蜻蛉日記
さいふいふも、女おやといふ人あるかぎりはありけるを
さいふいふも、女おやといふ人あるかぎりはありけるを、ひさしうわづらひて、秋のはじめのころほひむなしくなりぬ。さらにせん方なくわびしき事の、世のつねの人にはまさりたり。あまたある中に、これはおくれじおくれじとまどはるるもしるく、いかなるにかあらん、足手などただすくみにすくみて、絶えいるやうにす。さいふいふ、物をかたらひおきなどすべき人は京にありければ、山寺にてかかる目は見れば、をさなき子をひき寄せてわづかにいふやうは、
「我、はかなうて死ぬるなめり。かしこにきこえんやうは、「おのが上をば、いかにもいかにもな知りたまひそ、この御のちのことを、人々のものせられん上にも、とぶらひものし給へ」ときこえよ」
とて、
「いかにせん」
とばかりいひて、ものもいはれずなりぬ。日ごろ月ごろわづらひて、かくなりぬる人をば、今はいふかひなきものになして、これにぞみな人はかかりて、まして
「いかにせん。などかくは」
と、泣くがうへに又泣きまどふ人おほかり。ものはいはねど、まだこころはあり目はみ見るほどに、いたはしと思ふべき人よりきて、
「おやは一人やはある。などかくはあるぞ」
とて、湯をせめているれば、飲みなどして、身などなほりもてゆく。
さて、なほおもふも生きたるまじき心地するは、この過ぎぬる人、わづらひつる日ごろ、ものなどもいはず、ただいふ事とては、かくものはかなくてありふるをよるひるなげきにしかば、
「あはれ、いかにし給はんずらん」
と、しばしは息の下にもものせられしを、思ひ出づるに、かうまでもあるなりけり。人ききつけてものしたり。われは物もおぼえねば、知りも知られず、人ぞあひて、
「しかじかなんものしたまひつる」
と語れば、うち泣きて、けがらひも忌むまじきさまにありければ、
「いと便(びん)なかるべし」
などものして、立ちながらなん。そのほどのありさまはしも、いとあはれに心ざしあるやうに見えけり。