5世紀の朝鮮半島
朝鮮半島の抗争
5世紀の朝鮮半島では、中国の北朝に朝貢していた
高句麗と、南朝に朝貢していた
百済が抗争を繰り広げていました。
475年に高句麗が百済の都の漢城を攻め落とし百済王が殺害されたため、、百済は都を南部の熊津に移し、大和政権の影響力の大きかった
加羅(伽耶)諸国へと勢力を広げていきました。
こうした中、大和政権は関係性の深かった百済を援助する意図で、加羅(伽耶・任那)西部四県を512年に百済に割譲し、翌年には、その他二県も百済領となりました。
一方、6世紀以降急速に拡大した新羅も百済と抗争するようになり、その過程で残った加羅(伽耶)諸国を併合しました。
こうして、朝鮮半島における大和政権の影響力は失われました。
王朝断絶の危機と継体天皇の即位
継体天皇の即位
大和政権下の倭国では、
応神天皇・仁徳天皇・履中天皇・反正天皇・允恭天皇・安康天皇・雄略天皇・武烈天皇と続いていた天皇家が断絶の危機を迎えました。
この時代、大和政権の軍事をになった大連の大伴氏は、大伴金村の時期に豪勢を誇りました。
大伴金村は、武烈天皇の死後、越前にいた男大迹王(おおどのおう)を
継体天皇として即位させます。
前述の
任那四県割譲は、大伴金村が百済の求めに応じ実現したもので、これの礼として、百済は
五経博士を倭国に送っています。
同時期、大和政権は、任那の救援と新羅の征討の為軍隊を集め、準備をしていたところ、527年に新羅と通じた筑紫の国造の磐井が朝廷軍6万の航海を阻止しました。
これは
磐井の乱と言われ、大和政権は大いに動揺します。朝廷は
物部麁鹿火(もののべのあらかび/あらかい)を大将軍として派遣し翌年鎮圧に成功しました。この乱の結果、磐井の子の葛子は九州の土地を屯倉として献上し許しを請いました。また、この鎮圧以降、大和政権の西日本支配と外交の一元化が達成されます。
磐井の墓とされるのが、福岡県八女市の岩戸山古墳です。