スイス・オランダの独立とは
1648年に締結されたウェストファリア条約は、ヨーロッパの歴史における画期的な出来事として広く認識されています。この条約は、三十年戦争というヨーロッパ大陸を荒廃させた大規模な宗教戦争と政治闘争に終止符を打ち、近代的な主権国家体制の基礎を築いたと評価されています。この歴史的な講和会議の数ある成果の中でも、スイス盟約者団とネーデルラント連邦共和国(オランダ)が神聖ローマ帝国からの独立を正式に承認されたことは、特に重要な意味を持ちます。
この二つの国家の独立は、ある日突然、条約によってもたらされたものではありませんでした。それは、何世紀にもわたる複雑な政治的、軍事的、経済的、そして社会的な闘争の末に勝ち取られた、事実上の独立状態を法的に追認するプロセスでした。スイスとオランダの独立への道程は、それぞれ異なる歴史的背景を持ちながらも、ハプスブルク家という強大な権力に対する抵抗、宗教改革の動乱、そして独自の共和主義的な政治文化の形成といった共通のテーマを内包しています。
ウェストファリア条約
ウェストファリア条約は、単一の文書ではなく、1648年に神聖ローマ帝国ヴェストファーレン地方の二つの都市、ミュンスターとオスナブリュックで署名された一連の平和条約の総称です。これらの条約は、ヨーロッパ史上最も破壊的な戦争の一つである三十年戦争(1618年=1648年)を終結させました。この戦争は、当初、神聖ローマ帝国内のプロテスタントとカトリックの間の宗教的対立として始まりましたが、次第にフランス、スウェーデン、スペイン、デンマークといったヨーロッパの主要国を巻き込む大規模な政治的権力闘争へと発展しました。
三十年戦争
三十年戦争の根源は、16世紀の宗教改革にまで遡ります。マルティン=ルターによって始められたプロテスタンティズムの広がりは、カトリック教会が支配的であったヨーロッパの宗教的統一を揺るがしました。1555年のアウクスブルクの和議は、「君主の宗教が、その地の宗教となる」という原則に基づき、神聖ローマ帝国内の諸侯にカトリックかルター派のいずれかを選択する権利を認め、一時的な平和をもたらしました。しかし、この和議はカルヴァン派を認めておらず、また、カトリックとプロテスタントの間の緊張関係も依然として残っていました。
17世紀初頭、神聖ローマ皇帝であったハプスブルク家が、帝国内でカトリックを再興し、中央集権化を進めようとしたことで、対立は再び激化します。1618年、ボヘミア(現在のチェコ)のプロテスタント貴族が、ハプスブルク家の支配に対して反乱を起こした「プラハ窓外放出事件」が、三十年戦争の直接的な引き金となりました。
戦争は、ボヘミア=ファルツ期、デンマーク期、スウェーデン期、フランス=スウェーデン期という四つの段階を経て、その様相を変化させていきました。当初の宗教的対立は、次第に政治的な思惑に取って代わられます。特に、カトリック国であるフランスが、ハプスブルク家の強大化を恐れてプロテスタント側で参戦したことは、この戦争が純粋な宗教戦争ではなく、ヨーロッパの覇権をめぐる国家間の闘争であったことを明確に示しています。戦争はドイツの地を主戦場とし、傭兵による略奪や虐殺、そして飢饉や疫病の蔓延によって、帝国の人口は数分の一にまで激減したと言われています。
講和会議
長きにわたる消耗戦の末、関係諸国はついに和平の道を模索し始めます。講和会議は1644年から始まりましたが、その道のりは困難を極めました。会議の場所として、カトリック国代表がミュンスターに、プロテスタント国代表がオスナブリュックに集まるという、異例の形式がとられました。これは、カトリックとプロテスタントの代表が同じ都市に集まることを拒んだためであり、当時の宗教的対立の根深さを物語っています。
交渉には、神聖ローマ皇帝、帝国諸侯、フランス、スウェーデン、スペイン、オランダ、スイス、教皇庁、ヴェネツィアなど、当時のヨーロッパのほぼすべての国家や政治勢力が参加しました。それぞれの代表団は、自国の利益を最大化するために複雑な外交交渉を繰り広げました。主要な議題は、宗教問題の解決、領土の再編、そして神聖ローマ帝国内の政治体制の再定義でした。
数年間にわたる交渉の末、1648年10月24日、ミュンスター市庁舎で最終的な条約が署名されました。ミュンスター条約は主に神聖ローマ皇帝とフランスおよびその同盟国との間で、オスナブリュック条約は主に皇帝とスウェーデンおよびその同盟国との間で結ばれました。これらを総称してウェストファリア条約と呼びます。
条約内容
ウェストファリア条約の主な内容は、以下の三つの側面に大別できます。
第一に、宗教に関する規定です。条約はアウクスブルクの和議の原則を再確認し、それをカルヴァン派にも拡大適用しました。これにより、ルター派、カトリック、カルヴァン派が帝国内で公式に認められることになりました。また、1624年を基準年とし、その時点で所有されていた教会の財産をそれぞれの宗派が保持することが定められました。これは、帝国内の宗教的共存を法的に保障するものであり、宗教戦争の再発を防ぐための重要な措置でした。
第二に、領土に関する規定です。フランスはアルザス地方の大部分を獲得し、スウェーデンは北ドイツの西ポメラニアやブレーメン=フェルデンなどを得て、バルト海の覇権を強化しました。また、ブランデンブルク=プロイセンやバイエルンといった帝国諸侯も領土を拡大しました。これらの領土変更は、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えるものでした。
第三に、神聖ローマ帝国の国制に関する規定です。これがウェストファリア条約の最も重要な成果の一つとされています。条約は、帝国内の約300の諸侯や帝国都市に対し、ほぼ完全な主権を認めました。彼らは、自らの領内で立法、行政、司法権を行使し、皇帝の同意なしに外国と条約を結ぶ権利(ただし、皇帝や帝国に敵対しない限り)を得ました。これにより、神聖ローマ皇帝の権力は著しく弱体化し、帝国は事実上、主権国家の集合体へと変貌しました。この「ドイツ諸侯の自由」の確立は、近代的な主権国家システムの基礎を築いたと評価され、「ウェストファリア体制」と呼ばれる新たな国際秩序の始まりを告げるものでした。
そして、この国制に関する規定の中で、スイス盟約者団とネーデルラント連邦共和国は、神聖ローマ帝国から完全に独立し、いかなる形でも帝国に服属しないことが正式に承認されたのです。これは、彼らが長年にわたって事実上享受してきた独立状態を、国際法的に追認するものでした。
スイスの独立
ウェストファリア条約によるスイスの独立承認は、何世紀にもわたる自治と自立への長い闘いの最終的な到達点でした。スイスの独立への道程は、中世盛期にまで遡り、ハプスブルク家の支配に対する抵抗、独自の軍事力の形成、そして宗教改革の波を乗り越える中で、徐々に形作られていきました。
盟約の形成
スイスの歴史の起源は、しばしば1291年の「永久盟約」に求められます。この年、アルプス山中のウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの三つの共同体(原初三邦)が、外部からの脅威、特に強大化しつつあったハプスブルク家の支配に対抗するため、相互防衛を誓う同盟を結んだとされています。この同盟は、単一の国家を創設するものではなく、それぞれの共同体が自治権を維持しながら、共通の敵に対して協力するという、緩やかな盟約関係でした。
14世紀を通じて、この盟約者団はハプスブルク家との間で数々の戦いを繰り広げました。1315年のモルガルテンの戦いでは、スイスの農民兵がハプスブルク家の重装騎士団を打ち破り、その軍事的な名声を高めました。この勝利は、スイスの独立精神を象徴する出来事となり、その後、ルツェルン、チューリッヒ、ベルンといった都市も同盟に加わり、盟約者団は徐々に拡大していきました。彼らは、長槍を駆使した密集方陣(パイク方陣)という独自の戦術を発展させ、ヨーロッパ最強と謳われる傭兵の供給源としても知られるようになります。
15世紀末のシュヴァーベン戦争(1499年)は、スイスの独立にとって決定的な転機となりました。この戦争は、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が帝国の改革(帝国改造)の一環として、帝国全体の税制や司法制度をスイスにも適用しようとしたことに端を発します。スイス盟約者団はこれを拒否し、皇帝軍と戦いました。バーゼルの和約によって戦争は終結し、スイスは帝国税の支払いや帝国最高法院への服従を免除されました。この時点で、スイスは法的にはまだ帝国の一部でしたが、事実上、帝国から分離し、独自の道を歩み始めたのです。
宗教改革と中立
16世紀に入ると、宗教改革の波がスイスにも押し寄せ、盟約者団を分裂の危機に陥れました。チューリッヒのフルドリッヒ=ツヴィングリやジュネーヴのジャン=カルヴァンといった指導者によって、プロテスタンティズムが都市部を中心に広まりました。一方で、三邦を中心とする農村地域は、伝統的なカトリック信仰を固守しました。
この宗教的対立は、カッペルの戦い(1529年、1531年)のような内戦にまで発展し、ツヴィングリも戦死しました。しかし、スイスの諸邦は、宗教的な違いにもかかわらず、盟約者団という政治的な枠組みを維持することの重要性を認識していました。彼らは、外部からの干渉を招きかねない全面的な内戦を避け、各邦がそれぞれの信仰を選択するという、一種の共存の道を選びました。
この経験は、スイスが三十年戦争において中立政策をとる上で重要な基盤となりました。三十年戦争が勃発すると、スイスはカトリックとプロテスタントに分かれたヨーロッパの対立の縮図となりました。フランスやスウェーデン、ハプスブルク家といった交戦国は、戦略的に重要なアルプス山脈のルートを確保するため、スイスを自陣営に引き込もうと画策しました。しかし、スイス盟約者団は、1647年の「ヴィルの盟約」において、外部からのいかなる侵略に対しても共同で防衛することを確認し、武装中立の立場を堅持しました。この中立政策の成功は、スイスがヨーロッパの紛争から距離を置き、独自の政治的アイデンティティを確立する上で決定的な役割を果たしました。
独立の承認
三十年戦争が終結に向かう中、スイス盟約者団はウェストファリアの講和会議に代表を送ることを決定しました。その主な目的は、シュヴァーベン戦争以来、事実上のものであった神聖ローマ帝国からの独立を、国際的に正式なものとして承認させることでした。
スイスの代表として交渉の任にあたったのが、バーゼル市長のヨハン=ルドルフ=ヴェットシュタインでした。彼は当初、正式な交渉参加者として認められず、多くの困難に直面しました。しかし、彼は粘り強い外交努力を展開し、特にフランス代表団の支持を取り付けることに成功しました。フランスは、ハプスブルク家の影響力を削ぐという戦略的な観点から、スイスの独立を支持したのです。
ヴェットシュタインの尽力の結果、オスナブリュック条約(第6条)およびミュンスター条約(第61条)において、スイス盟約者団(ヘルヴェティア連邦)が神聖ローマ帝国から完全に「免除(exempt)」され、その自由と独立が確認されるという条項が盛り込まれました。これにより、スイスは名実ともに主権国家として国際社会に認められることになったのです。これは、スイスが何世紀にもわたって築き上げてきた自治と自立の伝統が、ヨーロッパの新たな国際秩序の中で法的に確立された瞬間でした。
オランダの独立
ネーデルラント連邦共和国、すなわちオランダの独立は、ウェストファリア条約がもたらしたもう一つの重要な成果です。スイスと同様、オランダの独立もまた、長年にわたる壮絶な闘争の末に勝ち取られたものでした。その闘いは「八十年戦争」(1568年=1648年)として知られ、スペイン=ハプスブルク家の絶対主義に対する宗教的、政治的、経済的な抵抗運動でした。
ハプスブルク家の支配
15世紀から16世紀にかけて、ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクを含む低地地方)は、ブルゴーニュ公国を経て、婚姻政策によってハプスブルク家の支配下に入りました。16世紀半ば、神聖ローマ皇帝カール5世の時代には、ネーデルラント17州はハプスブルク家の広大な領土の中で最も豊かで経済的に発展した地域の一つとなっていました。アントワープなどの都市は、国際貿易と金融の中心地として繁栄を極めていました。
しかし、カール5世の息子であるスペイン王フェリペ2世がネーデルラントを継承すると、状況は一変します。敬虔なカトリック教徒であったフェリペ2世は、ネーデルラントで急速に広まっていたカルヴァン派などのプロテスタンティズムを徹底的に弾圧しようとしました。彼は異端審問を強化し、プロテスタントを厳しく処罰しました。
さらに、フェリペ2世はネーデルラントの伝統的な自治権を無視し、スペイン本国からの中央集権的な支配を強化しようとしました。彼は重税を課し、現地の貴族を政治の中枢から排除しました。こうした宗教的弾圧と政治的抑圧は、ネーデルラントの貴族から商人、民衆に至るまで、広範な階層の不満を高めていきました。
八十年戦争
不満はついに爆発します。1566年、プロテスタントによる聖像破壊運動(イコノクラスム)がネーデルラント全土で発生しました。これに対し、フェリペ2世はアルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドを派遣し、恐怖政治による徹底的な弾圧を行いました。アルバ公は「血の評議会」を設置し、数千人もの人々を反逆罪で処刑しました。
この過酷な弾圧に対し、ネーデルラントの貴族であったオラニエ公ウィレム(沈黙公)が立ち上がります。彼は私財を投じて軍隊を組織し、1568年にスペインに対する武装蜂起を開始しました。これが八十年戦争の始まりです。
戦争の初期、ウィレムの陸軍はスペインの精強な軍隊の前に苦戦を強いられました。しかし、「海の乞食団(ゼーゴイセン)」と呼ばれるネーデルラントの私掠船団が海上からスペインの補給路を脅かし、1572年にはホラント州とゼーラント州の港湾都市を占領することに成功します。これを機に、反乱は北部を中心に拡大していきました。
1579年、ネーデルラントの諸州は宗教的な対立から分裂します。南部のカトリック諸州はアラス同盟を結んでスペインとの和解の道を選びましたが、北部のプロテスタントが優勢な7州(ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、オーファーアイセル、フリースラント、フローニンゲン)はユトレヒト同盟を結成し、最後まで抵抗を続けることを誓いました。そして1581年、ユトレヒト同盟は「離脱宣言(統治権否認法)」を発し、フェリペ2世の統治権を正式に否認し、事実上の独立を宣言しました。これがネーデルラント連邦共和国の原型となります。
戦争はその後も一進一退を続けました。オラニエ公ウィレムは1584年に暗殺されましたが、その息子マウリッツが後を継ぎ、優れた軍事改革者としてオランダ軍をヨーロッパ屈指の近代的な軍隊へと育て上げました。一方、スペインは1588年の無敵艦隊の敗北や、フランスとの戦争などによって国力を消耗し、ネーデルラントの反乱を完全に鎮圧することができなくなっていきました。
1609年、両国は「十二年休戦協定」を締結し、一時的に戦闘は中断されました。この休戦期間中、オランダは事実上の独立国として国際的に扱われ、アムステルダムはアントワープに代わる新たな国際金融・貿易の中心地として急速に発展しました。オランダ東インド会社(VOC)などを通じて世界的な海洋帝国を築き上げ、17世紀はオランダの「黄金時代」と呼ばれる繁栄の時代となりました。
独立の承認
十二年休戦協定が1621年に失効すると、三十年戦争の文脈の中で再びスペインとの戦闘が再開されました。しかし、両国ともに長期にわたる戦争に疲弊しており、和平への機運が高まっていきました。
ウェストファリア講和会議の一部として、オランダとスペインはミュンスターで直接交渉を行いました。オランダの主な目的は、八十年間にわたる闘争の末に勝ち取った独立を、かつての宗主国であるスペインに正式に認めさせることでした。
交渉は難航しましたが、最終的に1648年1月30日、ミュンスター条約(スペイン=オランダ講和条約)が締結されました。この条約により、スペインはネーデルラント連邦共和国を「自由で主権を有する国家」として正式に承認し、同国に対するすべての請求権を放棄しました。また、条約は両国の国境線を画定し、オランダが海外で獲得した植民地の領有権を認めました。
この条約は、ウェストファリア条約全体が署名される10月24日に先立って結ばれましたが、その内容はウェストファリア条約の一部として組み込まれ、フランスやスウェーデンといった他の主要国によっても保障されました。これにより、オランダの独立はヨーロッパの新たな国際秩序の中で確固たるものとなったのです。八十年という長い歳月をかけた独立戦争は、ついに法的な承認という形で実を結びました。
結論
1648年のウェストファリア条約は、スイス盟約者団とネーデルラント連邦共和国の独立を国際法的に確立するという、画期的な成果をもたらしました。しかし、この承認は、条約によってゼロから創造されたものではなく、両国がそれぞれ何世紀、あるいは何十年にもわたって積み重ねてきた事実上の独立状態を、戦後の新たな国際秩序の中に正式に位置づける追認のプロセスであったと言えます。
スイスの場合、その独立への道程は、中世後期のハプスブルク家への抵抗に始まり、シュヴァーベン戦争での事実上の離脱、そして宗教改革の動乱を乗り越えた中立政策の確立という、長い歴史的プロセスの帰結でした。ウェストファリアの交渉の場におけるヴェットシュタインの外交手腕は、この長年の成果を法的な形で確定させる上で決定的な役割を果たしました。
一方、オランダの独立は、八十年戦争という、より凝縮された期間の激しい独立戦争の結果でした。スペイン=ハプスブルク家の宗教的・政治的圧制に対する反乱として始まったこの闘争は、オラニエ公ウィレムの指導の下、独自の共和制国家を形成し、経済的な繁栄を謳歌する「黄金時代」を築き上げるという、劇的な展開を遂げました。ミュンスターでのスペインとの講和は、この血と汗の闘争の末に勝ち取った主権を、かつての支配者に認めさせるという、象徴的な勝利でした。
ウェストファリア条約におけるこの二つの共和国の独立承認は、ヨーロッパの政治地図を塗り替えただけでなく、国家のあり方そのものに関する新しい考え方を提示しました。それは、世襲の君主によって統治される王国だけでなく、市民の合意に基づく共和制もまた、主権国家として国際社会の一員となりうることを示したのです。
さらに、スイスとオランダの独立は、神聖ローマ帝国という中世的な普遍的権威の形骸化と、ハプスブルク家の覇権の限界を象徴する出来事でした。ウェストファリア条約が確立した、各国家が自らの領土内で最高かつ排他的な権力を持つという主権国家の原則は、これら二つの国家が自らの力で体現してきた現実を、ヨーロッパ全体のシステムとして普遍化したものと見なすこともできます。
したがって、ウェストファリア条約によるスイスとオランダの独立は、単に二つの国家の誕生を告げるものではなく、中世から近代へと移行するヨーロッパの地殻変動の中で、国家主権、宗教的寛容、そして国際関係における勢力均衡といった、新しい時代の原理が確立されていく過程を映し出す、重要な歴史的瞬間であったと言えるのです。