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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

ジュンガルとは わかりやすい世界史用語2412

著者名: ピアソラ
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ジュンガルとは

17世紀から18世紀にかけて、内陸アジアの広大な草原地帯に、モンゴル系遊牧民オイラトの一部族が強力な国家を築き上げました。それがジュンガル・ハン国です。彼らは、東の清朝、西のロシア帝国という二大勢力に挟まれながらも、約1世紀にわたり独立を維持し、中央ユーラシアの歴史に大きな足跡を残しました。

ジュンガルの起源とオイラト連合

ジュンガルを理解するためには、まず彼らが属していたより大きな枠組みであるオイラトについて知る必要があります。オイラトは、モンゴル高原の西部に居住していたモンゴル系遊牧民の総称です。 13世紀初頭、チンギス・カンがモンゴル諸部族を統一した際、オイラトは「森の民」として知られ、現在のトゥヴァ共和国やモンゴル国のフブスグル県周辺に住んでいました。 彼らは1207年にチンギス・カンに服属し、モンゴル帝国の歴史において重要な役割を果たしました。
モンゴル帝国が分裂し、元朝が1368年に中国本土からモンゴル高原へ退いた後、オイラトは独自の勢力を形成し始めます。 15世紀初頭には、オイラトは「ドルベン・オイラト(四オイラト連合)」として知られる部族連合を形成しました。 この連合を構成した主要な4部族が何であったかについては、歴史家の間でも完全な合意には至っていませんが、一般的にはホシュート、チョロース(オロナウル)、ドルベト、トルグートの4部族であったと考えられています。 ジュンガルは、このチョロース部族から台頭した勢力です。
「ジュンガル」という名称は、モンゴル語で「左」または「東」を意味する「ジェグン(ズーン)」と、「手」または「翼」を意味する「ガル」に由来します。 これは、オイラト連合軍における「左翼」を構成していたことに起因するとされています。 17世紀初頭、オイラト連合の指導者であったホシュート部のグシ・ハンがチベット遠征を行った際、軍は左翼と右翼に編成されました。この時、チョロース部族などが含まれる左翼軍が、後にジュンガルとして知られる強力な集団の中核を形成していくことになります。
15世紀半ば、オイラトの指導者エセン・タイシは一時的にモンゴル全体を統一するほどの権勢を誇りましたが、彼の死後、オイラトの統一は崩壊します。 その後、オイラトは東モンゴルのハルハ部などからの圧迫を受け、西へと追いやられていきました。 このような状況の中、17世紀初頭にチョロース部の指導者ハラフラが登場し、オイラト諸部族を再結集させ、ジュンガル・ハン国の基礎を築いたのです。
ジュンガル・ハン国の建国と拡大

ジュンガル・ハン国の実質的な建国者は、ハラフラの息子であるバートル・ホンタイジ(在位:1634年頃 - 1653年)とされています。 彼は父の事業を継ぎ、オイラトの諸部族をまとめ上げ、新たな国家体制を構築しました。 「ホンタイジ」とは「皇太子」を意味する称号で、ジュンガルの君主が代々使用しました。 バートルは西方のカザフ人との戦いに勝利し、ロシアとの交易関係を交渉し、チベット仏教のダライ・ラマ政権からの支持を得るなど、国家の基盤を固めていきました。 また、1640年には、オイラトの諸部族を規制し、チベット仏教ゲルク派を支援するための法典「四十と四の偉大なる法典」を制定しました。
バートルの死後、息子のセンゲ(在位:1653年 - 1671年)が後を継ぎますが、異母兄弟との対立に直面します。 1670年、センゲは異母兄弟によって暗殺されてしまいます。 この時、センゲの弟であるガルダンは、チベットのラサでダライ・ラマ5世のもと、高僧として仏道修行に励んでいました。 兄の死を知らされたガルダンは、ただちにラマ僧の地位を捨てて俗人に戻り、故郷のイリ地方へ帰還します。
ガルダン(在位:1671年 - 1697年)は、兄を殺害した異母兄弟を打ち破り、権力を掌握しました。 彼は卓越した軍事的才能と政治的手腕を発揮し、ジュンガル・ハン国を中央ユーラシアの一大強国へと押し上げます。1678年、ガルダンはオイラト諸部族に対する覇権を確立し、翌年にはダライ・ラマ5世から「ボショクト・ハン(神授のハン)」の称号を授与されました。 これにより、ジュンガルはオイラト連合における指導的部族としての地位を不動のものとしました。
ガルダンの野心はオイラトの統一に留まりませんでした。1680年、彼は12万の大軍を率いてタリム盆地のヤルカンド・ハン国に侵攻し、これを征服します。 ヤルカンド・ハン国は、現在の新疆ウイグル自治区南部に位置し、テュルク系ムスリムが支配する国家でした。この征服により、ジュンガルはタリム盆地のオアシス都市群と、そこに住む農耕民を支配下に置くことになり、国家の経済基盤を大きく強化しました。 さらに東方では、東モンゴルのハルハ部を破り、その領土を侵食していきました。 ジュンガル・ハン国の領土は、最大時には北は南シベリア、南は現在のキルギス、東は万里の長城の西端から西は現在のカザフスタン東部にまで及ぶ広大なものとなりました。
清朝との全面対決:第一次清・ジュンガル戦争

ジュンガルの急速な勢力拡大は、東方に誕生した新たな帝国、満洲人(マンチュ)が支配する清朝との衝突を不可避なものとしました。特に、ガルダンが東モンゴルのハルハ部に侵攻したことは、清の康熙帝にとって看過できない事態でした。ハルハ諸部は清の保護下に入り、ジュンガルからの防衛を求めました。 これが、約70年にわたる清とジュンガルの大規模な戦争の幕開けとなります。
1687年、ガルダンはハルハ部との対立を深め、翌1688年には大規模な侵攻を開始しました。 ガルダンの軍はハルハ軍を圧倒し、ハルハの領主たちは南へ逃れ、清朝に救援を求めます。 これに対し、康熙帝は自ら大軍を率いてモンゴル高原へ出兵することを決意しました。これが第一次清・ジュンガル戦争(1690年 - 1696年)です。
1690年9月3日、両軍はウラーン・ブトゥン(現在の内モンゴル自治区)で激突しました。 清軍は数で勝り、大砲などの火器も有していましたが、ジュンガル軍はラクダの背に防御壁を築く「駱駝城」と呼ばれる陣形で巧みに防戦し、決着はつきませんでした。しかし、この戦いでジュンガル軍も大きな損害を被り、ガルダンは北へ撤退します。
康熙帝はジュンガルの脅威を根絶するため、さらなる遠征を計画します。1696年、康熙帝は再び10万の兵を率いてモンゴル高原に進軍しました。 清軍は三方向からガルダン軍を包囲する作戦を展開します。同年6月12日、現在のウランバートルの東方、テレルジに近いジャオ・モド(ジョーン・モド)で両軍は決戦の時を迎えました。 この戦いでジュンガル軍は壊滅的な敗北を喫し、ガルダンの妻であるアヌ妃も戦死しました。 ガルダン自身はわずかな供回りと共に逃亡しましたが、翌1697年4月4日、アルタイ山脈のホブド近郊で失意のうちに病死しました。
ガルダンの死により、ジュンガルの東方への拡大の野望は一旦挫かれ、ハルハ部(外モンゴル)は清の支配下に入ることが確定しました。 しかし、ジュンガル・ハン国そのものが滅びたわけではありませんでした。ガルダンが東方で戦っている間に、本国のジュンガリアでは彼の甥であるツェワン・ラブタンが権力を掌握しており、ジュンガルの歴史は新たな局面を迎えることになります。
ツェワン・ラブタンの時代と国家の再建

ガルダンの死後、ジュンガル・ハン国の指導者となったのは、彼の甥であるツェワン・ラブタン(在位:1697年 - 1727年)でした。 ツェワン・ラブタンは、ガルダンがハルハ遠征に赴いている間に叔父に反旗を翻し、1689年には事実上ジュンガリアの本土を掌握していました。 ガルダンの死によって、彼は名実ともにジュンガルの支配者となります。
ツェワン・ラブタンは、ガルダンのような急進的な拡大政策ではなく、より現実的な外交と内政の充実に力を注ぎました。彼は西方のカザフ・ハン国との戦争を継続し、1698年にはタシケントやサイラムといった都市を占領し、シルダリア川流域にまで勢力を伸ばしました。 これにより、ジュンガルは中央アジアの交易路に対する支配を強固なものとしました。
一方、清朝との関係においては、表面的な和平を保ちつつも、緊張関係は続きました。ツェワン・ラブタンの治世における最も重要な出来事の一つが、チベットへの介入です。当時、チベットはオイラトの別部族であるホシュート部のラサン・ハンが支配していました。ツェワン・ラブタンは、娘をラサン・ハンの息子に嫁がせるなどして油断させ、1717年に突如として軍隊を派遣し、チベットの首都ラサを占領、ラサン・ハンを殺害しました。
このジュンガルのチベット侵攻は、チベット仏教世界の最高権威であるダライ・ラマを巡る複雑な政治情勢が背景にありました。しかし、ジュンガル軍の占領政策はチベット人の反発を招き、彼らは清の康熙帝に救援を求めます。 康熙帝はこれをジュンガルの影響力をチベットから排除する好機と捉え、1718年と1720年の二度にわたって大軍を派遣しました。 1720年、清軍はジュンガル軍をチベットから駆逐し、新たにダライ・ラマ7世を擁立して、チベットに対する宗主権を確立しました。 これが第二次清・ジュンガル戦争(1718年 - 1720年)です。
チベットでの敗北はあったものの、ツェワン・ラブタンの治世下でジュンガル・ハン国は国力を回復し、安定期を迎えました。彼はロシアとの交易を活発化させ、国家の経済を潤しました。 1727年、ツェワン・ラブタンは突如として亡くなり、彼の息子であるガルダン・ツェレンが後を継ぎます。
ガルダン・ツェレンの黄金時代と社会経済

父ツェワン・ラブタンの跡を継いだガルダン・ツェレン(在位:1727年 - 1745年)の時代は、ジュンガル・ハン国の最盛期、あるいは「黄金時代」と評されています。 彼は父の政策を引き継ぎ、清朝に対しては強硬な姿勢を維持しつつ、国家の経済的・技術的基盤の強化に努めました。
ガルダン・ツェレンは、清朝が要求していた青海ホシュート部の反乱指導者の引き渡しを拒否し、清の同盟者であるハルハ部への圧力を強めました。 これにより、1729年に再び清との間で大規模な戦争が勃発します。 ジュンガル軍は緒戦で清軍に対して多くの勝利を収めましたが、戦線は膠着し、長期化しました。 1734年頃から和平交渉が始まり、1737年に両者はようやく和平協定を結び、ガルダン・ツェレンは清への朝貢を受け入れました。
ガルダン・ツェレンが単なる軍事指導者でなかったことは、彼の内政手腕に表れています。彼は戦争捕虜の中から優れた知識人や技術者を見出し、国家の発展のために活用しました。 タリム盆地から連れてこられたテュルク系の人々は、ジュンガリアの地で灌漑農業の開発に従事させられました。 また、ビロードや紙、布などを生産する工場も建設されました。
特筆すべきは、ジュンガルの軍事産業の発展です。彼らは鉄、銅、銀の鉱山を開発し、そこから得られる原料で武器や防具を製造しました。 さらに、スウェーデン人捕虜のヨハン・グスタフ・レナットなどの助けを借りて、中央アジアの遊牧国家としては異例なことに、銃器や弾丸の国産化に成功していたのです。 ガルダン・ツェレンは、銃器で武装した8万から10万の強力な騎馬軍団を擁していました。
ジュンガルの経済は、伝統的な遊牧社会の牧畜に大きく依存していましたが、それだけではありませんでした。 タリム盆地の征服後は、そこからの貢納物や、農耕民を強制移住させて行わせた農業生産が重要な収入源となりました。 さらに、ロシアと清朝を結ぶ交易路(いわゆる「茶の道」)を支配下に置いたことで得られる莫大な利益が、国家財政を支える大きな柱となっていました。 このように、ガルダン・ツェレンの時代、ジュンガルは軍事的にも経済的にも、そして技術的にも、遊牧国家の枠を超えた複合的な社会を築き上げていたのです。
ハン国の崩壊:後継者争いと清の最終侵攻

1745年、ガルダン・ツェレンが亡くなると、ジュンガル・ハン国を支えてきた強固な権力基盤は急速に揺らぎ始めます。 彼の死は、息子たちの間での激しい後継者争いの引き金となりました。 まず、ガルダン・ツェレンの次男であるツェワン・ドルジ・ナムジャルが即位しますが、1749年に兄のラマ・ドルジによって王位を簒奪されます。 しかし、そのラマ・ドルジも、従兄弟のダワチとホイト部の有力貴族アムルサナによって打倒されてしまいました。
権力を手にしたダワチとアムルサナでしたが、今度は彼らの間で対立が勃発します。 この内紛は、ジュンガル・ハン国にとって致命的なものでした。国家の統一は失われ、各地の部族長はダワチ派とアムルサナ派に分かれて争いました。この絶好の機会を、清の乾隆帝が見逃すはずはありませんでした。
1753年、ダワチと対立したドルベト部とバヤト部の指導者たちが清に亡命し、翌年にはアムルサナ自身も清に降伏しました。 アムルサナは、清の力を借りてダワチを倒し、自らがジュンガルの新たな支配者になることを画策したのです。乾隆帝はアムルサナの野心を利用し、ジュンガルへの最終的な遠征を決定します。
1755年、清は満洲、モンゴル、漢人からなる大軍をジュンガリアに派遣しました。 アムルサナも清軍の先導役として従軍します。長年の内紛で弱体化していたジュンガル軍は、もはや清の大軍に抵抗する力を持っていませんでした。ダワチはほとんど抵抗らしい抵抗もできずに捕らえられ、ジュンガル・ハン国は事実上、この時点で滅亡しました。
乾隆帝は当初、ジュンガルの地を4つの部族に分割し、それぞれにハンを置いて統治させる計画でした。アムルサナもその一人として、ホイト部のハンに任命される予定でした。 しかし、アムルサナの野心はそれだけに留まりませんでした。彼は自らが唯一のジュンガルの支配者となることを望み、清に対して反乱を起こしたのです。
ジュンガル民族の悲劇:乾隆帝の絶滅政策

アムルサナの反乱は、乾隆帝を激怒させました。彼はジュンガルという存在そのものを地上から消し去ることを決意します。 乾隆帝は、前線の将軍たちに対し、反乱に加わったジュンガル人男性を皆殺しにし、女性や子供は満洲人やモンゴル人の兵士に奴隷として分配するよう、繰り返し厳命しました。 これは、単なる反乱鎮圧ではなく、特定の民族集団の意図的な絶滅を目的とした政策であり、現代の視点からは「ジェノサイド(集団殺害)」と見なされています。
1755年から1758年にかけて、清軍によるジュンガル人に対する徹底的な掃討作戦が実行されました。 この作戦には、かつてジュンガルの支配下で苦しんでいたウイグル人(当時はタリム盆地のオアシス民として知られていた)やカザフ人なども、清軍に協力して参加しました。 彼らは長年の恨みを晴らすかのように、ジュンガル人への攻撃に加わったのです。
この絶滅政策と、同時に蔓延した天然痘などの疫病により、ジュンガルの人口は壊滅的な打撃を受けました。 60万人以上いたとされるジュンガル人のうち、約80パーセントにあたる50万人から80万人が、この数年間のうちに命を落としたと推定されています。 ある歴史家の記述によれば、ジュンガルの世帯の約40パーセントが天然痘で、30パーセントが清軍によって殺害され、20パーセントがロシアやカザフ方面へ逃亡したとされています。 清軍の将軍の中には、この徹底的な殺戮に躊躇する者もいましたが、乾隆帝は繰り返し絶滅命令を発し、作戦を遂行させました。
この悲劇によって、ジュンガルという民族は事実上、歴史の舞台から姿を消しました。生き残った人々も、その名前やアイデンティティを失い、他の民族の中に吸収されていきました。 かつて中央ユーラシアに覇を唱えた最後の遊牧帝国は、その民とともに地上から抹殺されるという、あまりにも悲惨な結末を迎えたのです。
ジュンガル滅亡後の新疆

ジュンガル民族が絶滅した後、清朝はジュンガリアと呼ばれた広大な土地を完全に版図に組み入れました。 この無人となった土地を再人口化するため、清朝は大規模な移住政策を実施します。 満洲人の八旗兵をはじめ、漢人、回族、シベ族、そしてかつてジュンガルに支配されていたウイグル人などが、国家の農場開拓民としてジュンガリア各地に入植しました。
この結果、この地域の人口構成は劇的に変化しました。 かつてオイラト・モンゴル人が支配していた新疆北部(ジュンガリア)は、多様な民族が混住する地域へと変貌を遂げたのです。 清朝はウルムチやイリ(グルジャ)といった新たな都市を建設し、この地域に対する支配を固めていきました。
ジュンガルの滅亡は、清朝によるモンゴル、チベットの征服を完了させ、現在の「新疆」という行政区画が創設される直接的な契機となりました。 また、この地域における仏教勢力の終焉は、イスラム教が主要な宗教的・文化的勢力となることを促す結果にもつながりました。 清朝は、ジュンガルという最後の遊牧帝国の脅威を取り除くことで、その支配領域を中央アジアの深部にまで拡大し、現代に至る中国の広大な版図の基礎を築いたのです。

清の時代のジュンガルは、17世紀から18世紀にかけて中央ユーラシアに存在した、オイラト・モンゴル系の最後の遊牧帝国でした。 彼らは、バートル・ホンタイジ、ガルダン、ツェワン・ラブタン、ガルダン・ツェレンといった有能な指導者の下で勢力を拡大し、軍事、経済、技術の各分野で遊牧国家の枠を超えた発展を遂げました。 しかし、東の清朝との約70年にわたる断続的な戦争と、指導者の死後に頻発した内紛によって国力は消耗し、最終的には乾隆帝の派遣した清軍によって征服されました。 そして、アムルサナの反乱をきっかけに、清朝による意図的な絶滅政策の対象となり、民族としてほぼ消滅するという悲劇的な運命を辿りました。 ジュンガルの滅亡は、清朝の版図を中央アジアにまで拡大させ、現在の新疆地域の人口構成や文化的景観を決定づける、歴史的に極めて重要な出来事でした。彼らの興亡の物語は、内陸アジアにおける遊牧民の時代の終わりを象徴しています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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