冷戦と雪どけ
アメリカとソヴィエトの冷戦は、全世界を巻き込み、時に朝鮮戦争のような局地的な「熱戦」をおこしつつ激化していきました。原爆を超える水爆の開発、核兵器を敵国に直接打ち込むためのICBM(大陸間弾道ミサイル)開発など軍拡競争が進み、更にソ連は人工衛星スプートニク打ち上げ、アメリカはアポロ計画の月面着陸など、宇宙空間を巡っての争いも続きました。
こうした激しい東西対立は次第に双方が手詰まりし、1950年代半ばから対立緩和の動きが起こりました。これを「
雪どけ」といいます。ソ連では1953年に独裁者スターリンが死去し、後継者のフルシチョフが東西平和共存路線を打ち出し、1959年にアメリカを訪問し、アイゼンハウアー大統領と首脳会談を行いました。
同時期の1962年10月には、ソ連のミサイル基地設置に対し、アメリカがキューバを海上封鎖する
キューバ危機が起こり、米ソ対立は核戦争の一歩手前までいきました。しかしこのとき、米ソ両国はたがいに保有する全核兵器を用いた場合、相手国だけでなく全地球を破壊することになる事実が認識したため、両国は核兵器使用を制限する方向性に移っていきました。こうして、1963年の部分的核実験停止条約、1968年の核兵器拡散防止条約が締結されました。
ヨーロッパも復興し、1957年に
ヨーロッパ経済共同体(EEC)、1967年にこれを継いだ
ヨーロッパ共同体(EC)が発足し、経済統合を進めました。中でも、シャルル=ド=ゴール大統領時代のフランスは独自外交を展開し、西ドイツや日本は戦後復興から驚異的な経済成長を遂げ、アメリカ産業の競争相手になりました。
東側では、中国とソ連の対立が表面化し、中国は1964年に核実験を成功させ、1966年には
毛沢東が「文化大革命」をすすめました。1968年には、チェコスロヴァキアで民主化の動きが起こりましたが、ソ連軍の介入により失敗しました。
アジアでは、1955年に中国・インドが中心となり、
アジア=アフリカ会議(AA会議,バンドン会議)が開かれ、平和共存・反植民地主義の「平和十原則」が決議されました。こうして、1960年代には東西対立以外の第三勢力として、アジア・アフリカ諸国が国連の過半を占めるようになりました。
ヴェトナムではフランスからの独立を目指しインドシナ戦争が続いていましたが、1954年にインドシナ休戦協定が結ばれ、フランス軍は撤退しました。ヴェトナムでは、1945年に独立を宣言したヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)に対し、かつての宗主国フランスがヴェトナム国(南ヴェトナム)を建て、両国間で戦争がはじまりました。1954年に北ヴェトナム側の勝利により、北緯17度線に休戦ラインが設定されましたが、その後中国・ソ連・北ヴェトナムの支援を受けた南ヴェトナム解放戦線が結成され、アメリカの支援を受けた南の政府と内戦が起こりました。こうした中、1965年からアメリカが北ヴェトナムへの爆撃(北爆)を含む大規模な軍事介入を始め、北ヴェトナムは中ソの援助を受け徹底抗戦しました。この
ヴェトナム戦争は泥沼化し、1975年まで続きました。