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18_80 東アジア世界の形成と発展 / 東アジア文化圏の形成(隋・唐帝国と諸地域)

史思明とは わかりやすい世界史用語712

著者名: ピアソラ
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史思明とは

史思明(? - 761年)は、唐代の中国の軍事将軍、君主、政治家であり、安禄山の反乱において重要な役割を果たしました。彼は安禄山の幼馴染であり、後に安禄山の息子である安慶緒を殺害し燕国の皇帝となりました。

史思明は突厥(トルコ系)の出身で、若い頃から安禄山と共に育ちました。彼は痩せ型で肌が滑らかであり、気性が荒いとされていました。彼は貧しい家庭に生まれ、社会的地位も低かったため、地元の人々から軽んじられていました。しかし、地元の名士の娘である辛氏が彼と結婚することを強く望み、最終的に結婚に成功しました。

史思明は最初、唐の将軍である烏知義の下で仕えました。彼は命令を受けると敵兵を捕らえて戻ることができるとされていました。彼と安禄山はそれぞれ6つの非漢民族の言語を理解していたため、軍事尋問で通訳としても活躍しました。その後、彼は張守珪将軍の下でも仕えました。

天宝年間の初め、史思明は繰り返し軍事的な功績を挙げたため、平盧軍の将軍に任命されました。彼が長安の都に報告に訪れた際、玄宗皇帝は彼に感銘を受け、彼の背中を叩いて「お前はいつか栄誉を受けるだろう。これを心に留めておけ」と言いました。これにより、彼の名前は「思明」(明るさを思う)に改名されました。

751年、安禄山が大敗を喫した後、史思明は崩壊した軍隊を再編成し、さらなる災害を防ぎました。

安禄山の反乱が始まると、史思明は彼の側近として重要な役割を果たしました。彼は安禄山の死後、安慶緒を継いで燕国の皇帝となり、反乱を続けました。しかし、彼の統治は短命であり、761年に彼は子によって暗殺されました。

史思明の反乱は唐王朝に大きな打撃を与え、多くの地域で破壊と困難を引き起こしました。最終的に、彼の息子である史朝義が反乱を引き継ぎましたが、763年に彼も敗北し、反乱は終結しました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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