はじめに
飛鳥時代のはじめ、蘇我氏と物部氏という2つの家による、政権をめぐる争いがありました。
実はこの争い、日本に仏教の布教を許すか、それとも許さないかの戦いでもありました。最終的に蘇我氏が物部氏を滅ぼし、聖徳太子をはじめとする当時の皇族たちが仏教を布教していくことになるのですが、その経過についてみていきましょう。
蘇我稲目と物部尾輿
蘇我氏と物部氏のたたかいは、この2人の間で始まりました。稲目(いなめ)と尾輿(おこし)と呼びます。どちらも古墳時代~飛鳥時代における有力な豪族でしたが、仏教の布教を許すか許さないかという
崇仏論争で激しく対立することになります。
蘇我氏が仏教の容認派、物部氏が非容認派でした。そもそも物部氏が仏教に反対したのは、そもそも日本には、古来より八百万の神がおり、外国の神様なんかを容認しようものなら大変なことになるという理由からでした。
蘇我馬子と物部守屋
稲目と尾輿の戦いは、息子である蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)に引き継がれます。さらにこの2人の間には、天皇の後継者問題もプラスされ、争いはより激しさをまします。ちなみに蘇我氏側に聖徳太子もついていたといわれています。
戦いに勝利した蘇我氏、そして聖徳太子の手によって仏教が日本へと徐々にと広められていくことになるのです。