はじめに
ここでは、平家物語の中の『宇治川の先陣』の「平等院の丑寅、橘の小島が崎より~」から始まる部分の現代語訳・口語訳と解説を行っています。書籍によっては『宇治川の先陣争い』などと題するものもあるようです。
前回のテキスト
「ころは睦月二十日あまりのことなれば〜」の現代語訳と解説
原文
平等院の
丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。
一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。
佐々木四郎、
「この川は西国一の大河ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」
と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右の
鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱を馬の
ゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、
たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。
「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらん。」
と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。
梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中より篦撓(のた)め形に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。
佐々木、鐙踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)を
あげて名のりけるは、
「宇多天皇より九代の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」
とて、をめいて駆く。
現代語訳
平等院の丑寅の方角にある、橘の小島が崎より、馬にのった2人の武者が競い合ってやってきた。
1騎は梶原源太景季、もう1騎は佐々木四郎高綱である。人目にはなんとも見えないが、内心、先陣をきろうと思っていたので、梶原景季は佐々木高綱よりも1歩ばかり前にいる。
佐々木四郎が、
「この川は西国で一番の大河ですぞ。腹帯がほどけているように見えます。お締めなさい。」
と言ったので、梶原景季はきっとそうなのだろうと思い、左右の鐙にふんばって立ち、手綱を馬のたてがみのところに置いて、腹帯をほどいて締めなおした。その間に佐々木高綱は梶原景季を追い抜いて、川のなかに入っていった。梶原景季は、欺かれたと思ったのか、それに続いて川に入っていく。
「おい佐々木殿、手柄を立てようとして、油断して失敗しなさるな。川の底に網画はってあるぞ」
と梶原影季が言うと、佐々木高綱は太刀を抜いて馬の足にかかっていた網をことごとく切って進む。佐々木高綱は生食という世界一の馬に乗っていたので、いかに宇治川の流れが速いといっても、川を一文字に渡って、向こう岸に上がった。一方、梶原影季の乗っていた摺墨は、川の中ほどから斜めに押し流されて、はるか下流のところで向こう岸に上がったのである。
佐々木高綱は、鐙に踏ん張り立って、大声をあげて名乗ったことには、
「宇陀天皇から数えて9代目の末裔、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱である。宇治川での戦いの先陣だ、我ぞと思う者はこの高綱と戦え。」
と言って、叫び駆けていく。
品詞分解
品詞分解は
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単語・解説
丑寅 | 十二支で方角を表したときに、丑寅は北東を表す。北がねずみと考える |
鐙 | 「あぶみ」馬に乗るときに足をかける場所のこと |
ゆがみ | 結んだ馬のたてがみ |
後胤 | 末裔 |