軍部の台頭と満州事変
1920年代末、中国では国民政府の指導により、全土統一を果たそうとする動きが活発になっていきました。満州でも、爆殺事件により殺害された軍閥
張作霖の息子
張学良が、1928年に中国国民党の青天白日旗をかかげ(
易幟)、国民政府に忠誠を誓いました。国民政府は全土に広がる民族運動を背景に、外国政府に与えていた
治外法権・関税自主権・鉄道権益・外国人租界・租借地・外国軍隊駐留などさまざまな権益の回収を目指し、
国権回復に取り掛かりました。
反日の気運が高まる中、満州をはじめ中国各地で組織的に日本商品のボイコット(日貨排斥運動)が高まり、満州鉄道に並行して中国側が鉄道を敷設したため、満州鉄道が赤字となり、日本の権益は急速に縮小していきました。
日露戦争後に日本が獲得した満州は、
特殊権益地帯として対ソ戦略の拠点と資源供給地として日本経済にとって重要な地域になっていました。その満州を含めた中国各地での国権回復の動きに対し、特に日本陸軍が大きな危機感を覚えるようになりました。
同時期、日本国内では1931年(昭和6年)に立憲民政党の
第2次若槻礼次郎内閣が誕生し、
幣原喜重郎外相主導による満蒙問題をめぐる交渉が続けられていました。しかし、日中間の交渉はさまざまな問題の山積により進まず、関東軍をはじめとする日本陸軍内部では幣原外交を「軟弱外交」と非難し、軍事行動を起こし満州を中国の主権から切り離し日本の支配下に置こうとする気運が高まりました。同年7月から8月にかけて、満州で参謀本部部員中村大尉が中国兵に殺害された
中村大尉事件や中国人農民と朝鮮人農民が衝突した
万宝山事件がおこるなど、現地では緊迫した状況が続きました。
こうした緊迫状況のなか、1931年(昭和6年)9月18日夜、満州の
奉天(現在の
瀋陽)郊外の
柳条湖で、満州鉄道が爆破される事件がおこりました。この柳条湖事件を関東軍は張学良の軍隊によるものと発表しましたが、実際は
板垣征四郎と
石原莞爾という関東軍参謀による自作自演の軍事行動でした。関東軍司令官の本庄繁は着任早々で状況を把握しておらず、蚊帳の外であったといわれています。
柳条湖事件を起こした関東軍は、中国側が起こした事件と発表するやいなや、即座に軍事行動をおこし、
奉天・長春など南満州の主要都市を占領し、朝鮮に駐屯していた日本軍も一部が独断で鴨緑江を渡り満州の関東軍を支援しました。現地の情報を知った若槻内閣は不拡大方針を発表しますが、関東軍は政府を無視し、軍事行動を拡大し、同年11月から翌年2月までにチチハル・錦州・ハルビンなど満州各地を占領しました。これを
満州事変といいます。
若槻内閣は軍部の暴走をコントロールできず、マスメディアによって作られた世論も関東軍の行動を支持するようになっていきました。また、国内軍部のクーデター計画(
十月事件)も明るみになり、1931年(昭和6年)12月に若槻内閣は退陣し、立憲政友会の
犬養毅が新たに内閣を作りました。
関東軍は、満州事変の勃発後、張学良政権の排除と新たな独立国の樹立を目指しました。若槻内閣の幣原外相は、こうした暴挙に対し中国の主権・独立尊重を決めた
九カ国条約に違反するとして反対しましたが、関東軍は政府を無視し計画を実行しました。
1932年(昭和7年)2月までに、黒竜江・吉林・奉天など東三省を占領した関東軍は、3月に清朝最後の皇帝(もと
宣統帝)
溥儀を執政に据えて「
満州国」の建国を宣言させ、事実上日本の傀儡政権を誕生させました。これに対し、犬養内閣は承認を渋りましたが、1932年(昭和7年)5月に
五・一五事件がおこり海軍軍人により犬養毅が殺害され内閣が瓦解し、
斎藤実内閣が成立すると、軍部の圧力と世論により政府も「満州国」承認に傾きました。1932年(昭和7年)には
上海事変という排日運動がおこりましたが、列強の抗議により5月に停戦しました。