戦時体制の強化
広田弘毅内閣の時代に、大規模な軍備拡張が進められ、国家財政は膨張し、国際収支は悪化していきました。政府は経済の国家統制に乗り出し、日中戦争勃発直後に不要不急物資の輸入停止と軍需産業へ重要物資を優先的に投入することを定めた
輸出入品等臨時措置法、同じく軍需産業へ資金を優先投入することを目指す臨時資金調整法を公布しました。
日中戦争が長期化していくと、政府は
国家総動員体制の成立を目指すようになりました。基本法の制定について、陸軍の要請により1935年(昭和10年)に基本国策の調査機関として内閣調査局が設置され、のちに企画庁、1937年(昭和12年)10月には資源局と合併し
企画院となりました。陸海軍の現役軍人・各省の官僚・学者らが調査官・専門委員となり、ソ連やナチス=ドイツの経済を研究し、総力戦に備え、統制・計画経済を研究しました。
企画院により立案が進められ、第一次近衛内閣により議会に提出された
国家総動員法は、物資の生産・配給・輸送、労働力の徴発、輸出入の制限と禁止、企業の管理、労働条件などを、政府が法律ではなく勅令によって統制できるように規定したものでした。立法の過程で財界や立憲政友会・立憲民政党などからは、自由主義的な資本主義経済を否定し、議会の立法機能を妨げるもので、憲法の精神に反すると強い反対が起こりました。一方で近衛内閣の与党的立場だった社会大衆党は、社会主義体制へつながる一歩として国家総動員法の支持を決めました。最終的に陸軍の圧力により既成政党もしぶしぶ賛成にまわり、濫用を戒める付帯決議付きで1938年(昭和13年)4月に公布されました。これにより、経済や国民生活のさまざまな分野で、政府は議会の議決を経ずに、勅令によって統制を加えられるようになりました。また、同じ議会で
電力(国家)管理法が可決され、政府は私企業にも介入するようになりました。こうして、憲法によって定められた帝国議会の立法機能は大きな制約を受けるようになりました。
こうして、政府は戦時経済体制を作り上げていきました。1938年(昭和13年)から、企画院により物資総動員計画が作成され、軍需産業に輸入資材や資金が集中的に割り当てられるようになりました。1939年(昭和14年)には、賃金統制令・会社利益配当・資金融通令、国民徴用令などが実施され、労働賃金・株主配当・企業の資金調達などが統制され、また一般国民が徴用により軍需産業に動員されるようになりました。こうして次第に軍部と財界も妥協し始め、財界代表の三井財閥池田成彬が近衛内閣の大蔵大臣に就任するなど、大企業も戦時経済体制に協力するようになっていきました。