第二次世界大戦と日本
日本がワシントン体制の枠組みを越えて中国大陸への進出をすすめる中、ヨーロッパではドイツ・イタリアで独裁政権が成立し、イギリス・フランス・ソ連に対抗し、ヴェルサイユ体制の打破に向かうようになりました。
世界恐慌の影響により、社会不安が高まったドイツでは、1930年代に
アドルフ=ヒトラー(1889~1945)を指導者として
ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)の勢力が急速に拡大し、1932年(昭和7年)の総選挙で国会の第一党となり、1933年(昭和8年)1月にヒトラー内閣が成立しました。ヒトラーは同年3月に
全権委任法を制定し独裁権を確立し、ナチス以外の政党を禁止し、1934年(昭和9年)には大統領と首相を兼ねて
総統となり、国民投票を受けて合法的に独裁者となりました。これにより、ドイツでは
ワイマール共和制が崩壊し、ナチス一党独裁体制が確立されました。この間、ドイツは1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退し、1935年(昭和10年)にヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、再軍備を始め、1936年(昭和11年)には非武装地帯だった
ラインラントに進駐しました。
一方イタリアでは、1922年(大正11年)に
ムッソリーニ(1883~1945)率いる
ファシスト党が政権を握り、次第に一党独裁体制に移行し、1935年(昭和10年)に
エチオピアに侵攻しました。1936年(昭和11年)スペインで軍人
フランコが民族主義勢力を率いて人民戦線内閣に反乱を起こしました。この
スペイン内乱に対し、ドイツ・イタリアはフランコ側に援助を行い、それを通じて両国の間に
ベルリン・ローマ枢軸が結成されました。
同時期、ソ連では
レーニンが死去し、その後
スターリン(1878~1953)が実権を握りました。共産党の一党独裁体制が強まり、5カ年計画を行い社会主義国家として国力をつけたソ連は、1934年に国際連盟に加入し、国際的な地位を獲得しました。人民戦線の結成などにより
国際共産主義(コミンテルン)運動も活発にすすめ、同時に国内ではスターリンが反対派を徹底的に処刑し、独裁者としての地位を固めました。
ヨーロッパで独裁国家が成立する中、東アジアでは日本が中国政策をめぐりアメリカ・イギリスと対立するようになっていきました。1934年(昭和9年)に日本は単独で
ワシントン軍縮条約を廃棄し、1936年(昭和11年)には
ロンドン海軍軍縮会議からも脱退しました。ソ連の強大化に危機感を覚えた日本は、陸軍の主導により、広田弘毅内閣の政権下でソ連とコミンテルンの活動に対抗するため、1936年(昭和11年)ドイツとの間に
日独防共協定を結び、翌年イタリアも参加し、
日独伊三国防共協定となりました。同年イタリアも国際連盟を脱退しました。
こうして、ワシントン体制とヴェルサイユ体制を打破して「世界新秩序」を目指す
日本・ドイツ・イタリアにより
枢軸陣営が形成され、アメリカ・イギリス・フランスなどの自由主義・民主主義諸国と社会主義国のソ連という3つの勢力が対立し、国際情勢は大きく変化していきました。
枢軸陣営のナチス=ドイツやイタリアに代表される独裁体制を
ファシズムといい、このファシズムとソ連の一党独裁体制を含めた包括的概念を
全体主義と呼ぶ場合があります。ファシズムの社会体制下では、複数の政党による自由主義的議会制民主主義は認められず、民族主義・国家主義・軍国主義が唱えられ、軍備拡張・対外膨張政策がとられ、自由思想や言論は厳しい統制下に置かれました。ファシズムは、恐慌など経済危機による社会不安・国際的な戦争の危機・国内政治の不安定化などにより成立しました。日本の場合、国家主義運動や青年将校によるテロやクーデター未遂事件はあったものの、ドイツやイタリアのように大衆運動に基いて政権を奪取する「ファシズム革命」が行われたわけではなく、1930年代半ばから軍部の政治的発言権が大きくなり、軍部や官僚による支配体制が強化され、ドイツ・イタリアと連携してファシズム陣営の一員となりました。
日本の場合、天皇機関説の否認・国家総動員法の制定・大政翼賛会と翼賛政治会の成立(複数政党制の解消)などにより、明治憲法の立憲主義的側面は後退し、議会の権限も弱体化されましたが、憲法自体を改廃することはありませんでした。これにより、ドイツのナチス独裁や、ソ連の共産党独裁など強力な独裁体制が出現することはなく、政治的反対者の大量粛清も起こりませんでした。