヴシルメの徴収台帳に不正に名前を登録し、キリスト教徒の子弟であるかのように偽装するケースも現れました。かつては貧しいキリスト教徒の少年が帝国のエリートへと駆け上がるための梯子であったデヴシルメ制度は、特権階級がその地位を維持・拡大するための道具へと成り下がっていったのです。
これらの変化の結果、デヴシルメ制度によるキリスト教徒の子弟の徴収は、次第にその重要性を失い、実施される頻度も減少していきました。記録に残る最後の公式なデヴシルメの徴収は、17世紀半ばに行われたとされていますが、その後も散発的には行われた可能性があります。しかし、制度としての実態は、この時期にはほぼ失われていたと言ってよいでしょう。17世紀末には、デヴシルメは事実上、廃止された状態になりました。
デヴシルメ制度の衰退は、オスマン帝国の権力構造全体に深刻な影響を及ぼしました。スルタンに絶対的な忠誠を誓うエリート集団の供給が途絶えたことで、スルタンの権威は相対的に低下しました。代わりに、世襲化し、既得権益集団と化したイェニチェリや、様々な利害関係を持つムスリム有力者たちが国政への影響力を強めていきました。実力主義に代わって縁故主義がはびこり、行政の効率は低下しました。イェニチェリ軍団は、かつての精強さを失い、規律の緩んだ戦場では役に立たない厄介な集団と化していました。彼らは、改革に抵抗し、反乱を繰り返すことで、帝国の近代化を阻害する最大の要因の一つとなりました。
最終的に、この増長しきったイェニチェリ軍団は、1826年、改革派のスルタン、マフムト2世によって、武力をもって解体されることになります。この事件は「吉祥事」と呼ばれ、オスマン帝国が近代的な国家へと生まれ変わるための、必要な一歩と位置づけられています。イェニチェリ軍団の解体は、かつて帝国の礎であったデヴシルメ制度が、その歴史的役割を完全に終え、過去の遺物となったことを明確に示すものでした。
デヴシルメ制度の衰退の物語は、いかに精緻で強力なシステムであっても、変化する時代の要請に適応できなければ、やがては形骸化し、自らが支えるべき体制そのものを蝕む存在になりかねないという、歴史の教訓を示しています。それは、オスマン帝国が中央集権的な征服国家から、より複雑で多面的な社会へと移行していく過程で経験した、避けられない構造変化の現れでもあったのです。

歴史的評価と遺産

デヴシルメ制度は、オスマン帝国の歴史において、他に類を見ない独創的かつ重要な制度であり、その歴史的評価は極めて多面的です。この制度は、一方ではオスマン帝国の黄金時代を築き上げた原動力として高く評価されると同時に、他方では非人道的な「血税」として厳しく批判されてきました。その遺産は、オスマン帝国が崩壊した後も、バルカン半島とトルコの双方に、複雑で永続的な影響を残しています。
肯定的な評価の側面から見ると、デヴシルメは、オスマン帝国に驚異的な社会的流動性をもたらした、一種の実力主義的なシステムでした。封建的な身分制度が支配的であった同時代の中世ヨーロッパとは対照的に、オスマン帝国では、デヴシルメ制度を通じて、バルカン半島の貧しい農村に生まれたキリスト教徒の少年が、自らの才能と努力次第で、帝国の最高権力者である大宰相にまで上り詰めることが可能でした。これは、当時の世界において前例のない社会的上昇の道であり、帝国に絶えず新鮮で有能な血を供給し続けることを可能にしました。ソコルル・メフメト・パシャや建築家ミマール・スィナンのような、デヴシルメ出身の傑出した人物たちの功績は、この制度が帝国の発展にいかに大きく貢献したかを物語っています。
また、デヴシルメは、スルタンの権力を絶対化し、強力な中央集権体制を確立するための巧妙な装置でした。デヴシルメ出身の「クル」たちは、特定の部族や地域の利害から切り離され、スルタン個人にのみ忠誠を誓いました。彼らが軍事と行政の中枢を独占することで、封建的な領主やテュルク系の伝統的な有力者の影響力が排除され、スルタンの意志が帝国全土に浸透し、効率的な統治が実現しました。この強固な中央集権体制こそが、オスマン帝国が3大陸にまたがる広大な領土を6世紀以上にわたって維持できた大きな要因の一つです。
さらに、この制度は、オスマン帝国という多民族・多宗教国家の統合に、意図せざる形で貢献した側面も持っていました。デヴシルメによって征服されたバルカン半島のキリスト教徒の子弟が、帝国の支配層を形成するという構造は、被征服民を帝国の統治システムに組み込むという、一種の統合メカニズムとして機能しました。彼らは、自らの出自であるバルカン半島の事情にも通じており、帝国の中心と周縁部を結びつける架け橋の役割を果たすこともありました。
一方で、デヴシルメ制度に対する批判的な評価も根強く存在します。最も根本的な批判は、その非人道的な側面に向けられます。親から強制的に子供を引き離し、彼らの宗教と文化を奪い、イスラム教への改宗を強いるという行為は、現代的な人権の観点からはもちろんのこと、当時のイスラム法の原則から見ても、極めて問題のあるものでした。イスラム法(シャリーア)は、ズィンミー(保護下の非ムスリム臣民)の生命、財産、そして信仰の自由を保障することを定めており、デヴシルメはこの原則に明らかに抵触するものでした。オスマン帝国の法学者たちは、国家の必要性やスルタンの特権といった論理でこれを正当化しましたが、その法的な脆弱性は常に指摘されていました。
徴収される側のキリスト教徒コミュニティにとって、デヴシルメは「血税」として恐れられ、深いトラウマを残しました。多くの民話や歌が、子供を奪われる親の悲しみや、徴兵官から逃れるための必死の試みを伝えています。この制度は、オスマン支配に対するバルカン諸民族の反感や不信感を醸成する一因となり、後のナショナリズムの高揚と独立運動の時代において、オスマン支配の圧政の象徴として記憶されることになりました。
制度の遺産という点では、デヴシルメはオスマン帝国後の世界にも複雑な影響を及ぼしました。バルカン諸国では、デヴシルメの記憶は、トルコによる支配の負の遺産として、国民的アイデンティティの形成過程で強調される傾向がありました。特に19世紀から20世紀にかけてのナショナリズムの時代には、イェニチェリに代表されるオスマンの軍事力と、その供給源であったデヴシルメ制度が、抑圧の象徴として描かれました。
他方、トルコ共和国においては、デヴシルメ制度の評価はより複雑です。一方では、オスマン帝国の偉大さと、そのユニークな統治システムを象徴するものとして、肯定的に捉えられることがあります。実力主義と中央集権化という側面は、近代的な国民国家を建設しようとしたトルコの指導者たちにとって、参考にすべき歴史的先例と見なされることもありました。しかし、同時に、帝国のエリート層を非トルコ系の改宗者に依存していたという事実は、トルコ民族主義の観点からは問題視されることもあります。オスマン帝国の支配層が、真のトルコ人ではなかったという議論は、トルコ人のアイデンティティを巡る議論の中で、繰り返し現れるテーマの一つです。
デヴシルメ制度は、オスマン帝国の光と影を最も鮮やかに体現する制度であったと言えます。それは、帝国の類まれな強さと成功の源泉であったと同時に、その統治に含まれる矛盾と暴力を内包していました。
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・「スルタンの奴隷」(カプクル、デウシルメ制)とは わかりやすい世界史用語2324

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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