蜻蛉日記
かくてかみな月になりぬ
かくてかみな月になりぬ。廿日あまりのほどに忌みたがふとてわたりたるところにてきけば、かの忌みのところには子うみたなり、と人いふ。なほあらんよりは、あな憎ともきき思ふべけれど、つれなうてあるよひのほど、火ともし、台などものしたるほどに、せうととおぼしき人ちかうはひよりて、ふところより陸奥紙(みちのくにがみ)にてひきむすびたる文(ふみ)の、枯れたるすすきにさしたるを取り出でたり。
「あやし、誰(た)がぞ」
といへば、
「なほ御覧ぜよ」
といふ。あけて火影(ほかげ)にみれば、心づきなき人の手の筋にいとよう似たり。書いたることは、
「かの、「いかなる駒か」とありけむはいかが。
しもがれの草のゆかりぞあはれなる こまがへりてもなつきてしがな
あな心ぐるし」
とぞある。わが人にいひやりてくやしと思ひしことの七文字なれば、いとあやし。
「こは誰(た)がぞ」
と、
「堀川殿の御ことにや」
と問へば、
「太政大臣(おほきおとど)の御文なり。御随身(ごずいじん)にあるそれがしなん、殿にもてきたりけるを、
「おはせず」
といひけれど、
「なほたしかに」
とてなんおきてける」
といふ。いかにしてきき給ひけることにかあらんと、思へども思へどもいとあやし。また人ごとにいひあはせなどすれば、ふるめかしき人ききつけて、
「いとかたじけなし。はや御かへりして、かの持て来(き)たりけん御随身にとらすべきものなり」
とかしこまれば、書く。おろかにはおもはざりけめど、いとなほざりなりや、
ささわけばあれこそまさめくさがれの こまなつくべきもりのしたかは
とぞきこえける。ある人のいふやう、
「「これが返し、いまひとたびせん」
とて、なからまではあそばしたなるを、
「末なんまだしき」
との給ふなる」
とききて、ひさしうなりぬるなんをかしかりける。