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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 大航海時代

伝染病とは わかりやすい世界史用語2302

著者名: ピアソラ
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伝染病《大航海時代》とは

15世紀後半から始まった大航海の時代は、ヨーロッパ人による新航路の開拓と新大陸の発見によって、世界の歴史を大きく塗り替える転換点となりました。この時代は、異なる文明間の交流を促進し、植物、動物、文化、そして思想の広範な交換、すなわち「コロンブス交換」として知られる現象を引き起こしました。 しかし、この大規模な交流は、繁栄と発展の機会をもたらした一方で、人類史上最も破壊的な悲劇の一つである伝染病のパンデミック(世界的大流行)をも引き起こしました。特に、ヨーロッパ、アフリカ、アジアを含む「旧世界」から、アメリカ大陸という「新世界」への病原体の伝播は、先住民社会に対して壊滅的な影響を及ぼしました。
旧世界の人々は、何千年にもわたり、家畜と共に生活し、密集した都市で暮らす中で、天然痘、麻疹、インフルエンザといった数多くの感染症に繰り返し晒されてきました。 この長い共存の歴史を通じて、彼らはこれらの病気に対する一定の免疫を獲得していました。一方、アメリカ大陸の先住民は、ユーラシア大陸やアフリカ大陸から地理的に長期間隔離されていたため、これらの病原体に一度も接触したことがありませんでした。 その結果、彼らの免疫系は、突如として持ち込まれた未知のウイルスや細菌に対して全くの無防備な状態にあったのです。 この免疫学的な脆弱性は、「処女地の流行」として知られる現象を引き起こし、病原体が免疫を持たない集団に初めて侵入した際に示す、爆発的な感染拡大と極めて高い致死率を特徴としました。
大航海時代の伝染病の影響は、単なる人口減少にとどまらず、アメリカ先住民の社会構造、文化、宗教、経済、そして政治システム全体を根底から揺るがしました。 伝染病の流行は、ヨーロッパ人による征服活動を容易にする決定的な要因の一つとなり、アステカ帝国やインカ帝国といった強大な国家の崩壊を早めました。 労働力の激減は、新たな経済システムの構築を促し、アフリカからの奴隷貿易の拡大へとつながりました。 このように、目に見えない微生物の移動は、火器や剣といった物理的な武器以上に、アメリカ大陸の運命を決定づける強力な力として作用したのです。
この論文では、大航海時代における伝染病の伝播がアメリカ大陸の先住民社会に与えた多岐にわたる影響を、人口動態、社会・文化的変容、政治・軍事的帰結、経済的影響、そして生態学的変化という側面から深く掘り下げていきます。旧世界から持ち込まれた主要な伝染病の種類とその特徴を概観し、それらがどのようにしてアメリカ大陸全土に広がっていったのかを追跡します。また、先住民が高い罹患率と死亡率を示した生物学的・遺伝学的要因についても考察します。さらに、病気の交換は一方的なものではなく、新世界から旧世界へ伝わった可能性のある梅毒についても議論します。最後に、これらの伝染病がもたらした長期的な遺産と、それが南北アメリカ大陸の歴史的軌跡をどのように形成したかを総括します。この探求を通じて、大航海時代というグローバル化の初期段階において、伝染病がいかにして歴史を動かす強力な触媒となったかを明らかにすることを目指します。



コロンブス交換と病原体の移動

1492年のクリストファー・コロンブスのアメリカ大陸到達は、それまで何万年もの間、事実上孤立していた二つの巨大な生態系、すなわち旧世界(ユーラシア大陸とアフリカ大陸)と新世界(アメリカ大陸)の間の壁を取り払う歴史的な出来事でした。 この接触をきっかけに始まった、動植物、人間、技術、文化、そして病原体の相互交換は、歴史家アルフレッド・クロスビーによって「コロンブス交換」と名付けられました。 この交換は意図的なものもあれば、全くの偶然によるものもありましたが、その中で最も悲劇的かつ一方的な影響をもたらしたのが、病原体の移動でした。
旧世界から新世界への病原体の移動は、人類史上最大級の人口動態上の大変動を引き起こしました。 ヨーロッパ人やアフリカ人は、何千年にもわたる農耕と牧畜の歴史の中で、牛、豚、羊、鶏といった家畜と密接に暮らしてきました。 これらの家畜は、天然痘、麻疹、インフルエンザ、結核など、多くの人獣共通感染症の起源となりました。 絶え間ない感染の波に洗われる中で、旧世界の人々は世代を超えてこれらの病気に対する免疫を獲得し、多くの病気は子供時代にかかる比較的軽度の病気(小児病)となっていました。
対照的に、アメリカ大陸の先住民は、約1万5千年前にベーリング陸橋を渡ってアジアから移住して以来、旧世界とは隔絶された環境で暮らしてきました。 この長期間の孤立により、彼らは旧世界で猛威を振るっていた数多くの伝染病に全く触れる機会がありませんでした。 アメリカ大陸で家畜化された動物は、ラマやアルパカ、七面鳥などに限られており、旧世界の家畜ほど人間と密接に生活するものではなかったため、人獣共通感染症が発生する機会も極めて少なかったのです。 その結果、アメリカ先住民の集団は、旧世界の病原体に対して免疫学的に全くの「処女地」であり、極めて高い感受性を持っていました。
コロンブスの最初の航海以降、ヨーロッパからの探検家、兵士、入植者、そしてアフリカから強制的に連れてこられた奴隷たちが次々とアメリカ大陸に到着しました。 彼らは自覚のないまま、天然痘ウイルス、麻疹ウイルス、インフルエンザウイルス、百日咳菌、水痘ウイルス、発疹チフスリケッチア、腺ペスト菌といった多種多様な病原体の運び屋となったのです。 これらの病原体は、ヨーロッパ人が上陸したカリブ海の島々を皮切りに、瞬く間にアメリカ大陸全土へと広がっていきました。 病原体の伝播は、人の移動だけでなく、汚染された衣類や物品を介しても起こりました。 先住民間の交易路や社会的なつながりが、かえって病気の拡散を加速させる経路となりました。 多くの場合、ヨーロッパ人が直接到達するよりも先に、病気だけが内陸部へと侵入し、先住民社会に壊滅的な打撃を与えました。
この病原体の移動は、ほぼ一方的なものでした。 旧世界から新世界へは、致死性の高い病気が数多く持ち込まれましたが、逆に新世界から旧世界へ渡り、大きな影響を与えた伝染病は、梅毒の可能性が指摘されている程度です。 この非対称性が、コロンブス交換における病気の交換を、歴史上類を見ない人口破壊の要因たらしめたのです。 1492年以降の100年から150年の間に、アメリカ先住民の人口は推定で80%から95%も減少し、地域によっては完全に絶滅した集団もありました。 この人口の激減は、ヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地化を決定的に容易にし、その後の世界の歴史の力学を根本的に変えていくことになります。

旧世界から持ち込まれた主要な伝染病

大航海時代に旧世界からアメリカ大陸へ持ち込まれた伝染病は多岐にわたりますが、中でも天然痘、麻疹、インフルエンザは、先住民社会に最も壊滅的な被害をもたらした「死の三巨頭」とされています。これらの病気に加え、発疹チフス、百日咳、ジフテリア、腺ペストなども大きな脅威となりました。

天然痘

天然痘は、大航海時代においてアメリカ先住民に最も甚大な被害をもたらした病気です。 ヴァリオーラウイルスによって引き起こされるこの病気は、高熱、嘔吐、そして全身に広がる特徴的な発疹(膿疱)を主症状とします。 感染力が非常に強く、飛沫感染や接触感染によって広がります。 旧世界では古くから存在し、多くの人々が子供時代に感染して免疫を獲得していましたが、それでも致死率は高く、生存しても深刻な瘢痕(あばた)や失明といった後遺症を残すことがありました。
アメリカ大陸における天然痘の最初の記録は、1518年のイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)での流行です。 この流行は、島の先住民であったタイノ族の人口を壊滅させました。 その後、天然痘はキューバ、プエルトリコへと広がり、各地の先住民人口の半数以上を奪ったとされています。
天然痘がアメリカ大陸の歴史に決定的な影響を与えたのは、メキシコ中央部におけるアステカ帝国の征服においてでした。 1520年、エルナン・コルテス率いるスペイン軍がアステカの首都テノチティトランから一時撤退を余儀なくされた後、スペイン軍の中にいた一人のアフリカ人奴隷から天然痘がアステカの人々に伝わりました。 免疫を持たないアステカの民の間で、病気は爆発的に流行しました。 首都テノチティトランでは、人口の約40%がわずか1年で死亡したと推定されています。 病気は人々を次々と死に至らしめただけでなく、病気で動けなくなった人々や、看病する人々が農作業を行えなくなったことによる深刻な食糧不足も引き起こしました。 この大流行によってアステカ社会は混乱し、軍事的な抵抗力は著しく低下しました。 1521年にコルテスが再びテノチティトランを攻撃した際には、天然痘によって弱体化したアステカ帝国はもはやなすすべもなく、征服されるに至りました。
同様の悲劇は、南米のインカ帝国でも繰り返されました。 フランシスコ・ピサロがインカ帝国に本格的な侵攻を開始する数年前の1520年代半ば、天然痘は陸路を伝ってインカ帝国の領土に到達していました。 この流行により、皇帝ワイナ・カパックとその法定後継者が相次いで病死し、帝国は後継者を巡る内戦状態に陥りました。 この内乱と伝染病による混乱が、ピサロのわずかな兵力によるインカ帝国の征服を可能にする大きな要因となったのです。
天然痘の猛威は、北米にも及びました。ヨーロッパからの漁師や交易商人との散発的な接触を通じて、病気はヨーロッパ人の大規模な入植が始まる前から先住民のコミュニティに侵入しました。 1620年にピルグリム・ファーザーズがプリマスに到着した際、彼らが見たのは、数年前に天然痘の流行によって人口が激減し、放棄された村々でした。 このように、天然痘はヨーロッパ人の「見えざる先兵」として、アメリカ大陸の征服と植民地化の道を切り開いたのです。

麻疹とインフルエンザ

天然痘と並んで、麻疹とインフルエンザもアメリカ先住民に甚大な被害をもたらしました。 これらの病気もまた、旧世界では一般的な小児病でしたが、免疫を持たない人々にとっては致死性の高い病気でした。
麻疹は、麻疹ウイルスによって引き起こされる感染症で、高熱、咳、鼻水、そして特徴的な全身の発疹を伴います。 肺炎や脳炎などの合併症を引き起こしやすく、栄養状態の悪い集団では特に致死率が高くなります。アメリカ大陸では、天然痘の流行に続いて、あるいは同時に麻疹が流行することが多く、複合的なパンデミックとなって人口減少をさらに加速させました。
インフルエンザもまた、破壊的な影響を及ぼしました。インフルエンザウイルスは変異しやすく、周期的に世界的な大流行(パンデミック)を引き起こします。1493年、コロンブスの2回目の航海でイスパニョーラ島に持ち込まれた豚インフルエンザの流行は、アメリカ大陸における最初の旧世界由来の伝染病の大流行であったと考えられています。 この流行はタイノ族の人口を激減させる一因となりました。 インフルエンザは、その症状が他の呼吸器系疾患と似ているため、歴史的な記録から特定することは難しい場合がありますが、その急速な感染拡大と高い致死率は、先住民社会に繰り返し大きな打撃を与えたと推測されています。
これらの病気は単独でも十分に致命的でしたが、しばしば立て続けに、あるいは同時に流行することで、その破壊力を増しました。 ある伝染病の流行から生き延びた人々も、体力が低下し、栄養状態が悪化しているため、次の新たな伝染病に対してさらに脆弱になっていました。このような連続的な流行の波が、アメリカ先住民の人口を回復不可能なレベルまで減少させる大きな要因となったのです。

その他の病気:発疹チフス、百日咳、腺ペスト、マラリア、黄熱病

天然痘、麻疹、インフルエンザに加えて、他の多くの旧世界の病気もアメリカ大陸に持ち込まれました。
発疹チフスは、リケッチアという微生物によって引き起こされ、シラミを介して人から人へとうつる病気です。 高熱、頭痛、そして特徴的な発疹を引き起こし、特に戦争や飢饉などで衛生状態が悪化した環境で大流行しやすい特徴があります。スペインの征服に伴う社会の混乱や、人々が強制的に集められた環境は、発疹チフスの流行に理想的な条件を提供しました。
百日咳、ジフテリア、水痘、おたふくかぜといった病気も、旧世界では主に子供がかかる病気でしたが、アメリカ大陸では全年齢層に感染が広がり、特に幼児や高齢者において高い死亡率を示しました。
腺ペスト、すなわち「黒死病」として14世紀のヨーロッパで猛威を振るった病気も、アメリカ大陸に持ち込まれました。 しかし、その影響は天然痘や麻疹ほど広範囲ではなかったと考えられています。
さらに、大航海時代はアフリカ大陸との接触、特に大西洋奴隷貿易の開始とも重なります。 この奴隷貿易を通じて、アフリカ由来の熱帯病であるマラリアと黄熱病がアメリカ大陸に持ち込まれました。 これらの病気は、熱帯・亜熱帯地域、特にカリブ海沿岸や南部のプランテーション地帯に定着しました。マラリア原虫や黄熱ウイルスは、特定の種類の蚊によって媒介されます。アフリカの人々は、長年の暴露によってこれらの病気にある程度の抵抗力を持っていましたが、ヨーロッパ人やアメリカ先住民は感受性が高かったのです。 黄熱病の流行は、カリブ海の植民地でヨーロッパ人入植者の間で高い死亡率を引き起こしました。 一方、マラリアの蔓延は、皮肉なことに、アフリカからの奴隷労働への需要をさらに高める結果となりました。なぜなら、マラリアに対する抵抗力を持つアフリカ人奴隷は、ヨーロッパ人の年季契約労働者や先住民労働者よりも過酷なプランテーションでの労働環境で生き残る可能性が高いと見なされたからです。 このように、アフリカ由来の病気の導入は、アメリカ大陸の人口構成と労働システムに複雑な影響を及ぼしました。

先住民の人口動態への壊滅的影響

旧世界からの伝染病の流入がアメリカ先住民の人口に与えた影響は、一言で言えば「壊滅的」でした。 1492年以前のアメリカ大陸の総人口については、研究者の間で見解が分かれており、推定値は数千万人から1億人以上と幅がありますが、いずれの推定値を用いても、その後の人口減少率が驚異的なレベルであったことに変わりはありません。 多くの研究者は、ヨーロッパ人との接触後、最初の100年から150年の間に、先住民人口の80%から95%が失われたと考えています。 この規模の人口崩壊は、人類史上、他に類を見ません。
この現象は「人口統計学的崩壊」と呼ばれます。 人口減少の主な原因は、先住民が免疫を持たなかった旧世界の病原体による「処女地流行」でした。 天然痘、麻疹、インフルエンザといった病気は、一度コミュニティに侵入すると、燎原の火のように広がり、数週間から数ヶ月のうちに人口の3分の1から半分、時にはそれ以上を死に至らしめました。
例えば、コロンブスが最初に上陸したイスパニョーラ島では、1492年時点で数十万から100万人以上いたと推定されるタイノ族の人口が、わずか数十年後の1526年には500人以下にまで激減しました。 この減少には、スペイン人による過酷な労働や暴力も寄与しましたが、最大の要因は伝染病でした。
メキシコ中央部では、スペイン人到着前の人口が約1000万から2500万人と推定されていますが、16世紀末までには100万人程度にまで減少しました。 アステカ帝国の首都テノチティトランを襲った1520年の天然痘の流行だけで、人口の約40%が失われたとされています。 その後も、麻疹や発疹チフスなどの流行が波状的に襲い、人口は減り続けました。
南米のアンデス地域でも同様の悲劇が起こりました。インカ帝国の人口は、接触前の約900万人から、1620年にはわずか60万人にまで減少したと推定されています。
北米では、人口密度が比較的低かったため、人口崩壊のペースは地域によって異なりましたが、その結末は同じでした。ヨーロッパ人入植者が本格的に内陸部へ進出する前に、病気は交易路を通じて先住民の村々を襲い、多くの共同体を破壊しました。 17世紀初頭にマサチューセッツ湾岸を襲った伝染病の流行では、先住民人口の90%近くが死亡し、ピルグリムたちが到着した時には、多くの土地が無人となっていました。
この急激な人口減少は、単に個人の死の集合体ではありませんでした。それは、社会の再生産能力そのものを破壊するものでした。 働き盛りの世代が大量に死亡したことで、食料生産、狩猟、育児といった社会を維持するための基本的な活動が不可能になりました。 知識や技術を伝承する長老たちが失われ、文化的な断絶が生じました。指導者層の死亡は、政治的な混乱と社会の無力化を招きました。 生存者たちも、家族や共同体を失った深い精神的ショックと絶望感に苛まれました。 このように、伝染病による人口崩壊は、アメリカ先住民社会のあらゆる側面を蝕み、その後のヨーロッパによる支配を決定づける上で、軍事力以上に重要な役割を果たしたのです。

先住民が高い脆弱性を示した生物学的・遺伝的要因

アメリカ先住民が旧世界の伝染病に対してなぜこれほどまでに脆弱だったのか、その理由は複数の要因が複雑に絡み合っています。最も基本的な理由は、彼らの集団がこれらの病原体に一度も接触したことがなく、したがって免疫学的な防御機構を持っていなかったことです。 しかし、近年の遺伝学的研究は、単なる未接触というだけでなく、彼らの遺伝的背景もまた、この脆弱性に寄与していた可能性を示唆しています。
まず、免疫学的な側面から見ると、旧世界の人々は、何千年にもわたって天然痘や麻疹といった病原体と共存してきました。この過程で、自然選択が働き、これらの病気に対して抵抗力を持つ遺伝子を持つ個体が生き残り、子孫を残す可能性が高くなりました。その結果、集団全体として一定レベルの遺伝的抵抗性が築かれました。一方、アメリカ先住民の祖先は、約1万5千年前にアジアからベーリング陸橋を渡って新大陸に移住した際、極寒の環境を通過したことで、多くの病原体がふるい落とされたと考えられています。 また、移住した集団の規模が比較的小さかったため、遺伝的多様性が低下する「創始者効果」が起こりました。
この遺伝的多様性の低さ、特に免疫システムに関わる遺伝子の多様性の低さが、脆弱性の一因となった可能性があります。ヒト白血球抗原(HLA)として知られる遺伝子群は、体内に侵入した病原体を認識し、免疫応答を開始する上で中心的な役割を果たします。 HLAの遺伝子には非常に多くのバリエーション(対立遺伝子)があり、この多様性が高いほど、集団は様々な種類の病原体に対応できると考えられています。アメリカ先住民の集団では、このHLAの多様性が旧世界の人々と比べて低いことが指摘されています。これは、彼らの免疫システムが対応できる病原体の種類が限られていたことを意味するかもしれません。
さらに、近年の古代DNAを用いた研究は、より具体的な証拠を提供しています。カナダのブリティッシュコロンビア州に住む先住民、コースト・ツィムシアン族の古代(ヨーロッパ人接触前)と現代のDNAを比較した研究では、免疫に関わるHLA-DQA1という遺伝子において、劇的な変化が見られました。 接触前の古代人のDNAでは、ある特定のタイプのHLA-DQA1遺伝子がほぼ100%を占めていました。 これは、その遺伝子が当時の環境に存在した特定の病原体に対して有利に働いていたことを示唆しています。しかし、ヨーロッパ人との接触後、わずか150年から200年という極めて短い期間に、その遺伝子を持つ人の割合は急激に減少し、別のタイプの遺伝子を持つ人が増えていました。 この研究結果は、かつては有利であった遺伝子が、天然痘のような新たな病原体の前では、逆に感受性を高める(不利に働く)可能性があったことを示唆しています。 つまり、アメリカ先住民の免疫システムは、彼らが長年暮らしてきた環境に高度に最適化されていたがゆえに、全く新しい種類の病原体に対しては準備ができていなかった、あるいはかえって不利に働いてしまった可能性があるのです。
このような遺伝的な素因に加えて、ヨーロッパ人による征服がもたらした社会経済的な要因も、先住民の脆弱性を増大させました。 戦争、強制労働、土地の収奪、強制移住といった過酷な状況は、人々に極度のストレスを与え、栄養状態を悪化させました。 不衛生な環境での強制的な集住は、病気の伝播をさらに容易にしました。これらの要因が複合的に作用し、免疫系の機能を低下させ、伝染病による死亡率をさらに押し上げる結果となったのです。 したがって、アメリカ先住民の悲劇的な人口崩壊は、単一の要因ではなく、免疫学的な無防備さ、遺伝的な素因、そして植民地化に伴う過酷な社会環境という三つの要素が重なり合って引き起こされた、複雑な現象であったと言えます。

社会・文化への影響

伝染病による未曾有の人口崩壊は、アメリカ先住民の社会構造と文化に深刻かつ永続的な傷跡を残しました。その影響は、家族や共同体の崩壊から、宗教的信念の動揺、世代間の知識伝達の断絶まで、あらゆる側面に及びました。
まず、社会の基本的な単位である家族と共同体が崩壊しました。 伝染病は年齢や性別を問わず人々を襲いましたが、特に働き盛りの成人と、知識の担い手である長老たちに大きな打撃を与えました。 労働力が失われたことで、農耕、狩猟、食料の採集といった生存に不可欠な活動が維持できなくなり、生き残った人々も飢餓に苦しむことになりました。 親を失った子供たちが大量に発生し、世話をする人もなく、共同体の再生産能力そのものが脅かされました。生存者たちは、かつて活気に満ちていた村が、死者と瀕死の人々で埋め尽くされる光景を目の当たりにし、深い絶望感と無力感に襲われました。
次に、伝統的な宗教観や世界観が根底から揺るぎました。多くの先住民社会では、病気や不幸は、宇宙の調和の乱れや、神々や精霊との関係の不調和によって引き起こされると信じられていました。シャーマンや神官は、儀式や薬草を用いて病気を癒し、共同体の調和を回復する重要な役割を担っていました。しかし、旧世界から持ち込まれた新しい病気は、彼らの伝統的な知識や治療法では全く歯が立たなかったのです。シャーマン自身も病に倒れ、多くの人々が祈りも虚しく死んでいく中で、古くからの信仰はその力を失いました。 一部の先住民は、自分たちの神々が見放したのだ、あるいはヨーロッパ人の神の方が強力なのだと考えるようになりました。 この精神的な空白と混乱は、キリスト教宣教師による布教活動を容易にする土壌を提供し、多くの人々が伝統的な信仰を捨ててキリスト教に改宗する一因となりました。
さらに、世代間の文化伝達のシステムが破壊されました。先住民社会の多くは、文字を持たない口承文化であり、歴史、神話、儀式、工芸技術、薬草の知識といった文化的な遺産は、長老から若い世代へと語り継がれることで維持されていました。 伝染病によって長老たちが大量に死亡したことは、この知識の連鎖を断ち切ることを意味しました。多くの言語、物語、伝統技術が、それを記憶する人々と共に永遠に失われました。 生き残った世代は、自らのアイデンティティの拠り所となる文化的な羅針盤を失い、深い断絶感を抱えることになりました。
社会構造も大きく変化しました。人口の激減により、かつては独立していた複数の共同体が、生き残るために一つにまとまらざるを得なくなるケースも多く見られました。これにより、異なる言語や文化を持つ人々が混じり合い、新たな社会が形成される一方で、独自の文化が失われることもありました。また、指導者層が一掃されたことで、政治的な意思決定能力が麻痺し、ヨーロッパ人の支配に対する組織的な抵抗が困難になりました。
このように、伝染病は単に人々の命を奪っただけでなく、アメリカ先住民社会の精神的な支柱を打ち砕き、文化的な連続性を断ち切り、社会の構造そのものを変容させました。この文化的・社会的な崩壊は、物理的な征服以上に深刻な影響をもち、その後の数世紀にわたる先住民の苦難の歴史の序章となったのです。

征服と植民地化における伝染病の役割

大航海時代におけるヨーロッパ人のアメリカ大陸征服は、しばしば火器、鉄製の武器、そして馬といった軍事技術の優位性によって説明されます。 しかし、これらの要素が重要であったことは間違いないものの、アステカやインカといった強大な帝国を、なぜかくも少数のヨーロッパ人が短期間で征服できたのかを説明するには不十分です。この征服劇における「見えざる同盟者」こそが、ヨーロッパ人が無意識に持ち込んだ伝染病でした。
伝染病は、いくつかの点でヨーロッパ人の征服活動を決定的に有利にしました。第一に、伝染病は先住民の人口を激減させ、その軍事力を著しく削ぎ落としました。 エルナン・コルテスがアステカ帝国を征服した際、彼の兵力はわずか数百人であったのに対し、アステカの戦士は何万人もいました。 しかし、1520年に首都テノチティトランを襲った天然痘の大流行は、アステカの戦士を含む人口の大部分を死に至らしめるか、あるいは病気で動けなくさせました。 兵士の数が大幅に減少しただけでなく、指導者層も病に倒れ、指揮系統は混乱しました。社会全体が病と死、そして飢餓によって麻痺状態に陥る中で、組織的な抵抗は不可能になったのです。 コルテスが1521年に最終的な攻撃を仕掛けたとき、彼が対峙したのは、もはやかつての強大な帝国ではなく、伝染病によって骨抜きにされた社会でした。
同様のシナリオは、フランシスコ・ピサロによるインカ帝国の征服でも繰り返されました。ピサロがペルーに到着する数年前に、天然痘はすでにアンデス地域に到達しており、皇帝ワイナ・カパックとその後継者を死に至らしめていました。 これが引き金となり、皇帝の二人の息子、ワスカルとアタワルパの間で帝国を二分する内戦が勃発しました。 ピサロは、この内戦によって帝国が分裂し、疲弊しきっているという、またとない好機に乗りじることができたのです。伝染病が引き起こした政治的混乱がなければ、ピサロのわずか170人ほどの兵士が、何百万もの人口を擁するインカ帝国を征服することは不可能だったでしょう。
第二に、伝染病は先住民の士気と抵抗の意志を打ち砕きました。 自分たちだけが次々と倒れていく一方で、スペイン人たちはほとんど病気にかからないという不可解な現象は、先住民に深い心理的衝撃を与えました。 彼らは、この災厄が自分たちの神々の怒りによるものか、あるいはスペイン人の神がもたらした罰であると考え、運命論的な絶望感に陥りました。 この心理的な打撃は、彼らの抵抗意欲を削ぎ、ヨーロッパ人に対する超自然的な力のイメージを植え付け、征服を容易にしました。
第三に、伝染病はヨーロッパ人による植民地支配の確立と維持を助けました。人口が激減したことで、広大な土地が無人となり、ヨーロッパ人入植者は容易に土地を収奪することができました。 また、労働力の源泉であった先住民人口が減少したことは、新たな労働力を確保する必要性を生み出し、結果としてアフリカからの奴隷貿易を大規模に拡大させる直接的な原因となりました。
一部の事例では、ヨーロッパ人が意図的に伝染病を「生物兵器」として利用した可能性も指摘されています。 例えば、18世紀の北米では、イギリス軍司令官が先住民に天然痘患者が使用した毛布を贈ることで、病気を広めようとした記録が残っています。 大航海時代の初期の征服において、このような意図的な使用がどの程度行われたかを証明することは困難ですが、結果として伝染病が征服の最も効果的な武器として機能したことは疑いようのない事実です。 まさに、銃や鋼鉄以上に、目に見えない病原菌こそが、アメリカ大陸の運命を決定づけたのです。

経済への影響:労働力不足と奴隷貿易

伝染病によるアメリカ先住民の人口崩壊は、新世界の経済構造に根本的な変革をもたらしました。ヨーロッパ人による植民地経営の根幹は、鉱山での貴金属採掘や、サトウキビなどのプランテーション農業であり、これらはすべて大量の労働力を必要としました。当初、スペイン人入植者たちは、エンコミエンダ制などの制度を通じて先住民を強制的に労働させていましたが、伝染病によってその労働力の源泉が枯渇してしまったのです。
労働力の壊滅的な不足は、植民地経済にとって深刻な危機でした。 特に、カリブ海の島々や沿岸部の低地では、先住民人口がほぼ絶滅状態に陥ったため、労働力の代替が急務となりました。 この問題に対するヨーロッパ人の「解決策」が、アフリカ大陸からの奴隷の組織的な輸入、すなわち大西洋奴隷貿易でした。
アフリカ人奴隷の導入は、16世紀初頭にはすでに始まっていましたが、先住民人口の減少が深刻化するにつれて、その規模は急速に拡大していきました。 1502年には最初の奴隷がイスパニョーラ島に到着し、1518年にはスペイン王室がアフリカからアメリカへの奴隷輸送を許可する「アシエント」と呼ばれる独占契約のシステムを確立しました。 これにより、何世紀にもわたって続く、人類史上最大規模の強制移住の扉が開かれたのです。
皮肉なことに、伝染病のダイナミクス自体が、アフリカ人奴隷への需要をさらに高める要因となりました。 アメリカ大陸の熱帯・亜熱帯地域では、アフリカから持ち込まれたマラリアや黄熱病が定着しました。 アフリカの人々は、これらの病気に対してある程度の遺伝的抵抗性を持っていたのに対し、ヨーロッパ人やアメリカ先住民は非常に脆弱でした。 そのため、プランテーションのような過酷で不衛生な労働環境において、アフリカ人奴隷はヨーロッパ人の年季契約労働者や先住民労働者よりも「生存率が高い」労働力と見なされるようになったのです。 マラリアが蔓延する地域ほど、アフリカ人奴隷への需要が高まり、奴隷の価格も高騰したことが経済史の研究によって示されています。
こうして、旧世界の伝染病による先住民の人口崩壊は、新世界の労働システムを根本的に変え、アフリカ大陸を巻き込んだ新たな三角貿易のシステムを構築する直接的な引き金となりました。ヨーロッパは銃や織物などの工業製品をアフリカに輸出し、アフリカでそれらと交換に奴隷を買い付け、その奴隷を「中央航路(ミドル・パッセージ)」と呼ばれる過酷な船旅でアメリカ大陸へ運び、アメリカ大陸で奴隷の労働によって生産された砂糖、タバコ、綿花などの産品をヨーロッパへ持ち帰るという、この三角貿易のシステムは、その後の数世紀にわたってヨーロッパの資本主義経済の発展を支える重要な基盤となりました。
一方で、ペルーやメキシコなど、先住民人口が比較的多く残った地域では、異なる労働システムが発展しました。スペイン植民地政府は、先住民の共同体に対して一定の労働力を提供させる「ミタ制」(インカ帝国時代の制度を改変したもの)や「レパルティミエント制」を導入しました。 しかし、これらの制度の下でも、伝染病による人口減少は常に労働力不足という問題を引き起こし、植民地経済の不安定要因であり続けました。
このように、伝染病はアメリカ先住民の命を奪うだけでなく、その結果生じた労働力不足を通じて、アメリカ大陸の経済と社会のあり方を根本から規定しました。それは、先住民の強制労働からアフリカ人奴隷制へと労働システムの中心を移行させ、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカを結ぶ巨大な経済圏を形成する原動力となったのです。この経済的変容は、現代に至るまで続く南北アメリカ大陸の複雑な人種構成と社会構造の基礎を築くことになりました。

生態系への影響:家畜の導入と景観の変容

コロンブス交換は、病原体だけでなく、多種多様な動植物を大陸間で移動させ、アメリカ大陸の生態系に劇的な変化をもたらしました。ヨーロッパ人が持ち込んだ家畜、特に牛、豚、羊、馬は、新世界の環境に深く、そしてしばしば破壊的な影響を与えました。
これらの家畜は、アメリカ大陸には存在しなかった種であり、天敵がおらず、広大な土地が広がっていたため、驚異的な速さで繁殖しました。特に豚は、野生化して「レイザーバック」と呼ばれるようになり、あらゆるものを食べ尽くしながら森林を駆け巡りました。彼らは先住民の畑を荒らし、食料となる植物の根や球根を掘り返し、地表の植生を破壊しました。
牛や羊の放牧もまた、景観を大きく変えました。大規模な牧畜が始まると、在来の草は食べ尽くされ、踏み固められた土地は侵食に対して脆弱になりました。乾燥した地域では、過放牧が砂漠化を進行させる一因ともなりました。ヨーロッパから持ち込まれたクローバーやケンタッキーブルーグラスといった牧草の種子が、意図的に、あるいは偶然に広がり、在来の植物相を駆逐していきました。かつて多様な植物で覆われていた土地は、単一的な牧草地へと姿を変えていったのです。
馬の導入は、特に北米の平原インディアンの文化に革命的な変化をもたらしました。馬を手に入れたことで、彼らの移動能力は飛躍的に向上し、巨大なバイソンの群れを追って狩りをする、新たな生活様式が生まれました。これにより、18世紀から19世紀にかけて、平原インディアンの文化は一時的に隆盛を極めました。しかし、この変化もまた、ヨーロッパ人の進出という大きな文脈の中にありました。
伝染病による先住民人口の激減は、これらの生態学的変化をさらに加速させました。人口が減少し、農地が放棄されたことで、ヨーロッパ人入植者や彼らが持ち込んだ家畜が利用できる土地が広がりました。また、先住民が行っていた、火入れによる森林管理や計画的な農業といった、土地に対する人為的な働きかけが途絶えたことも、生態系のバランスを変化させました。
一部の研究者は、この大規模な人口減少とそれに伴う農地の放棄が、地球規模の気候にさえ影響を与えた可能性を指摘しています。先住民が耕作していた広大な土地が再び森林に戻ったことで、大気中の二酸化炭素が大量に吸収され、16世紀から17世紀にかけて地球が寒冷化した「小氷期」の一因となったのではないか、という仮説です。この「オルビス・スパイク」と呼ばれる現象は、人間の活動、あるいはその不在が、地球環境全体に影響を及ぼしうることを示唆しています。
このように、伝染病による人口崩壊は、人間社会だけでなく、アメリカ大陸の自然環境そのものを根底から作り変えました。ヨーロッパ由来の家畜と植物が在来の生態系を席巻し、景観は恒久的に変容しました。この生態学的な帝国主義は、生物学的な征服のもう一つの側面であり、新世界の自然をヨーロッパのそれに似た形へと作り変えていくプロセスの一部だったのです。

新世界から旧世界へ:梅毒の起源を巡る議論

コロンブス交換における病気の移動は、圧倒的に旧世界から新世界への一方通行でしたが、その逆の流れ、すなわち新世界から旧世界へ伝わった伝染病が存在した可能性も長年議論されてきました。その最も有力な候補とされているのが、梅毒です。
梅毒は、トレポネーマ・パリダムという細菌によって引き起こされる性感染症です。この病気がヨーロッパで初めて確実に記録されたのは、1494年から1495年にかけて、フランス王シャルル8世がイタリアのナポリを包囲した際の兵士たちの間での大流行でした。この時期は、コロンブスが最初の航海からスペインに帰還した直後であり、そのタイミングの一致から、梅毒はコロンブスの船員たちがアメリカ大陸から持ち帰った病気であるという説(コロンブス説)が古くから唱えられてきました。
この説を支持する論拠はいくつかあります。第一に、1490年代以前のヨーロッパの文献や人骨には、梅毒の存在を示す確実な証拠が見つかっていません。第二に、アメリカ大陸のコロンブス以前の人骨の中には、梅毒の末期症状に似た骨の病変が見られるものが発見されています。これらの骨の病変は、梅毒そのものではなく、同じトレポネーマ属菌によって引き起こされる、性感染症ではない風土病(ピンタ、ヨーズ、ベジェルなど)のものである可能性も指摘されていますが、一部の研究者はこれが梅毒の祖先型の病気であったと考えています。この仮説によれば、アメリカ大陸では風土病として存在していたトレポネーマ菌が、ヨーロッパの異なる衛生環境や社会環境に持ち込まれたことで、より毒性の強い性感染症へと変異したのではないか、というものです。
一方で、このコロンブス説に異議を唱える「前コロンブス説」も存在します。この説は、梅毒あるいはそれに類似した病気は、コロンブスの航海以前から旧世界に存在していたが、他の病気(例えばハンセン病)と混同されていたり、診断されていなかったりしただけだと主張します。この説の支持者は、古代ギリシャのヒポクラテスの記述や、イギリスで発見された14世紀の人骨などに、梅毒の可能性を示唆する証拠があると指摘しています。
近年、遺伝学的な研究がこの論争に新たな光を当てています。梅毒の原因菌であるトレポネーマ・パリダムのゲノムと、アメリカ大陸の風土病であるヨーズの原因菌のゲノムを比較した研究では、両者が遺伝的に非常に近い親戚であり、共通の祖先から分かれたことが示されました。そして、その分岐が起こった年代や遺伝的な関係性から、アメリカ大陸に存在していた菌がヨーロッパに渡って梅毒を引き起こしたというシナリオが最も有力であると結論付けられています。
もし梅毒が本当に新世界由来の病気であったとしても、その人口動態への影響は、旧世界から新世界へ渡った病気とは比較になりません。梅毒は致死的な病気となりうるものの、天然痘や麻疹のように爆発的な流行を引き起こして人口を激減させるような病気ではありませんでした。しかし、梅毒の出現はヨーロッパ社会に大きな衝撃を与え、性や道徳に関する新たな観念を生み出すきっかけとなりました。
梅毒を巡る議論は、コロンブス交換が決して単純な一方通行の現象ではなかったことを示唆しています。しかし、その影響の規模と破壊力において、圧倒的な非対称性が存在したことは紛れもない事実です。旧世界が新世界に与えた疫病の打撃は、新世界が旧世界に与えたそれとは比べ物にならないほど甚大であり、この非対称性こそが、大航海時代以降の世界史の力学を決定づけた最も重要な要因の一つなのです。

長期的遺産と歴史的意義

大航海時代に起こった伝染病のパンデミックがアメリカ大陸の歴史、ひいては世界の歴史に残した遺産は、計り知れないほど大きく、多岐にわたります。その影響は、単なる過去の悲劇にとどまらず、現代に至る南北アメリカ大陸の社会、文化、人口構成、そして政治的・経済的構造の根幹を形成しています。
最も直接的で永続的な遺産は、人口動態の劇的な変化です。アメリカ先住民の人口崩壊は、大陸の主役を交代させる決定的な要因となりました。かつて大陸の隅々まで広がっていた多様な先住民社会は、その多くが消滅または縮小し、ヨーロッパからの入植者と、労働力として強制的に連れてこられたアフリカ人が新たな主要な住民となりました。この人口の入れ替えは、その後のアメリカ大陸の歴史のすべてを規定する、最も基本的な前提条件となったのです。現代のラテンアメリカにおけるメスティーソ(ヨーロッパ人と先住民の混血)やムラート(ヨーロッパ人とアフリカ人の混血)といった多様な人種構成は、この時代の人口動態の激変に直接その起源を持っています。
第二に、伝染病はヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地支配を確立し、その後の世界的なパワーバランスを決定づけました。病原菌という「見えざる武器」がなければ、少数のヨーロッパ人が広大なアメリカ大陸をかくも迅速に支配することは不可能だったでしょう。この征服によって、ヨーロッパ諸国はアメリカ大陸の豊富な資源(特に銀)を手に入れ、その富を元に世界的な経済・軍事大国へと発展していきました。アメリカ大陸の富の収奪は、ヨーロッパにおける資本主義の発展を加速させ、産業革命への道を拓きました。一方で、アメリカ大陸とアフリカ大陸は、この新たな世界システムの周辺部に組み込まれ、長期にわたる従属と搾取の歴史を歩むことになります。このように、伝染病は、現代に至る世界の「中心」と「周辺」の構造を生み出す上で、間接的ながらも決定的な役割を果たしました。
第三に、伝染病の経験は、アメリカ先住民のアイデンティティと文化に深い傷跡を残しました。人口の激減、文化の断絶、伝統的な信仰の動揺は、多くの先住民共同体に深刻なトラウマを与えました。しかし同時に、この苦難の歴史は、生き残った人々にとって、共有された記憶となり、抵抗と再生の物語の源泉ともなっています。現代において、多くの先住民たちが自らの言語や文化の復興、そして権利の回復を求めて活動している背景には、この歴史的トラウマを乗り越えようとする強い意志があります。
第四に、コロンブス交換は、人類史上初めて、地球規模での生態系の均質化をもたらしました。病原体、植物、動物が大陸間を移動し、世界の生物多様性は大きく変化しました。このグローバル化のプロセスは、現代においてますます加速しており、外来種の侵入や新たな感染症の出現といった問題は、大航海時代に始まった現象の延長線上にあると捉えることができます。COVID-19のパンデミックが示したように、人間と病原体の関係、そしてグローバルな移動がもたらすリスクは、500年前と同様に、現代社会においても中心的な課題であり続けています。
大航海時代の伝染病の影響は、アメリカ大陸の征服と植民地化を可能にした最大の要因であり、その後の世界の歴史を形作った根本的な力でした。それは、銃や剣といった物理的な力以上に、目に見えない微生物が歴史を動かすことがあるという、強力な実例を示しています。
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・伝染病とは わかりやすい世界史用語2302

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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