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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

ジパングとは わかりやすい世界史用語2252

著者名: ピアソラ
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ジパングの起源とマルコ=ポーロの記述

ジパングという名称は、13世紀のヴェネツィア商人であり探検家であったマルコ=ポーロの旅行記『東方見聞録』によってヨーロッパに初めて紹介されました。この書物は、彼が父ニコロと叔父マッフェオと共に行ったアジアへの長大な旅の記録であり、当時のヨーロッパ人にとっては未知の世界であった極東の地理、文化、富に関する詳細な情報を提供しました。マルコ=ポーロ自身は日本を訪れたことはありませんでしたが、中国(当時の元朝)に滞在している間に、伝え聞いた情報に基づいてジパングについて記述しています。彼が用いた「ジパング」という名称は、中国語で日本を指す言葉に由来すると考えられています。具体的には、当時の中国語における「日本国」の発音が、マルコ=ポーロの耳には「ジパング」として認識されたと推測されています。この名称は、時代や地域による発音の差異を反映しており、例えば北京語の「ジーベングオ」や上海語の「ゼッペンクエ」などがその語源候補として挙げられます。

『東方見聞録』におけるジパングの記述は、その驚異的な富、特に金に関する描写によって、後世のヨーロッパ人の想像力を大いに掻き立てました。ポーロは、ジパングが「カタイ(中国北部)の東の海上、1500マイルの距離にある巨大な島」であると述べています。そして、その最も注目すべき特徴として、莫大な量の金が存在することを強調しました。彼によれば、ジパングの君主が住む宮殿は、屋根がすべて純金で葺かれており、その輝きは言葉では言い表せないほど壮麗であるとされています。さらに、宮殿の内部も同様に豪華であり、床は指2本分の厚さがある金の板で覆われ、窓や壁の装飾にも惜しみなく金が使われていると描写されました。このような記述は、当時のヨーロッパの君主たちの宮殿でさえ比較にならないほどの富を示唆しており、読者に強烈な印象を与えました。

ポーロはまた、ジパングの住民が偶像崇拝者であり、独自の文化と習慣を持っていることにも言及しています。彼らは外見が良く、礼儀正しいとされていますが、外国人をほとんど受け入れない閉鎖的な社会であるとも述べられています。また、死者を埋葬する際に、故人の口に真珠を入れるという独特の風習があることも記されています。この真珠もまた、ジパングの豊かさを象徴する要素の一つとして描かれました。ポーロの記述は、ジパングが単に金が豊富なだけでなく、ヨーロッパとは全く異なる独自の文明を持つ神秘的な国であるというイメージを構築しました。

さらに、ポーロはジパングが中国の皇帝クビライ・カアンによる二度の侵攻を撃退したことにも触れています。この記述は、歴史的に知られる元寇(1274年と1281年のモンゴル帝国による日本侵攻)の出来事を反映していると考えられます。ポーロによれば、クビライ・カアンはジパングの富の噂を聞き、その征服を企てました。彼は大規模な艦隊を派遣しましたが、一度目の遠征はジパングの勇敢な抵抗によって失敗に終わりました。二度目の遠征では、さらに大規模な艦隊が送られましたが、航海の途中で激しい嵐に見舞われ、艦隊の大部分が破壊されてしまいました。この嵐は、ジパングの神々が国を守るために起こしたものだと信じられているとポーロは付け加えています。この「神の風」に関する記述は、後のヨーロッパにおいて、ジパングが神聖な力によって守られた国であるという神秘的なイメージをさらに強めることになりました。

マルコ=ポーロの『東方見聞録』は、写本を通じてヨーロッパ各地に広まり、多くの言語に翻訳されました。その中で描かれたジパングの黄金伝説は、単なる旅行記の一節を超えて、ヨーロッパ人の心に深く刻み込まれることになります。この伝説は、その後の大航海時代を引き起こす重要な動機の一つとなりました。クリストファー・コロンブスをはじめとする多くの探検家たちが、西へ向かって航海すればアジア、そして黄金の島ジパングに到達できると信じていました。彼らの航海の目的は、香辛料貿易の新ルート開拓だけでなく、ポーロが描いた夢のような富を手に入れることにありました。このように、マルコ=ポーロが伝えたジパングの物語は、事実と誇張が混ざり合ったものでありながら、世界の歴史を大きく動かすほどの力を持っていたのです。彼の記述は、ヨーロッパと極東アジアの間の最初の重要な文化的接点の一つとなり、西洋における日本のイメージの原型を形成しました。



大航海時代とジパングの探求

マルコ=ポーロが『東方見聞録』で描いた黄金の島ジパングの伝説は、15世紀から17世紀にかけてのヨーロッパにおける大航海時代の到来に、計り知れないほど大きな影響を与えました。この時代、ヨーロッパの国々は新しい貿易ルート、未知の土地、そして何よりも富を求めて、こぞって大洋へと乗り出しました。その中でも、ジパングの物語は探検家たちの想像力を強く刺激し、彼らを危険な航海へと駆り立てる強力な動機付けとなりました。ジパングは、単なる地理的な目標ではなく、究極の富と栄光が約束された、ほとんど神話的な目的地として認識されていました。

この探求において最も象徴的な人物が、ジェノヴァ出身の探検家クリストファー・コロンブスです。彼は、地球球体説に基づき、大西洋を西に進むことでアジア東岸、すなわちマルコ=ポーロが記述したカタイ(中国)やジパングに到達できると固く信じていました。コロンブスは、ポーロの『東方見聞録』を熱心に読み込み、その余白にはジパングの富や位置に関する自身の考察を数多く書き込んでいました。彼は、15世紀の地理学者パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネリが作成した地図も参考にしていました。この地図は、ヨーロッパから西へ航海した場合のアジアまでの距離を実際よりも大幅に短く見積もっており、ジパングを大西洋の比較的近くに位置づけていました。コロンブスは、この地図とポーロの記述を組み合わせて、自身の航海計画の理論的支柱としました。

1492年、スペイン女王イサベル1世の支援を受けたコロンブスは、ついに西回り航路でのアジア到達を目指してパロス港を出航しました。彼の第一の目標は、インドへの新しい航路を開拓することでしたが、その先にある黄金の島ジパングへの到達も彼の視野にはっきりと入っていました。航海の末に彼がたどり着いたのは、実際にはアメリカ大陸のバハマ諸島でしたが、コロンブス自身は生涯を通じてそこをアジアの一部(「インディアス」)であると信じ続けていました。彼がイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)で発見した金は、彼にここがジパング、あるいはその近隣の島であるという確信を抱かせました。彼はスペイン国王への報告書の中で、発見した土地の豊かさを強調し、さらなる探検を行えば、ポーロが述べたような黄金の宮殿が見つかるだろうと示唆しています。コロンブスの「発見」は、結果的にヨーロッパ人によるアメリカ大陸の植民地化へと繋がりましたが、その出発点にはジパングという黄金郷への憧れが存在していたのです。

コロンブスの航海以降も、ジパングの探求は続きました。ポルトガルやスペインの探検家たちは、アメリカ大陸がアジアとは別の大陸であることを認識し始めると、次なる目標として、アメリカ大陸を越えた先にある太平洋を渡り、真のアジア、そしてジパングを目指しました。フェルディナンド・マゼランの艦隊による世界一周航海(1519-1522年)は、太平洋の広大さをヨーロッパ人に初めて実感させましたが、同時にアジアへの西回り航路の可能性を証明しました。

1543年、ついにポルトガル人を乗せた中国船が日本の種子島に漂着し、ヨーロッパ人と日本人の最初の直接的な接触が実現しました。この出来事により、伝説上の存在であったジパングは、ついに現実の「日本」としてヨーロッパの地図上に明確に位置づけられることになります。しかし、実際に日本を訪れたポルトガル商人やイエズス会の宣教師たちが本国に送った報告は、マルコ=ポーロが描いたような黄金郷のイメージとは大きく異なるものでした。彼らが目にした日本は、確かに洗練された文化を持つ国でしたが、宮殿の屋根が金でできているわけではなく、金がどこにでも転がっているような場所ではありませんでした。フランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちは、日本の社会構造、宗教(仏教や神道)、そして人々の気質について詳細な記録を残しましたが、その中で強調されたのは、物質的な富よりもむしろ、日本人の名誉を重んじる精神や武士階級の存在でした。

しかし、マルコ=ポーロの伝説が完全に消え去ったわけではありませんでした。日本には実際に佐渡金山や石見銀山といった貴金属鉱山が存在し、16世紀後半から17世紀初頭にかけては、日本は世界有数の金・銀の産出国でした。ポルトガルや後のオランダ商人は、この日本の貴金属を求めて貿易を行い、大きな利益を上げました。この事実は、形は違えど、ポーロの伝えた「豊かな国」という情報がある程度の真実に基づいていたことを示唆しています。ヨーロッパの地図製作者たちは、日本に関する新しい情報を反映させながらも、しばらくの間は「Zipangu」や「Cipangu」といった名称を地図上に残し続けました。これは、長年にわたってヨーロッパ人の心に根付いていた伝説の力が、いかに強力であったかを物語っています。

大航海時代を通じて、ジパングは神話的な黄金郷から、現実の貿易相手国へとその姿を変えていきました。しかし、コロンブスからマゼランに至るまで、数多くの探検家たちを未知の海へと駆り立てた原動力として、マルコ=ポーロのジパング伝説が果たした役割は極めて大きいと言えます。それは、地理的な発見と世界史の展開における、物語や伝説の持つ力を示す最も顕著な例の一つなのです。

地図製作史におけるジパングの変遷

マルコ=ポーロによってヨーロッパにもたらされたジパングの概念は、その後の地図製作の歴史に深く、そして長期にわたって影響を及ぼしました。ポーロの記述は、地理的な正確さよりもむしろ、その富と神秘性によって人々の想像力を捉えましたが、地図製作者たちはこの断片的な情報を基に、未知の東アジアを地図上に表現しようと試みました。その結果、ジパングは時代と共にその位置、形状、名称を変化させながら、ヨーロッパの地図上に描かれ続けることになります。

中世ヨーロッパの世界地図(マッパ・ムンディ)は、神学的な世界観を反映した象徴的なものが主流であり、アジアの東端はしばしばエデンの園が位置する場所として描かれていました。しかし、14世紀に『東方見聞録』が普及し始めると、より現実的な地理情報に基づいた地図製作への関心が高まります。この過渡期において、ジパングは初めて地図上にその姿を現し始めました。初期の地図では、ジパングは中国(カタイ)の東方に位置する、漠然とした島として描かれることが一般的でした。その形状や大きさは製作者の想像に委ねられており、しばしば不正確で、他の神話的な島々と混同されることもありました。

ジパングの地図上の表現に大きな影響を与えたのが、15世紀のフィレンツェの地理学者パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリです。彼は、マルコ=ポーロの記述と、古代ギリシャの地理学者プトレマイオスの著作を組み合わせて、新しい世界地図を構想しました。トスカネッリは、クリストファー・コロンブスに送ったとされる手紙と地図(現存しないが、コロンブスの著作からその内容が推測されている)の中で、大西洋を西に航海することでアジアに到達できるという理論を展開しました。彼の地図では、アジア大陸が実際よりも東に大きく広がり、大西洋は狭く描かれていました。そして、そのアジア大陸の東岸からさほど遠くない位置に、長方形の巨大な島として「Cipangu」(ジパング)が配置されていました。この地図は、コロンブスに西回り航路の実現可能性を確信させ、彼の大航海を後押しする決定的な要因となりました。コロンブスが「発見」したカリブ海の島々をジパングやその周辺地域だと信じたのも、このトスカネッリの地図が彼の頭の中にあったからです。

1492年のコロンブスの航海以降、アメリカ大陸の存在が次第に明らかになると、地図製作者たちは新たな課題に直面します。それは、新しく発見された大陸と、マルコ=ポーロが伝えたアジア、そしてジパングとの位置関係をどのように整理するかという問題でした。1507年にドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが作成した世界地図は、この問題に対する一つの画期的な回答を示しました。この地図は、初めて「アメリカ」という名称を新大陸に使用したことで有名ですが、同時に太平洋を挟んでアメリカ大陸とアジア大陸を明確に分離して描いています。そして、そのアジアの東岸には、依然として巨大な島「Zipangri」が描かれています。これは、ジパングがカリブ海の島ではなく、やはりアジアの東方に存在するはずだという認識が広まりつつあったことを示しています。

16世紀を通じて、ポルトガルやスペインの探検家たちが実際にアジアへ到達し、日本に関するより正確な情報がヨーロッパにもたらされるようになると、地図上のジパングの姿も徐々に現実の日本列島に近づいていきます。1570年にアブラハム・オルテリウスが出版した世界初の近代的な地図帳『世界の舞台』に収録されたアジア図では、「Iapan」という名称と共に、比較的現実に近い形状の島が描かれています。しかし、興味深いことに、オルテリウスはこの地図の中で、日本の北東の太平洋上に、マルコ=ポーロの記述を引用して「Zipangri」という名称を併記しています。これは、現実の日本(Iapan)と、伝説の黄金郷ジパング(Zipangri)が、地図製作者の心の中ではまだ完全には一致していなかったことを示唆しています。伝説の持つ力は、正確な地理情報が利用可能になった後でさえ、しばらくの間影響力を保ち続けたのです。

16世紀後半から17世紀にかけて、イエズス会の宣教師たちが日本で精力的に活動し、詳細な測量に基づいて日本の地図を作成しました。これらの地図はヨーロッパに送られ、地図製作の精度を飛躍的に向上させました。ヘラルドゥス・メルカトルやヨドクス・ホンディウスといったオランダの地図製作者たちは、これらの新しい情報を取り入れ、より正確な日本地図を次々と出版しました。この段階になると、「Zipangu」や「Cipangu」といった名称は次第に使われなくなり、「Iaponia」や「Nippon」といった、より現実に即した名称が一般的になります。地図上の日本の形状も、本州、九州、四国といった主要な島々がはっきりと区別できる、見慣れたものへと変化していきました。

しかし、ジパングの伝説が地図から完全に消え去ったわけではありませんでした。一部の地図では、日本の周辺海域に「金島(Argentrea)」や「銀島(Plata)」といった架空の島が描かれ続けることがありました。これらは、マルコ=ポーロの黄金伝説の残滓であり、日本のどこかにまだ発見されていない富が存在するという期待が、人々の心に根強く残っていたことの現れです。

このように、地図製作史におけるジパングの変遷は、ヨーロッパ人の世界認識の拡大と深化の過程を映し出す鏡のような存在です。最初は中国の東に浮かぶ漠然とした伝説の島として始まり、やがてコロンブスを大西洋横断へと駆り立てる具体的な目標となり、新大陸発見後は太平洋の彼方にある真の目的地として再定義されました。そして、実際の日本との接触が始まると、徐々にその神話的なベールを剥がされ、現実の地理的実体へと姿を変えていきました。ジパングが地図上を「旅した」軌跡は、中世から近代へと移行する時代の、探検、発見、そして知識の変容を物語る壮大なドラマなのです。

文化的象徴としてのジパング

マルコ=ポーロの『東方見聞録』によって西洋世界に紹介されたジパングは、単なる地理的な名称や探検の目標にとどまらず、西洋文化の中で豊かさ、神秘性、そして手の届かない理想郷を象徴する強力な文化的アイコンとなりました。その影響は、文学、芸術、そして後世の様々な創作物の中に深く刻み込まれています。ジパングという言葉は、現実の日本を指す固有名詞としての意味を超え、黄金郷やユートピアといった普遍的な概念と結びつき、西洋人の想像力を刺激し続ける存在となったのです。

文学の世界において、ジパングのイメージは多くの作家にインスピレーションを与えました。ルネサンス期から近代にかけて、東洋はしばしばヨーロッパとは対照的な、エキゾチックで不思議な場所として描かれましたが、その中でもジパングは特に富と神秘性の象徴として際立っていました。アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726年)では、主人公レミュエル・ガリヴァーが、架空の国々を巡る旅の最後に日本を訪れる場面があります。ここで描かれる日本は、鎖国政策下の閉鎖的な国として現実的な側面も踏まえられていますが、ガリヴァーが日本からオランダ船で帰国するルートを選ぶという設定は、日本がヨーロッパ人にとって既知の世界の東の果てであるという、マルコ=ポーロ以来の地理観を反映しています。スウィフトは、ジパングの黄金伝説を直接的に引用してはいませんが、遠い東の果てにある神秘的な島国という、ジパングが長年培ってきた文化的イメージを物語の舞台装置として効果的に利用しています。

また、19世紀のロマン主義の詩人たちも、東洋の神秘的なイメージに魅了されました。イギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの未完の詩『クーブラ・カーン』(1797年執筆、1816年出版)は、マルコ=ポーロが仕えた元の皇帝クビライ・カアンの夢幻的な宮殿を描いたものですが、その根底にはポーロが伝えた東洋の壮麗なイメージ、すなわちジパングの黄金の宮殿にも通じる幻想的な世界観が流れています。コールリッジは、現実の地理を超えた、想像力の中にのみ存在する理想郷として東洋を描き出しており、ジパングの伝説が育んだエキゾチシズムの系譜に連なる作品と見なすことができます。

20世紀に入っても、ジパングの持つ象徴的な意味合いは失われませんでした。アメリカの詩人エズラ・パウンドは、その長大な詩集『キャントス』の中で、しばしば東洋の思想や歴史に言及しますが、その中で「Cipango」という言葉を用いて、西洋文明の物質主義とは異なる、精神的な価値や美の理想郷を示唆するような文脈で使っています。パウンドにとって、ジパングは単なる歴史上の一地名ではなく、彼が追求した詩的・文化的な理想を投影する象徴的な空間でした。

ジパングのイメージは、オペラの世界にも影響を与えました。ジャコモ・プッチーニの有名なオペラ『蝶々夫人』(1904年)は、明治時代の長崎を舞台に、アメリカ海軍士官ピンカートンと日本の芸者である蝶々さんの悲恋を描いた作品です。この作品は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてヨーロッパで流行したジャポニスム(日本趣味)の文脈の中で生まれました。ジャポニスムは、浮世絵などの日本美術がヨーロッパの芸術家に大きな影響を与えた現象ですが、その背景には、日本が依然としてエキゾチックで神秘的な国であるという、ジパング伝説から続く西洋人の潜在的なイメージがありました。『蝶々夫人』で描かれる日本は、桜が咲き乱れ、人々が伝統的な衣装を身にまとう、美しくもどこか非現実的な世界として表象されています。これは、マルコ=ポーロの黄金伝説とは異なる形ではありますが、西洋人が東洋の島国に抱く理想化されたイメージの変奏と捉えることができます。

さらに、ジパングという言葉自体が、豊かさや高品質を連想させるブランド名や商品名として、現代の商業文化の中でも利用されることがあります。これは、マルコ=ポーロの物語が持つ根強い魅力を示しています。黄金の宮殿という具体的なイメージはもはや信じられていなくても、「ジパング」という響きには、依然として品質、希少性、そしてどこか神秘的な価値を暗示する力が残っているのです。

このように、ジパングは歴史の過程で、地理的な探求の対象から、文化的な創造の源泉へとその役割を変化させてきました。それは、西洋が「他者」である東洋をどのように認識し、解釈し、そして自らの文化の中に取り込んできたかという、複雑な文化的相互作用の歴史を象徴しています。マルコ=ポーロが聞いた一つの言葉から始まった物語は、コロンブスの航海を動かし、地図の空白を埋め、そして最終的には文学や芸術の世界で不滅の生命を得ることになりました。ジパングは、現実の日本とは異なる、もう一つの「日本」として、西洋の文化的な想像力の中に永遠に存在し続けているのです。その物語は、事実とフィクション、現実と願望が交錯する中で、いかにして強力な文化的シンボルが生まれ、時代を超えて受け継がれていくかを示す、魅力的な事例と言えるでしょう。

歴史的文脈と現代的解釈

マルコ=ポーロが『東方見聞録』で伝えたジパングの記述は、歴史的な事実と、伝聞に基づく誇張や誤解が複雑に絡み合った産物です。この記述を歴史的文脈の中に置いて分析し、現代的な視点から解釈することは、当時の世界観や情報伝達のあり方、そして異文化間の認識がどのように形成されるかを理解する上で非常に重要です。

まず、ポーロがジパングの情報を得た場所は、彼が長年滞在した13世紀後半の中国、すなわちモンゴル帝国(元朝)の宮廷でした。当時の中国は、陸路および海路を通じてアジア各地と広範な交易ネットワークを築いており、日本に関する情報も、商人や船乗り、あるいは元の役人などを通じて断片的に伝わっていました。ポーロ自身は日本語を解さず、日本を訪れたこともなかったため、彼が得た情報はすべて、中国語やペルシャ語などを介した間接的なものでした。この多段階の伝達プロセスにおいて、情報が変形したり、誇張されたりすることは避けられませんでした。

「黄金の宮殿」という最も有名な記述について、現代の歴史家たちはその背景にいくつかの可能性を指摘しています。一つの有力な説は、これが岩手県の平泉にあった奥州藤原氏の金色堂に関する情報が、歪曲されて伝わったのではないかというものです。金色堂は、12世紀に建立された阿弥陀堂で、その内外が金箔で覆われています。奥州藤原氏は、北日本の砂金産地を支配することで莫大な富を築き、平泉に壮麗な仏教文化を花開かせました。ポーロが中国に滞在した13世紀後半には、奥州藤原氏はすでに滅亡していましたが、その富の伝説は語り継がれており、それが中国の商人などを通じて「日本の君主の宮殿は金でできている」という話に発展した可能性が考えられます。建物全体が純金でできているというポーロの記述は明らかに誇張ですが、その核には金色堂という具体的な存在があったのかもしれません。

また、当時の日本が実際に世界有数の金産出国であったという事実も、ポーロの記述の信憑性を部分的に裏付けています。日本の陸奥国(現在の東北地方)や佐渡島では古くから砂金が採掘されており、これらの金は日中貿易における重要な輸出品の一つでした。中国人の目には、日本が「金の豊富な国」と映っていることは十分に考えられます。この事実が、マルコ=ポーロに伝えられる過程で、「宮殿が金でできている」という象徴的で記憶に残りやすい物語へと昇華されたと解釈することができます。

ポーロが記述したもう一つの重要なエピソードである、クビライ・カアンによるジパング侵攻の失敗は、歴史上の元寇(1274年と1281年)の出来事と明確に対応しています。ポーロの記述によれば、元の艦隊は激しい嵐によって壊滅的な打撃を受けました。これは、日本で「神風」として知られる現象と一致しており、ポーロが元の宮廷で、この敗北に関する公式または非公式の説明を聞いていたことを示唆しています。彼の記述は、ヨーロッパ人に対して、ジパングが単に豊かなだけでなく、強大なモンゴル帝国の侵略さえも撃退するほどの力を持つ、手ごわい国であるという印象を与えました。この軍事的な強さのイメージもまた、ジパングの神秘性を高める一因となりました。

ポーロの記述における偶像崇拝や独特の埋葬習慣(死者の口に真珠を入れる)といった文化的な描写も、断片的な情報に基づいていると考えられます。当時の日本は仏教が広く信仰されており、ヨーロッパのキリスト教徒の視点から見れば「偶像崇拝」と映ったでしょう。真珠に関する風習は、特定の地域や時代に行われていた可能性も否定できませんが、広く一般的に行われていたという証拠は見つかっていません。これは、日本の豊かさを強調するための象徴的なディテールとして付け加えられたか、あるいは他の地域の風習と混同された可能性も指摘されています。

現代的な視点からジパングの物語を解釈すると、それは異文化理解の初期段階における典型的なパターンを示しています。未知の文化に初めて接触する際、人々はしばしば、その文化の最も際立った、あるいは最も驚異的な特徴を抽出し、それを単純化・誇張して理解しようとします。ジパングの場合、「金」という要素がその役割を果たしました。金は、文化や言語の違いを超えて価値が理解されやすい普遍的な富の象徴であり、ポーロのヨーロッパ人の聴衆にとって、ジパングという未知の国を理解するための最も手っ取り早いキーワードとなったのです。

さらに、ジパングの伝説は、オリエンタリズムの初期の現れとして分析することもできます。オリエンタリズムとは、西洋が東洋(オリエント)を、自らとは対照的な、エキゾチックで、官能的で、非理性的で、しかし同時に豊かで神秘的な場所として表象する思考様式を指します。ポーロが描いたジパングは、まさにこのオリエンタリスト的な視線の対象そのものでした。それは、現実の複雑な社会や文化を持つ日本ではなく、西洋人の願望や好奇心を投影するためのスクリーンとしての「ジパング」でした。黄金の宮殿、偶像崇拝、奇妙な風習といった要素はすべて、ジパングをヨーロッパとは異なる「他者」として際立たせるための記号として機能しました。

マルコ=ポーロのジパングに関する記述は、歴史的史料として扱う際には慎重な批判的読解が求められます。それは、13世紀の日本に関する客観的な報告書ではなく、当時の情報伝達の限界と、異文化に対する人々の認識のあり方を反映した、半ば伝説的な物語です。しかし、その歴史的な不正確さにもかかわらず、ジパングの物語がその後の世界の歴史、特に大航海時代の展開に与えた影響は計り知れません。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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