大和政権
大和政権とは
4世紀頃、日本では国土が統一され、
大和政権という連合政権が誕生しました。この政権を束ねていた首長は5世紀頃から
大王(おおきみ)と呼ばれ、7世紀後半の
天武天皇の時代に、天皇の称号が使われるようになりました。
朝鮮半島の状況
朝鮮半島では、
楽浪郡を滅ぼし北部を支配した
高句麗や、南部の
馬韓・弁韓・辰韓など複数の国が分立していました。
その後、辰韓は新羅に、馬韓は百済に統一され、弁韓の旧地は加羅と呼ばれるようになります。
高句麗では、
好太王(広開土王)という王の時代、倭の朝鮮出兵があったという記述が記されている
太王碑(広開土王碑)が、子の
長寿王によって
414年に都の丸都城に建立されています。
中国の状況
一方、中国では三国時代の
魏から司馬炎が出て、
晋(西晋)を建国します。しかし、その後
匈奴という騎馬民族によって西晋は滅び、その後一族は洛陽から建業に都を移し、
東晋を再興しました。
西晋が滅んだ後、中国は
五胡十六国時代を迎えました。五胡とは強力な北方民族の5族のことで、これらが入り乱れる時代となったのです。
この後、中国では
北魏が華北を統一、南部には
宋が成立し
南北朝時代が始まります。
晋の時代の正史である房玄齢の『
晋書』には、再び日本に関する記述が現れます。
その後、沈約が書いた宋の正史の『
宋書』には、
倭の五王が宋など南朝に13回通交したという記述があります。