はじめに
フランス革命からナポレオン時代にかけて、ヨーロッパは大混乱に陥りました。
この混乱を収拾するために行われたのがウィーン会議です。このテキストでは、会議の様子とその後の各国の状況を見ていきましょう。
ウィーン会議の開催
ライプチヒの戦いで敗れたナポレオンは、1814年5月にイタリア北西のエルバ島に幽閉されます。
このナポレオン戦争の戦後処理を目的に、1814年9月から1815年6月まで開かれたのが、
ウィーン会議です。
会議には、各国から代表者が参加しました。
参加者 | 国名 |
メッテルニヒ | オーストリア |
タレーラン | フランス |
カッスルレー | イギリス |
アレクサンドル1世 | ロシア |
ハルデンベルク | プロイセン |
ウィーン会議には、当時の大国オスマン帝国は参加していませんでした。
この中でも、議長として会議の司会進行を務めた中心人物が、オーストリアの宰相
メッテルニヒです。
(メッテルニヒ)
正統主義と勢力均衡の原則
ウィーン会議では、フランスのタレーランによって「
正統主義」が提唱され、これが基本原則になります。
正統主義というのは、
フランス革命以前の主権と領土を正統とし、ヨーロッパを以前の状態に戻すという原則です。
タレーランは敗者ナポレオンの代表者ではなく、被害を受けたブルボン朝の代表者として会議に参加していたため、このような主張が各国に受け入れられたのです。
もう一つの原則が
勢力均衡です。これは、一国のみが大国になり、その他の国々を支配しないように、各国がそれぞれ同じ位の力を持つことで、ヨーロッパの安定を目指そうというものでした。