律令の成立
文部天皇の即位後、持統太上天皇と藤原不比等が中心となり、刑部親王を総裁として新しい律令の整備が進められました。
701年(大宝元年)、律と令の双方を備えた
大宝律令が作られました。その後内容がほぼ同じ
養老律令も作られます。
この時期、30年ぶりに
遣唐使が派遣されました。その目的は、新しい「日本」という国号、「天皇」という君主号、「大宝」という元号、新しい律令をもって唐の皇帝に認可を得るというものでした。
律令とは
律とは刑罰法、
令は教令法のことです。律令は統治組織・官人の服務規程・人民の租税・労役などを定めたものでした。
律令は日本独自のものではなく、中国が長い戦乱期を経て生み出した当時の先進の統治法を受け継いだもので、この時代ヤマト政権以来の氏族制的な原理が残っていたため、中国的な律令制と氏族制の二重構造になっていたといえます。
統治機構
律令で定められた統治機構は、中央に
神祇官(神祇・祭祇を司る)と
太政官(一般の行政事務を司る)の2つに分かれていました。
太政官の下には
八省が置かれ、その下に
職・寮・司などの諸官司がそれぞれ職務を担当しました。
国政の運営は最高首脳の
太政大臣とその他に
左大臣・右大臣・大納言という
公卿(後に中納言・参議が加わる)との合議により進められ、それを天皇が裁可するというシステムでした。
公卿の下に、宮中の事務を扱う
少納言と
左弁官・右弁官がおり、左弁官は中務省・式部省・治部省・民部省を総括し、右弁官は兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省を総括していました。
この他にも、軍事組織として
衛府、官吏の監察を司る
弾正台が置かれました。衛府は、衛門府、左兵衛府、右兵衛府、左衛士府、右衛士府にわけられ、これらを合わせて
五衛府と呼ばれました。
地方は、大和国・山背国・河内国・摂津国(のちに和泉国が分置)を
畿内とし、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道という
七道を整備しました。
行政区画は、
国・郡・里(のちに郷となる)の三階に分け、それぞれ国司・郡司・里長(郷長)に治めさせました。
国司は中央の貴族が任命され、6年(のち4年)の任期がありましたが、郡司や里長は地方豪族が終身任期で任命され、世襲制でした。
特別な地域として、京には左京職・右京職が置かれ、外交上の重要地摂津には、摂津職が置かれました。
九州の要所筑紫には
太宰府を置き、九州全般の民政と軍事を統括させました。