カボット父子とは
15世紀後半から17世紀初頭にかけて、ヨーロッパ世界は「大航海時代」として知られる、地理的発見と海外進出が飛躍的に進んだ時代を迎えました。この時代は、単なる探検活動の活発化にとどまらず、経済、政治、文化、そして世界観そのものに根源的な変革をもたらした歴史的な転換期でした。その中心にあったのは、東洋の香辛料、絹、貴金属といった富への尽きることのない渇望です。オスマン帝国が東地中海の交易路を掌握し、従来のルートが高コストかつ不安定になると、ヨーロッパの商人や君主たちは、海路によるアジアへの直接到達という壮大な目標に取り憑かれるようになりました。この経済的動機に加え、キリスト教世界の拡大という宗教的情熱、そして未知の世界への知的好奇心が、探検家たちを荒れ狂う大洋へと駆り立てる原動力となりました。
この時代の先駆者として最も名高いのはコロンブスですが、彼とほぼ同時期に、歴史の舞台に登場し、北大西洋の航路開拓において決定的な役割を果たしたのが、ジョン=カボットとその息子セバスチャン=カボットです。カボット父子の航海は、特にイングランドにとって、新世界への関与の第一歩を記すものであり、その後の大英帝国の礎を築く上で欠かすことのできない歴史的意義を持っています。父ジョンは、イタリア出身の卓越した航海士であり、その野心的な計画は、イングランド王ヘンリー7世の支援を得て、北米大陸へのヨーロッパ人による(ヴァイキングの来航を除けば)最初の公式な探検航海を実現させました。彼の航海は、北米大陸が豊かな漁業資源の宝庫であることをヨーロッパに知らしめ、その後の経済活動の方向性に大きな影響を与えました。
一方、息子のセバスチャンは、父の業績の影に隠れがちでありながらも、その生涯は父以上に複雑で、論争に満ちたものでした。彼は探検家、地図製作者としてイングランドとスペインの両王権に仕え、北西航路の探検や南米大陸の探検に従事しました。しかし、その功績は、自己顕示欲の強さや、父の功績を自らのものとして語る傾向があったことから、後世の歴史家たちの間で長らく評価が分かれる原因となってきました。彼の生涯は、大航海時代の探検家たちが直面した政治的駆け引き、資金調達の困難さ、そして成功と失敗が常に隣り合わせであるという現実を色濃く反映しています。
ジョン=カボットの生涯
ジョン=カボットの出自と前半生については、断片的な記録しか残されておらず、多くの点が謎に包まれています。彼の生誕地については、ジェノヴァ共和国領内のガエータ、あるいはカスティリオーネ・キアヴァレーゼとする説が有力ですが、確定的な証拠はありません。生年は1450年頃と推定されており、これは彼と同時代に活躍したクリストファー=コロンブスより1年早い可能性があります。
確実な記録として残っているのは、彼がヴェネツィア共和国で市民権を得たという事実です。1476年にヴェネツィア市民として認められた記録があり、市民権の取得には最低15年間の居住が義務付けられていたことから、彼は遅くとも1461年までにはヴェネツィアに移り住んでいたと考えられます。当時のヴェネツィアは、地中海貿易の中心地として栄華を極めており、東方からの香辛料、絹、宝石といった高価な商品が集まる国際的な商業都市でした。このような環境で、ジョン=カボットは商人として、また航海士としての経験を積んでいったと推測されます。彼はヴェネツィアの商社に雇われ、地中海東岸を旅し、イスラム世界の偉大な貿易拠点であったメッカを訪れたこともあったとされています。メッカでは、東洋と西洋の商品が交換される様子を目の当たりにし、アジアの富がどのような経路でヨーロッパにもたらされるのかを深く理解する機会を得たはずです。この経験が、後に彼を大西洋航海へと駆り立てる遠因となったことは想像に難くありません。
ヴェネツィアでの生活の中で、彼はマッテアという名の女性と結婚し、ルドヴィコ、セバスチャン、サンチョという3人の息子をもうけました。息子たちの名前は、1496年にイングランド王ヘンリー7世から与えられた特許状にも記載されており、彼の探検事業が家族ぐるみの計画であったことを示唆しています。
しかし、1480年代後半になると、ジョン=カボットの人生に転機が訪れます。彼は多額の負債を抱え、支払不能の債務者としてヴェネツィアを離れざるを得なくなりました。1490年頃、彼は家族を連れてスペインのバレンシアに移住します。この移住の背景には、単なる経済的な困窮だけでなく、彼の抱いていた壮大な野望があったと考えられます。当時のスペインとポルトガルは、大西洋探検のフロンティアであり、アジアへの新航路発見に国家的な関心を寄せていました。カボットは、地中海経由の従来の貿易ルートに代わる、大西洋を西に進んでアジアに至る航路の可能性を信じており、その計画を実現するための支援者を求めて、イベリア半島に新たな活路を見出そうとしたのです。
スペインでは、バレンシアの港湾改良計画に関わるなど、土木技術者としての一面も見せていますが、彼の真の目的は航海計画への支援を取り付けることでした。しかし、当時のスペイン王室は、すでにクリストファー・コロンブスの計画に資金を提供することを決定しており、カボットの提案に耳を貸すことはありませんでした。ポルトガルもまた、アフリカ南端を回る東回り航路の開拓に集中しており、カボットの西回り航路案には関心を示しませんでした。イベリア半島での数年間の活動は実を結ばず、彼は再び新たな支援者を求めて、次なる目的地へと向かうことになります。その目的地こそが、彼の名を歴史に刻むことになるイングランドでした。
イングランドへの移住とブリストルの支援者たち
1494年か1495年頃、ジョン=カボットは家族と共にイングランドへ渡り、ブリストルに居を構えました。彼がブリストルを選んだのは、決して偶然ではありませんでした。ブリストルは当時、ロンドンに次ぐイングランド第2の港湾都市であり、大西洋に向けた探検航海の長い歴史を持つ、国内で唯一の都市でした。1480年代から、ブリストルの商人たちは、ケルトの伝説に登場する大西洋上の幻の島「ハイ・ブラジル」を探すため、幾度となく探検隊を送り出していました。彼らの中には、コロンブス以前に北米大陸を発見していたのではないかという説も存在するほど、その航海術と冒険心は卓越していました。
カボットは、このような進取の気性に富んだブリストルの商人たちの中に、自らの計画の理解者と支援者を見出そうとしました。彼の計画は、コロンブスと同様に西へ向かうものでしたが、より北方の航路を取ることで、アジアまでの距離が短縮できるという点に特徴がありました。これは、地球が球体であるという前提に立てば、高緯度地域の方が経線間の距離が短くなるという地理学的な知識に基づいた、合理的な発想でした。
ブリストルにおいて、カボットは地元の商人たちだけでなく、ロンドンに拠点を置くイタリア系の金融業者からも支援を取り付けることに成功します。近年の研究により、ロンドンのバルディ家系の銀行が、1496年3月にカボットの「新大陸発見」のための航海を支援するために資金を提供していたことが明らかになっています。さらに、彼の計画を後押しする強力なパトロンとして、ミラノ出身の修道士で、イングランドにおけるローマ教皇の徴税代理人でもあったジョヴァンニ・アントニオ・デ・カルボナリイス師の存在がありました。このように、カボットの探検事業は、ブリストルの海洋的伝統、ロンドンの国際金融資本、そして教会関係者の影響力という、複数の要素が結びつくことによって実現に向けて動き出したのです。
そして、最も重要だったのが、イングランド国王ヘンリー7世の関心を得たことです。ヘンリー7世は、薔薇戦争を終結させ、テューダー朝を創始したばかりの慎重かつ抜け目のない君主でした。彼は、コロンブスの弟バーソロミューがイングランド宮廷に支援を求めてきた際に、その提案を断った過去がありましたが、コロンブスがスペインのために「インディアス」を発見したというニュースは、イングランドの行動を促す刺激となりました。カボットの計画は、スペインやポルトガルが支配権を主張していない北方航路を利用するものであり、イングランドが新たな領土と富を獲得する好機と映りました。
1496年3月5日、ヘンリー7世はジョン=カボットと彼の3人の息子、ルドヴィコ、セバスチャン、サンチョに対し、東方、西方、北方への航海と探検を行うことを許可する特許状を与えました。この特許状は、彼らが発見した土地をイングランド王の名において領有し、そこで得られた利益から生産コストを差し引いた額の5分の1を王室に納めることを条件に、貿易の独占権を認めるものでした。また、全ての探検航海はブリストルから出発し、発見によってもたらされる全ての商業活動はイングランドとだけ行い、商品はブリストル港を通じてのみ輸入されなければならないと定められていました。これにより、カボットの計画は個人の冒険から国家事業へと昇華し、ブリストルはその歴史的な航海の拠点として公式に位置づけられたのです。
1497年の歴史的航海
国王の特許状を手にしたジョン=カボットは、早速航海の準備に取り掛かりました。しかし、最初の試みは成功しませんでした。1496年に1隻の船でブリストルを出航したものの、食糧不足、悪天候、そして乗組員との対立に見舞われ、引き返さざるを得ませんでした。この失敗は、おそらく準備不足と、出航時期が遅すぎたことが原因であったと考えられています。
この失敗に屈することなく、カボットは翌1497年に再び挑戦します。1497年5月20日頃、彼は「マシュー号」と名付けられた小さな船に乗り、18名ほどの乗組員と共にブリストル港を出航しました。乗組員の多くはブリストル出身者で、おそらくウィリアム・ウェストンを含む2人の有力なブリストル商人も同乗していたと考えられています。マシュー号はアイルランドを通過した後、北西に進路を取り、大西洋を横断しました。航海はおおむね順調で、天候にも恵まれたようです。
そして1497年6月24日の朝、彼らはついに陸地を発見しました。この最初の上陸地点が具体的にどこであったかについては、長年にわたり歴史家や地元コミュニティの間で論争が続いています。ニューファンドランド島のケープ・ボナビスタやセントジョンズ、ノバスコシア州のケープ・ブレトン島、さらにはラブラドール半島やメイン州まで、様々な場所が候補として挙げられてきました。1950年代に「ジョン・デイの手紙」と呼ばれる重要な史料が発見されて以降は、最初の上陸地はニューファンドランド島か、その近くのケープ・ブレトン島であった可能性が最も高いと考えられています。
上陸したカボットは、その土地が人の住む場所であることを示す痕跡(例えば、火の跡、罠、削られた木など)に気づきましたが、実際に人々の姿を見ることはありませんでした。彼はイングランド王のためにその土地の領有を宣言し、イングランドとヴェネツィアの旗を掲げました。彼は、この土地がアジア大陸の北東端、すなわち中国皇帝の領土の一部であると固く信じていました。船上から海岸線を調査し、ケープ・ディスカバリー、セント・ジョン島、セント・ジョージ岬、トリニティ諸島、イングランド岬といった地名を付けていきました。
カボットがこの航海で最も注目したのは、その海域の驚くべき魚の豊かさでした。彼に同行したブリストル商人たちは、帰国後、「そのあたりの海は魚で満ち溢れており、網だけでなく、石を入れた籠を降ろすだけで獲れるほどだ」と報告しています。カボット自身も、イングランドが魚の供給を依存しているアイスランドを必要としなくなるほどの量の魚がいると述べました。このタラ(ストックフィッシュ)の巨大な漁場の発見は、航海の最も具体的かつ重要な成果となり、その後のヨーロッパ、特にイングランドとポルトガルの漁業活動に大きな影響を与えることになります。
アジアへの到達という本来の目的は果たせなかったものの、カボットは重要な発見を成し遂げたという確信を持って帰路につきました。1497年8月6日、マシュー号はブリストルに帰還しました。彼の帰還は熱狂的に歓迎され、ヘンリー7世はカボットの功績を称え、年金を与えました。カボットは国王に対し、発見した土地は素晴らしく、気候は穏やかであると報告し、次の航海では今回の上陸地点に戻り、そこからさらに西へ航海を続け、香辛料や宝石の産地とされる日本(チパング)に到達する計画を披露しました。彼の報告は、イングランドに新世界への大きな期待を抱かせ、次なる、より大規模な探検への道を開いたのです。
1498年の最後の航海と謎に包まれた最期
1497年の航海の成功と、それがもたらしたアジアへの期待感に後押しされ、ジョン=カボットはすぐさま次の航海の準備に着手しました。ヘンリー7世もこの計画に強い関心を示し、1498年2月3日、カボットに新たな特許状を与えました。
1498年5月初旬、カボットは5隻の船団を率いてブリストルを出航しました。この船団は、前回の航海とは比較にならないほど大規模なもので、約200人の乗組員が乗り込み、中国や日本との交易を想定した様々な商品(布地、レースの帽子など)が積み込まれていました。5隻のうち1隻は、ヘンリー7世自身が提供したものでした。このことからも、この航海が国王の強い支援を受けた国家的なプロジェクトであったことがうかがえます。
しかし、この大規模な船団が出航した後、その運命は深い謎に包まれることになります。アイルランド沖で嵐に遭遇し、1隻が損傷してアイルランドの港に引き返したという記録を最後に、カボットが率いる残りの4隻の船団の正確な消息は途絶えてしまいました。
彼らがその後どうなったのかについては、様々な説が提唱されていますが、決定的な証拠は見つかっていません。一つの説は、船団が北大西洋で嵐に遭い、全員が海に沈んでしまったというものです。また別の説では、彼らは北米大陸に到達したものの、そこで先住民との衝突や厳しい冬を越せずに命を落とした、あるいは船が難破して帰還できなくなった、などと推測されています。
近年、ブリストル大学の「カボット・プロジェクト」の研究者たちによって、この謎を解く手がかりとなる可能性のある発見がなされています。歴史家のアルウィン・ラドック博士(故人)の研究を引き継いだ調査により、カボットは実際には1500年頃にイングランドに生還していた可能性が示唆されています。ラドック博士は、カボットが2年間にわたる探検の末にイングランドに戻り、ロンドンで国王に報告を行ったことを示す記録を発見したと主張していました。しかし、彼女がその研究成果を公表する前に亡くなったため、その全貌は依然として不明なままです。
もしカボットが生還していたとしても、彼が当初の目的であったアジアの富を持ち帰ることができなかったことは明らかです。航海の投資家たちにとって、この結果は大きな失望であったでしょう。この失敗が、ジョン=カボットという探検家の名が、その後のイングランドの歴史の中で急速に忘れ去られていく一因となった可能性があります。彼の航海によって開かれた北米への道は、その後、彼の息子セバスチャンや、ポルトガルから来たアゾレス諸島の探検家たちによって引き継がれていくことになります。
ジョン=カボットの最期がどのようなものであったにせよ、彼の歴史的功績が揺らぐことはありません。彼の1497年の航海は、ヴァイキング以来のヨーロッパ人による北米大陸への到達を記録し、イングランドが新世界における領有権を主張するための法的・歴史的根拠となりました。彼が発見したニューファンドランド沖の豊かな漁場は、その後数世紀にわたりヨーロッパ経済にとって重要な資源となり、彼の航海は、イングランドが海洋国家として、そしてやがて世界的な帝国として発展していくための、まさに第一歩を印したのです。彼の名は、コロンブスほどの華やかさはないかもしれませんが、大航海時代の地図を大きく塗り替え、世界の歴史の流れを変えた偉大な探検家の一人として、記憶されるべき存在です。
セバスチャン=カボットの生涯
セバスチャン=カボットの生涯は、その始まりからして曖昧さと矛盾に満ちています。彼の生年や出生地については、彼自身が残した証言が状況に応じて変化するため、歴史家たちを長年悩ませてきました。
最も信頼性の高い記録の一つは、彼がヴェネツィアで生まれたとするものです。1484年12月11日付のヴェネツィアの文書には、父ジョン=カボットにすでに息子たちがいたことが記されており、セバスチャンがこの頃にヴェネツィアで生まれたことを示唆しています。1515年以前にスペインでペドロ・マルティール・デ・アンギェラ(ピーター・マーター)に対して、また1522年にヴェネツィア大使に対して、彼自身がヴェネツィア生まれであると述べています。これらの証言から、彼の生年は1484年頃と推定するのが一般的です。
しかし、後年イングランドに戻った後、セバスチャンは異なる主張を始めます。1548年以降、彼はイギリス人のリチャード・イーデンに対し、自分はブリストルで生まれ、4歳の時に両親と共にヴェネツィアへ行き、数年後に再びイングランドに戻ったため、ヴェネツィア人だと思われていた、と語っています。このブリストル生まれという主張は、おそらくスペインへの身柄引き渡しを避けるために、イングランド国籍を強調する必要があったための政治的な発言であったと考えられています。
父ジョンの1497年の歴史的な航海にセバスチャンが同行したかどうかも、確かなことは分かっていません。彼が同行したことを示す唯一の直接的な証拠は、彼自身が後年(1544年)に作成した世界地図に付された「この土地はヴェネツィア人ジョン=カボットとその息子セバスチャン=カボットによって発見された」という凡例のみです。しかし、1497年当時、彼はまだ13歳か14歳であり、この歴史的な航海に参加していた可能性は低いと考える歴史家もいます。また、父の1498年の2回目の航海に彼が参加したという証拠も存在しません。
父ジョンが1498年の航海から戻らなかった後、セバスチャンとその兄弟たちが父の記憶や功績を保存しようとした形跡は見られません。むしろ、セバスチャンは自らも探検家としての道を歩む中で、父の功績をあたかも自分自身のものであるかのように語る傾向がありました。このことが、16世紀から19世紀にかけて、1497年と1498年の航海を主導したのはジョンではなくセバスチャンであるという誤った信念が広まる原因となりました。
父の死後、セバスチャンのキャリアが本格的に始まるのは、1500年代に入ってからです。1505年4月3日、イングランド王ヘンリー7世は、「新発見の土地の発見に関する」功労に対し、セバスチャンに10ポンドの年金を与えています。これは、彼が父の航海の遺産を引き継ぎ、何らかの形でイングランドの探検事業に関与していたことを示唆しています。
そして、1508年から1509年にかけて、セバスチャンはイングランドのために、北米大陸を迂回してアジアに至る「北西航路」を発見するための探検航海を率いたとされています。この航海に関する公式な記録は残っていませんが、ピーター・マーターやジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオといった16世紀の著述家が、セバスチャン本人から聞いた話としてその詳細を記録しています。それらの記述によると、セバスチャンは2隻の船と300人の乗組員を率いて、まず北方へ向かいました。7月にもかかわらず巨大な氷山が浮かび、ほぼ白夜に近い状態であったと報告されています。彼は西へ向かう開けた水路、すなわちハドソン海峡の入り口にまで達した可能性がありますが、乗組員の反乱に遭い、引き返すことを余儀なくされました。その後、彼は南下して北米東海岸を探検し、ジブラルタル海峡とほぼ同じ緯度(チェサピーク湾付近)まで達してからイングランドに帰還したとされています。
この航海が事実であれば、セバスチャンは北西航路発見の試みにおける最初の探検家の一人ということになります。しかし、彼がイングランドに戻った1509年、支援者であったヘンリー7世はすでに亡くなっており、後を継いだヘンリー8世は新世界探検にほとんど関心を示しませんでした。これにより、セバスチャンのイングランドにおける探検家としてのキャリアは一時的に停滞し、彼は新たな活躍の場を求めて、当時、探検活動の中心地であったスペインへと目を向けることになります。
スペイン王権への奉仕と主席航海士の地位
イングランドでの探検計画に見切りをつけたセバスチャン=カボットは、自らの航海術と地理的知識を高く評価してくれるであろうスペインに新天地を求めました。1512年、彼はイングランド王ヘンリー8世の地図製作者として、ガスコーニュとギュイエンヌの地図を作成する仕事に従事していましたが、同年、ドーセット侯爵が率いるイングランド軍に同行してスペインへ渡ります。この遠征はフランスに対抗するためのものでしたが、セバスチャンにとってはこの機会を利用してスペインの宮廷と接触する絶好のチャンスでした。
彼の狙いは的中します。彼の北米北東岸に関する知識は、スペイン国王フェルナンド2世(アラゴン王フェルディナンド5世)に感銘を与え、セバスチャンはスペイン海軍の大尉に任命されました。フェルナンド王は彼に探検航海を指揮させる計画を持っていましたが、1516年に王が死去したことで、この計画は中止となってしまいます。
しかし、セバスチャンの能力は、フェルナンドの後継者である神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)にも認められました。1518年、彼はスペインの植民地統治機関であるインディアス枢機会議のメンバーに任命され、さらに「主席航海士(Pilot Major)」という極めて重要な役職に就きました。この役職は、かつてアメリゴ・ヴェスプッチも務めたもので、スペインから出航する全ての船の航海士を試験し、訓練する権限を持ち、また、最新の地理的発見を反映させた王室の公式世界地図「パドロン・レアル」を維持・改訂する責任を負っていました。この地位は、セバスチャンが当代随一の航海術と地図製作技術の専門家として、ヨーロッパで最高レベルの評価を得ていたことを物語っています。
主席航海士として、セバスチャンは地図製作の問題、特に経度の測定法について深く関わりました。彼は、磁気偏角(方位磁針が示す北と真北とのずれ)を観測することで、東西間の距離、すなわち経度を決定できるという方法を提唱しました。彼は、地図上に磁気偏角がゼロになる線(無偏角線)を子午線として記すことの重要性を強調しました。これは、経度を正確に測定することが極めて困難であった当時において、画期的な試みでした。
この間、セバスチャンはイングランドや故郷ヴェネツィアとの接触も密かに続けていました。1520年から1521年にかけて、彼はイングランドに戻り、ヘンリー8世とウォルジー枢機卿の支援を得て、北米への探検航海を組織しようと試みます。しかし、ロンドンの商人組合(特に毛織物商組合)がセバスチャンに対して不信感を表明し、資金提供が十分でなかったため、この計画は断念されました。
さらに1522年には、ヴェネツィア大使ガスパロ・コンタリーニを通じて、ヴェネツィア共和国のために北西航路を発見する計画を秘密裏に持ちかけています。彼は、この計画がスペインに知られれば「命に関わる」と述べながらも、母国ヴェネツィアに多大な利益をもたらすことができると熱弁しました。この交渉はしばらく続きましたが、結局合意には至らず、セバスチャンは再びスペインでの任務に戻ることになります。これらの行動は、彼が特定の国家への忠誠心よりも、自らの探検計画を実現させることを最優先に考えていた、野心的で抜け目のない人物であったことを示しています。
ラ・プラタ川への遠征と挫折
1525年、セバスチャン=カボットの探検家としてのキャリアにおいて、最大規模かつ最も論争の的となる航海が始まります。当初の目的は、フェルディナンド・マゼランの航路をたどり、香料諸島(モルッカ諸島)や東洋との貿易を発展させることでした。スペイン国王カール5世の支援を受け、4隻の船と約200人の乗組員からなる船団の総司令官に任命されたセバスチャンは、1526年4月3日にサンルカル・デ・バラメダ港を出航しました。
しかし、航海は当初から困難に見舞われました。セバスチャンが航海士たちの助言に反して南南西に進路を取ったため、船団は無風帯にはまり込み、大西洋横断に1ヶ月以上を要しました。ブラジル沿岸に到着した後、南下を続ける中で、旗艦が座礁して失われるという大きな損害を被ります。
この頃、セバスチャンは、以前の探検隊の生き残りや現地のポルトガル人入植者から、ラ・プラタ川(リオ・デ・ラ・プラタ)流域に銀や金などの莫大な富が存在するという噂を耳にします。この「銀の川」の伝説に魅了された彼は、当初の目的であった香料諸島への航海を放棄し、ラ・プラタ川流域を探検するという独断的な決定を下しました。
この目的変更に、船団の将校たちの多くが反対しました。彼らは、出資者たちの商業的な目的を無視するものであると主張しましたが、セバスチャンは彼らの反対を力で抑えつけ、リーダー格であったマルティン・メンデスやミゲル・デ・ロダスらをサンタ・カタリーナ島に置き去りにするという強硬手段に出ました。
1527年2月、カボットの船団は広大なラ・プラタ川の河口域に入り、その後約3年間にわたってこの地域の探検に明け暮れることになります。彼はウルグアイ川とサン・サルバドル川の合流地点にサン・サルバドル砦を建設し、ここを拠点としました。さらに、パラナ川を遡り、カラカラニャ川との合流点にサンクティ・スピリトゥス砦を築きました。これらは、現在のウルグアイとアルゼンチンにおける最初のスペイン人入植地となりました。
しかし、黄金郷の探索は困難を極めました。先住民との衝突で多くの部下を失い、食糧不足にも悩まされました。探検の途中、彼は同じくラ・プラタ川を目指してきた別のスペイン探検隊(ディエゴ・ガルシア隊)と遭遇しますが、共同での探検も実を結びませんでした。
最終的に、富を発見するという目的を達成できないまま、セバスチャンは1530年にスペインへ帰還します。彼の帰還を待っていたのは、栄誉ではなく厳しい裁きでした。当初の命令に背き、部下を置き去りにし、遠征を失敗させた責任を問われ、彼は裁判にかけられました。有罪判決を受け、アフリカへの追放を宣告されましたが、この刑が実際に執行されることはなく、彼は最終的に恩赦を受け、主席航海士の地位にも復帰しました。この事実は、彼が宮廷内に強力なコネクションを持ち、その専門知識が依然として高く評価されていたことを示しています。
この遠征は、セバスチャンのキャリアにおける大きな汚点となりましたが、一方で南米大陸内陸部の地理に関する貴重な情報をヨーロッパにもたらしたという側面もあります。彼の探検によって、ラ・プラタ川流域がアジアへの中継点ではなく、それ自体が広大な大陸の一部であることが明らかになり、その後のスペインによる南米植民地化の基礎が築かれました。
イングランドへの帰還と晩年
ラ・プラタ川遠征の失敗とそれに続く裁判の後、セバスチャン=カボットはスペインでの地位を回復したものの、彼の心は再び北方への探検へと向かっていました。彼はスペイン王権下でのキャリアに次第に不満を感じるようになり、早くも1538年にはイングランドでの職を求めて働きかけていた記録が残っています。
この間、彼は地図製作者としての活動を続け、1544年には彼の最も有名な業績の一つである世界地図を出版しました。この地図は、現存するものはパリのフランス国立図書館に保管されており、当時の地理的知識を集大成した重要な作品です。この地図には、父ジョンの航海に関する記述も含まれており、セバスチャンが父の功績をどのように捉え、後世に伝えようとしていたかを知る上で貴重な史料となっています。
1547年、イングランドでヘンリー8世が亡くなり、若きエドワード6世が即位すると、イングランドの政治状況は変化します。新政権は海外探検に対してより積極的な姿勢を示し、セバスチャンの豊富な知識と経験に再び注目しました。同年10月、イングランド枢密院は「パイロット、シャボットをイスパニアから移送するため」として100ポンドの支出を決定し、彼を公式に招聘しました。
この時、セバスチャンの妻カタリナ・デ・メドラーノは亡くなっており、スペインにはもはや彼を引き留めるものは何もありませんでした。彼はスペイン国王カール5世の許可を得ずに、慎重にイングランドへの移住を準備し、1548年後半にイングランドへ帰還しました。
イングランドに戻ったセバスチャンは、国王から年金を与えられ、厚遇をもって迎えられました。彼の主な任務は、イングランドの新たな探検事業、特にアジアへの「北東航路」発見計画の顧問を務めることでした。彼は、1553年に設立された「新しき土地への商人冒険家会社」、後に「モスクワ会社」として知られるようになる組織の初代総裁に就任しました。
総裁として、セバスチャンはその豊富な経験を活かし、会社の最初の航海のための詳細な指示書を作成しました。1553年5月、ヒュー・ウィロビー卿とリチャード・チャンセラーが率いる船団が、北東航路を目指して出航しました。この航海は、ウィロビー隊が北極圏で遭難するという悲劇に見舞われたものの、チャンセラーは白海に到達し、そこから陸路モスクワへ向かい、ロシア皇帝イヴァン4世(雷帝)との間で貿易協定を結ぶことに成功しました。
この協定は、イングランドとロシアの間に直接的な貿易関係を確立し、モスクワ会社に大きな利益をもたらしました。セバスチャンの指導の下、イングランドは北極圏を経由してアジアに至るという野心的な計画を、ロシアとの新たな商業的結びつきへと転換させることに成功したのです。
1555年、セバスチャンはモスクワ会社の総裁として、フィリップ王(スペイン王フェリペ2世、イングランド女王メアリー1世の夫)とメアリー女王から会社の特許状を再確認してもらいました。しかし、この時、彼は高齢を理由に、ウィリアム・ハワード卿を共同総裁として受け入れることを余儀なくされました。1557年、彼は総裁職を完全に引退し、年金生活に入りました。
セバスチャン=カボットは、1557年の後半にロンドンで亡くなったとされています。彼の友人であったリチャード・イーデンは、セバスチャンが臨終の床で、長年研究してきた経度測定の秘術について語ったと記録しています。彼の死は、大航海時代の初期から活躍した最後の偉大な探検家の一人が舞台から去ったことを意味していました。
セバスチャン=カボットの生涯は、矛盾と自己宣伝に満ちており、その評価は歴史家の間でも大きく分かれています。彼は父ジョンの功績を自らのものとして語り、自らの失敗を隠蔽するために記録を改ざんした可能性も指摘されています。しかし、その一方で、彼が当代屈指の航海士であり、地図製作者であったことは疑いようのない事実です。スペインの主席航海士として、またイングランドのモスクワ会社の総裁として、彼はヨーロッパの地理的知識の拡大と海外貿易の発展に多大な貢献をしました。彼の生涯は、ルネサンス期の探検家が、国家間の対立や宮廷の陰謀といった複雑な政治状況の中で、いかにして自らの野心を実現しようと奮闘したかを示す、魅力的な事例と言えるでしょう。
カボット父子の歴史的遺産と評価
ジョン=カボットとセバスチャン=カボット父子が歴史に残した最も直接的な遺産は、地理上の発見と、それらを記録した地図製作への貢献です。彼らの航海は、15世紀末から16世紀にかけてのヨーロッパ人の世界観を大きく変え、大西洋を挟んだ二つの世界の永続的な結びつきの基礎を築きました。
父ジョン=カボットの1497年の航海は、その歴史的重要性において、クリストファー・コロンブスの航海に匹敵します。コロンブスがカリブ海の島々に到達したのに対し、カボットは北米大陸そのものに到達した最初のヨーロッパ人(ヴァイキングを除く)となりました。この発見は、イングランドが新世界における領有権を主張するための、揺るぎない法的・歴史的根拠を与えました。後年、エリザベス1世の時代にイングランドが北米植民地化を本格化させる際、ジョン=カボットの航海は、スペインやポルトガルの主張に対抗するための重要な先例として繰り返し参照されました。
さらに、ジョン=カボットの航海がもたらした最も即物的かつ経済的に重要な発見は、ニューファンドランド沖のグランドバンクスとして知られる、世界有数のタラ漁場の存在をヨーロッパに知らしめたことです。この情報は瞬く間にヨーロッパの漁業国に広まり、イングランド、ポルトガル、フランス、スペインのバスク地方などから、数多くの漁船がこの豊かな海域に殺到しました。この「タラ・ラッシュ」は、北米大陸における最初の持続的なヨーロッパ人の経済活動となり、食料供給、海運業、そして資本蓄積の面で、ヨーロッパ経済に大きな影響を与えました。また、漁師たちの活動は、北米沿岸部の地理に関する断片的ではあるが実践的な知識を蓄積させ、後の組織的な探検や植民活動の土台となりました。
一方、息子セバスチャン=カボットの貢献は、より広範かつ複雑です。彼は探検家として、北西航路の初期の探検(1508-09年)や、南米のラ・プラタ川流域の探検(1526-30年)を行い、未知の地域の地理情報をヨーロッパにもたらしました。特にラ・プラタ川遠征は、失敗に終わったとはいえ、南米大陸内陸部の広大さを明らかにし、その後のスペインによる植民地化の方向性に影響を与えました。
しかし、セバスチャンの真の重要性は、探検家として以上に、地図製作者および航海術の専門家としての役割にあります。スペインの主席航海士として、彼は王室の公式世界地図「パドロン・レアル」の維持・更新という重責を担いました。これは、世界中から集まってくる最新の探検報告を統合し、国家の最高機密である地理情報を管理するという、極めて重要な仕事でした。彼は、この役職を通じて、当時のヨーロッパにおける地理学の最先端に位置していました。
彼の名を冠した1544年の世界地図は、その集大成と言える作品です。この地図は、当時の探検によって得られた最新の知見、例えば北米東海岸の輪郭や南米大陸の形状などを反映しており、大航海時代の地理的知識の到達点を示す貴重な史料です。また、この地図には、磁気偏角に関する彼の理論や、父ジョンの航海の功績(セバスチャン自身の功績として強調されてはいるが)など、多くの情報が盛り込まれています。
さらに、セバスチャンは経度測定という、当時の航海における最大の難問に取り組んだ先駆者の一人でした。彼が提唱した磁気偏角を利用する方法は、最終的に実用的な解決策とはなりませんでしたが、科学的な観測に基づいて航海の精度を高めようとする、近代的なアプローチの萌芽を示すものでした。
総じて、カボット父子の活動は、ヨーロッパの地図から「未知の領域」を消し去り、地球の全体像を明らかにしていく上で、決定的な役割を果たしました。彼らの航海と地図は、単に新しい土地を描き出しただけでなく、それらの土地をヨーロッパの経済的・政治的野心の対象として位置づけ、その後の世界史の展開を大きく方向づけたのです。
イングランドとスペインにおける役割と影響
カボット父子のキャリアは、イングランドとスペインという、大航海時代の二つの主要なライバル国家にまたがっており、それぞれの国で異なる役割を果たし、異なる影響を残しました。
イングランドにおける影響 イングランドにとって、ジョン=カボットの1497年の航海は、まさに新世界への扉を開いた画期的な出来事でした。薔薇戦争の内乱を終結させたばかりのテューダー朝にとって、この航海は、イベリア半島のライバル国に遅れを取ることなく、海外進出の競争に参加するための足がかりとなりました。ヘンリー7世がカボットに与えた特許状は、イングランドが北米大陸の広大な土地に対する先占権を主張するための法的根拠となり、これは後の大英帝国の領土的主張の原点となります。
しかし、ジョン=カボットの最後の航海が期待された富をもたらさなかったこと、そしてヘンリー8世が当初、大陸ヨーロッパの政治情勢に主眼を置き、海外探検に比較的無関心であったことから、イングランドの北米への関与は、その後数十年にわたって停滞しました。カボットの発見は、主に漁業活動という形で引き継がれましたが、国家主導の植民計画はしばらくの間、実現しませんでした。
この状況を再び動かしたのが、息子セバスチャン=カボットでした。1548年にイングランドに帰還した彼は、エドワード6世の宮廷で重用され、イングランドの海洋進出戦略のブレーンとして機能しました。彼が初代総裁を務めたモスクワ会社は、イングランド初の株式会社形式の貿易会社であり、その組織形態と運営方法は、後の東インド会社をはじめとする多くの勅許会社のモデルとなりました。セバスチャンが指導した北東航路探検は、地理的な目標こそ達成できなかったものの、ロシアとの新たな貿易ルートを開拓するという予想外の成功を収めました。これは、イングランドが伝統的なヨーロッパ内の貿易網から脱却し、グローバルな商業国家へと変貌していく上での重要な一歩でした。
このように、父ジョンがイングランドの「アメリカ」への権利の種を蒔き、息子セバスチャンがその数十年後に、イングランドの商業的・海洋的野心を組織化し、新たな方向へと導いたと評価することができます。
スペインにおける影響 一方、スペインにおけるセバスチャン=カボットの役割は、全く異なるものでした。1512年から約35年間にわたり、彼はスペイン王権に仕え、その航海術と地図製作の専門知識を提供しました。特に、主席航海士という地位は、彼がスペイン帝国の植民地拡大事業の中枢にいたことを示しています。
彼の任務は、スペインの航海士たちが安全かつ効率的に広大な帝国を行き来できるように、最高の航海技術と最新の地理情報を提供することでした。彼は、新世界から得られる膨大な情報を整理・分析し、帝国の公式地図「パドロン・レアル」を維持することで、スペインの世界支配を支える知的インフラの構築に貢献しました。
しかし、彼のスペインでのキャリアは、成功ばかりではありませんでした。ラ・プラタ川への遠征は、命令違反と失敗という結果に終わり、彼の評価に大きな傷をつけました。また、彼は常にイングランドやヴェネツィアと二股をかけるような行動をとっており、スペイン王権に対する忠誠心は完全なものではありませんでした。スペイン側から見れば、彼は非常に有能ではあるが、同時に扱いにくく、信頼性に欠ける外国人の専門家であったと言えるでしょう。
それでもなお、彼が長期間にわたって重要な地位を保ち続けたという事実は、大航海時代において、国家が個人の持つ専門知識、特に航海術や地理学の知識をいかに渇望していたかを物語ります。セバスチャン=カボットの存在は、当時の探検事業が、国家の枠を超えた専門家たちのネットワークによって支えられていたことを示す好例です。
歴史的評価の変遷と論争点
カボット父子、特にセバスチャン=カボットの歴史的評価は、時代と共に大きく揺れ動いてきました。その評価の変遷は、歴史的史料の発見や解釈の変化だけでなく、ナショナリズムの高揚といった時代背景とも深く関わっています。
16世紀から19世紀にかけて、歴史家の間では、1497年の北米大陸発見の功績は、父ジョンではなく息子セバスチャンにあるという見方が広く信じられていました。この誤解の主な原因は、セバスチャン自身が後年、父の功績を自らのものとして語ったこと、そして彼の証言を基にしたリチャード・イーデンやピーター・マーターといった著述家の記述が、そのまま受け入れられてきたことにあります。イングランドの歴史家たちは、自国の英雄としてセバスチャンを称賛し、彼の(とされる)功績を強調しました。
しかし、19世紀後半になると、ロンドン、ヴェネツィア、ミラノ、スペインなどの公文書館で新たな史料が次々と発見され、歴史の再検証が進みました。特に、1496年と1498年のイングランド王からの特許状や、同時代の外交官が本国に送った書簡などが明らかにされたことで、1497年と1498年の航海を計画し、実行したのは紛れもなく父ジョン=カボットであったことが証明されました。これにより、セバスチャンは父の功績を盗んだ「詐称者」であるという、厳しい批判にさらされることになります。歴史家ヘンリー・ハリッセなどは、セバスチャンを徹底的に非難し、彼の証言の信頼性を根本から覆しました。
20世紀に入ると、セバスチャンに対する評価は、単なる詐称者という見方から、より複雑で多面的な人物像へと修正されていきます。彼のラ・プラタ川遠征やモスクワ会社での役割など、彼自身の功績が正当に評価されるようになりました。また、彼が父の功績を自分のものとした背景には、大航海時代の探検家たちが直面した厳しい競争の中で、自らのキャリアを築くための自己防衛的な側面があったのではないか、という同情的な解釈も生まれます。
現代の研究では、カボト父子の功績をそれぞれ分離し、客観的に評価しようとする努力が続けられています。ブリストル大学の「カボット・プロジェクト」のような研究は、新たな史料の発見や既存史料の再解釈を通じて、彼らの航海の具体的なルートや、それを支えた経済的・社会的背景を明らかにしようとしています。例えば、1950年代にスペインで発見された「ジョン・デイの手紙」は、ジョン=カボットの1497年の航海に関する最も詳細な一次史料であり、彼の上陸地点や航海の動機について、多くの新たな知見をもたらしました。
現在も残る主な論争点としては、以下のようなものが挙げられます。
ジョン=カボットの最初の上陸地点: ニューファンドランド島か、ケープ・ブレトン島か、あるいは他の場所か。決定的な考古学的証拠がないため、文献解釈に頼らざるを得ず、論争が続いています。
ジョン=カボットの最期: 1498年の航海で消息を絶ったのか、それともイングランドに生還していたのか。アルウィン・ラドック博士が発見したとされる証拠の全貌が不明なため、謎のままです。
セバスチャン=カボットの1508-09年の北西航路探検の信憑性: 彼自身の証言以外に直接的な記録がなく、その航海の規模や到達点については疑問視する声も根強くあります。
これらの論争は、カボット父子の物語が、単なる過去の出来事ではなく、今なお新たな発見と解釈の可能性を秘めた、生きた歴史であることを示しています。
大航海時代の探検家としてのカボット父子
ジョン=カボットとセバスチャン=カボット父子の生涯は、大航海時代という、ヨーロッパ史における一大転換期を象徴する物語です。彼らの活動は、中世的な世界観が崩れ、近代的なグローバル世界が形成されていく過程と密接に結びついています。
父ジョン=カボットは、中世イタリアの海洋都市で培われた航海術と商業的野心を胸に、西回りアジア航路という壮大なビジョンを抱いた、ルネサンス的な「万能人」の一典型でした。彼の不屈の精神は、ヴェネツィアでの挫折、スペインでの失敗にも屈することなく、ついにイングランドという新たなパトロンを見出し、歴史的な航海を成し遂げさせました。彼の1497年の航海は、イングランドを新世界の舞台へと導き、その後の大英帝国の礎を築く第一歩となりました。彼の発見したタラ漁場は、大西洋を経済的な結びつきの海へと変え、ヨーロッパと北米の関係を永続的なものにしました。ジョン=カボットは、その実直な野心と一度の決定的な成功によって、歴史にその名を刻んだ探検家でした。
一方、息子セバスチャン=カボットの生涯は、より複雑で、光と影に満ちています。彼は父の遺産を受け継ぎながらも、常に自身のキャリアと名声を追い求め、イングランドとスペインという二大国家の間を渡り歩きました。彼の行動は、時に自己中心的で、信頼性に欠けるものでしたが、その背後には、国家への忠誠よりも個人の専門知識と野心が優先される、大航海時代特有の流動的な社会状況がありました。彼は、探検家、地図製作者、航海術の権威、そして会社の経営者として、その多才な能力を発揮し、ヨーロッパの地理的知識の拡大と商業的発展に大きく貢献しました。彼の波乱に満ちたキャリアは、成功と失敗、栄光と非難が常に隣り合わせであった、この時代の探検家たちの実像を浮き彫りにしています。
カボット父子の物語は、単なる地理上の発見史にとどまりません。それは、個人の野心、科学的探求心、経済的欲望、そして国家の戦略的思惑が複雑に絡み合いながら、歴史を動かしていくダイナミズムを示しています。彼らは、古い世界の境界を打ち破り、新たな世界への道を切り開きました。