更級日記
足柄山
野山、蘆(あし)おぎの中をわくるよりほかのことなくて、武蔵と相模との中にゐて、あすだ河といふ、在五中将の
「いざこと問はむ」
とよみけるわたりなり。中将の集にはすみだ河とあり。舟にて渡りぬれば、相模の国になりぬ。
にしとみといふ所の山、絵よくかきたらむ屏風をたてならべたらむやうなり。片つかたは海、浜のさまも、よせかへる波のけしきも、いみじうおもしろし。
もろこしが原といふ所も、砂子のいみじう白きを二三日ゆく。
「夏は、大和撫子の、こく、うすく、錦をひけるやうになむさきたる。これは秋の末なれば見えぬ」
といふに、なほ所々はうちこぼれつつ、あはれげに咲きわたれり。
「もろこしが原に、山と撫子しも咲きけむこそ」
など、人々をかしがる。
足柄山といふは、四、五日かねて、おそろしげに暗がりわたれり。やうやう入り立つ麓のほどだに、空のけしき、はかばかしくも見えず。えもいはず茂りわたりて、いとおそろしげなり。麓にやどりたるに、月もなく暗き夜の、闇にまどふやうなるに、遊女(あそび)三人、いづくよりともなく出できたり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四五なるとあり。庵の前にからかさをささせてすゑたり。男ども、火をともして見れば、昔、こはたといひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、
「さてもありぬべき下仕へなどにてもありぬべし」
など、人々あはれがるに、声すべてにるものなく、空にすみのぼりて、めでたく歌をうたふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて人々もて興ずるに、
「西国の遊女はえかからじ」
などいふを聞きて、
「難波わたりにくらぶれば」
とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへにるものなくうたひて、さばかりおそろしげなる山中に立ちて行くを、人々飽かず思ひてみな泣くを、をさなき心地には、ましてこの宿りを立たむことさへあかずおぼゆ。
まだ暁より足柄を越ゆ。まいて山の中のおそろしげなること、いはむ方なし。雲は足の下にふまる。山のなからばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、世離れて、かかる山中にしも生ひけむよと、人々あはれがる。水はその山に三所ぞながれたる。
からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河なり。よこはしりの関の傍らに、岩壷といふ所あり。えもいはず大きなる石の四方なる中に、穴のあきたる中よりいづる水の、清く冷たきこと限りなし。