カルティエとは
15世紀末から16世紀にかけて、ヨーロッパは「大航海時代」として知られる激動の時代を迎えていました。ポルトガルとスペインが新たな航路と領土を求めて競い合う中、フランスもまた、この新たな世界の探求と富の獲得という大きな流れから取り残されるわけにはいきませんでした。アジアへの新たな交易路の発見、そして伝説として語られる黄金郷への期待は、ヨーロッパの君主たちを未知の海へと駆り立てる強力な動機となっていました。このような時代背景の中、フランス王フランソワ1世の命を受け、北アメリカ大陸への航海に乗り出したのが、ブルターニュ地方の港町サン・マロ出身の航海者、ジャック・カルティエです。彼の名は、カナダという国名の由来となり、セントローレンス川の発見者として、北アメリカ大陸の歴史に深く刻まれています。しかし、彼の航海は単なる地理的発見にとどまらず、ヨーロッパ人と先住民との複雑な関係の始まりを告げるものでもありました。
カルティエの初期の生涯
カルティエは、1491年12月31日、フランス北西部に位置するブルターニュ公国の港町サン・マロで生を受けました。 当時のサン・マロは、イギリス海峡に面した活気あふれる港湾都市であり、漁業、特にニューファンドランド島沖のタラ漁で栄えていました。 多くの船乗りたちが大西洋の荒波に乗り出し、一攫千金を夢見る、そんな気風に満ちた町でカルティエは育ちました。彼の父親はジャメ・カルティエ、母親はゲスリーヌ・ジャンサールとされています。 カルティエ家の社会的地位は、当初はそれほど高いものではありませんでしたが、海運業に携わることで、徐々にその地位を向上させていったと考えられています。カルティエの幼少期や青年期に関する具体的な記録は乏しく、彼がどのようにして航海術を習得したのかは、ほとんど知られていません。 しかし、サン・マロという環境が、彼に航海者としての素養を自然と身につけさせたことは想像に難くありません。多くの歴史家は、カルティエが若い頃から船に乗り、航海術や操船技術を学んだと考えています。 1520年5月、カルティエはマリー・カトリーヌ・デ・グランシュと結婚します。 彼女は、サン・マロの有力な貴族の家系の出身であり、この結婚によってカルティエの社会的地位は大きく向上しました。 この頃から、彼は洗礼の代父や証人として、サン・マロの公式な記録に頻繁に登場するようになり、町の名士として認められていたことがうかがえます。
初期の航海
カルティエが北アメリカへの公式な探検航海に乗り出す以前の経歴については、確固たる証拠は少ないものの、いくつかの説が提唱されています。その中でも有力なのが、彼がブラジルへの航海を経験していたという説です。 彼の航海記録の中には、ブラジルで見られる動植物や風習との比較が複数見られることから、彼がブラジルに関する知識を持っていたことは明らかです。 また、ポルトガル語の通訳としても活動していたという記録もあり、南米への航海経験があった可能性を示唆しています。 さらに、カルティエは1524年と1528年に行われた、フィレンツェ出身の探検家ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノによる北アメリカ東海岸の探検航海に参加していた可能性も指摘されています。 ヴェラッツァーノは、フランソワ1世の命を受けて、アジアへの北西航路を探すために航海し、現在のニューヨーク港などを発見しました。もしカルティエがこの航海に参加していたとすれば、それは彼にとって、北アメリカの地理や先住民に関する貴重な知識を得る機会となったはずです。これらの経験が、後の彼自身の探検航海への布石となったことは間違いありません。 また、サン・マロの漁師たちが日常的に行っていたニューファンドランド島沖へのタラ漁にも、若い頃から参加していた可能性が高いと考えられています。 これらの航海を通じて、カルティエは熟練した航海者としての名声を確立し、やがてフランス王の目に留まることになります。
フランソワ1世の野望と探検の勅命
16世紀初頭のフランスは、イタリア戦争などでスペインや神聖ローマ帝国と覇権を争っていました。国王フランソワ1世は、芸術や文化の庇護者として知られる一方で、海外領土の獲得にも強い意欲を示していました。 スペインがアメリカ大陸から莫大な富を得ているのに対し、フランスは大きく後れを取っていました。フランソワ1世は、この状況を打開するため、アジアへ至る北西航路の発見と、新大陸における金や香辛料といった貴重な資源の獲得を目指していました。 1532年にブルターニュ公国がフランス王領に正式に併合されると、フランソワ1世は新大陸への関心をさらに強めます。 1534年、サン・マロの司教であり、モン・サン・ミッシェルの修道院長でもあったジャン・ル・ヴェヌールが、フランソワ1世にカルティエを推薦しました。 ル・ヴェヌールは、カルティエがニューファンドランドやブラジルへの航海経験が豊富で、「新世界における新たな土地の発見へと船を導く」能力があると証言しました。 これを受け、フランソワ1世はカルティエに、北アメリカ大陸の探検を命じる勅命を与えました。その目的は、「莫大な量の金やその他の貴重な品々があるとされる、特定の島々と土地を発見する」こと、そしてアジアへの航路を見つけ出すことでした。 こうして、ジャック・カルティエは、フランスの国運を背負い、未知なる北アメリカ大陸への第一歩を踏み出すことになったのです。
第一次航海(1534年)
1534年4月20日、ジャック・カルティエは2隻の船と61人の乗組員を率いて、故郷サン・マロを出航しました。 彼の任務は、アジアへの北西航路の発見と、金銀財宝の探索でした。 驚くべきことに、わずか20日という異例の速さで大西洋を横断し、5月10日にはニューファンドランド島のボナビスタ岬に到達しました。 しかし、沿岸にはまだ氷が残っていたため、近くの港で10日間ほど停泊を余儀なくされました。 天候が回復すると、カルティエはニューファンドランド島の西海岸を南下し、ベルアイル海峡を通過してセントローレンス湾へと入りました。 彼は湾の北岸をしばらく探検した後、南下してニューファンドランド島の西海岸を探り続けました。 この航海で、カルティエは後にプリンスエドワード島と名付けられる島を発見し、ニューブランズウィック州の沿岸を探検しました。 彼は、目にする土地や湾に次々と名前を付けていきました。 しかし、彼が最初に目にしたラブラドール半島の荒涼とした風景は、彼に良い印象を与えませんでした。彼は航海日誌に「神がカインに与えた土地だと信じたい」と記しています。
先住民との最初の接触
探検を続けるカルティエは、シャラー湾を探検した後、北上し、現在のガスペ半島に到達しました。 ここで彼は、ヨーロッパ人として初めて、この地域に住む先住民と重要な接触を果たします。 嵐を避けるためにガスペ湾に停泊した際、彼は漁のためにこの地を訪れていたスタダコナ(現在のケベック・シティ周辺)のイロコイ族の人々、約300人に出会いました。 当初、先住民たちは交易に積極的で、友好的な態度を示しました。 彼らは毛皮などを持ち寄り、フランス人たちが持つ鉄製品やナイフ、帽子などと交換しました。 しかし、この友好的な関係は長くは続きませんでした。1534年7月24日、カルティエはガスペ半島に高さ10メートルの巨大な十字架を建立し、この土地がフランス王のものであると宣言しました。 この行為は、先住民たちの間に大きな動揺と不信感を引き起こしました。スタダコナの首長であるドンナコナは、この十字架が何を意味するのかとカルティエに問い詰めました。 カルティエは、これは単なる航海の目印に過ぎないと説明しましたが、彼の真の意図は領有権の主張にありました。 この出来事は、ヨーロッパ人と先住民との間の、所有権をめぐる根本的な認識の違いを浮き彫りにする象徴的な瞬間でした。 さらにカルティエは、フランスに連れ帰り、王に謁見させるため、ドンナコナの二人の息子、ドマガヤとタイニョアニを捕らえました。 彼は、息子たちを無事に故郷へ送り返すと約束し、ドンナコナを説得しました。この二人の若者は、後のカルティエの探検において、通訳として、また水先案内人として重要な役割を果たすことになります。
帰国と報告
先住民の息子二人を船に乗せたカルティエは、アンティコスティ島を周航した後、セントローレンス湾を抜け、フランスへの帰路につきました。 彼は、この航海でセントローレンス川の河口を発見していましたが、その重要性にはまだ気づいていませんでした。 1534年9月5日、カルティエはサン・マロに帰港します。 フランスに戻ったカルティエは、フランソワ1世に航海の成果を報告しました。 彼は、アジアへの航路や黄金を発見することはできませんでしたが、広大な土地と、そこに住む人々についての詳細な情報をもたらしました。 特に、連れてきた二人の先住民の若者が語る「サグネ」と呼ばれる伝説の王国についての話は、王の興味を強く惹きつけました。サグネは、金や銀、銅などの豊富な鉱物資源に恵まれた豊かな国だとされていました。 フランソワ1世は、カルティエの報告に感銘を受け、次なる探検への資金提供を決定しました。 こうして、より大規模な第二次航海の準備が始められることになったのです。第一次航海は、地理的な発見こそ限定的であったものの、フランスに北アメリカ大陸への足がかりを築かせ、さらなる探検への大きな期待を抱かせる結果となりました。
第三部:第二次航海(1535年~1536年)
第一次航海の成果に満足したフランソワ1世の支援を受け、ジャック・カルティエは第二次航海の準備を進めました。 1535年5月19日、彼は3隻の船(ラ・グランド・エルミーヌ号、ラ・プティット・エルミーヌ号、レメリヨン号)と110人の乗組員、そしてフランスでフランス語を学んだドンナコナの二人の息子、ドマガヤとタイニョアニを伴ってサン・マロを出航しました。 今回の航海の主な目的は、第一次航海で発見した土地のさらなる探検と、伝説の王国「サグネ」の探索でした。 大西洋を横断し、ニューファンドランド島に到着した後、カルティエはドマガヤとタイニョアニの案内で、第一次航海では見過ごしていたセントローレンス川の河口へと船を進めました。 これが、ヨーロッパ人によるセントローレンス川の本格的な探検の始まりでした。 1535年9月7日、一行は川を遡上し、ドマガヤとタイニョアニの故郷であるスタダコナ(現在のケベック・シティ)に到着しました。 彼らは首長ドンナコナをはじめとするイロコイ族の人々から歓迎を受け、祝宴が催されました。 カルティエは、この地に越冬のための拠点を築くことを決定し、サン・シャルル川とレレ川の合流点にある天然の良港を選びました。 彼はそこに砦を築き、2隻の大型船を停泊させました。
ホチェラガへの旅とサグネ王国の幻
スタダコナに拠点を築いた後、カルティエはさらに川の上流を目指すことを決意しました。 彼は、より豊かな土地と、サグネ王国への道がその先にあると信じていたのです。ドンナコナや彼の息子たちは、カルティエが上流へ行くことに反対しました。彼らは、ヨーロッパ人との交易の利益を自分たちの村で独占したいと考えていたのです。 しかし、カルティエは彼らの制止を振り切り、1535年9月19日、最も小型の船であるレメリヨン号でホチェラガ(現在のモントリオール)へと出発しました。 10月2日、カルティエはホチェラガに到着しました。 そこは、柵で囲まれた大きな村で、1000人以上のイロコイ族が暮らしていました。 彼らはカルティエ一行を温かく迎え入れました。カルティエは村の後ろにそびえる山に登り、その山を「モン・ロワイヤル(王の山)」と名付けました。これが現在のモントリオールという地名の由来です。 山頂から、彼は広大な土地と、さらに西へと続くセントローレンス川の雄大な流れを目の当たりにしました。しかし、その先にはラシーヌ瀬と呼ばれる急流があり、彼の船ではそれ以上進むことができませんでした。 イロコイの人々は、その急流のさらに西に、金や銀が豊富にあるというサグネ王国の存在を語りましたが、カルティエが自らそれを確かめる術はありませんでした。 彼は、この川がアジアへ続く北西航路であるという希望を抱き、いつか再びこの地を探検することを誓い、スタダコナへと引き返しました。
過酷な冬と壊血病の猛威
1535年11月中旬、スタダコナの冬は、カルティエたちが想像していた以上に過酷なものでした。 川は厚い氷に閉ざされ、船は動けなくなりました。 雪は1メートル以上も積もり、フランスから来た彼らにとって、カナダの冬の寒さは耐え難いものでした。 十分な防寒着もなく、食料は塩漬けの肉や乾物に限られていました。 やがて、乗組員たちの間で恐ろしい病気が蔓延し始めました。それは壊血病でした。 当時はその原因がビタミンCの欠乏であるとは知られておらず、治療法もありませんでした。 乗組員たちは次々と倒れ、手足が腫れ上がり、歯茎が腐って歯が抜け落ちていきました。 110人の乗組員のうち、25人がこの病で命を落とし、生き残った者たちもほとんどが病に苦しんでいました。 フランス人たちは絶望の淵に立たされました。
先住民の知恵とドンナコナの拉致
壊滅的な状況の中、カルティエはイロコイの人々に助けを求めました。 彼は、自分たちの窮状を隠そうとしましたが、もはや隠しきれるものではありませんでした。 ドンナコナの息子ドマガヤは、フランス人たちを救うための治療法を教えました。 それは、「アンネダ」と呼ばれる針葉樹(おそらくアメリカネズコ)の樹皮と葉を煎じたお茶でした。 このお茶には豊富なビタミンCが含まれており、それを飲んだ乗組員たちは劇的に回復していきました。 先住民の知恵によって、カルティエ一行は全滅の危機を免れたのです。 しかし、この出来事の後、フランス人とイロコイ人の関係は再び緊張しました。 カルティエは、イロコイの人々による襲撃を恐れるようになりました。 そして、1536年5月、氷が解けてフランスへの帰還準備が整うと、彼は再び裏切りの行為に出ます。彼は、サグネ王国の豊かさをフランソワ1世に直接語らせるため、首長ドンナコナ、二人の息子、そして他の数人のイロコイ族の人々を捕らえ、船に強制的に乗せました。 1536年5月6日、カルティエは10人の先住民を人質として、フランスへ向けて出航しました。 しかし、フランスに連れてこられたドンナコナたちは、二度と故郷の土を踏むことはありませんでした。彼らはフランスで亡くなり、この悲劇は、その後のフランスとイロコイ族との関係に長い影を落とすことになります。
第四部:第三次航海(1541年~1542年)
第二次航海から帰国したカルティエが連れてきた首長ドンナコナは、フランソワ1世に謁見し、伝説のサグネ王国がいかに豊かであるかを熱心に語りました。 彼の話は王の心を捉え、フランスはついに北アメリカ大陸に恒久的な植民地を建設するという野心的な計画に乗り出すことになります。 しかし、ヨーロッパの情勢は不安定で、フランスは再びスペインとの戦争に突入したため、計画は数年間延期されました。 1540年10月17日、フランソワ1世はカルティエに植民地化計画を推進するための勅命を与え、彼を「総司令官」に任命しました。 しかし、そのわずか3ヶ月後の1541年1月15日、王の友人でありユグノー(プロテスタント)の宮廷人であったジャン=フランソワ・ド・ラ・ロック・ド・ロベルヴァルが、カルティエに代わって「フランス領カナダ初代総督」に任命されました。 カルティエは、彼の主席航海士という立場に降格されました。 この人事は、カルティエにとって屈辱的なものであったかもしれません。ロベルヴァルが軍備や物資の調達に時間を要している間に、王はカルティエに先行して出航する許可を与えました。 今回の航海の目的は、もはやアジアへの航路探索ではなく、サグネ王国の発見と富の獲得、そしてセントローレンス川沿いに恒久的な植民地を建設することでした。
シャルルブール・ロワイヤルの建設と先住民との対立
1541年5月23日、カルティエは5隻の船と入植者を乗せて、サン・マロを出航しました。 困難な大西洋横断を経て、8月23日にスタダコナに到着しました。 以前の拉致事件にもかかわらず、イロコイの人々は当初、カルティエたちを歓迎したように見えました。 しかし、カルティエは彼らの「喜びの表れ」と人数の多さに不安を感じ、スタダコナの近くに拠点を築くことを避けました。 彼は、以前から目をつけていた、より防御に適した場所、現在のキャップ・ルージュにあたる崖の上に、新たな入植地を建設することにしました。 彼はこの入植地を「シャルルブール・ロワイヤル」と名付け、砦を築き、農地の開墾を始めました。 しかし、フランス人による土地の占有と定住は、先住民との間に深刻な対立を引き起こしました。第二次航海の際に友好的だった関係は完全に崩壊し、イロコイの人々はフランス人入植地に対して敵対的な態度をとるようになります。 船乗りたちの後の噂によれば、その冬、イロコイ族による襲撃があり、多くのフランス人が命を落としたとされています。
「カナダのダイヤモンド」と偽りの富
入植地を建設する一方で、カルティエはサグネ王国を探すための探検も続けました。 彼は再びホチェラガの上流にあるラシーヌ瀬まで行きましたが、その先の道が長く困難であることを知ります。 そんな中、シャルルブール・ロワイヤルの周辺で、カルティエたちは吉報と思われる発見をします。彼らは、金やダイヤモンドのように輝く鉱石を大量に発見したのです。 これこそがサグネ王国の富の一部であると信じたカルティエは、一刻も早くこれをフランスに持ち帰り、換金したいと考えるようになりました。
ロベルヴァルとの確執と無断帰国
1542年の春、カルティエは、後から来るはずの総督ロベルヴァルの到着を待たずに、植民地を放棄してフランスへ帰国することを決断しました。 彼は、発見した「金」と「ダイヤモンド」を樽に詰め込み、船団を率いてフランスへ向かいました。その途中、ニューファンドランド島のセントジョンズ港で、ようやくカナダに到着したロベルヴァルの船団と遭遇します。 ロベルヴァルは、カルティエに対してシャルルブール・ロワイヤルに戻るよう厳命しました。 しかし、カルティエはこの命令に従いませんでした。 彼は夜陰に紛れて密かに出航し、フランスへの帰路を急いだのです。 この行為は、総督に対する明確な反逆であり、彼の探検家としてのキャリアに大きな汚点を残すことになりました。 フランスに帰国したカルティエを待っていたのは、さらなる失望でした。彼が持ち帰った「金」と「ダイヤモンド」は、鑑定の結果、それぞれ黄鉄鉱と石英という、価値のない石であることが判明したのです。 この出来事から、「偽りのカナダのダイヤモンドのように」というフランス語の諺が生まれたと言われています。 一方、カナダに残されたロベルヴァルとその入植者たちもまた、過酷な冬と壊血病、そして先住民との対立に苦しみました。 結局、彼らもまた植民地を維持することができず、翌年の夏にはフランスへ引き揚げることになります。 この第三次航海と植民計画の完全な失敗により、フランスはその後半世紀以上にわたって、北アメリカ大陸への関心を失うことになりました。
晩年と遺産
第三次航海の失敗と、総督ロベルヴァルの命令に背いて無断で帰国したという不名誉な結果は、ジャック・カルティエの公的な探検家としてのキャリアに終止符を打ちました。 彼は二度と王室からの勅命を受けることはありませんでした。 航海から引退した後のカルティエの人生については、あまり多くは知られていません。彼は故郷のサン・マロと、その近郊に所有していた荘園で余生を過ごしました。 彼は事業の経営に専念し、時にはポルトガル語の通訳として重宝されることもあったようです。 かつて新大陸の発見を夢見て大洋を渡った航海者は、故郷の地で静かにその後の年月を送ったのです。 1557年9月1日、ジャック・カルティエは65歳でその生涯を閉じました。 当時、サン・マロでは疫病が流行しており、彼の死因はチフスであった可能性が指摘されていますが、正確な原因は不明です。 彼の遺体は、サン・マロ大聖堂に埋葬されました。
カルティエが歴史に残した功績
カルティエの航海は、当初の目的であったアジアへの北西航路や黄金の発見という点では、失敗に終わりました。また、彼の先住民に対する欺瞞的な行為や、植民計画の放棄といった行動は、彼の評価に影を落としています。 しかし、彼の功績が色褪せることはありません。彼はヨーロッパ人として初めてセントローレンス湾とセントローレンス川を詳細に探検し、その地理を地図に記録しました。 この広大な水路は、その後のフランスによる北アメリカ大陸内陸部への進出の重要なルートとなりました。 彼は、現在のケベック・シティやモントリオールといった都市の場所をヨーロッパ人として初めて記録し、フランスが北アメリカにおける領有権を主張するための基礎を築きました。
「カナダ」の名付け親として
カルティエの最もよく知られた功績の一つは、彼が「カナダ」という名前を歴史に記録したことです。 第二次航海の際、彼はスタダコナ周辺の地域を指すイロコイ族の言葉「カナタ(村、集落という意味)」を耳にしました。 彼はこの言葉を、より広範な地域全体を指す地名と誤解し、自身の地図に「カナダの国(The Country of Canadas)」と記しました。 当初はセントローレンス川沿岸の小さな地域を指すに過ぎなかったこの名前は、やがてフランスの植民地全体を指すようになり、最終的には現在我々が知る広大な国家の名称へと発展していきました。 このようにして、カルティエは意図せずして「カナダの名付け親」となったのです。
後世への影響
カルティエの植民計画の失敗後、フランスはしばらく北アメリカから遠ざかりましたが、彼がもたらした地理的な知識や、毛皮交易の可能性に関する報告は、後の探検家たちに大きな影響を与えました。 17世紀初頭、サミュエル・ド・シャンプランがケベックを建設し、フランスによる本格的な植民地経営(ヌーヴェル・フランス)が始まるのは、カルティエの探検から半世紀以上後のことですが、その礎を築いたのは間違いなくカルティエでした。 彼の航海記録は、当時の北アメリカ大陸の自然、地理、そしてそこに住む先住民の文化や生活様式に関する貴重な一次資料となっています。 彼の記述には、ヨーロッパ中心主義的な偏見が見られるものの、当時のイロコイ族の社会を知る上で欠かせない情報が記されています。