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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

ポトシ銀山とは わかりやすい世界史用語2301

著者名: ピアソラ
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ポトシ銀山とは

ボリビアの南中央部に位置するポトシは、かつてスペイン植民地帝国で最も重要な富の源泉の一つでした。この都市は、セロ・リコ(豊かな丘)として知られる山の麓にあり、その莫大な銀の埋蔵量によって、植民地時代を通じて世界経済の主要な原動力となりました。ポトシ銀山の発見は、単に一つの鉱業都市の誕生を意味するだけでなく、大陸を越えた貿易網の拡大、ヨーロッパにおける価格革命、そしてアンデス社会の劇的な変容を引き起こす世界的現象の始まりを告げるものでした。その歴史は、富と搾取、技術革新と環境破壊、そして文化的融合と社会的対立が複雑に絡み合った物語です。ポトシの銀は、スペインのハプスブルク朝とブルボン朝の財政を支え、ヨーロッパの戦争に資金を供給し、アジアとの貿易を促進しました。しかし、その輝かしい富の裏には、ミタ制として知られる強制労働制度の下で、何十万人もの先住民労働者が過酷な条件下で働かされたという暗い現実がありました。



セロ・リコの発見とポトシの誕生

ポトシの歴史は、1545年にセロ・リコで豊富な銀鉱脈が発見されたことから始まります。この発見に関する最も有名な伝説は、ディエゴ・グアルパという名のアンデスの羊飼いが、山腹で迷子になったリャマを探している最中に偶然銀を発見したというものです。夜になり、寒さをしのぐために火を焚いたところ、翌朝、火の熱で溶けた純銀の筋が地面を流れているのを見つけたと伝えられています。この発見のニュースは瞬く間に広まり、インカ帝国の旧都クスコや、近くの鉱業の中心地であったポルカなどから、一攫千金を夢見るスペイン人入植者や先住民たちが殺到しました。この発見以前、この地域はほとんど人が住んでいない不毛の土地でしたが、銀の魅力は驚異的な速さで人々を引き寄せ、発見からわずか数年のうちに、セロ・リコの麓にはインペリアル・ヴィラ・デ・ポトシとして知られることになる都市が形成され始めました。初期のポトシは、計画性のない無秩序な入植地でした。急ごしらえの住居が山腹に張り付くように建てられ、インフラも未整備なままでした。しかし、産出される銀の量は驚異的であり、その富はさらなる移住者を呼び込みました。1570年代までには、ポトシはアメリカ大陸で最も人口の多い都市の一つとなり、その人口は12万人を超えていたと推定されています。これは、当時のロンドンやパリといったヨーロッパの主要都市に匹敵する規模でした。都市の急速な成長は、鉱山所有者、商人、役人、職人、そして大多数を占める先住民労働者といった多様な人々からなる複雑な社会を生み出しました。スペイン国王は、ポトシの重要性を認識し、すぐに王室の管理下に置きました。王室会計局が設置され、産出されるすべての銀に対してキンゴ・レアル(国王の5分の1税)として知られる20パーセントの税が課されました。この税収は、スペイン帝国の財政にとって不可欠なものとなり、ヨーロッパにおけるスペインの軍事的・政治的影響力を維持するための重要な資金源となりました。ポトシの誕生は、アンデス地方における経済の中心地の劇的な移動を意味しました。それまで農業や牧畜が中心であった地域経済は、鉱業、特に銀生産に大きく依存するようになり、ポトシを頂点とする新たな経済階層が形成されていきました。

鉱業技術の革新:水銀アマルガム法と水力利用

ポトシの初期の銀生産は、ワライラとして知られる伝統的なアンデスの製錬技術に依存していました。これは、粘土で作られた小さな窯で、風を利用して高温を達成し、鉱石から銀を溶かし出す方法でした。セロ・リコの山頂付近は風が強く、この原始的な技術でも高品位の鉱石を処理するには十分な効率を持っていました。何千ものワライラが夜通し稼働し、その光景は遠くから見ると星空のように見えたと記録されています。しかし、1570年代に入ると、地表近くの高品位鉱石が枯渇し始め、より深く、より低品位の鉱石を採掘する必要に迫られました。これらの低品位鉱石は、ワライラでは効率的に製錬することができず、ポトシの銀生産は深刻な危機に直面しました。この危機を救ったのが、1572年に第5代ペルー副王フランシスコ・デ・トレドによって導入された水銀アマルガム法でした。この技術は、もともとメキシコのパチューカ鉱山でバルトロメ・デ・メディナによって開発されたもので、粉砕した銀鉱石を水銀、塩、その他の試薬と混ぜ合わせることで、銀と水銀の合金を形成させるというものでした。その後、加熱すると水銀が蒸発し、純粋な銀が残ります。この方法は、低品位鉱石からでも効率的に銀を抽出することを可能にし、ポトシの銀生産を劇的に増加させました。水銀アマルガム法の導入は、ポトシの鉱業インフラの全面的な再編を必要としました。このプロセスには大量の水と動力が必要だったため、トレド副王は、ポトシ周辺の山々に一連の巨大な貯水池と水路を建設する壮大な計画を推進しました。カリカリ山脈に建設されたこれらの貯水池は、雨季に水を貯め、水路網を通じてポトシ市内にあるインヘニオと呼ばれる鉱石粉砕工場に水を供給しました。インヘニオでは、水力で動く巨大な粉砕機が鉱石を細かい粉末にし、アマルガム処理の準備をしました。17世紀初頭までには、22の貯水池と140以上のインヘニオが稼働しており、ポトシは当時世界で最も先進的な産業複合体の一つとなっていました。この水力インフラの整備は、ポトシの銀生産を前例のないレベルに引き上げ、16世紀末から17世紀初頭にかけての最盛期をもたらしました。しかし、この技術革新は同時に、労働環境の悪化と環境汚染という深刻な問題も引き起こしました。特に、水銀の使用は労働者に深刻な健康被害をもたらし、蒸発した水銀は大気や土壌、水系を汚染しました。

ミタ制:強制労働のシステム

ポトシの莫大な銀生産を支えたのは、ミタとして知られる強制労働制度でした。この制度もまた、フランシスコ・デ・トレド副王によって1570年代に体系化されたものです。ミタは、インカ帝国時代に存在した公共事業のための労働奉仕制度をモデルにしていましたが、スペインの植民地支配下では、鉱山での過酷な労働を目的とした搾取的なシステムへと変貌しました。トレドの改革により、クスコからポトシに至る広大なアンデス高地の約200の先住民コミュニティが、毎年、成人男性人口の約7分の1をポトシの鉱山と製錬所に労働者として派遣することが義務付けられました。これらの労働者はミタヨと呼ばれ、1年間の任期でポトシに送られました。理論上、ミタヨは賃金を受け取ることになっていましたが、その額は非常に低く、ポトシでの高い生活費を賄うには到底足りませんでした。多くの場合、彼らは故郷のコミュニティからの援助に頼るか、借金を背負うことになりました。ポトシでの労働条件は極めて過酷でした。鉱山内での労働は、暗く、狭く、換気の悪い坑道で行われました。労働者は、原始的な道具を使って硬い岩盤を掘り進み、重い鉱石の袋を背負って、危険なはしごを登り降りしなければなりませんでした。落盤事故や転落事故は日常茶飯事であり、多くのミタヨが命を落としました。さらに、粉塵を吸い込むことによる珪肺症は、鉱山労働者の間で蔓延していました。インヘニオでの労働も同様に危険でした。特に水銀アマルガム法に関わる労働者は、有毒な水銀蒸気に常に晒されていました。水銀中毒は、震え、歯の脱落、神経系の損傷といった深刻な症状を引き起こし、最終的には死に至ることも少なくありませんでした。ミタ制は、アンデスの先住民社会に壊滅的な影響を与えました。毎年、何万人もの男性がコミュニティから引き離されることで、伝統的な農業経済は崩壊し、家族や社会の構造が破壊されました。多くのミタヨは、任期を終えても故郷に帰ることができず、ポトシの周辺に定住するか、他の場所へ流浪の民として移り住みました。また、過酷な労働から逃れるために、多くの人々が故郷を捨てて逃亡し、その結果、ミタの割り当てを達成できなくなったコミュニティはさらなる苦境に立たされました。ミタ制は、その非人道性から多くの批判を受けました。ドミニコ会やフランシスコ会の修道士たちの中には、ミタヨの悲惨な状況を報告し、制度の改革や廃止を訴える者もいました。しかし、ポトシの銀がスペイン帝国の財政にとってあまりにも重要であったため、これらの声が制度の根幹を揺るがすことはありませんでした。ミタ制は、1812年にカディス議会によって正式に廃止されるまで、約250年間にわたって存続し、数え切れないほどの先住民の命と幸福を犠牲にしました。

ポトシの銀と世界経済:価格革命とグローバル貿易

ポトシから産出された銀は、スペイン本国に送られるだけでなく、大西洋と太平洋を越えて世界中に流通し、16世紀から18世紀にかけてのグローバル経済の形成に決定的な役割を果たしました。この銀の流れは、ヨーロッパにおける「価格革命」として知られる長期的なインフレーションを引き起こし、アジアとの貿易を飛躍的に拡大させました。ポトシの銀は、まずリャマやラバの隊商によって太平洋岸の港アリカへ、あるいはラ・プラタ川流域を経由して大西洋岸のブエノスアイレスへと運ばれました。そこから、スペインの護送船団(フロータ)によって、パナマ地峡を越え、カリブ海の港を経由して、最終的にセビリア(後にはカディス)へと輸送されました。この銀の流入は、スペイン国内およびヨーロッパ全域の貨幣供給量を急増させました。経済学者たちは、この貨幣供給量の増加が、物価の持続的な上昇、すなわち価格革命の主要な原因であったと指摘しています。特に、生活必需品である食料品の価格が急騰し、賃金の上昇がそれに追いつかなかったため、多くの人々の生活水準が圧迫されました。一方で、このインフレーションは、土地所有者や商人といった資産を持つ階級には利益をもたらし、ヨーロッパの経済構造の変化を促進しました。スペイン王室は、ポトシの銀収入を用いて、ヨーロッパ大陸での絶え間ない戦争の費用を賄いました。ネーデルラントの独立戦争、イタリア戦争、三十年戦争など、ハプスブルク家の軍隊の維持費や傭兵への支払いは、その多くがアメリカ大陸からの銀によって賄われていました。しかし、スペインは国内の産業基盤を育成することを怠り、富を生産的な投資に振り向けるのではなく、戦争と奢侈品の輸入に費やしてしまいました。その結果、銀はジェノヴァ、アントワープ、アムステルダムといったヨーロッパの金融センターに流出し、最終的にはスペインの経済的衰退を招く一因となりました。ポトシの銀のもう一つの重要な役割は、アジア、特に中国との貿易の決済手段として機能したことです。当時、ヨーロッパには中国市場が求める商品がほとんどなく、中国製品(絹、陶磁器、茶など)の輸入は、大幅な貿易赤字を生み出していました。アメリカ大陸の銀は、この不均衡を解消するための理想的な支払い手段でした。スペインは、メキシコのアカプルコとフィリピンのマニラを結ぶガレオン船貿易を確立しました。ポトシの銀の一部は、パナマ経由でアカプルコに運ばれ、そこからマニラ・ガレオンに乗せられて太平洋を渡りました。マニラでは、この銀が中国商人のもたらす商品と交換され、中国経済に大量の銀が流入しました。16世紀後半から17世紀にかけて、中国の明朝は税制を改革し、それまでの現物納(米や布)から銀納へと移行しました(一条鞭法)。この改革は、国内の銀需要を爆発的に高め、ポトシの銀が世界経済の不可欠な潤滑油となる状況を生み出しました。このようにして、ポトシのセロ・リコで採掘された銀は、アンデスの労働者の手から、スペインの王室、ヨーロッパの銀行家、そして中国の商人や農民の手にまで渡り、史上初の世界的な規模での経済的相互依存関係を創り出したのです。

ポトシの社会と文化:富、多様性、そして対立

17世紀初頭の最盛期において、ポトシは富と奢侈、そして社会的・文化的活気に満ちた国際都市でした。その富は伝説的であり、「ポトシほどの価値がある」というスペイン語の言い回しが生まれたほどです。鉱山所有者(アソゲロス)や王室役人、豪商たちは、ヨーロッパやアジアから輸入された豪華な絹織物、宝石、家具で飾られた壮麗な邸宅を建て、贅沢な生活を送りました。都市には、多数の教会や修道院が壮麗なバロック様式で建設され、その内部は銀や金で豪華に装飾されました。これらの建設は、カトリック教会の権威と富を示すと同時に、敬虔な信仰心と社会的地位の誇示の場でもありました。ポトシの人口は非常に多様でした。スペイン本国、特にアンダルシアやエストレマドゥーラ、バスク地方からの移住者が支配階級を形成していましたが、その他にもイタリア人、フランドル人、ドイツ人といったヨーロッパの様々な地域からの人々が商人や職人として活動していました。アフリカから連れてこられた奴隷も存在し、主に家内労働や特定の職種の労働に従事していました。しかし、人口の大多数を占めていたのは、ミタヨとして強制的に連れてこられた人々や、自由意志で鉱山労働に従事するために移住してきた先住民(ミンガスとして知られる)でした。この多様な人々が混在する中で、ポトシは活気に満ちた、しかし同時に対立と緊張に満ちた社会を形成しました。異なる出身地を持つスペイン人同士の派閥争いは頻繁に発生し、特にバスク人とそれ以外の人々(「ビクニャス」と呼ばれた)との間の対立は、1620年代に激しい市街戦にまで発展しました。人種や民族に基づく厳格な社会階層が存在し、スペイン人が頂点に立ち、メスティーソ(スペイン人と先住民の混血)、先住民、アフリカ系の人々がそれに続くという階層構造が確立されていました。先住民コミュニティ内でも、ミタヨとミンガス、あるいは異なる民族グループ間での区別や対立がありました。このような複雑な社会の中で、独自の文化が花開きました。宗教的な祭りは、カトリックの儀式とアンデスの伝統的な信仰が融合したシンクレティズム(習合)の様相を呈していました。例えば、聖体の祝日(コーパス・クリスティ)の行列では、キリスト教の聖人の像と共に、インカ時代の貴族の衣装をまとった先住民の有力者が参加しました。また、セロ・リコそのものが、聖母マリアとアンデスの大地の女神パチャママが重ね合わされた信仰の対象となりました。ポトシの画家たちが描いた「山の聖母」として知られる図像は、山の形をした聖母マリアを描いており、この文化融合を象徴する最も有名な例の一つです。この活気に満ちた文化活動は、ポトシの富が可能にしたものでしたが、その富を生み出すための過酷な労働と社会的搾取という現実と常に隣り合わせでした。

衰退と遺産

17世紀半ばを過ぎると、ポトシの栄光は次第に翳りを見せ始めました。その衰退には、いくつかの複合的な要因が絡み合っていました。最も直接的な原因は、採掘が容易な高品位の銀鉱脈が枯渇し、鉱石の品位が全体的に低下したことでした。より深く、より硬い岩盤から低品位の鉱石を採掘するには、より多くの労働力と資本が必要となり、採算性が悪化していきました。また、長年にわたる無計画な採掘の結果、坑道は複雑に入り組み、落盤の危険性が増大しました。1626年に発生したカリカリ貯水池の一つ、サン・イルデフォンソの堤防決壊は、大規模な洪水を引き起こし、多くのインヘニオを破壊し、数千人の命を奪う大災害となりました。この事件は、ポトシの生産インフラに深刻な打撃を与え、その後の復旧には長い年月を要しました。経済的な要因も衰退を加速させました。17世紀を通じて、ヨーロッパでの戦争や経済の停滞により、銀の価格は下落傾向にありました。同時に、鉱業に必要な資材、特に水銀の価格は高騰しました。ペルーのワンカベリカ鉱山からの水銀供給が不安定になると、ヨーロッパから高価な水銀を輸入する必要が生じ、鉱山経営者の利益をさらに圧迫しました。さらに、18世紀に入ると、メキシコのサカテカスやグアナフアトといった新しい銀山が台頭し、ポトシの相対的な重要性は低下していきました。スペイン・ブルボン朝の改革の一環として、1776年にリオ・デ・ラ・プラタ副王領が新設され、ポトシがその管轄下に置かれると、銀の輸出ルートが従来のペルー経由からブエノスアイレス経由へと変更されました。これは、リマの商人たちに打撃を与え、植民地内の経済地理を大きく塗り替えるものでした。19世紀初頭のラテンアメリカ独立戦争は、ポトシに最後の追い打ちをかけました。ポトシは、独立派と王党派の間で何度も争奪戦の舞台となり、鉱山は荒廃し、熟練労働者は離散しました。ボリビアが1825年に独立を達成した時、ポトシの人口は1万人以下にまで激減し、かつての栄華は見る影もありませんでした。独立後、ポトシの銀山はイギリスなどの外国資本によって一時的に再興が試みられましたが、かつての生産レベルを取り戻すことはありませんでした。19世紀末から20世紀初頭にかけて、銀に代わって錫が主要な産出鉱物となり、ポトシは新たな鉱業ブームを経験しますが、それはかつての銀の時代の規模には及びませんでした。今日、ポトシはユネスコの世界遺産に登録され、その壮麗な植民地時代の建築物と、今なお活動が続くセロ・リコの鉱山が、訪れる人々に過去の栄光と悲劇を物語っています。セロ・リコは、何世紀にもわたる採掘によって無数の坑道が掘られ、内部は空洞だらけになっており、「人を食う山」としての歴史をその姿に刻み込んでいます。ポトシの遺産は、近代世界経済の誕生がグローバルな資源の移動と、特定の地域における集中的な労働力の搾取に依存していたかを物語る強力な証言です。その銀は、ヨーロッパの帝国を富ませ、アジアの市場を潤しましたが、その代償として、アンデスの人々とその環境は計り知れない犠牲を払いました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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