私拿捕船(私掠船)とは
イギリスの歴史、特にその海洋史を語る上で、「私拿捕船(プライベーティア)」という存在を抜きにすることはできません。私拿捕船とは、戦時に政府から「私掠免許状」を与えられ、敵国の船舶を合法的に拿捕し、その積荷を略奪する権限を認められた民間の武装船を指します。彼らは、海賊と正規海軍の間の曖昧な領域に存在する、複雑で多面的な存在でした。ある者にとっては、国のために戦う愛国的な英雄であり、またある者にとっては、合法の衣をまとった単なる海賊でした。
この制度は、中世にその起源を持ち、16世紀のエリザベス朝時代に最初の黄金期を迎え、17世紀から18世紀にかけての度重なるヨーロッパの戦争で、イギリスの海洋戦略における不可欠な要素として、その最盛期を謳歌しました。そして、19世紀半ばのパリ宣言によって国際的に廃止されるまで、数世紀にわたり、イギリスの戦争遂行、経済、そして国民精神に、深く永続的な影響を及ぼし続けました。
私拿捕船の活動は、単なる略奪行為ではありませんでした。それは、国家が限られた資源で最大限の軍事効果を上げるための、極めて現実的な手段でした。常備海軍の維持には莫大な費用がかかります。特に、広大な海洋で敵の通商路を破壊し、自国の貿易を保護するためには、膨大な数の艦船が必要となります。私拿捕船は、このギャップを埋めるための、費用対効果の高い解決策でした。政府は、自ら船を建造し、船員を雇うコストを負担することなく、民間投資家の欲と愛国心に訴えかけることで、一夜にして巨大な「第二の海軍」を動員することができたのです。投資家は莫大な利益を夢見て船に投資し、船乗りたちは危険な航海に見合う高額な分け前を求めて乗り込みました。
エリザベス1世の治世下で活躍したフランシス=ドレークやジョン=ホーキンスといった「海の犬」たちは、スペインの無敵艦隊との戦いにおける英雄として、また、新世界の富をイングランドにもたらした冒険家として、国民的な神話の一部となりました。彼らの成功物語は、多くの若者を海へと駆り立て、イングランド人の目を内向きの島国から、広大な世界へと向けさせるきっかけとなりました。
17世紀から18世紀にかけて、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、そしてアメリカ独立戦争といった一連の対仏・対西戦争において、私拿捕船の活動は、その規模と組織性の両面で頂点に達しました。ロンドン、ブリストル、リヴァプールといった港町では、私拿捕船への投資が一大産業となり、捕獲された敵船とその積荷を裁定する海事裁判所が、活発に機能しました。カリブ海や北米沿岸、インド洋といった世界の海で、イギリスの私拿捕船は、敵国の経済に深刻な打撃を与え、イギリスの制海権確立に大きく貢献しました。
しかし、私拿捕船の歴史は、栄光と富の物語だけではありません。それは、暴力と死、そして法と無法の境界線が常に問われる、危険な世界でもありました。拿捕された船の船員たちの運命は悲惨なものであり、私拿捕船の船員たち自身も、戦闘や嵐、そして病気によって、常に死と隣り合わせでした。また、私掠免許状の規定を逸脱し、中立国や同盟国の船まで襲う、純然たる海賊行為に手を染める者も後を絶ちませんでした。国際関係が複雑化し、自由貿易の理念が広まるにつれて、この制度の持つ曖昧さと野蛮さは、次第に時代遅れのものと見なされるようになっていきます。
起源と初期の発展
イギリスにおける私拿捕船の制度は、ある日突然発明されたものではなく、中世ヨーロッパの法慣習と、絶え間ない海上での紛争の中から、長い時間をかけて徐々に形作られていったものです。その根源は、国家による司法権がまだ十分に確立されていなかった時代に、個人が自らの手で正義を執行しようとする「自力救済」の慣行にまで遡ることができます。
中世の起源
私掠免許状の最も初期の形態は、「報復拿捕免許状」として知られています。これは、ある国の商人が、外国で不当に財産を奪われたり、損害を被ったりしたにもかかわらず、その国の法廷で正当な補償を得ることができなかった場合に、自国の君主から与えられる許可状でした。
この免許状は、被害者に対して、損害を被った相手国の国民の船舶や財産を、公海上で実力で拿捕し、自らの損害額に相当する分だけをそこから補填することを許可するものでした。これは、本質的には、国家が個人の報復行為を追認し、それに法的な正当性を与えるという仕組みでした。この段階では、まだ国家間の戦争状態である必要はなく、あくまで個人間の紛争解決の一手段でした。
イギリスにおける報復拿捕免許状の最も古い記録の一つは、1243年、ヘンリー3世の治世にまで遡ります。この年、一人のガスコーニュ商人が、ポルトガル沿岸で損害を被ったことへの報復として、イングランドの港に来航したポルトガル商人の財産を差し押さえる許可を得ています。この慣行は、13世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパの海洋国家の間で一般化していきました。
しかし、この制度は、多くの問題点を抱えていました。第一に、報復の連鎖を引き起こす危険性がありました。ある国の商人が報復拿捕を行えば、今度はその相手国の商人が、自国の君主から新たな報復拿捕免許状を得て、報復に乗り出すという、終わりなき暴力の応酬に陥りがちでした。第二に、損害額の算定が恣意的になりやすく、許可された以上の財産を奪い取る、単なる海賊行為との区別がつきにくいという問題がありました。免許状を持つ船乗りが、手当たり次第に船を襲い、それを「報復」と称することも少なくありませんでした。
このような混乱を抑制するため、14世紀後半から、各国政府は報復拿捕の制度に、より厳格な規制を加えようと試み始めます。1354年の「報復拿捕法」は、イングランドにおける重要な一歩でした。この法律は、報復拿捕免許状の発行を、国王とその枢密院の厳格な管理下に置くことを定めました。免許状を申請する者は、外国で受けた損害と、その国の法廷で救済を求めても無駄であったことを、詳細な証拠と共に証明しなければならなくなりました。また、拿捕した財産は、海事裁判所の検分を受けるまで、勝手に処分してはならないと定められました。これらの規制は、個人の無制限な自力救済に歯止めをかけ、私的な報復行為を、国家の司法権の枠組みの中に組み込もうとする試みでした。
戦争遂行の手段へ
報復拿捕という私的な紛争解決の手段が、国家間の戦争における公的な軍事行動へと変化していく転換点となったのが、14世紀から15世紀にかけての百年戦争でした。イングランドとフランスの間で繰り広げられたこの長期にわたる戦争は、海軍力の重要性を浮き彫りにしました。しかし、当時のイングランド王室は、恒久的な大規模海軍を維持するだけの財政力を持っていませんでした。王が直接所有する「王の船」の数は限られており、大規模な作戦の際には、国内の商船を一時的に徴用(武装商船)するか、あるいは別の手段に頼る必要がありました。
ここで注目されたのが、私的な船舶の戦闘能力でした。王は、戦時に、自国の船主や船乗りたちに対して、敵国であるフランスの船舶を攻撃し、その積荷を戦利品として獲得することを許可する、特別な免許状を発行し始めました。これが、「私掠免許状」の直接的な起源です。
報復拿捕免許状が、特定の個人に対する特定の損害への補償を目的としていたのに対し、戦時の私掠免許状は、不特定の敵国船舶全般を対象とし、その目的は、敵の通商を破壊し、その経済力を削ぐという、より広範な軍事目的を持っていました。船主や船乗りたちにとって、これは愛国的な義務であると同時に、一攫千金の夢を追い求める絶好の機会でした。拿捕した船(捕獲船)とその積荷は、海事裁判所の裁定を経て、合法的な戦利品(プライズ)となり、その価値の大部分は、私拿捕船の船主、船長、そして船員たちの間で分配されました。王室は、その一部を税として徴収するだけで、コストをかけずに敵に損害を与えることができたのです。
この時代の私拿捕船の活動は、まだ組織化されておらず、その規模も比較的小さなものでした。しかし、それは、国家が民間の海上戦力を、戦争遂行のための有効な道具として認識し始めたことを示す、重要な変化でした。王室は、民間の船乗りたちの貪欲さと冒険心を、国家の軍事目標を達成するために利用するという、後の時代に繰り返し用いられることになる基本的なモデルを、この時期に確立したのです。
15世紀末から16世紀初頭にかけてのテューダー朝の成立は、イングランドにおける中央集権化と、海軍力の整備を大きく前進させました。ヘンリー7世やヘンリー8世は、王直属の海軍の創設に力を注ぎ、大型の軍艦を建造しました。しかし、それでもなお、海軍の規模は限られており、特に広範囲にわたる通商破壊戦や沿岸防衛において、私拿捕船が果たす補完的な役割は、依然として重要であり続けました。ヘンリー8世の対フランス・対スコットランド戦争では、多数の私掠免許状が発行され、私拿捕船が海軍の作戦を支援する形で、活発に活動しました。この時期を通じて、私拿捕船は、単なる個人の報復行為から、国家の海洋戦略に組み込まれた、半公式的な軍事力として、その地位を確立していったのです。
エリザベス朝の黄金時代
16世紀後半、エリザベス1世の治世は、イギリス私拿捕船の歴史における最初の、そして最も神話化された「黄金時代」でした。この時代、私拿捕船の活動は、単なる戦争の補助手段から、国家の政策、経済、そして国民精神そのものを象徴する、中心的な現象へと変貌を遂げました。フランシス=ドレークに代表される「海の犬」たちの活躍は、プロテスタントの小国イングランドが、カトリックの巨大帝国スペインに立ち向かう、英雄的な物語として語り継がれ、イギリスの海洋国家としてのアイデンティティ形成に、決定的な影響を与えました。
海の犬の登場
エリザベス朝の私拿捕船乗りたちは、それ以前の時代の者たちとは一線を画していました。彼らは、単に金儲けを狙う船乗りであるだけでなく、熱烈なプロテスタントとしての信仰心、強烈な愛国心、そして未知の世界への飽くなき探求心を併せ持った、新しいタイプの冒険家でした。彼らの主な標的は、当時、新世界の富を独占していたカトリックのスペイン帝国でした。彼らにとって、スペイン船を襲うことは、女王への奉仕であり、プロテスタントの神のための戦いであり、そして自らを豊かにするためのビジネスでもあったのです。
この時代の代表的な人物が、ジョン=ホーキンスと、その縁戚であるフランシス=ドレークです。プリマスを拠点とする彼らは、当初、スペインが植民地での貿易を独占していることに不満を持ち、アフリカから奴隷をスペイン領アメリカに密輸するという、非合法な貿易に従事していました。1568年、メキシコのサン=フアン=デ=ウルアの港で、彼らの船団がスペイン艦隊の奇襲に遭い、壊滅的な打撃を受けた事件は、彼らのスペインに対する個人的な復讐心を燃え上がらせました。
特にドレークは、その後、スペインに対する執拗な私掠活動を開始します。1572年には、パナマ地峡を襲撃し、ペルーからスペイン本国へ送られる銀の輸送ルートを麻痺させ、莫大な富を奪いました。彼の名は、スペイン人の間で「エル=ドラケ(竜)」として恐れられるようになりました。
これらの活動は、公式にはイングランドとスペインが平和な状態にあった時期に行われたため、厳密には海賊行為でした。エリザベス女王は、スペイン大使からの激しい抗議に対し、表向きは彼らの行動を非難しつつも、裏では彼らの活動を黙認し、その成功を奨励し、そして略奪品から多額の分け前を受け取っていました。これは、正規の戦争に訴えることなく、スペインの力を削ぎ、同時に国庫を潤すという、エリザベスならではの、曖昧で現実的な外交戦略の一環でした。
フランシス=ドレークの世界一周
ドレークの最も偉大な功績は、1577年から1580年にかけて達成された世界一周航海です。この航海の表向きの目的は、南米大陸の南端を越えて、新しい貿易ルートと未知の土地を発見することでした。しかし、その真の目的は、これまでスペインの「私的な湖」と見なされていた太平洋に進出し、無防備なスペイン植民地と船舶を襲撃することにありました。
ドレークの旗艦「ゴールデン=ハインド号」は、マゼラン海峡を通過して太平洋に入ると、チリやペルーの沿岸を北上しながら、次々とスペインの町や船を襲撃しました。特に、ペルーからパナマへ向かっていた財宝船「カカフエゴ号」を拿捕した際には、26トンもの銀塊をはじめとする、天文学的な額の財宝を手に入れました。
スペインの追撃を逃れるため、ドレークはアメリカ大陸を横断して帰国するという当初の計画を断念し、太平洋を横断して西へと向かいました。モルッカ諸島(香料諸島)で香辛料を積み込み、喜望峰を回って、3年近くの歳月を経てイングランドに帰還しました。
この航海は、イングランドに莫大な富をもたらしました。略奪品の総額は、イングランドの国家歳入の2年分に匹敵したとも言われています。女王エリザベスは、この利益の最大の株主の一人であり、彼女は、スペインの猛烈な抗議をものともせず、デプトフォードに係留されたゴールデン=ハインド号の船上で、ドレークにナイトの爵位を授与しました。これは、イングランドがもはやスペインの海洋覇権を恐れず、世界中の海が自国の活動の舞台であると公然と宣言する、象徴的な出来事でした。ドレークの成功は、多くのイングランド人を刺激し、海外への冒険と投資のブームを巻き起こしました。
無敵艦隊との戦い
1585年、イングランドとスペインの関係はついに破綻し、公式な戦争状態に突入しました。ここにきて、私拿捕船乗りたちは、非公式な海賊から、国家公認の英雄へとその姿を変えます。エリザベスは、多数の私掠免許状を発行し、民間の武装船を、正規海軍と並ぶ重要な戦力として動員しました。
ドレークは、海軍中将として、1587年にスペインのカディス港を奇襲攻撃し、イングランド侵攻のために集結中であった艦隊に大きな損害を与えました。この大胆な作戦は、「スペイン王の髭を焼いた」と称され、無敵艦隊の出撃を一年遅らせることに成功しました。
そして1588年、ついにスペインの無敵艦隊(アルマダ)がイングランドに来襲すると、ドレーク、ホーキンス、そしてマーティン=フロビッシャーといった、歴戦の私拿捕船乗りたちが、イングランド艦隊の指揮官として、その防衛の最前線に立ちました。彼らが私掠活動で培った、長距離航海の経験、卓越した操船技術、そして大砲を用いた遠距離砲撃の戦術は、この戦いで遺憾なく発揮されました。
イングランド艦隊は、スペインの巨大なガレオン船に比べて、小型で機動性に優れていました。彼らは、敵の懐に飛び込んでの接舷戦闘を避け、距離を保ちながら、大砲で敵船を攻撃するという、新しい海戦の形を実践しました。カレー沖での火船攻撃や、その後のグラヴリンヌ沖海戦での勝利は、彼らの戦術と、悪天候という幸運が組み合わさった結果でした。
無敵艦隊の敗北は、イギリス私拿捕船の神話を完成させました。ドレークをはじめとする「海の犬」たちは、プロテスタントのダヴィデが、カトリックのゴリアテを打ち破るという、聖書的な物語の主人公として、国民的な英雄として崇められるようになりました。彼らの活躍は、イングランドに、海洋国家としての自信と誇りを植え付け、その後の海洋帝国への道を切り開く、精神的な原動力となったのです。この時代、私拿捕船は、単なる金儲けの手段ではなく、愛国心、宗教的情熱、そして冒険精神が一体となった、エリザベス朝という時代の精神そのものを体現する存在でした。
最盛期と組織化
17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスはフランスやスペインとの間で、覇権をめぐる一連の大規模な戦争を繰り返しました。英蘭戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争、そしてアメリカ独立戦争といった、後に「第二次百年戦争」とも称されるこの長期にわたる紛争の時代は、イギリス私拿捕船の活動が、その規模、組織性、そして戦略的重要性において、まさに最盛期を迎えた時代でした。エリザベス朝の個人的な英雄主義の時代は終わりを告げ、私拿捕船は、国家の戦争経済に組み込まれた、巨大な「戦争産業」へと変貌を遂げたのです。
戦争産業としての一面
この時代の私拿捕船は、もはや一握りの冒険家による投機的な事業ではありませんでした。それは、ロンドン、ブリストル、リヴァプールといった主要な港湾都市を拠点とする、高度に組織化されたビジネスでした。
私拿捕船の事業は、通常、株式の形で行われました。船主、商人、貴族、そして時には一般市民までもが、一口数ポンドから数百ポンドの株を購入し、共同で船の建造費や武装、航海の費用を賄いました。これにより、一隻の船が拿捕に失敗したり、失われたりした場合のリスクが、多くの投資家の間で分散されました。成功すれば、投資家たちは、投資額に応じて、戦利品の価値から分配金を受け取ることができました。その利益率は、時には数百パーセントにも達することがあり、私拿捕船への投資は、ハイリスク=ハイリターンの魅力的な投機対象と見なされていました。
船の選定も、より専門化しました。速度が重視され、敵の商船を追跡し、敵の軍艦からは逃走できる、高速で航行性能の高い船が好まれました。フランスで建造されたフリゲートやスループ船は、その速さから特に人気があり、拿捕された敵船が、改装されてイギリスの私拿捕船として再利用されることも頻繁にありました。武装も強化され、多数の大砲が装備されました。船員の数も、通常の商船よりはるかに多く乗船させられました。これは、拿捕した敵船を港まで回航するための人員を確保するためであり、また、接舷戦闘の際に、数の上で優位に立つためでした。
船員の募集も、組織的に行われました。酒場や港には募集係が立ち、高額な分け前と冒険の魅力で、腕に覚えのある船乗りたちを勧誘しました。私拿捕船の船員は、正規海軍の兵士よりも規律が緩く、そして何よりも、戦利品の分配にあずかれるという金銭的な魅力がありました。戦利品の価値は、海事裁判所の裁定の後、定められた比率に基づいて分配されました。通常、半分が船の所有者(投資家)の取り分となり、残りの半分が、船長、士官、そして一般の船員たちの間で、その階級に応じて分配されました。この「分け前なしに平和なし」という原則は、船員たちに、危険を冒してでも敵船を拿捕しようという、強い動機を与えました。
海事裁判所と法的手続き
私拿捕船の活動が、単なる海賊行為と区別されるための、最も重要な制度的基盤が、海事裁判所の存在でした。私拿捕船が敵船を拿捕した場合、その船と積荷は、自動的に私拿捕船の所有物となるわけではありませんでした。彼らは、拿捕した船(捕獲船)を、自国の港、あるいは同盟国の港にある海事裁判所まで回航し、その拿捕が合法的なものであるかどうかの審判を受けなければなりませんでした。
海事裁判所では、捕獲船の船長や船員の尋問、そして船の積荷目録や航海日誌といった書類の精査が行われました。裁判官は、以下の点を確認しました。
拿捕を行った船が、有効な私掠免許状を所持していたか。
拿捕された船が、実際に敵国の船籍であるか、あるいは敵国のために貨物を運んでいたか。
拿捕が、国際法や、私掠免許状に定められた規則に従って行われたか。
審理の結果、拿捕が合法的であると判断された場合、裁判所は「断罪」の判決を下し、捕獲船とその積荷は、合法的な戦利品(プライズ)として宣言されました。その後、戦利品は競売にかけられ、その売却益から、裁判所の費用や関税が差し引かれた後、定められた比率で、投資家と船員たちに分配されました。
一方、拿捕が不法であると判断された場合、例えば、中立国の船を誤って拿捕した場合などには、船と積荷は元の所有者に返還され、私拿捕船側が損害賠償を命じられることもありました。この法的な手続きは、私拿捕船の活動に一定の規律を与え、無法な海賊行為を抑制し、そして中立国との外交問題に発展するのを防ぐための、重要な安全装置として機能しました。ロンドンにあった高等海事裁判所は、この分野における国際法の発展に、大きな影響を与えました。
世界的な展開と戦略的影響
18世紀、イギリスの私拿捕船の活動範囲は、ヨーロッパ近海から、世界中の海へと広がりました。彼らの主な狩場は、敵国の通商路が集中する海域でした。
カリブ海は、その最たる例でした。フランスやスペインの植民地が生み出す砂糖、コーヒー、タバコといった高価な商品を積んだ船団は、私拿捕船にとって、格好の標的でした。ジャマイカのポート=ロイヤルや、アンティグアのイングリッシュ=ハーバーといった港は、イギリスの私拿捕船の一大拠点となり、そこから出撃した船が、敵の島の間の海峡で待ち伏せを行いました。
北米大陸沿岸も、重要な活動舞台でした。ニューヨーク、ニューポート、フィラデルフィアといった港から、多数の私拿捕船が出撃し、カナダのフランス植民地や、カリブ海との間の交易路を脅かしました。アメリカ独立戦争の際には、逆に、アメリカ大陸会議が発行した私掠免許状を持つアメリカの私拿捕船が、イギリスの通商に深刻な打撃を与え、イギリスの港町にパニックを引き起こしました。
遠くインド洋においても、フランスの拠点であるモーリシャス(当時はイル=ド=フランス)とインドを結ぶ通商路が、イギリス東インド会社の船や、イギリス本国から派遣された私拿捕船の標的となりました。
このような世界規模での通商破壊戦は、敵国経済に深刻な影響を与えました。敵国の商船は、保険料の高騰、輸送コストの増大、そして商品の供給不足に苦しめられました。これにより、敵国の戦争遂行能力そのものが、徐々に蝕まれていきました。一方で、私拿捕船がもたらす富は、イギリス経済を潤し、戦争の費用を賄う一助となりました。
戦略的に見れば、私拿捕船は、正規海軍の貴重な資源を、主力艦隊同士の決戦や、重要な海上封鎖といった、より決定的な任務に集中させることを可能にしました。通商保護や通商破壊といった、広範囲にわたる消耗戦は、私拿捕船という「影の海軍」に委ねることができたのです。この官民一体となったハイブリッドな海洋戦略こそが、18世紀を通じて、イギリスがフランスとの覇権争いを制し、世界の海における支配的な地位を確立することを可能にした、重要な要因の一つでした。
私拿捕船乗りの世界
私拿捕船の活動を、国家戦略や経済的側面からだけでなく、実際にその船に乗って生きた人々の視点から見ることで、その世界の持つ、より複雑で生々しい実像が浮かび上がってきます。それは、一攫千金の夢と、常に死と隣り合わせの過酷な現実が同居する、暴力と規律、自由と束縛が入り混じった、独特の世界でした。
船員の構成と動機
私拿捕船の船員は、多様な背景を持つ人々の寄せ集めでした。その中核をなしたのは、経験豊富な商船の船乗りや、元海軍兵でした。彼らは、海での生活の厳しさを熟知しており、その技術と経験は、航海や戦闘において不可欠でした。
しかし、戦争が長引き、船員の需要が高まると、海とは無縁だった人々も、大勢この世界に足を踏み入れました。失業した職人、土地を追われた農民、借金から逃れたい者、そして単に冒険と富を求める若者たち。彼らにとって、私拿捕船は、陸での先の見えた生活から抜け出すための、数少ない機会の一つでした。
彼らを惹きつけた最大の動機は、金銭的な報酬、すなわち戦利品の分け前でした。正規の海軍では、兵士の給料は低く、戦利品の分配率もごくわずかでした。一方、私拿捕船では、一回の航海で大きな獲物を捕らえれば、数年分の給料に相当する大金が手に入る可能性がありました。この「プライズ=マネー」の夢は、多くの人々を、危険な航海へと駆り立てる、強力なインセンティブとなりました。
また、正規海軍の厳格な規律からの自由を求める者もいました。海軍では、「プレス=ギャング」と呼ばれる強制徴募が横行し、一度入隊すれば、いつ解放されるか分からない過酷な勤務が待っていました。船内での規律も厳しく、鞭打ちなどの体罰は日常茶飯事でした。これに対し、私拿捕船は、あくまで一回の航海ごとの契約であり、船内の規律も、比較的緩やかであると見なされていました。もちろん、私拿捕船の船長も、船の秩序を維持するために厳しい罰則を科すことはありましたが、そこには、共通の目標(戦利品の獲得)に向かう、より民主的で、実力主義的な雰囲気があったと言われています。
船上の生活と規律
私拿捕船の船上での生活は、極めて過酷なものでした。船は、できるだけ多くの大砲と船員を詰め込むために設計されており、一人当たりの居住スペースは、極端に狭いものでした。船員たちは、ハンモックで窮屈な眠りにつき、食事は、塩漬けの牛肉や豚肉、そして堅パン(シップス=ビスケット)といった、長期保存に耐える、単調で栄養の偏ったものが中心でした。新鮮な水は常に貴重品であり、すぐに腐敗して、悪臭を放つことも珍しくありませんでした。
このような劣悪な衛生環境は、病気の温床となりました。特に、ビタミンCの欠乏によって引き起こされる壊血病は、長期の航海において、船員たちの最大の敵でした。戦闘で死ぬ者よりも、病気で死ぬ者の方が、はるかに多かったのです。
船の秩序は、「船内規約」によって維持されていました。これは、航海の初めに、船長と船員全員が署名する契約書であり、戦利品の分配率、船内での規則、そして違反した場合の罰則などが、詳細に定められていました。反乱、脱走、窃盗、あるいは戦闘中の臆病な振る舞いなどは、最も重い罪とされ、分け前の没収、鞭打ち、そして時には死刑に処せられることもありました。
しかし、その一方で、船の運営には、ある種の民主的な要素も存在しました。重要な決定、例えば、不審な船を追跡するかどうか、あるいはどの海域で獲物を探すかといった問題について、船長が船員全体の意見を聞くこともありました。船員たちは、自らの分け前が懸かっている以上、航海の成功に対して、強い当事者意識を持っていたのです。この、トップダウンの権威と、ボトムアップの合意形成が混在する統治構造は、私拿捕船の独特な社会を特徴づけるものでした。
戦闘と拿捕の現実
私拿捕船の日常は、退屈な待ち伏せと、突如として訪れる、暴力的で混沌とした戦闘が交互に繰り返されるものでした。水平線に帆が見えると、船内には緊張が走ります。船長は、望遠鏡で船の国籍や種類を見極め、それが攻撃する価値のある「獲物」であるかどうかを判断しました。
追跡が始まると、私拿捕船は、その速度を最大限に生かして、目標の商船に接近します。多くの場合、商船側は、勝ち目のない戦いを挑むよりも、抵抗せずに降伏することを選びました。私拿捕船は、威嚇のために、船首の追い討ち砲(チェイス=ガン)を一発撃ち、相手に停船と降伏を促すのが常でした。
しかし、相手が武装していたり、抵抗の意志を見せたりした場合には、激しい砲撃戦が始まりました。両船は、互いに舷側を向け、大砲で砲弾を撃ち合いました。砲弾は、船体やマストを破壊し、飛び散った木片(スプリンター)が、船員たちを殺傷しました。
最終的には、私拿捕船は、敵船に接舷し、船員たちが一斉に敵船になだれ込み、接舷戦闘(ボーディング)で決着をつけようとしました。ピストル、カットラス(舶刀)、斧、そしてパイク(長槍)で武装した船員たちが、入り乱れての白兵戦を繰り広げました。これは、船上での戦闘で最も血生臭く、危険な瞬間でした。
敵船を制圧すると、拿捕班(プライズ=クルー)が送り込まれ、捕虜となった敵の船員を確保し、船の支配権を確立しました。そして、拿捕した船を、海事裁判所のある港まで、慎重に回航するのです。この回航の途中も、敵国の軍艦に再拿捕されたり、嵐に遭遇したりする危険が常に付きまといました。
拿捕された船の船員たちの運命は、悲惨なものでした。彼らは、しばしば船上の劣悪な環境に監禁され、港に着くと、捕虜交換が行われるまで、不衛生な捕虜収容所に収容されました。彼らの個人的な財産は、ほとんどの場合、私拿捕船の船員たちによって略奪されました。私拿捕船の活動は、それを遂行する者にとっても、その犠牲者にとっても、極めて暴力的で、非情な現実を伴うものだったのです。
衰退と終焉
19世紀に入ると、数世紀にわたってイギリスの海洋戦略の重要な一部を担ってきた私拿捕船の制度は、次第にその輝きを失い、衰退への道を歩み始めます。その背景には、戦争の形態の変化、国際関係の複雑化、そして人道主義的な思想の広がりといった、時代の大きな変化がありました。かつては英雄と見なされた私拿捕船乗りたちは、次第に時代遅れの、そして野蛮な存在と見なされるようになっていったのです。
ナポレオン戦争=最後の輝き
1793年から1815年まで続いたフランス革命戦争とナポレオン戦争は、イギリス私拿捕船にとって、最後の、そして史上最大規模の活動の舞台となりました。この全面戦争の時代、イギリス政府は、フランスとその同盟国の通商を根絶やしにするため、前例のない数の私掠免許状を発行しました。
この時代の私拿捕船の活動は、以前の戦争とは比較にならないほどの規模と激しさで行われました。イギリス海峡からカリブ海、インド洋に至るまで、世界のあらゆる海で、イギリスの私拿捕船がフランスの商船を追い詰めました。フランス側もまた、多数の私拿捕船(コルセール)を動員してこれに対抗し、両国の私拿捕船による熾烈な通商破壊戦が繰り広げられました。
しかし、この時代には、私拿捕船の活動を取り巻く環境に、いくつかの重要な変化が見られました。第一に、イギリス正規海軍(ロイヤル=ネイビー)が、圧倒的な優位を確立したことです。トラファルガーの海戦(1805年)でフランス・スペイン連合艦隊が壊滅して以降、イギリス海軍は、世界の海の支配権を完全に掌握しました。これにより、海軍は、敵の主力艦隊を警戒する必要なく、その資源を、海上封鎖や通商保護に、より大規模に投入できるようになりました。その結果、私拿捕船が担ってきた役割の一部が、正規海軍によって代替されるようになっていきました。
第二に、ナポレオンの大陸封鎖令(1806年)と、それに対するイギリスの海上封鎖令(枢密院令)の応酬が、国際的な海上貿易のルールを極度に混乱させたことです。両国は、中立国の船舶であっても、敵国と貿易するものはすべて拿捕の対象とすると宣言しました。これにより、私拿捕船の活動は、中立国、特にアメリカ合衆国との間に、深刻な摩擦を引き起こしました。イギリスの私拿捕船や海軍によるアメリカ船の臨検や拿捕は、アメリカの世論を硬化させ、米英戦争(1812年-1815年)の主要な原因の一つとなりました。皮肉なことに、この戦争では、かつてイギリスの私拿捕船が活躍した北米沿岸で、今度はアメリカの高速な私拿捕船が、イギリスの通商に大きな損害を与えることになったのです。
制度への批判と人道主義
19世紀に入ると、啓蒙思想や福音主義運動の影響を受けて、人道主義的な考え方が、ヨーロッパの知識人や政治家の間で、大きな影響力を持つようになりました。奴隷貿易の廃止運動がその代表例ですが、戦争のあり方そのものに対しても、その残虐性を抑制し、より文明的なルールを確立しようとする動きが活発になりました。
このような風潮の中で、私拿捕船の制度は、多くの批判に晒されるようになります。批判の要点は、主に以下の三つでした。
規律の欠如と野蛮性:私拿捕船の船員は、金銭的な欲望によって動機づけられており、その行動は、しばしば正規の軍隊に求められる規律を欠いていました。拿捕の際の不必要な暴力や、捕虜に対する非人道的な扱いは、戦争における騎士道精神や名誉といった理念とは相容れない、野蛮な行為と見なされました。彼らは、もはや愛国的な英雄ではなく、合法化された海賊に過ぎないと非難されたのです。
国際関係の阻害:私拿捕船の無差別な活動は、中立国との関係を悪化させ、政府の外交努力を妨げる要因となりました。特に、世界最大の海運国となり、自由貿易を国是とし始めたイギリスにとって、私拿捕船による海上交通の妨害は、自国の経済的利益にも反する側面を持つようになっていました。平和な時代には、かつての私拿捕船乗りたちが、そのまま海賊や密輸業者に転身することも多く、海上秩序の維持という観点からも、問題視されるようになりました。
戦争の民営化への疑問:国家が、戦争という最も重要な公的行為の一部を、個人の営利目的のために「民営化」することの是非が、根本的に問われるようになりました。戦争は、国家の責任において、規律ある正規軍によってのみ遂行されるべきであり、個人の貪欲さを戦争の動機とすることは、非倫理的であるという考え方が広まったのです。
これらの批判は、私拿捕船の制度が、もはや近代的な国家や国際社会のあり方とは適合しない、前近代的な遺物であるという認識を、徐々に広めていきました。
1856年のパリ宣言と制度の終焉
私拿捕船の制度に、法的な終止符を打ったのが、1856年の「パリ宣言」でした。これは、クリミア戦争の終結に際して、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、プロイセン、サルデーニャ、そしてオスマン帝国によって署名された、海上法に関する国際宣言です。
この宣言の第1条は、極めて簡潔かつ明確に、「私掠行為は、これを廃止し、また将来も廃止したるものとす」と規定しました。
かつて世界最大の私拿捕船大国であったイギリスが、なぜ自らその廃止に賛同したのか。その背景には、19世紀半ばにおけるイギリスの国際的地位の変化がありました。この時期、イギリスは「世界の工場」として、また世界最大の海運国として、自由貿易体制から最も大きな利益を得る国となっていました。イギリスにとって、将来の戦争において、敵国の私拿捕船によって、自国の広大な海上貿易網が攻撃されるリスクは、自らが私拿捕船を利用して得られる利益よりも、はるかに大きいと判断されたのです。圧倒的な優位を誇る正規海軍(ロイヤル=ネイビー)さえあれば、敵の通商を破壊することは可能であり、もはや規律に欠け、外交上の問題を引き起こしやすい私拿捕船に頼る必要はない、と考えたのです。
パリ宣言は、その後、多くの国々によって批准され、私掠行為の禁止は、国際法の重要な原則として確立されました。これにより、数世紀にわたってヨーロッパの戦争と海洋史に大きな影響を与えてきた私拿捕船の制度は、公式にその歴史の幕を閉じたのです。
アメリカ合衆国は、この宣言に署名しませんでした。その理由は、強大な海軍を持つヨーロッパ列強に対抗するためには、私拿捕船という非対称な戦力を保持しておく必要があると考えたためです。しかし、アメリカも、その後の南北戦争で私掠免許状を発行したのを最後に、事実上、私掠行為を行うことはなくなりました。かつて海を闊歩した私拿捕船は、蒸気機関で走る装甲艦が海戦の主役となる新しい時代の中で、完全にその姿を消していったのです。
結論
イギリスの私拿捕船の歴史は、国家の必要性と個人の欲望が、いかにして結びつき、そして時代と共にその関係を変化させていったかを示す、壮大な物語です。中世の私的な報復行為から始まったこの制度は、エリザベス朝の「海の犬」たちの英雄的な冒険譚を経て、18世紀の「戦争産業」へと発展し、そして19世紀に、時代遅れの野蛮な慣行として、その歴史的役割を終えました。
私拿捕船は、イギリスが海洋帝国へと発展していく過程で、不可欠な役割を果たしました。財政的に脆弱だったテューダー朝やスチュアート朝の時代、彼らは、国家の負担を最小限に抑えつつ、敵国の力を削ぐための、費用対効果の高い軍事力でした。彼らがもたらした富は国庫を潤し、彼らの冒険は国民の目を世界に向けさせました。無敵艦隊との戦いにおける彼らの勝利は、イングランドに海洋国家としての自信を与え、国民的アイデンティティの形成に大きく貢献しました。
18世紀、イギリスが世界規模で覇権を争った時代、私拿捕船は、正規海軍と連携する「第二の海軍」として、敵の通商路に壊滅的な打撃を与えました。その組織化された活動は、イギリスの戦争経済の重要な一翼を担い、官民一体となった海洋戦略の成功を支えました。私拿捕船なくして、18世紀におけるイギリスの制海権確立は、より困難なものになっていたでしょう。
しかし、その栄光の物語は、常に暴力と無法の影を伴っていました。私拿捕船の世界は、一攫千金を夢見る者たちの欲望と、戦闘や病気による死の危険が渦巻く、過酷な場所でした。彼らの活動は、しばしば合法と非合法の境界線を越え、純然たる海賊行為と区別がつかないことも少なくありませんでした。彼らは、ある視点からは愛国的な英雄でしたが、別の視点からは、単なる貪欲な略奪者でした。
19世紀、自由貿易と人道主義の理念が広まり、イギリスが圧倒的な海軍力を持つ世界帝国として君臨するようになると、私拿捕船の存在意義は、急速に失われていきました。かつては国家の利益に貢献したその活動が、今や、安定した国際秩序と自由な通商の妨げと見なされるようになったのです。1856年のパリ宣言による私掠行為の廃止は、この歴史的役割の終焉を、国際的に確認するものでした。
私拿捕船の物語は、イギリスという国家の自己認識の変化を映し出す鏡でもあります。宗教と愛国心に燃える冒険家が英雄とされた時代から、組織化された商業的利益が優先される時代へ、そして最終的には、法と秩序に基づく国際システムの主導者としての自己認識へ。私拿捕船の盛衰は、イギリスが、海賊的なエネルギーに満ちた小国から、世界の海を支配する巨大帝国へと変貌し、そしてその帝国の維持のために、かつての自らの姿を否定するに至るまでの、長い道のりを象徴しているのです。