はじめに
遣隋使が随に送った国書の中に、「
日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」といった文言が記載されていました。当時の随の皇帝煬帝は、この国書を見て激怒したと言われていますが、なぜ煬帝は怒ったのでしょうか。
理由その1
日があがる国(倭国)と日が沈む国(随)のように、随が下に見られたことに対し立腹したとの見解がありますが、実際には別の見解があります。
理由その2
■当時の外交背景
当時アジアでは、随(当時の中国)が最大の都市として栄えていました。
その周辺諸国は「
冊封」といって、随に朝貢する(従う)ことで国家として認めてもらい、国の有事があれば随に守ってもらえるというように、国の安全を担保していたのです。
これは鎌倉時代の封建制度と類似したものです。
武士は鎌倉幕府から土地を与えてもらう代わりに、軍役や経済の負担をするというもので、当時は「
御恩と奉公」と言われていました。
それまでの日本も随に対してこのような冊封を行っていたんですね。
ではなぜ怒ったか
ここで注目していただきたいのは、国書の「天子」という言葉です。
天子はそもそも中国思想で君主を表し、国を治める者を指していました。
統治しているはずの国(倭国)が随と対等である天子を名乗ったことに対し、煬帝が立腹したというわけです。
ただ実際には、対等を目指したというよりは随からは独立した国家であるということを認めてもらうためだったと考えられています。