日米交渉の行き詰まり
1941年(昭和16年)4月、第2次近衛内閣の
松岡外務大臣は、モスクワに赴き、ソ連と日ソ中立条約を締結しました。これにより、日本は「北守南進」の計画を進め、アメリカは日本の南進政策により一層警戒するようになりました。
強大なアメリカとの戦争を回避するため、近衛内閣はかねてから民間人のあいだで接触が進んでいたものを、正式な外交ルートとして1941年4月に野村吉三郎駐米大使に日米交渉としてはじめさせました。
しかし、同年6月にドイツが独ソ不可侵条約を破って独ソ戦を開始すると、軍部は対米対英戦争の可能性を覚悟した上で南方進出を行うべきとし、さらにソ連がドイツに敗北した際に日ソ中立条約を破ってソ連を攻撃することとし、
関東軍特種演習(関特演)と称して満州とソ連国境に兵を集めました。この関特演はソ連の国境駐留軍が残ったためのちに中止されました。
対米戦争回避のため、日米交渉の進展に望みをかけていた近衛文麿首相は、1941年(昭和16年)7月、対米強硬派の松岡洋右外相を内閣から外すために総辞職し、その後松岡外相を除いて
第3次近衛内閣を組閣し、再度日米交渉に当たりました。
第2次近衛内閣で行われた北部仏印進駐に続き、第3次近衛内閣の1941年(昭和16年)7月末、日本軍は
南部仏印進駐を開始しました。これに対し、アメリカは日本に対する強い不信感を抱き、在米日本資産を凍結し、8月には対日石油輸出の全面的禁止で対抗しました。こうして、アメリカをはじめとする
ABCD(アメリカ・イギリス・中国・オランダ)包囲網により対日経済封鎖が強化されていきました。
資源の乏しい日本は、最重要軍事物資である石油の多くをアメリカからの輸入に頼っていました。この一連の対日経済封鎖や石油禁輸により、軍艦・航空機・戦車などの兵器が使えなくなるとの懸念が軍部を中心に大きくなり、アメリカ・イギリスに対し開戦し、武力で対日包囲網を破るべきとの主張が高まっていきました。