国家主義改革運動の高まり
1930年代に入ると、ロンドン軍縮問題、満蒙問題、農村の疲弊など、さまざまな国内問題に対し軍部の青年将校や民間の国家主義団体による急進的な国家改造運動が活発になっていきました。こうした国家の危機に際し、元老・政党政治家・財閥などの支配層が私利私欲を追求し、党利党略にふけっていると彼らは考えました。1931年(昭和6年)3月、陸軍内部の秘密結社桜会の将校と国家主義活動家が政党内閣打倒と軍部政権樹立を目指してクーデターを計画した三月事件がおこりました。満州事変勃発後、国民の間で軍部の支持が高まり、同年には同じようなクーデター計画の十月事件がおこりました。この2つのクーデターは未遂に終わりましたが、十月事件は満州事変の不拡大方針を打ち出した第2次若槻内閣を退陣させた原因の一つになりました。
同時期、政党政治家や財界指導者を対象とするテロの動きが活発になり、井上日召を指導者とし、構成員に”一人一殺”を求めたテロリズム結社血盟団が、1932年(昭和7年)2月に前蔵相井上準之助、3月に三井号名理事長団琢磨を殺害した血盟団事件をおこしました。
五・一五事件と政党政治の終わり
1932年(昭和7年)5月15日、軍縮に反対する海軍青年将校の一部が首相官邸を襲撃し、
犬養毅首相を射殺し、同時に他の青年将校や農本主義者の一派が牧野内大臣邸・警視庁・立憲政友会本部・日本銀行・変電所などを占領しました。この
五・一五事件により、政党政治家らは大きな衝撃を受け、陸軍はこの事件後に政党内閣の存続に反対するようになりました。元老西園寺公望は陸軍の意見を考慮せざるを得なくなり、妥協人事として穏健派の海軍大将の
斎藤実を首相に推薦しました。斎藤実は、軍部・貴族院・官僚・政党から閣僚を選び、
挙国一致内閣が成立しました。こうして8年間の政党政治は終わり、太平洋戦争終戦後まで復活することはありませんでした。この斎藤実内閣と、その後の岡田啓介内閣は挙国一致内閣や中間内閣と呼ばれ、軍部支配はまだ確立していませんでしたが、政党政治家の力は弱くなり、軍部と結んだ革新官僚や既成の政党に反対する国家主義革新勢力が政治的に発言力を増し、1934年(昭和9年)陸軍当局が陸軍パンフレットを公表し、政治・経済・思想・国民生活全般にわたって言及し、陸軍の政治的影響力が高まっていきました。