御前にて人々とも
御前にて人々とも、またもの仰せらるるついでなどにも、
「世の中の腹立たしう、むつかしう、かたときあるべき心地もせで、ただいづちもいづちも行きもしなばやと思ふに、ただの紙の、いと白うきよげなるに、よき筆、白き色紙、陸奥紙などえつれば、こよなうなぐさみて、さはれ、かくてしばしも生きてありぬべかんめり、となむおぼゆる。また、高麗縁のむしろ、青うこまやかに厚きが、縁の紋いとあざやかに、黒う白う見えたるをひきひろげて見れば、なにか、なほこの世はさらにさらにえ思ひすつまじと、命さへおしくなんなる」
と申せば、
「いみじくはかなきことにもなぐさむるかな。姨捨山(をばすてやま)の月は、いかなる人の見けるにか」
など笑はせ給ふ。さぶらふ人も、
「いみじうやすき息災の祈りななり」
などいふ。
さてのち、ほど経て、心から思ひみだるることありて、里にあるころ、めでたき紙二十を包みて給はせたり。仰せごとには、
「とくまゐれ」
などのたまはせて、
「これは、きこしめしおきたることのありしかばなむ。わろかめれば、寿命経もえ書くまじげにこそ」
と仰せられたる、いみじうをかし。思ひ忘れたりつることを、おぼしをかせ給へりけるは、なほ、ただ人にてだにをかしかべし。まいて、おろかなるべきことにぞあらぬや。心もみだれて、啓すべきかたもなければ、ただ、
「かけまくもかしこき神のしるしには 鶴のよはひとなりぬべきかな
あまりにや、と啓せさせ給へ」
とてまゐらせつ。台盤所の雑仕(ざうし)ぞ、御使には来(き)たる。青き綾の単衣(ひとへ)とらせなどして、まことに、この紙を草子につくりなど、もてさわぐに、むつかしきこともまぎるる心地して、をかしと心のうちにもおぼゆ。
二日ばかりありて、赤衣きたる男、畳を持て来(き)て、
「これ」
といふ。
「あれは誰(た)そ。あらはなり」
など、ものはしたなくいへば、さしおきていぬ。
「いづこよりぞ」
と問はすれど、
「まかりにけり」
とて、とり入れたれば、ことさらに、御座といふ畳のさまにて、高麗などいときよらなり。心のうちには、さにやあらむなんど思へど、なほおぼつかなさに、人々いだして求むれど、失せにけり。あやしがりいへど、使のなければいふかひなくて、所違へなどならば、おのづからまたいひに来(き)なむ、宮の辺に案内しにまゐらまほしけれど、さもあらずはうたてあべし、と思へど、なほ誰(たれ)か、すずろにかかるわざはせむ、仰せごとなめり、といみじうをかし。
二日ばかり音もせねば、うたがひなくて、右京の君のもとに、
「かかることなむある。さることやけしき見給ひし。忍びてありさまのたまへ。さること見えずは、かう申したりと、な散らし給ひそ」
といひやりたるに、
「いみじう隠させ給ひしことなり。ゆみゆめまろが聞こえたると、な口にも」
とあれば、さればよと思ふもしるく、をかしうて、文を書きて、またみそかに御前の高欄にをかせしものは、まどひけるほどに、やがてかけ落として、御階(みはし)のしもに落ちにけり。