魏晋南北朝時代で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
魏晋南北朝とは
・
魏の建国から
隋の統一まで、
220年から
589年までの時代を
魏晋南北朝といい、様々な異民族が侵入を繰り返し、分裂の時代となった。
三国時代
・後漢末、
曹操、劉備、孫権の三人の覇者が抗争した。208年に
赤壁の戦いで曹操が劉備・孫権連合軍に敗れると、天下は三分にわかれた。
・曹操は216年魏王となり、その息子
曹丕は
220年後漢の献帝から帝位を譲り受け(禅譲)
文帝となり、後漢は滅亡、
魏が成立した。文帝は
九品官人法を実施し、
中書省の設置を行った。
・220年の後漢滅亡と魏の成立ののち、221年劉備が蜀を、222年孫権が呉を建国し、
三国時代(220~280年)が始まる。
国名 | 特徴 |
魏(220~265) | 曹丕が建国。都洛陽を中心に華北を支配。263年蜀を滅ぼす。司馬炎に国を奪われる。 |
呉(222~280) | 孫権が建国。都建業を中心に江南を支配。晋に滅ぼされる。 |
蜀(221~263) | 劉備が諸葛亮孔明の助力をうけ建国。都成都を中心に四川を支配。魏に滅ぼされる。 |
・呉の都
建業は現在の南京にあたり、東晋時代に
建康に改名される。東晋、南朝も都とした。後世洪武帝により、明の都にもなった。
西晋の時代
・魏の重臣だった司馬懿の孫にあたる
司馬炎が、当時の魏第5代皇帝曹奐に禅譲を強要し、魏は滅びた。司馬炎は武帝となり、新たに
晋(西晋)を建国後、280年に呉を滅ぼし、三国時代が終わった。
・西晋末、恵帝が無能だったため、外戚が権力を握ろうとし、司馬一族の8人の王が挙兵した
八王の乱(290~306)が起こった。八王の乱には、各勢力が
五胡という異民族を利用したため、その後中国に様々な異民族が侵入するきっかけとなった。五胡とは以下の五族を指す。
匈奴 | 48年に分裂。南匈奴は後漢に服属。八王の乱に乗じて劉淵が304年に漢(のちの前趙)を建国。 |
羯 | 匈奴の別派で、319年後趙を建国。 |
鮮卑 | 4世紀後半に拓跋氏がでて北魏を建国し、華北を統一。 |
氐 | チベット系の遊牧民。成漢、前秦、後涼などの国を建てた。前秦の苻堅は一時華北を統一。 |
羌 | チベット系遊牧民。青海地方に居住。 |
・311年~316年にかけて、匈奴を主体とする
永嘉の乱が起こった。漢(のちの前趙)を建国した匈奴の劉淵の子劉聡が311年に洛陽の懐帝を、316年に甥の愍帝も長安で捕え、西晋は滅亡した。
・西晋の滅亡後、
司馬睿が元帝になり、建康(旧建業)を都として
東晋を建国した。
五胡十六国時代
・304年の
漢(前趙)の建国から、439年の
北魏による華北統一までを
五胡十六国時代という。五胡十六国とは華北で興亡した五胡13国と、漢人の3国の総称のことである。
・匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は前秦、後涼、成漢を、羌は後秦を、漢族が前涼、西涼、冉魏、北燕をそれぞれ建てた。中でも氐が建てた
前秦は3代
苻堅のとき一時華北を統一するが、
東晋に敗れ滅んだ。
南北朝時代
・
439年、
北魏が華北を統一し、江南の南朝と、華北の北朝が並立する南北朝時代がはじまった。
589年
隋が中国を再び統一するまで江南に4王朝、華北に5王朝が興亡した。
南朝
・420年、東晋の武将
劉裕が武帝となり、東晋から禅譲され
宋を建国した。東晋滅亡後、江南には
宋・斉・梁・陳の4王朝が興亡した。これを南朝という。4王朝すべて都を
建康とし、
六朝文化が栄えた。
宋(420~479) | 東晋の劉裕が禅譲により建国。北魏の太武帝の侵入で衰え、8代で滅亡した。 |
斉(479~502) | 宋の武将蕭道成が禅譲により建国。7代で滅亡した。 |
梁(502~557) | 斉の皇族蕭衍が禅譲により建国。南朝文化の最盛期を迎えたが西魏の圧迫をうけ6代で滅亡した。 |
陳(557~589) | 梁の武将陳霸先が禅譲により建国。5代で隋に滅ぼされた。 |
北朝
・
鮮卑の
拓跋氏という部族出身の拓跋珪が386年に
北魏を建国した。都を平城においた北魏は、第3代
太武帝が
439年に華北を統一した。
・北魏第3代太武帝は、
寇謙之を重用し
道教を国教とし仏教を弾圧した。第6代孝
文帝は、
均田制、三長制、洛陽遷都、漢化政策を行った。
・五胡十六国を統一した北魏以降、
東魏・西魏・北斉・北周の5王朝を北朝という。北朝は南朝よりも君主権が強く、さまざまな制度が確立し、隋・唐に受け継がれた。
北魏(386~534) | 拓跋珪が建国。第3代太武帝が439年華北を統一。第6代孝文帝が494年洛陽に遷都。534年分裂。 |
東魏(534~550) | 北魏の武将高歓が孝静帝を擁立し建国。都は鄴。北斉に禅譲する。 |
西魏(535~556) | 北魏の武将宇文泰が文帝を擁立し建国。都は長安。北周に禅譲する。 |
北斉(550~577) | 高歓の子高洋が東魏からの禅譲により建国。都は鄴。北周に滅ぼされる。 |
北周(556~581) | 宇文泰の子宇文覚が西魏から禅譲され建国。都は長安。北斉を倒すが、外戚楊堅によって滅ぼされ、隋が建国される。 |
魏晋南北朝の社会
・魏晋南北朝に入ると、前漢の
武帝から始まった
郷挙里選にかわり、220年、魏の
文帝により、
九品中正(九品官人法)がはじめられた。九品中正は門閥貴族をうみ、高級官僚が豪族に独占される様子は、「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉で表された。
・税制も屯田制から280年西晋の武帝が
占田・課田法、戸調式、485年北魏の孝文帝が
均田制、三長制を制定した。
・東晋の成立以降は江南の開発が進み、水田稲作が普及した。
魏晋南北朝の文化
・建業(のちの建康で現在の南京)を中心とした呉・東晋・宋・斉・梁・陳を六朝といい、222年から589年までを
六朝時代という。
・六朝時代に、長江流域の江南で栄えた貴族文化を
六朝文化といい、仏教や道教の普及、清談の流行、詩・書・画などに優れた作品が残った。
・
清談とは、老荘思想に基づく哲学論議で、阮籍(げんせき)、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん)、向秀(しょうしゅう)、王戎(おうじゅう)の
竹林の七賢が活躍した。
・この時代、南朝宋の范曄、西晋の司馬彪により『
後漢書』が編纂された。
・書の世界では、新しい文体として
四六駢儷体が南朝斉・梁時代に流行した。著名な文化人は以下の人物である。
陶潜(陶淵明) | 東晋の自然詩人。「帰去来の辞」「桃花源記」を残した。 |
謝霊運 | 南朝宋の詩人。「山居賦」を残した。 |
昭明太子 | 南朝梁武帝の長子で詩人。『文選』を編纂した。 |
顧愷之 | 東晋の画家。「女史箴図」を残した。 |
王羲之 | 東晋の書家。楷書・行書・草書を完成させ「蘭亭序」を残した。 |
酈道元 | 北魏の地理学者。『水経注』を残した。 |
賈思勰 | 北魏の農学者。最古の農書『斉民要術』を残した。 |
王叔和 | 西晋の学者。後漢の張仲景が記した『傷寒論』を編纂した。 |
仏教の発展
・中央アジア経由で紀元前後に中国へ伝わった
仏教は、魏晋南北朝時代に社会に広まった。北朝では国家に保護され、南朝では貴族層に受け入れられ、個人崇拝の性格が強まった。のちに儒教、道教とともに、中国三教となる。仏教普及には以下の僧侶が活躍した。
仏図澄(ブドチンガ) | 西域クチャ出身の僧。310年洛陽に着き、後趙で保護され、華北に仏教を広めた。 |
鳩摩羅什(クマラジーヴァ) | 西域クチャ出身の僧。仏教の経典を漢訳し、講説に努めた。 |
道安 | 五胡十六国時代の仏僧。仏図澄に学び老荘思想を元にした格義仏教を否定し、仏僧の戒律を定めた。 |
慧遠 | 東晋の僧。道安に学び、白蓮社を結成し、のちの浄土宗の祖となる。 |
法顕 | 東晋の僧。経典を求め、399年長安を発ち、陸路でインドに入り、スリランカから海路で412年に帰国した。『仏国記』を記した。 |
・梁の初代皇帝武帝は、南朝の最盛期を作り、のち仏教に傾倒し、財政を破綻させた。
・
敦煌、雲崗、竜門など、著名な仏教遺跡が作られた。
・仏教は度々法難という弾圧にあった。北魏の太武帝、北周の武帝、唐の武帝、後周の世宗らの「三武一宗の法難」が代表例である。
道教の成立
・中国古来の神仙思想や老荘思想、頂角が始めた太平道、張陵が始めた五斗米道(天師道)がもとになり、
道教が形作られた。
・道教は、
神仙思想、老荘思想、陰陽五行説、易、呪術、卜占などの要素からなり、太平道、五斗米道が宗教として組織され、その後北魏の
寇謙之によって
新天師道という教団が成立した。寇謙之は、北魏の太武帝に重用され、442年に道教の国教化や仏教弾圧を行った。
魏晋南北朝時代の諸王朝の興亡