◯人物
フランスの17世紀という激動の時代を生きた天才で、数学・物理学・宗教哲学とその研究は多岐にわたっており、現在ではモラリストとして評価されている。モラリストとは16~17世紀のフランスにおいて随筆や格言といった表現形式で人間の生き方を考察し、理性的で健全な人間像を理想とした道徳家たちである。パスカルの他にはモンテーニュが有名である。
とは言ってもパスカルははじめそのような方向で才能を発揮したわけではなく、英才教育を経て特に数学において大きな功績を上げた。16歳にして『円錐曲線試論』を書き上げ、19歳の時には歯車式計算機「パスカリーヌ」を完成させ、父の仕事に貢献しようとしたという大変早熟の人であった。23歳頃から宗教的な関心を高め、ジャンセニズムへ二度回心する。ジャンセニズムはアウグスティヌスの思想を根底としながら、人間の罪深さと神の恩寵をより強調する、禁欲的で厳しい世界観を持ったキリスト教の宗派である。パスカルはこの方面においてもその天才ぶりを発揮し、ジャンセニズムと当時の腐敗したイエスズ会との論戦に匿名の手紙という形で参加し、イエスズ会を批判した。これが『プロヴァンシアル(田舎者への手紙)』であり、当時の人々はパスカルの論理的で人間的な熱弁を支持したとされている。
その後、パスカルはキリスト教を擁護し人々を導く書物の執筆に着手したが、強烈な頭痛を伴う病によって、39歳で死去。死後、この書物のために残されたメモ類を友人らが編集したものが『パンセ(瞑想録)』として出版された。パスカルは、理性的でありながら宗教的な人間像を描いたことで、後の実存主義の先駆であるとする意見もある。また、モラリストとしてデカルトの合理的な哲学・人間像を批判し、「無益にして不確実なデカルト」「私はデカルトが許せない」とも語っている。数学における功績としては、パスカルの定理や「パスカルの賭け」という確率論の嚆矢が有名である。
◯著書
『パンセ』『プロヴァンシアル』『円錐曲線試論』
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。これを押し潰すのに宇宙全体が武装する必要はない。一つの蒸気、一つの水滴もこれを殺すのに十分である。しかし宇宙がこれを押し潰すとしても、そのとき人間は、人間を殺すこのものよりも、崇高であろう。なぜなら人間は、自分の死ぬことを、それから宇宙が自分よりずっと勝っていることを知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、我々の尊厳のすべては、考えることの中にある。」(『パンセ』)
「あらゆる物体の総和からも、小さな思考を発生させることはできない。それは不可能であり、ほかの秩序に属するものである。あらゆる物体と精神とから、人は真の愛の一動作をも引き出すことはできない。それは不可能であり、ほかの超自然的な秩序に属するものである。」(『パンセ』)
「空間によって宇宙は私を包み、一つの点のように飲み込む。考えることによって、私は宇宙を包む。」(『パンセ』)
「神を感じるのは、心情であって、理性ではない。」(『パンセ』)
「我々の行為は、それを生み出す自由意志の故に我々自身のものであり、しかも我々の意志をしてそれを生み出させる恩寵の故に神のものである。」(『プロヴァンシアル』)
◯思想
上に引用したように、パスカルの「考える葦」は有名な一節である。この言葉には、パスカルの人間像である中間者という性質がよく言い表されている。すなわち人間は原罪を背負う、弱々しく悲惨な物体でありながら、偉大なる精神を持ち合わせている。他にも、人間は有限で死にゆく存在、虚無の側面を持つが、理性によって無限を考えることができる。この偉大さと悲惨さの間に揺れ動く葦のような存在として、パスカルは人間を規定する。パスカルによれば、人間のこの中間者という性質・矛盾性は神ないしキリスト教を通して説明され、自覚することが出来るという。
こうした二重の人間観は、パスカルにおける精神の二区分にも応用される。パスカルも携わった数学や物理学において、理性的・論理的に物事を思考する精神は幾何学的精神と呼ばれる。パスカルはこの幾何学的精神に一定の意義を認めるものの、それによっては説明できない事柄があるという。それは人間の微妙な心の動きであり、これを捉えるのが心情的なはたらきによって直感する繊細の精神である。彼はこの繊細の精神の重要性を力説し、この精神に関連する「心情」の論理を主張することで、信仰を弁護した。
更にパスカルは、このような人間観に基いて人間の生を考察する。単なる物体よりも精神は偉大であるということを示したのが「考える葦」であったが、パスカルは精神の上に偉大なる者として愛を置く。これが人間の生における三つの秩序である。第一の身体(物体)の秩序は、権力や快楽にふける人間、王侯・貴族の生きる秩序であり、第二の精神秩序は学問や思索に専念する学者の生きる秩序である。第三の愛(心)の秩序は超自然的で神的な愛に生きる人間、すなわち神の恩寵に恵まれた人々が生きる秩序である。イエス=キリストは、この世の苦悩と悲惨を身に受けながらも神の愛を説くことで、愛の秩序に生きることを人々に示すためにあらわれたとされる。