日中国交回復とドル=ショック
1960年代後半、
ヴェトナム戦争の泥沼化により、アメリカ経済は軍事費の増大により圧迫され、基軸通貨ドルの国際的信用も低下していきました。アメリカ経済が影を落とす中で、敗戦国の西ドイツと日本は、固定相場制のもとでマルク安、円安を利用し輸出増大を図り、国際収支が黒字になっており、アメリカ側はこうした状況に不満を持っていました。
同時期アメリカ大統領に就任した
ニクソンは、アメリカ経済再建とヴェトナム戦争終結を目指し、中国の仲介により和平交渉を進めようとしました。1971年(昭和46年)7月15日、ニクソン大統領は声明を発表し、翌年中国を訪問し、中米関係改善を目指しました。同年8月15日、ニクソンはドル防衛とインフレ抑制のため金とドルの交換を停止し、西ドイツや日本などの国際収支黒字国の為替レート引き上げを要求しました。また、この要求を通すために、臨時に輸入課徴金制度をはじめ、日本から輸入する電気製品などに10%の輸入課徴金をかけることを発表しました。
アメリカの新政策は、中華民国(台湾)と講和条約を結んで外交関係を築き、固定為替相場制のもとで輸出増進を続けていた日本に大打撃となりました。これを
ニクソン=ショックといいます。
日本は当時二つの中国という問題に直面していました。1950年代、アメリカの意向もあり、日本は中華民国(台湾)と
日華平和条約を結びました。1960年代になると、今度は中華人民共和国との間に、
LT貿易(交渉にあたった廖承志と高碕達之助の頭文字をとったもの)が準政府間貿易として開始されました。そして1970年代に、ニクソンの北京訪問計画が明らかになり、同年中華人民共和国が国連に加盟し、中華民国は国連を脱退しました。1972年(昭和47年)2月にニクソンの訪中が実現すると、日本側も同年7月に
田中角栄内閣成立と同時に、日中国交正常化の談話を発表しました。中国首相
周恩来にとっても、中ソ関係が悪化しつつあった状況もあり、日本との国交正常化は意味がありました。
こうした背景の中で、田中角栄首相が訪中し、
中共同声明日が発表されました。その内容は以下でした。
(1)日本は戦争責任を認め、反省する態度を表明する。
(2)日本はすでに中華民国と戦争状態の終結をおこなっていたため、「戦争状態の終結」という表現をとらず、両国間の不正常な状態を終了させるという表現とする。
(3)中華人民共和国を唯一の合法政府とする。
(4)中国側は、対日請求権を放棄する。
この日中共同声明が出されたことで、日華平和条約は廃棄され、日本と中華民国(台湾)との外交関係は断絶しました。その後1978年(昭和53年)に、
福田赳夫内閣で
日中平和友好条約が締結されましたが、この期間が空いた理由は、いわゆる覇権条項を巡る対立があったためでした。