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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

喜望峰とは わかりやすい世界史用語2257

著者名: ピアソラ
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喜望峰とは

15世紀、ヨーロッパの探検家たちは、それまで知られていなかった世界へと乗り出し、歴史の流れを大きく変えることになります。 この「大航海時代」として知られる時期において、最も画期的な出来事の一つが、アフリカ大陸南端に位置する喜望峰への到達でした。 この発見は、ヨーロッパとアジアを結ぶ新たな海上交易路を開拓し、世界的な交易と交流の時代を切り開く重要な一歩となったのです。

喜望峰の地理的重要性

喜望峰は、南アフリカ共和国の西ケープ州、ケープ半島南端に位置する岩がちな岬です。 しばしばアフリカ大陸の最南端と誤解されますが、実際の最南端は、喜望峰から南東へ約150キロメートル離れたアガラス岬です。 にもかかわらず、喜望峰は歴史的に極めて重要な意味を持ってきました。大西洋とインド洋という二つの大洋が出会うこの海域は、古くから航海の難所として知られています。 暖かいモザンビーク・アガラス海流と冷たいベンゲラ海流がぶつかり合うことで、予測不能な荒天や荒波が発生しやすいのです。
この岬は、ケープ植物区保護地域群の一部であり、世界で最も豊かで多様な植物相を誇る地域の一つです。 約1100種の固有植物が生育しており、その多くは地球上の他の場所では見られないものです。



大航海時代以前の状況:交易路の探求

15世紀のヨーロッパ諸国、特にポルトガルは、アジアとの直接交易路の確立を熱望していました。 当時、香辛料、絹、宝石といった東洋の貴重な産物は、陸路であるシルクロードや、地中海を経由するルートでヨーロッパにもたらされていました。 しかし、これらの交易路はオスマン帝国などのイスラム勢力によって支配されており、ヨーロッパの商人たちは高い関税を支払わなければなりませんでした。 このため、イスラム勢力を介さずにアジアと直接交易できる新たな海上ルートの発見は、ポルトガルにとって国家的な悲願でした。
この探求を強力に推進したのが、ポルトガルのエンリケ航海王子です。 彼は探検家ではありませんでしたが、航海術の研究を奨励し、アフリカ西岸を探る数々の探検隊を後援しました。 彼の目的は、キリスト教の布教、伝説上のキリスト教国「プレスター・ジョン王国」の発見、そして西アフリカの金交易の源泉を見つけることなど、多岐にわたっていました。 エンリケ王子の後援のもと、ポルトガルの航海者たちは徐々にアフリカ大陸の海岸線についての知識を深めていきました。 1434年にはジル・エアネスが、当時のヨーロッパ人が知る世界の西の果てと考えられていたボハドル岬を通過することに成功し、アフリカ南下への道が開かれました。

バルトロメウ=ディアスの歴史的航海

アフリカ大陸を周航してインドへ至る航路の発見という長年の目標は、1488年、ポルトガルの航海者バルトロメウ=ディアスによって達成されることになります。 ポルトガル王ジョアン2世の命を受けたディアスは、1487年8月頃、3隻の船団を率いてリスボンを出航しました。 彼の任務は、アフリカ大陸の南端を突き止め、インド洋への入り口を見つけることでした。
ディアスの船団はアフリカ西岸を南下し、1487年12月には現在のアンゴラに到達しました。 しかし、翌年1月、南アフリカの沖合で激しい嵐に見舞われます。 嵐は13日間も続き、船団は陸地を見失ったまま南へと大きく流されました。 嵐が収まった後、ディアスは北に進路を取り、1488年2月3日、ついにモッセル湾に上陸します。 この時、彼は自身がアフリカ大陸の南端をすでに通過していたことに気づきました。
ディアスはさらに東へ進み、グレート・フィッシュ川の河口まで到達しましたが、長旅に疲弊した船員たちの強い要求により、やむなく帰路につくことを決断します。 帰途、1488年5月、ディアスは初めてアフリカ大陸南西端の岬を目撃しました。 航海の途上で経験した激しい嵐にちなんで、彼はこの岬を「嵐の岬」と名付けたと伝えられています。 しかし、この発見がインドへの海上ルート開拓という大きな希望をもたらすものであると考えたジョアン2世によって、後に「喜望峰」と改名されたという説が有力です。
ディアスは1488年12月、16ヶ月と17日に及ぶ航海を終えてリスボンに帰還しました。 彼はインドには到達できませんでしたが、その航海はアフリカ大陸が南端を持ち、大西洋とインド洋が繋がっていることを証明しました。 この発見は、当時のヨーロッパ人の世界観を根底から覆すものであり、後の探検家たちにインドへの道筋を示す画期的な成果でした。

ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓

ディアスの発見から約10年後、ポルトガルはついにインドへの航海を成功させます。 この歴史的な偉業を成し遂げたのが、ヴァスコ=ダ=ガマです。 ポルトガル王マヌエル1世の命を受けたダ・ガマは、1497年7月8日、4隻の船団を率いてリスボンを出航しました。 この船団には、ディアスの航海にも参加した熟練の航海士たちが含まれており、ディアス自身も航海のアドバイザーとしてヴェルデ岬諸島まで同行しました。 ディアスは、自身の経験に基づき、ダ・ガマが使用する船の設計にも関わったとされています。
ダ・ガマの船団は、ディアスが確立した航路をたどり、アフリカ西岸を大きく迂回して南大西洋を航行しました。 これは、沿岸の風や海流を避けるための、当時としては画期的な航海術でした。 1497年11月22日、ダ・ガマの船団は喜望峰を無事に通過し、インド洋へと進出しました。 その後、アフリカ東岸を北上し、マリンディ(現在のケニア)でアラブ人の水先案内人を雇うことに成功します。 彼の案内のもと、ダ・ガマの船団はインド洋を横断し、1498年5月20日、ついにインド南西岸のカリカット(現在のコーリコード)に到達しました。 これは、ヨーロッパ人が海上ルートのみでインドに到達した最初の瞬間でした。
カリカットでの交易は必ずしも順調ではありませんでしたが、ダ・ガマは香辛料を積み込み、1499年にポルトガルへ帰還しました。 多くの船員を失うなど困難な航海ではありましたが、持ち帰った香辛料は航海にかかった費用の何倍もの利益をもたらしたと言われています。

喜望峰到達がもたらした影響

喜望峰の発見と、それに続くヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓は、世界史に計り知れない影響を及ぼしました。
第一に、世界的な交易網の変革です。 喜望峰ルートの開通により、ポルトガルは地中海を介さずにアジアの香辛料を直接ヨーロッパへ運ぶことが可能になりました。 これにより、ヴェネツィア商人やイスラム商人が独占していた香辛料交易は大きく揺らぎ、ポルトガルは莫大な富を築き上げました。 ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオなどアジア各地に貿易拠点を築き、一大海上帝国を建設しました。
第二に、大航海時代の本格的な幕開けです。 ポルトガルの成功は、スペイン、オランダ、イギリス、フランスといった他のヨーロッパ諸国を刺激し、世界中への探検と植民地化の競争を激化させました。 クリストファー=コロンブスによるアメリカ大陸への到達や、フェルディナンド・マゼランによる世界周航など、この時代の探検活動は、ヨーロッパ人の地理的知識を飛躍的に拡大させました。
第三に、地図製作技術の進歩です。 ディアスやダ・ガマの航海によってもたらされた新しい地理情報は、それまでの地図を大きく書き換えました。 1502年に作成されたカンティノ図や、1508年のロイス図などには、喜望峰を含むアフリカ大陸のより正確な姿が描かれています。 これらの地図は、その後の航海の安全性を高め、さらなる探検を促進する上で重要な役割を果たしました。
第四に、ヨーロッパと非ヨーロッパ世界の力関係の変化です。 新航路の開拓は、ヨーロッパ諸国によるアジアやアフリカへの進出を加速させました。 ポルトガルは武力を背景にインド洋の交易を支配し、各地に植民地を建設しました。 これは、後のヨーロッパによる世界的な植民地支配の始まりを告げるものであり、被支配地域の人々にとっては、搾取と苦難の歴史の始まりでもありました。

バルトロメウ=ディアスによる喜望峰への到達と、ヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓は、単なる地理上の発見にとどまらず、世界の政治、経済、文化のあり方を根底から変える歴史的な出来事でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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