北部7州とは
ヨーロッパの近世史において、王を持たない共和国が巨大な帝国を相手に独立を勝ち取り、世界の海を支配するほどの繁栄を築き上げた例は、極めて稀です。16世紀末に誕生したネーデルラント連邦共和国、通称「北部7州連合共和国」は、まさにその稀有な実例でした。スペイン=ハプスブルク家の圧政に対し、宗教的寛容と経済的自由を求めて立ち上がった北部の州々は、80年にも及ぶ長い闘争の末、ヨーロッパで最も豊かで革新的な国家を創り上げました。その成功は、17世紀の「黄金時代」において、貿易、金融、科学、そして芸術の分野で頂点を極めます。しかし、この共和国は単一の主権を持つ近代国家ではなく、それぞれが独立した主権を持つ「7つの州」の連合体という、複雑で繊細なバランスの上に成り立っていました。
共和国の礎
北部7州の連合体としての歴史は、八十年戦争(オランダ独立戦争)のさなかに結ばれた一つの軍事同盟から始まります。この同盟が、後の共和国の憲法的な枠組みを定め、7つの州を結びつける絆となりました。
分裂と結束
16世紀半ば、スペイン王フェリペ2世による中央集権化とカトリック強要政策は、ネーデルラント17州全土で激しい反発を招きました。聖像破壊運動、アルバ公による恐怖政治を経て、オラニエ公ウィレムに率いられた反乱は、全ネーデルラントを巻き込む大規模な戦争へと発展します。
一時は「ヘントの和約」(1576年)の下で17州すべてが団結しましたが、宗教的な対立、特に南部のカトリック貴族と北部の急進的なカルヴァン派との間の溝は埋めがたいものでした。スペインの巧みな外交の前に、1579年1月、南部の州々は「アラス連合」を結成し、スペイン王との和解を選びます。これにより、反乱戦線は決定的に分裂しました。
南部の離反に対し、北部の州々は即座に行動を起こしました。1579年1月23日、ホラント、ゼーラント、ユトレヒト、そしてフローニンゲン周辺のオムランデンがユトレヒト市に集まり、「ユトレヒト同盟」を締結します。この同盟には、その後すぐにヘルダーラント、オーファーアイセル、フリースラントも加わり、後の共和国の中核となる7州の原型がここに形成されました。
この同盟の目的は、第一に、共通の敵であるスペインに対して団結して防衛にあたるという軍事的なものでした。加盟州は、互いに助け合い、軍事行動は共同で行うことを誓いました。しかし、その内容は単なる軍事協定にとどまりませんでした。同盟は、外交と軍事、そして特定の税制については連邦として統一的に行動する一方、それ以外の内政、特に宗教政策については各州が独自の決定権を持つことを定めていました。これは、各州がそれぞれの主権とアイデンティティを保持したまま連合するという、後の共和国の分権的な性格を決定づける重要な原則となりました。ユトレヒト同盟は、7つの異なる州を一つの旗の下に結集させ、独立への道を歩むための政治的な羅針盤となったのです。
七州の肖像
ネーデルラント連邦共和国は、しばしば単一の国家として語られますが、その実態は「7つの共和国の連合体」と呼ぶのがより正確です。各州は、全国議会(スターテン=ヘネラール)にそれぞれ1票の投票権を持つ、主権国家でした。
ホラント
ホラント州は、あらゆる意味で共和国の「第一の州」でした。地理的には、北海に面した西部の低地に位置し、アムステルダム、ロッテルダム、ライデン、デルフト、ハーグといった、共和国で最も重要な都市のほとんどを擁していました。
経済的に、ホラントは共和国の心臓部でした。共和国全体の税収の58パーセント近くを負担し、その富は他の6州の合計をはるかに上回っていました。アムステルダムは、17世紀の世界貿易と金融の中心地であり、オランダ東インド会社(VOC)と西インド会社(WIC)の本拠地の一つが置かれ、世界中の富がこの都市に集まりました。ライデンはヨーロッパ有数の毛織物工業の中心地、ハールレムは高級リネンと醸造業、デルフトは陶器とビールの生産で知られました。
この圧倒的な経済力を背景に、ホラント州は政治的にも絶大な影響力を行使しました。全国議会では、ホラントの意向が事実上の決定権を持つことが多く、その最高行政官である「法律顧問」は、共和国全体の外交政策を主導する、事実上の首相の役割を果たしました。社会的には、貴族の力は比較的弱く、都市の裕福な商人や法律家から成る「レヘンテン」と呼ばれる都市貴族層が政治を支配していました。彼らは、各州の自治権と自由貿易を重んじる「州主権派」の中核を形成し、しばしばオラニエ家の総督が持つ中央集権的な野心と対立しました。
ゼーラント
ホラント州の南西に位置するゼーラント州は、無数の島々と半島から成る、文字通り「海の土地」でした。その地理的特徴が、州の性格を決定づけました。ミデルブルフ、フリッシンゲン、ジリクゼーといった都市は、海に面した重要な港でした。
ゼーラントの経済は、海運と貿易に深く依存していました。フリッシンゲンの港は、特に西インド会社(WIC)の活動拠点として重要であり、私掠船(カペル)の母港としても知られました。また、ゼーラントの商人たちは、ホラントのライバルとして、独自の貿易ネットワークを築こうとしました。農業では、肥沃な干拓地での穀物生産が盛んでした。
政治的に、ゼーラントはホラントの最も忠実な同盟者であることが多かったですが、同時に強い独立心も持っていました。特に、スヘルデ川の河口を支配しているという地理的な位置は、南部の主要港アントワープへのアクセスをコントロールする上で、戦略的に極めて重要でした。ゼーラントの州議会では、第一貴族としてオラニエ公が議席を持っていたため、オラニエ派の影響力も比較的強いという特徴がありました。
ユトレヒト
ホラント州の東に位置するユトレヒト州は、かつて強大な権力を誇ったユトレヒト司教領に由来する、独特の歴史を持つ州でした。州都ユトレヒトは、中世以来の宗教的、文化的な中心地であり、壮麗な大聖堂がその歴史を物語っています。
経済的には、ユトレヒトはホラントやゼーラントほどの商業的なダイナミズムはありませんでした。農業が中心であり、特に酪農が盛んでした。しかし、ユトレヒト市は、交通の要衝に位置する重要な市場都市であり、1636年に設立されたユトレヒト大学は、ライデン大学と並ぶ共和国の主要な学問の中心地となりました。
政治的に、ユトレヒトはしばしば内部の対立に揺れました。伝統的な聖職者や貴族の勢力と、都市のギルドや市民層との間の緊張関係が常に存在しました。宗教的には、他の州に比べてカトリック教徒の割合が比較的高く、また、改革派教会内部でも、厳格派と穏健派の間の神学論争が激しく繰り広げられる舞台となりました。
ヘルダーラント
共和国の東部に広がるヘルダーラント州は、面積では最大の州でした。かつてのヘルダーラント公国に由来し、アーネム、ナイメーヘン、ズトフェンといった歴史ある都市を含んでいました。
ヘルダーラントの経済は、ライン川やマース川沿いの河川貿易と農業が中心でした。しかし、その社会構造は、ホラントのような都市中心の社会とは大きく異なっていました。
オーファーアイセル
ヘルダーラントの北に位置するオーファーアイセル州は、その名の通り「アイセル川の向こう側」に広がる、沼沢地や泥炭地が多い地域でした。デーフェンテル、カンペン、ズヴォレといった都市は、かつてハンザ同盟に加盟し、中世には商業で栄えましたが、共和国の時代にはその重要性は低下していました。
経済は、主に泥炭の採掘と農業に依存していました。泥炭は、家庭用や工業用の重要な燃料として、ホラントの都市部に大量に供給されました。政治的には、オーファーアイセルもまた、貴族と都市との間の権力闘争が特徴でした。デーフェンテルやカンペンといった都市は、強い自治の伝統を持っていましたが、州全体としては、貴族の影響力が根強く残っていました。
フリースラント
北部に位置するフリースラント州は、7州の中でも特に独自の言語(フリジア語)、文化、そして歴史を持つ、極めて独立心の強い州でした。中世以来、「フリジアの自由」として知られる封建領主を持たない伝統を誇りにしていました。州都はレーワルデンです。
フリースラントの経済は、酪農と馬の飼育、そして泥炭採掘が中心でした。フリースラント産のバターやチーズは、高品質な輸出品として知られました。社会的には、ホラントのような都市貴族でも、ヘルダーラントのような世襲貴族でもなく、豊かな土地を所有する独立自営農民が社会の中核を成していました。
政治的に、フリースラントは独自の道を歩むことが多くありました。総督の役職は、オラニエ=ナッサウ家の本家ではなく、その分家であるナッサウ=ディーツ家が世襲的に務めました。このことは、フリースラントの独立性をさらに強める要因となりました。
フローニンゲン
共和国の最北東端に位置するこの州は、その正式名称(フローニンゲン市およびオムランデン州)が示す通り、強力な都市フローニンゲンと、その周辺の農村地帯であるオムランデンとの、絶え間ない対立の歴史によって形成されました。
フローニンゲン市は、古くから北部の商業と文化の中心地であり、独自の大学もありました。一方、オムランデンは、豊かな土地を持つ貴族や大規模農民が支配する地域でした。都市と周辺地域は、互いの利害をめぐって激しく対立し、しばしば内戦状態に陥りました。ユトレヒト同盟にも、当初はオムランデンのみが加盟し、フローニンゲン市は後から加わったという経緯があります。
この内部対立は、州の政治を常に不安定なものにしました。しかし、この対立構造があったからこそ、どちらか一方の勢力が州を完全に支配することができず、ある種の権力均衡が保たれるという側面もありました。
統治の仕組み
これほど多様で、時には利害が対立する7つの主権州が、いかにして200年近くにわたり一つの共和国として機能し続けたのでしょうか。その秘密は、共和国の独特な政治運営のメカニズムにありました。
全国議会
共和国の最高意思決定機関は、デン=ハーグに置かれた全国議会でした。7つの州は、それぞれ規模や人口に関わらず1票の投票権を持ち、その代表団を派遣しました。代表団の人数は州によって異なりましたが、投票は州単位で行われました。
この議会の最大の特徴は、代表団が自らの判断で行動するのではなく、出身州の議会(州会)から与えられた訓令に厳格に拘束されていることです。新たな問題が発生した場合、代表団は一旦その問題を持ち帰り、州会で議論し、新たな訓令を受けなければなりませんでした。この手続きは、意思決定を著しく遅らせる原因となり、外国の外交官たちをしばしば苛立たせました。しかし、これは各州がその主権を連邦機関に奪われないようにするための、不可欠な安全装置でもあったのです。戦争、和平、同盟、課税といった最重要事項については、全会一致が原則とされていました。
二つの権力
この非効率的なシステムを実際に動かしていたのが、二つの強力な役職でした。
一人は、ホラント州の法律顧問です。彼は、ホラント州の代表団を率い、その圧倒的な経済力を背景に、全国議会の議論を主導しました。特に、ヨハン=ファン=オルデンバルネフェルトやヨハン=デ=ウィットといった有能な法律顧問は、事実上の共和国の宰相として、外交政策を取り仕切りました。彼らは、各州の自治と自由貿易を重んじる「州主権派」のリーダーでした。
もう一人が、オラニエ=ナッサウ家の総督(スタットハウダー)です。彼は、連邦陸海軍の最高司令官であり、その軍事的な権威と、オラニエ家が独立戦争で果たした功績による国民的な人気を背景に、強大な影響力を持っていました。マウリッツやフレデリク=ヘンドリクといった総督たちは、より強力な中央政府と、君主制に近い体制を目指す「オラニエ派」の象徴でした。
共和国の政治史は、この法律顧問に代表される市民的=共和主義的な勢力と、総督に代表される軍事的=君主主義的な勢力との間の、絶え間ない緊張と協力の歴史として描くことができます。この二つの権力の間のバランスが、共和国の安定とダイナミズムを生み出す源泉となったのです。
共和国の遺産
18世紀末、フランス革命の波に飲み込まれて終焉を迎えるまで、北部7州の連合体は、ヨーロッパ史に消えることのない足跡を残しました。
黄金時代
17世紀の「黄金時代」において、共和国は世界貿易の覇権を握り、アムステルダムは世界経済の中心として繁栄しました。その富は、レンブラントやフェルメールに代表される市民芸術の開花と、ホイヘンスやレーウェンフックによる科学革命の進展を可能にしました。また、その比較的寛容な社会は、ヨーロッパ中の思想家たちにとっての避難所となりました。
しかし、その繁栄には影の部分もありました。富はホラント州に集中し、内陸の州との経済格差は常に存在しました。また、東インド会社や西インド会社による植民地支配や奴隷貿易は、その富が多くの犠牲の上に成り立っていたことを示しています。
後世への影響
政治的には、ネーデルラント連邦共和国の経験は、近代の共和主義思想と連邦主義思想に大きな影響を与えました。君主を戴かず、各州が主権を持つ連合体として国家を運営するというそのあり方は、後のアメリカ合衆国の建国の父たちによって、注意深く研究されました。特に、一つの強力な州(ホラント)と他の小規模な州との関係、そして中央政府と各州の権限のバランスといった問題は、後の連邦国家が直面する課題を先取りするものでした。
北部7州の物語は、多様な背景を持つ独立した主体が、共通の目的のためにいかにして協力し、そして時には対立しながら、一つの共同体を築き上げていったかという、普遍的なテーマを内包しています。それは、中央集権的な王政が主流であった時代における、自由と自治を求める壮大な政治的実験であり、その成功と失敗の経験は、近代世界の形成に貴重な教訓を残したのです。
ネーデルラントの北部7州とは、単なる地理的な区画ではなく、それぞれが独自の個性と主権を持つ「七つの共和国」の連合体でした。経済力で他を圧倒するホラント、海の民であるゼーラント、貴族が支配するヘルダーラント、そして自由な農民の国フリースラント。これらの多様な州が、ユトレヒト同盟という契約の下で結束し、スペインという巨大帝国に立ち向かいました。彼らが創り上げた共和国は、非効率で矛盾をはらみながらも、二つの権力軸の間の絶妙なバランスの上に成り立ち、驚異的な経済的繁栄と文化の爛熟を達成しました。