大化の改新
中国の王朝交代と朝鮮半島
中国大陸では、618年に
隋が滅び、代わりに
唐(618〜907)が成立しました。唐は統一王朝として中国を支配し、皇帝
太宗(598〜649)の時代には
貞観の治と呼ばれる極めて安定した国家運営が行われ、最盛期を迎えることになります。
朝鮮半島では、百済、高句麗、新羅の争いが続いており、東アジアの国際情勢は緊迫していました。
乙巳の変
倭国では、蘇我馬子ののち
蘇我蝦夷(えみし)が大臣に任命され権力を握っていました。その後、
皇極天皇の時代になると、息子の
蘇我入鹿の権力は父蘇我蝦夷を凌ぐほどのものになっていきました。蘇我入鹿は、手にした権力を背景に、643年に聖徳太子の子である
山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族を滅ぼしました。
国内で蘇我一族に権力が集中する中、唐には様々な留学生・留学僧が派遣されていました。彼らは唐の律令体制を目の当たりにし、帰国後中央集権化の必要性を説きました。
こうした中国の政治思想に影響を受けた
中大兄皇子と
中臣鎌足の二人は、645年(皇極4年)に蘇我入鹿を誅殺します。翌日、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我家総本家は滅びました。これを
乙巳の変といいます。
このあと、一連の改革が行われ、これを大化の改新といいます、皇極天皇は退位し、弟の
孝徳天皇に譲位し、新たな政治政権ができました。(中大兄皇子は舒明天皇の第2皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇))
豪族の代表として、左大臣に阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任命され、中臣鎌足は内臣に、僧
旻と
高向玄理が国博士に就任しました。
また、新たに
大化という
年号が制定されました。
大化とは、天子の徳を人民におよぼすことという意味です。