経済大国への道
石油ショック以降世界的に経済の低迷が続く中で、日本は不況からいち早く脱し、1979年(昭和54年)に第2次石油ショックも金融引き締めを行い乗り切りました。こうした背景には、各企業が、人員整理とコンピュータやロボット技術導入により、様々な分野で自動化を成し遂げたことがありました。第1次石油ショック以降、スタグフレーションの状況に陥っていた日本は、賃金の上昇を抑える必要に迫られていましたが、この時期、国内の労働運動も下火になってきており、春闘でも労働者の大幅賃上げの要求は低く抑えられていました。その結果、高物価と高賃金の悪循環が断ち切られ、不況からの脱出に成功しました。
1987年(昭和62年)には、労使協調的な日本労働組合総連合会(連合)が発足し、1989年(平成元年)に総評が解散してこれに合流し、800万人の組合員を擁する大労組になりました。この他に、共産党系の全国労働組合総連合(全労連)があります。
産業の面では、従来の鉄鋼・石油化学・造船分野が停滞していましたが、自動車・電気機械・半導体・IC(集積回路)などのハイテク分野が輸出向けを中心に急速に生産を伸ばしていきました。
1985年(昭和60年)9月、ニューヨークのプラザホテルで米・英・仏・独・日本(G5)の蔵相・中央銀行総裁会議が開催され、ドルの引き下げとマルク・円の切り上げが決定しました。日本からは、中曾根内閣の竹下登蔵相が参加し、この会議後、円は急激に上昇し、1ドル240円台だった相場が1987年(昭和62年)に120円台まで上がりました。この影響で輸出産業が一定の損失を受けますが、一方で輸入物価が下落したため、国内の需要増による経済成長がはじまりました。円高とそれに伴う輸出産業の不況を克服する過程で、国内ではコンピュータ・通信機器を利用した生産や販売がネットワーク化され、重化学工業でも、新技術の導入により、多品種少量生産体制が整い始めました。この間、日本から世界への政府開発援助(ODA)も、1992年(平成4年)に84億ドルとなり、金額的に世界トップを占めるようになりました。
こうして経済大国へと変わっていった日本でしたが、次第に金融機関や企業でだぶついた資金が国内外の不動産市場や株式市場に流入し、1987年(昭和62年)ころから、株価や地価が投機的高騰をはじめました。この状況は実態とかけ離れたバブル経済であり、1991年(平成3年)ころから地価が下落しはじめると、高値に近い価格で土地を買った企業や個人が大きな損失を出し、こうした企業や個人に融資した金融機関が大量の不良債権を抱えるようになり、経営が悪化していきました。こうした金融機関の逼迫は経済全体に悪影響を及ぼし、日本は複合不況となっていきました。
戦後の文化
占領期から講和までの文化の特徴として、GHQによる影響が挙げられます。日本の占領にあたったGHQは、1945年(昭和20年)10月に五大改革司令を出し、日本社会の自由主義化と民主化を目指し、戦時下の言論・思想・信仰に対する抑圧を取り除き、旧来の価値観や権威を否定するような文化政策を進めました。
同時期、GHQは戦前期において自由主義的であるとして日本政府から解職・休職させられていた大学教授や教員の復職を命じました。1937年(昭和12年)12月に日本の大陸政策を批判し辞職に追い込まれた東京帝国大学経済学部教授の矢内原忠雄や、1938年(昭和13年)2月の第2次人民戦線事件で検挙された東京帝国大学経済学部教授大内兵衛も復職しました。1933年(昭和8年)に滝川事件で辞職を迫られた京都帝国大学法学部教授瀧川幸辰も1946年(昭和21年)に大学に復帰しました。GHQは文部省を通じて、中等学校以下の学校で使用する教科書のうち、軍国主義的観念を促進する記述を削除するように指導しました。また、全教科書を英訳させ内容のチェックを行い、修身・日本歴史・地理の授業の一時的停止と教科書の回収を指令しました。GHQは、1945年(昭和20年)、「言論及び新聞の自由に関する覚書」(プレス=コード、ラジオ=コード)を日本側に提示しました。この本来の意味は、言論報道が真実に基づいて行われ、公安を乱さず、「討論の自由」を保障するものでした。しかし同時に、このコードに違反した場合の発行停止という強権措置も認めており、連合国・進駐軍の動静や風説についての批判的報道も禁止されました。新聞・雑誌の原稿だけでなく文学作品も事前に検閲され、特攻隊員の死や被爆体験を題材にした作品は1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)ころまで出版が許されませんでした。
・メディアの復興
戦争終結により、言論界も活気を取り戻し、戦時中に休刊していた雑誌『中央公論』や『改造』はともに1946年(昭和21年)1月に復刊し、マルクス主義思想が強いとされていた歴史学の専門誌も復刊されました。同じ月に創刊された『世界』は、岩波茂雄・安倍能成・志賀直哉・山本有三らによって立ち上げられ、販売数を伸ばしました。再発足した日本放送協会(NHK)は放送網を全国に拡大し、民間ラジオ放送も1951年(昭和26年)から開始されました。
・学術の復興
戦前あった天皇制へのタブーやマルクス主義・自由主義に対する抑圧がなくなったことで、人文科学・社会科学の研究が急速に進みました。登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学研究が盛んとなり、丸山真男の政治学、大塚久雄の経済史学、川島武宜の法社会学などが大きな影響力をもちました。とくに、1946年(昭和21年)5月号の雑誌『世界』に掲載された丸山真男の「超国家主義の論理と心理」は、戦前までの日本の超国家主義の思想構造や心理的基盤の分析を、ヨーロッパの政治思想史との比較を通じて明らかにし、当時の知識人に衝撃を与えました。自然科学の分野では、1934年(昭和9年)の時点で「中間子仮説」を発表していた理論物理学者の湯川秀樹が、1949年(昭和24年)に日本人で初めてノーベル賞を受賞しました。湯川秀樹はその後京都大学基礎物理学研究所長を務め、更に核兵器反対の平和運動に関わりました。
・文化財の保護
1949年(昭和24年)に法隆寺金堂壁画が焼損したことがきっかけとなり、山本有三ら参議院議員は、1950年(昭和25年)、議員立法で文化財保護法を制定しました。1968年(昭和43年)には、伝統文化の保護と文化振興のために文化庁が設置されました。また、1937年(昭和12年)に制定後1944年(昭和19年)以降に中断していた文化勲章の制度を復活させ、学問・文芸・美術・音楽・演劇などの分野で顕著な功績をあげた人に授与されました。
・庶民文化
敗戦後、多くの人々は食にも事欠く生活を強いられました。1945年(昭和20年)には、軽快なリズムの「りんごの歌」が大流行しました。ラジオの音楽番組もこのころ誕生し、1946年(昭和21年)1月にNHKで「のど自慢素人音楽会」がはじまり、後のスター美空ひばりもこの番組に出ていました。映画界では1943年(昭和18年)に『姿三四郎』でデビューした映画監督の黒沢明が、1946年(昭和21年)に民主主義を啓蒙的に描いた『わが青春に悔いなし』を撮影し、日本映画の旗手となりました。1950年(昭和25年)には芥川竜之介原作の『羅生門』がヴェネチア映画祭でグランプリを受賞し、国際的に著名な映画監督となりました。
黒沢だけでなく、衣笠貞之助監督で菊池寛原作の『地獄門』もカンヌ映画祭でグランプリを受賞しました。1954年(昭和29年)のヴェニス映画祭では、黒沢明の『七人の侍』と溝口健二の『山椒太夫』がともに銀獅子賞を受賞しました。
・文化の大衆化
1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放送は、文化の大衆化・多様化を急速に推し進める媒体となりました。テレビ放送の開始により、戦前期から戦後にかけて最大の娯楽産業だった映画が次第に衰退していきました。1950年代には、週刊誌の発行部数が急激に伸びました。それまで読売・朝日・毎日など新聞社が発刊していましたが、1950年(昭和25年)2月に出版社の新潮社が『週刊新潮』を創刊しました。
・科学技術の発達
高度経済成長は、各分野の科学技術の発達により支えられました。1956年(昭和31年)からは南極観測がはじまり、原子力の平和利用やロケット開発が進められました。1965年(昭和40年)に物理学者朝永振一郎が、1973年(昭和48年)に江崎玲於奈がノーベル物理学賞を受賞しました。
1964年(昭和39年)10月10日からは第18回オリンピック大会が東京で開催されました。初のオリンピック開催で、94カ国が参加し、5586人の選手が参加しました。オリンピックによる経済効果は大きく、代々木競技場・日本武道館・渋谷公会堂が建設され、東海道新幹線の開通、首都高速建設や道路拡張が進められ、首都東京の風景は激変していきました。また、1970年(昭和45年)3月15日からは、大阪千里丘陵で日本万国博覧会が開催され、「月の石」や人工衛星などが展示されました。また日本は、1955年(昭和30年)に日米原子力協定で濃縮ウランの受け入れを開始し、同年原子力基本法を制定し、平和利用に限定して研究を進め、1963年(昭和38年)に初めて原子力発電を成功させました。1967年(昭和42年)には公害対策基本法が制定され、1993年(平成5年)にはこれに代わり環境基本法が成立しました。