俳句の世界で多大なる功績を残した人物が江戸時代に3人存在しました。
松尾芭蕉、
与謝蕪村、
小林一茶です。
松尾芭蕉
弟子の
曽良とともに、東北・北陸・中部地方までの旅を記した紀行文「
奥の細道」が一番有名な著書でしょう。
早期の生涯と俳号の変遷
江戸時代前期に生きた俳諧師、松尾芭蕉は、俳句の神様として尊敬を集める人物です。彼は伊賀国(現在の三重県)で生まれ、本名を松尾宗房といいましたが、のちに宗房から始まり桃青を経て、最終的に芭蕉と改名しました。
主君の影響と俳句の道へ
芭蕉は、若い頃に仕えていた主君から俳諧の世界に入りました。主君の死後も、その影響を受けながら俳諧の道を進み、江戸に移り住んで宗匠の地位を築き上げました。芭蕉の功績は、単なる言葉遊びから芸術の領域へと俳諧を昇華させたことにあり、彼の独自の句風は「蕉風」として知られ、確立されました。
自然への愛と紀行文
芭蕉は、旅をこよなく愛し、その旅の中から多くの感動を受けて紀行文を残しました。彼の中でもっとも著名な作品が『おくのほそ道』です。この作品は、弟子の河合曾良とともに江戸から東北や北陸を旅した際の記録です。その中で詠まれた句は、自然の美しさやわび・さびを表現しており、今なお多くの人々に愛され続けています。
芭蕉の晩年
芭蕉は50歳の若さで大坂で亡くなりました。彼は最後まで旅と俳諧の道を歩み、その人生を全うしました。松尾芭蕉の存在は、日本文学史において極めて重要であり、彼の作品や思想は後世の俳人や文人に大きな影響を与えました。その詩情豊かな句や紀行文は、日本国内だけでなく世界中で称賛され、読み継がれています。
松尾芭蕉の作品は、後世の日本の文学と芸術に大きな影響を与えました。彼の俳句と紀行文は、自然への深い愛と感受性に満ち溢れており、現在でも多くの人々の心を感動させています。
「
月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり。」の冒頭はあまりにも有名です。一般教養としてこの1文ぐらいは覚えておいて損はないでしょう。
さて俳句のスタイルですが、
蕉風と呼ばれる、ひっそりとしていて上品な風流を確立させました。
与謝蕪村
与謝蕪村は俳人であると同時に、画家でもありました。そのために彼の俳句からは、絵画的な印象を受けると言われています。
日本の江戸時代中期に著名な俳人兼画家である与謝蕪村(よさぶそん)は、その才能と芸術的な表現力によって、日本文化に大きな影響をもたらしました。彼は松尾芭蕉の俳諧の流れを受け継ぎながら、独自の画風を築き上げました。以下では、与謝蕪村の生涯と功績に迫ってみましょう。
幼少期からの足跡
1716年、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪府大阪市都島区)に生まれた与謝蕪村。彼の幼少期についてはあまり詳しく知られていませんが、推測によれば富農や庄屋の家系に生まれ育ったとされています。彼の芸術への情熱が、その若干な時期から既に芽生えていたのかもしれません。
芭蕉の影響と修行の日々
20歳前後に江戸に出て、与謝蕪村は俳人の早野巴人(はやのはじん)に師事します。この巴人は、松尾芭蕉の孫弟子であり、芭蕉の文学的なスタイルと精神を引き継いでいました。ここで芭蕉への尊敬と学びが深まり、また同時に絵画の世界にも足を踏み入れます。
放浪の旅と輝かしい足跡
1742年、早野巴人の死後、与謝蕪村は放浪の旅に出ます。彼は日本各地を巡りながら、松尾芭蕉の足跡を辿り、風景や感情を句や絵に表現しました。特に、東北地方を中心にその足跡をたどり、その地の自然や風物を独自の感性でとらえました。この時期に「蕪村」という俳号を名乗り、自己の芸術活動に新たな一歩を踏み出しました。
地名を背負い、新たな時代へ
1750年代後半から1760年代前半にかけて、与謝蕪村は丹後国(現在の京都府北部)に居を構えました。彼の母親が丹後出身であったことから、彼は「与謝」を姓とし、その土地の名を誇りに背負いました。この地での活動によって、彼は地域の文化と風景を取り入れ、その作品に新たな深みをもたらしました。
俳句と絵画:双方からの輝き
1760年代後半から1770年代前半にかけて、与謝蕪村は京都での活動に力を入れます。彼は絵画において「山水図屏風」や「蘇鉄図」といった名作を生み出し、その独自の画風を披露しました。同時に、俳句でも「夜半亭」の二代目として名を馳せ、俳句集団「三菓社」を設立して句会を主催しました。彼の創作活動は多岐にわたり、多様な芸術表現を追求する姿勢が光ります。
輝かしい最盛期
1770年代後半から1780年代前半、与謝蕪村はその芸術家としての最盛期を迎えます。画家としても俳人としても、彼の才能が結実しました。画家としては、池大雅とともに「十便十宜図」を競作し、また「奥の細道図巻」を描くなど、その技術と創造力を結集させました。俳句においても、その作品は広く称賛を受け、後世の俳人たちに多大な影響を与えました。
与謝蕪村の晩年
1784年、与謝蕪村は68歳で京都の自宅でこの世を去りました。彼の辞世の句「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」は、その人生を美しく照らす言葉として残りました。
まとめ
与謝蕪村の生涯は、彼の俳句と絵画の両方における優れた才能と情熱が詰まったものでした。彼は芭蕉の流れを受け継ぎつつ、独自の表現を追求し、日本文化に深い影響を与えました。
・さみだれや大河を前に家二軒
・ちりて後おもかげにたつぼたん哉
人の心よりも、景色の方が先に浮かび上がる句ですね。
ちなみに、俳句と絵を一緒に描くアートである
俳画というジャンルを確立させたのは与謝蕪村であると言われています。
小林一茶
江戸時代後期に輝かしい活動を見せた俳人、小林一茶。彼は、松尾芭蕉や与謝蕪村と並ぶ「江戸三大俳人」の一人としてその名を刻みました。
小林一茶の生涯
1763年、長野県信濃町の柏原で農家の子として誕生した一茶。母を幼少期に亡くし、継母との関係が上手くいかず、15歳の時に江戸へ奉公に出される運命が待っていました。
俳諧への情熱と出会い
江戸での生活が始まる中、一茶は俳諧との出会いを果たします。25歳を迎えた彼は、真剣に句作を始めるようになりました。葛飾派と呼ばれる流派に師事し、東北や西国などを旅しながら修行を積んでいきました。
一茶調の確立と作風の特徴
40歳頃からは、房総方面で句会を主催し、他の流派の俳人とも交流を深めました。こうした交流や経験から、独自の「一茶調」と称される作風を築き上げていきました。この一茶調は、身近な自然や生き物を詠んだ句、そして擬声語や擬態語を巧みに使った句が特徴です。
家族との葛藤と苦悩
一茶は父の死後、継母と弟との間で遺産相続問題に巻き込まれます。13年にわたる争いの末、1813年に遂に解決を見ました。その後、彼は故郷の柏原に定住することとなりました。
多難な人生の中で
51歳で初婚した一茶は、妻との間に4人の子どもが生まれましたが、全てが夭折してしまいます。妻もこの世を去り、その後は再婚、離婚、そして再々婚という波乱に満ちた人生を歩むことになりました。そして、65歳の時、自宅が火事で焼失し、その数カ月後に彼はこの世を去りました。
詠まれた俳句の魅力
小林一茶の生涯は困難や悲劇が多く、しかし彼が詠んだ俳句は多くの人々に深い感銘を与えました。その作品たちは、自然や人生の喜び、悲しみを繊細に切り取り、読む者の心に響くものとなっています。
小林一茶は、江戸時代後期にその名を馳せた俳人であり、独自の作風で多くの人々に影響を与えました。
・雀の子そこのけそこのけお馬が通る
という句を耳にされた方もいらっしゃるのではないでしょうか?
俳句という難しい世界観において、小林一茶は
日常から生まれた感情を大切に、庶民的な句を読み上げていきました。
主な著作は「
おらが春」です。