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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

バルトロメウ=ディアスとは わかりやすい世界史用語2256

著者名: ピアソラ
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バルトロメウ=ディアスとは

バルトロメウ=ディアスは、15世紀ポルトガルの探検家であり、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸の南端を航海し、大西洋とインド洋が繋がっていることを証明した人物です。 彼のこの偉業は、その後のヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓の礎を築き、ヨーロッパとアジアの直接的な海上交易を可能にしました。 これは世界史を大きく変える転換点となり、大航海時代の進展に決定的な影響を与えました。



生涯の初期と大航海時代の背景

バルトロメウ=ディアスの前半生については、歴史的な記録が乏しく、不明な点が多く残されています。 彼は1450年頃、ポルトガルの貴族の家系に生まれたとされています。 その家系は航海と深い関わりがあったとされ、一説には彼の先祖の一人であるディニス・ディアスが1440年代にアフリカ沿岸を探検し、現在のセネガルにあるカーボヴェルデ半島を発見したとも言われています。 貴族階級の出身であったことから、ディアスは良質な教育を受け、物理学、幾何学、数学、天文学などを学び、航海士としてのキャリアに必要な知識を身につけていたと考えられています。
彼の航海経験がどのように培われたかについての詳細な記録はありませんが、1481年には、アザンブージャが率いる遠征隊に同行し、アフリカの黄金海岸(現在のガーナ)へ向かったことが知られています。 この遠征の目的は、ギニア湾に要塞兼交易所であるサン・ジョルジェ・ダ・ミナを建設することでした。 また、間接的な証拠からは、ディオゴ・カンが率いた1482年から1484年にかけてのアフリカ沿岸を探検しコンゴ川に至る最初の遠征にも参加していた可能性が示唆されています。 1486年までには、彼はポルトガル王室の倉庫の監督官を務め、王宮に出入りする立場にありました。
ディアスが生きた15世紀のポルトガルは、大航海時代の先駆けとなる海洋探検に国家として情熱を注いでいました。 この動きを強力に推進したのが、エンリケ航海王子です。 彼は自らが航海に出ることは少なかったものの、1419年頃からその死に至る1460年まで、アフリカ西岸への探検隊を次々と派遣しました。 当時のヨーロッパにとって、アジアとの交易は莫大な富をもたらすものでしたが、そのルートは陸路であり、アラブ商人などが仲介することで高額な税金が課せられていました。 そのため、アフリカを周回してアジアへ至る新たな海上ルートを開拓することは、ポルトガルにとって経済的にも戦略的にも極めて重要な国家目標でした。
エンリケ航海王子の死後も探検事業は引き継がれ、1481年に即位したジョアン2世は、アフリカ南端を回る航路の発見に強い意欲を見せました。 彼の命を受け、ディオゴ・カンなどの探検家がアフリカ沿岸を南下しましたが、インド洋に到達することはできませんでした。 カンはコンゴ川に到達し、現在のアンゴラやナミビアの沿岸にまで進み、ポルトガルの主権を示す石柱(パドラン)を設置しましたが、その後の消息は不明です。 このような背景の中、1486年10月、ジョアン2世はバルトロメウ=ディアスを新たな遠征隊の司令官に任命し、インドへの航路発見という長年の悲願を託したのです。

喜望峰への歴史的航海

ジョアン2世からの勅命を受けたディアスは、約10ヶ月をかけて慎重に遠征の準備を進めました。 この航海の主な目的は、アフリカ大陸の南端を突き止め、インドへ至る海上ルートの可能性を調査することでした。 それに加えて、伝説上のキリスト教君主であるプレスター・ジョンの国を探すという任務も帯びていました。 プレスター・ジョンは、ヨーロッパの遥か東方、あるいはアフリカ内陸に強大な王国を築いていると信じられており、イスラム勢力に対抗するための同盟相手として期待されていました。
ディアスの艦隊は3隻の船で構成されていました。 旗艦はサン・クリストヴァン号でディアス自身が指揮を執り、もう1隻のキャラベル船サン・パンタレオン号はジョアン・インファンテが指揮官を務めました。 3隻目は補給船で、ディアスの兄弟であるペロ・ディアス(またはディオゴ・ディアス)が船長でした。 乗組員には、かつてディオゴ・カンの航海にも参加したペロ・デ・アレンケールやジョアン・デ・サンティアゴといった、当代一流の水先案内人が含まれていました。 また、先行探検でポルトガルに連れてこられた6人のアフリカ人も同行しました。 彼らはポルトガル語を教え込まれており、アフリカ沿岸の各地に上陸させ、ポルトガル王国の偉大さを伝えさせるとともに、プレスター・ジョンに関する情報を収集する役割を担っていました。

アフリカ西岸の南下と嵐との遭遇

1487年8月、ディアスの艦隊はリスボンの港を出航しました。 彼らはまず、先行したディオゴ・カンが到達した地点までの航路をたどりました。 カンが設置した石柱を通過し、アフリカ西岸をさらに南下していきます。12月8日にはナミビアのウォルビスベイに到達し、同月26日にはエリザベス湾に着きました。
しかし、1488年1月に入ると、艦隊は激しい嵐に遭遇します。 猛烈な嵐は13日間も続き、船をアフリカ沿岸から遠く南の沖合へと押し流しました。 ディアスと乗組員たちは陸地を見失い、自分たちがどこにいるのかも分からないまま、荒れ狂う海を漂うことになります。 この時、彼らは知らず知らずのうちにアフリカ大陸の南端を通過していました。 嵐がようやく収まった後、ディアスは北に進路を取れば再び沿岸にたどり着けると考え、船を北に向けました。

アフリカ南端の周航と東岸への到達

沖合で30日間も航行した後、1488年2月3日、ディアスの艦隊はついに陸地を発見します。 彼らがたどり着いたのは、現在の南アフリカ共和国にあるモッセル湾でした。 上陸したディアスは、その日が聖ブラシウスの祝日であったことから、その地を「サン・ブラス湾」と名付けました。 湾の水温が、それまで航海してきた大西洋よりも明らかに暖かいことに気づいた彼らは、インド洋に入ったことを確信します。 ここで彼らは初めて、現地の先住民であるコイコイ人と遭遇しました。 最初、先住民たちはディアスたちを見て逃げ出しましたが、やがて戻ってきて石を投げて攻撃を始めました。 ディアスまたは彼の部下が放った矢が部族民の一人を倒すまで、この敵対的な接触は続きました。
ディアスはさらに東へ航海を続け、海岸線が北東に向かって伸びていることを確認しました。 これにより、アフリカ大陸の南端を回り、インドへの道が開かれたことは疑いようのない事実となりました。 1488年3月12日、ディアスの遠征隊は航海の最遠到達点であるアルゴア湾に到着し、現在のクワイフック付近、ブッシュマンズ川の河口近くに最後の石柱「パドラン・デ・サン・グレゴリオ」を建立しました。 これにより、彼らはポルトガルによる領有権を主張したのです。

反乱と帰還の決断

ディアス自身は、このままインドまで航海を続けることを強く望んでいました。 しかし、この時までに乗組員たちの疲労は限界に達していました。 長い航海で食料は底をつき始め、船体も嵐で損傷していました。 これ以上進むことに不安を感じた乗組員たちは、ポルトガルへの帰還を強く要求しました。 士官たちも全員が帰還に賛成したため、ディアスは不本意ながらも引き返すことを決断せざるを得ませんでした。

喜望峰の「発見」と命名

帰路において、1488年5月、ディアスたちは初めてアフリカ大陸の南西端に位置する岬を間近に目にすることになります。 航海の途中で遭遇した激しい嵐の記憶から、ディアスはこの岬を「嵐の岬」と名付けたと伝えられています。
16ヶ月と17日に及ぶ航海の後、1488年12月、ディアスはリスボンに帰還しました。 彼らはヨーロッパ人未踏の約2,030キロメートルに及ぶアフリカ沿岸を探検し、地図を作成しました。 帰国後、ディアスはジョアン2世に航海の成果を報告しました。 彼の報告を聞いたジョアン2世は、「嵐の岬」という名称が今後の航海や貿易を思いとどまらせることを懸念しました。 そして、この岬の発見がインドへの海上ルート開拓という大きな希望をもたらすものであることから、その名を「喜望峰(Cabo da Boa Esperança)」と改めるよう命じたのです。 この名称には、ポルトガルの悲願達成への楽観的な期待が込められていました。

航海の意義と後世への影響

バルトロメウ=ディアスの航海は、地理上の知識を飛躍的に増大させ、世界の地図を塗り替えました。 彼の探検によって、アフリカ大陸が南端で終わり、大西洋とインド洋が繋がっていることが証明されたのです。 これは、ヨーロッパからアジアへ至る海上ルートの存在を確実なものとし、その後の探検家や商人たちに新たな道を開きました。
ディアスの航海がもたらした最も重要な成果の一つは、アフリカ南岸を航行する際の最適な航路を発見したことです。 彼は、アフリカ沿岸から大きく西に離れた沖合を進むことで、貿易風を効率的に利用できることを実証しました。 この「ヴォルタ・ド・マール(沖乗り航法)」と呼ばれる航海術は、その後のポルトガル人航海士たちに受け継がれ、インド航路の確立に不可欠なものとなりました。
しかし、これほどの偉業を成し遂げたにもかかわらず、ディアスが宮廷で受けた歓迎は控えめなものでした。 彼の功績が公式に布告されることはなく、十分な報酬が与えられたという記録も見つかっていません。 ディアスの帰還後、ポルトガルはインド洋への探検を約10年間中断します。 これは、ジョアン2世が息子の死、モロッコでの戦争、そして自身の健康問題といった多くの課題に直面していたためと考えられています。 また、陸路でインドに派遣されていた密使ペロ・ダ・コヴィリャンからの情報を待っていた可能性も指摘されています。
この中断期間中、ディアスは西アフリカのギニアに滞在し、ポルトガルの金取引拠点の設立に関わったとされています。 やがて、ジョアン2世の後を継いだマヌエル1世の治世になると、インドへの本格的な遠征計画が再開されます。 1497年、ヴァスコ・ダ・ガマを司令官とするインド遠征艦隊が組織されると、ディアスはその豊富な経験を買われ、艦隊の建造を監督する役割を担いました。 彼が設計に関わったサン・ガブリエル号とサン・ラファエル号は、ダ・ガマの航海で使用されることになります。
ディアス自身もこの歴史的な航海に同行しましたが、艦隊がカーボヴェルデ諸島に到達したところでダ・ガマと別れ、それ以上は進みませんでした。 ダ・ガマの艦隊はディアスが切り開いた航路をたどり、1498年5月、ついにインドのカリカットに到達し、ヨーロッパとインドを結ぶ海上ルートを完成させたのです。

最後の航海と死

ディアスの晩年についても、詳しいことはあまり知られていません。 記録に残る限り、彼はアフリカからの帰還後、2度の航海に参加しています。 そして、その2度目の航海が彼の最後の旅となりました。
1500年、ディアスはペドロ・アルヴァレス・カブラルが率いる第2次インド遠征艦隊に参加し、4隻の船の指揮を任されました。 この艦隊は、インドへ向かう途中、大西洋で西へ流され、1500年4月22日に偶然ブラジルに漂着します。 これはヨーロッパ人によるブラジルの「発見」として記録されています。
ブラジルを離れた艦隊がインドを目指して大西洋を横断し、南アフリカへ向かっていた1500年5月、彼らはかつてディアスが「嵐の岬」と名付けた喜望峰の沖合で、再び激しい嵐に遭遇します。 この嵐で艦隊13隻のうち4隻が難破し、その中にはディアスが指揮する船も含まれていました。 1500年5月29日、バルトロメウ=ディアスは、自らが発見した希望の岬の近くの海に沈み、その波乱に満ちた生涯を終えました。

遺産

バルトロメウ=ディアスは、自らの手でインドに到達することはできませんでした。 しかし、彼の航海がなければ、ヴァスコ・ダ・ガマの成功も、その後のポルトガルによる海上交易帝国の繁栄もなかったでしょう。 彼はアフリカ大陸を周航できることを証明し、ヨーロッパとアジアを結ぶ新たな時代の扉を開いたのです。 彼の発見は、香辛料貿易の独占を目指すポルトガルの国策を後押しし、最終的にはヨーロッパ諸国によるアジア進出と植民地化の時代へと繋がっていきました。
ディアスの功績を称え、南アフリカのモッセル湾にはバルトロメウ=ディアス博物館複合施設が建てられています。 また、喜望峰には、彼とヴァスコ・ダ・ガマを記念する標識が設置されています。
個人的な生活については、ディアスは結婚しており、シモン・ディアス・デ・ノヴァイスとアントニオ・ディアス・デ・ノヴァイスという2人の息子がいたことが知られています。 彼の孫であるパウロ・ディアス・デ・ノヴァイスは、後にポルトガル領アンゴラの初代総督となり、1576年にサンパウロ・デ・ルアンダ(現在のルアンダ)を建設しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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