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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 主権国家体制の成立

南部10州とは わかりやすい世界史用語2624

著者名: ピアソラ
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南部10州とは

ヨーロッパの歴史地図を眺めると、ネーデルラント、すなわち「低地の国々」と呼ばれる地域が、常に大国の思惑が交錯する戦略的な要衝であったことがわかります。特に、八十年戦争(オランダ独立戦争)を経てネーデルラントが南北に分裂した後の南部の歴史は、北部のネーデルラント連邦共和国(オランダ)が黄金時代を謳歌した華々しい物語の影に隠れがちです。しかし、この南部の州々、通称「南部10州」が歩んだ道は、それ自体がヨーロッパの近世から近代にかけての力学を映し出す、複雑で魅力的な物語を内包しています。スペイン=ハプスブルク家、そしてオーストリア=ハプスブルク家の支配下で「スペイン領ネーデルラント」「オーストリア領ネーデルラント」として存続し、フランス革命の波に洗われ、最終的には近代国家ベルギーの礎となったこの地域。
分裂の序章

南部ネーデルラントの物語は、16世紀後半のネーデルラント17州全体を巻き込んだ巨大な動乱、すなわち八十年戦争から始まります。この戦争が、なぜネーデルラントを南北に引き裂くという結果をもたらしたのか。その原因は、宗教、政治、そして個人の思惑が複雑に絡み合った対立の中にありました。
統一と反乱

16世紀半ば、ハプスブルク家の皇帝カール5世の下で、ネーデルラント17州は初めて一つの政治的統一体としてまとめられました。しかし、その息子フェリペ2世がスペイン王としてこの地を相続すると、状況は一変します。厳格なカトリック教徒であるフェリペ2世の中央集権化政策とプロテスタントへの過酷な弾圧は、古くからの都市の特権と自由な気風を重んじるネーデルラントの人々の激しい反発を招きました。
1566年の聖像破壊運動をきっかけに、反乱の炎はネーデルラント全土に燃え広がります。フェリペ2世が鎮圧のために派遣したアルバ公の恐怖政治は、事態をさらに悪化させ、オラニエ公ウィレムに率いられた抵抗運動は、泥沼の戦争へと突入していきました。
この混乱の極みに達したのが、1576年の「スパニッシュ=フューリー」です。給料未払いに不満を募らせたスペイン兵がアントワープで大虐殺と略奪を行ったこの事件は、それまで王に忠実であった南部のカトリック州をも恐怖させ、反乱側に同調させるきっかけとなりました。その結果、17州すべてが団結し、スペイン軍の追放を誓う「ヘントの和約」が結ばれます。一瞬、ネーデルラントは宗教の違いを乗り越え、一つの旗の下に統一されたかに見えました。
アラス連合とユトレヒト同盟

しかし、この奇跡的な統一は長くは続きませんでした。南部のワロン語圏の州(アルトワ、エノーなど)の貴族たちは、主にカトリックであり、政治的には保守的でした。彼らは、北部のホラント州やゼーラント州で勢力を増す急進的なカルヴァン派の動きに、強い警戒心を抱いていました。カルヴァン派がヘントやブリュッセルで実権を握り、カトリック教徒を迫害するようになると、彼らの不安は決定的なものとなります。
この状況を巧みに利用したのが、フェリペ2世が新たに派遣した総督、パルマ公アレッサンドロ=ファルネーゼでした。優れた軍人であると同時に、熟練の外交官でもあった彼は、南部のカトリック貴族たちに接近し、彼らの伝統的な特権とカトリック信仰の維持を保証することを約束しました。この甘言は功を奏し、1579年1月6日、アルトワ、エノー、そしてリール=ドゥエー=オルシといった州は「アラス連合」を結成し、スペイン王フェリペ2世との和解と、カトリック信仰の擁護を宣言しました。
アラス連合の結成は、反乱側の結束を揺るがす大きな打撃でした。これに対抗し、北部のホラント、ゼーラント、ユトレヒトなどのプロテスタントが優勢な州は、同月の1月23日に「ユトレヒト同盟」を結成します。この同盟は、スペインの支配に対して最後まで戦い抜くことを誓うものであり、事実上の独立宣言へとつながるものでした。
この二つの連合の結成により、ヘントの和約によって生まれた統一の夢は完全に潰え、ネーデルラントは決定的に南北に分裂する道を歩み始めたのです。南部の州々は、スペイン王の下に留まることを選び、北部の州々は、独立への険しい道を選択しました。この1579年の分裂が、その後の南部ネーデルラントの独自の歴史の出発点となりました。
スペイン領ネーデルラントの形成

アラス連合の結成後、パルマ公ファルネーゼは、軍事力と外交手腕を駆使して、南部の残りの州々を次々とスペインの支配下に再編入していきました。この過程は「パルマの和解」とも呼ばれ、スペイン領ネーデルラント、すなわち南部10州の領域を確定させるものでした。
パルマ公の再征服

ファルネーゼの軍事作戦は、周到かつ効果的でした。彼は、反乱の中心地であったフランドル伯領とブラバント公領の奪還に焦点を当てます。1580年代前半、彼はトゥルネー、アウデナールデ、ダンケルク、ブルッヘ、ヘントといった主要都市を次々と陥落させていきました。
その軍事的天才が最も発揮されたのが、1584年から1585年にかけて行われたアントワープの包囲戦です。アントワープは当時、北ヨーロッパ最大の都市であり、反乱軍の経済的な心臓部でした。ファルネーゼは、街を流れるスヘルデ川に、全長730メートルにも及ぶ巨大な舟橋を建設するという、前代未聞の工法で街への補給路を完全に遮断しました。反乱軍は火薬を積んだ船(ヘルファイア)で舟橋の破壊を試みるなど、必死の抵抗を見せましたが、13ヶ月に及ぶ包囲の末、アントワープはついに降伏しました。
アントワープの陥落は、八十年戦争における決定的な転換点の一つでした。これにより、反乱軍はフランドルとブラバントの大部分を失い、その勢力はスヘルデ川以北の地域に限定されることになりました。ファルネーゼは、降伏した都市のプロテスタント住民に対し、カトリックに改宗するか、あるいは4年以内に財産を売却して退去するかの選択を迫りました。この結果、数十万人に及ぶプロテスタントの商人、職人、知識人たちが、北部の、特にアムステルダムへと移住していきました。この大規模な頭脳と資本の流出は、南部の経済に深刻な打撃を与えた一方で、北部のオランダ黄金時代の繁栄の礎を築くという、皮肉な結果をもたらしました。
南部10州の確定

1580年代末までには、ファルネーゼの軍事行動によって、後のスペイン領ネーデルラントの領域がほぼ確定しました。その中核を成したのは、以下の10の州です。
フランドル伯領
アルトワ伯領
エノー伯領
ナミュール伯領
ルクセンブルク公領
リンブルフ公領
ブラバント公領(ただし、北部は共和国が支配)
メヘレン領
トゥルネーおよびトゥルネジ
カンブレー大司教領(事実上の保護領)
これらの州は、言語的にはオランダ語系のフラマン語が話される北部のフランドルやブラバントと、フランス語系のワロン語が話される南部のエノーやアルトワに大別され、多様な文化と伝統を持っていました。しかし、スペイン=ハプスブルク家への忠誠と、カトリック信仰という二つの点で、彼らは一つの政治的共同体「スペイン領ネーデルラント」として結束することになったのです。
アルブレヒトとイサベラの共同統治

16世紀末、フェリペ2世は、死を目前にして、ネーデルラント問題に対する新たな解決策を模索しました。それは、スペイン領ネーデルラントに、ある程度の自治権と独自の君主を与えることで、この地域の安定を図ろうとするものでした。
主権の移譲

1598年、フェリペ2世は、娘のイサベラ=クララ=エウヘニアと、その夫となるオーストリア大公アルブレヒト(フェリペ2世の甥)に、スペイン領ネーデルラントの主権を共同で譲渡することを決定しました。これは、ネーデルラントが再びハプスブルク家の君主の下で、名目上は独立した国家となることを意味しました。ただし、この主権移譲には厳しい条件が付されていました。もし二人に子供が生まれなかった場合、あるいは生まれた子供がスペイン王家の承認なしに結婚した場合には、ネーデルラントは再びスペイン王の直接の所有に戻されることになっていたのです。
アルブレヒトとイサベラは、1599年にブリュッセルに入り、その統治を開始しました。彼らの治世(1598年=1621年)は、長年の戦乱で荒廃した南部ネーデルラントにとって、平和と復興の時代、いわば「黄金の小春日和」となりました。
平和と復興

アルブレヒトとイサベラは、まず北部の連邦共和国との和平を模索しました。長年の交渉の末、1609年に「12年停戦協定」が締結されます。この停戦は、完全な和平には至らなかったものの、南部ネーデルラントに20年以上の戦乱の後、初めてまとまった平和な期間をもたらしました。
この平和な時代に、アルブレヒトとイサベラは、荒廃した国土の復興に力を注ぎました。彼らは、農業の再建を支援し、運河を建設し、そしてレースやタペストリーといった伝統的な奢侈品産業の振興を図りました。彼らの宮廷は、芸術と文化の中心となり、多くの芸術家や学者を惹きつけました。
対抗宗教改革とバロック芸術

アルブレヒトとイサベラの治世は、カトリックの信仰を再興し、プロテスタントの影響を払拭しようとする「対抗宗教改革」の時代でもありました。彼らは、イエズス会をはじめとする修道会の活動を熱心に支援し、壮麗な教会を次々と建設しました。
この宗教的な情熱は、芸術の分野で華々しい成果を生み出しました。この時代、南部ネーデルラント、特にアントワープは、バロック芸術の一大中心地となります。その頂点に立つのが、ピーテル=パウル=ルーベンスです。彼は、アルブレヒトとイサベラの宮廷画家として、ダイナミックで色彩豊かな宗教画や神話画を数多く制作し、ヨーロッパ中にその名声を轟かせました。ルーベンスの工房には、アンソニー=ヴァン=ダイクをはじめとする多くの才能ある弟子たちが集まり、アントワープ派と呼ばれる一大画派を形成しました。アルブレヒトとイサベラの時代の芸術的繁栄は、南部の文化的アイデンティティを形成する上で、きわめて重要な役割を果たしたのです。
スペインへの復帰と三十年戦争

平和な時代は、長くは続きませんでした。アルブレヒトとイサベラには子供が生まれず、1621年にアルブレヒトが亡くなると、主権移譲の際の取り決めに従い、スペイン領ネーデルラントは再びスペイン王フェリペ4世の直接統治下に戻りました。そして同じ年、12年停戦協定が失効し、北部の連邦共和国との戦争が再開されます。さらに、ヨーロッパ全体が三十年戦争(1618年=1648年)の渦中にあり、南部ネーデルラントは、再びハプスブルク家とフランス=ブルボン家の戦いの主要な戦場と化していきました。
フランスの脅威

17世紀を通じて、スペイン領ネーデルラントが直面した最大の脅威は、西隣のフランスでした。宰相リシュリュー、そして太陽王ルイ14世の下で勢力を拡大するフランスは、その国境を北東に押し広げることを国策としていました。スペイン領ネーデルラントは、その野心の格好の標的となったのです。
フランスは、オランダ共和国と同盟を結び、南北からスペイン領ネーデルラントを挟撃しました。1635年にフランスが三十年戦争に本格的に介入すると、南部ネーデルラントは絶え間ない戦火にさらされることになります。
領土の喪失

三十年戦争を終結させた1648年のヴェストファーレン条約は、ヨーロッパの国際秩序を大きく変えました。この条約により、スペインはネーデルラント連邦共和国の完全な独立を正式に承認しました。また、共和国は、ブラバント北部、フランドル北部(ゼーラント=フランドル)、そしてマーストリヒトといった、南部の辺境地域を割譲され、その領土としました。さらに重要なことに、スヘルデ川の河口を封鎖する権利が共和国に認められました。これにより、アントワープは海への直接のアクセスを失い、その商業的地位はアムステルダムに完全に取って代わられることになりました。これは、南部の経済にとって長期にわたる深刻な打撃となりました。
しかし、フランスとの戦争は、ヴェストファーレン条約の後も続きました。1659年のピレネー条約により、スペインはアルトワの大部分と、フランドル、エノー、ルクセンブルクの一部の都市をフランスに割譲せざるを得ませんでした。
ルイ14世の治世下では、領土の蚕食はさらに続きます。ネーデルラント継承戦争(1667年=1668年)や仏蘭戦争(1672年=1678年)といった一連の戦争の結果、スペインはアーヘンの和約やナイメーヘンの和約によって、リール、ヴァランシエンヌ、カンブレーといったフランドルとエノーの重要な都市を次々とフランスに奪われていきました。これらの戦争を通じて、スペイン領ネーデルラントは「フランスの防波堤」あるいは「ヨーロッパの戦場」としての役割を運命づけられ、その領土は徐々に縮小していったのです。
オーストリア領ネーデルラントへの移行

17世紀末、スペイン=ハプスブルク家は断絶の危機に瀕していました。長年の近親婚の末、国王カルロス2世は世継ぎをもうけることなく、その死はヨーロッパ全土を巻き込む大規模な継承戦争を引き起こすことが必至の情勢でした。
スペイン継承戦争

1700年にカルロス2世が亡くなると、彼の遺言に従い、フランス王ルイ14世の孫であるアンジュー公フィリップがフェリペ5世としてスペイン王位を継承しました。しかし、フランスとスペインという二大国がブルボン家の下で統合されることを恐れたイギリス、オランダ共和国、そしてオーストリア=ハプスブルク家は、「大同盟」を結成してこれに反対し、スペイン継承戦争(1701年=1714年)が勃発しました。
スペイン領ネーデルラントは、この戦争の主要な戦場の一つとなりました。イギリスの将軍マールバラ公ジョン=チャーチルと、オーストリアの将軍プリンツ=オイゲンが率いる同盟軍は、ラミイの戦い(1706年)やアウデナールデの戦い(1708年)、マルプラケの戦い(1709年)といった一連の戦いでフランス軍に勝利を収め、スペイン領ネーデルラントの大部分を占領しました。
ユトレヒト条約とラシュタット条約

長い戦争の末、1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約によって、ヨーロッパの勢力図は再編されました。フェリペ5世はスペイン王位を保持することが認められましたが、スペインはヨーロッパにおける領土の多くを失いました。
この講和条約により、スペイン領ネーデルラントの主権は、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世に移譲されることになりました。これにより、スペイン領ネーデルラントは「オーストリア領ネーデルラント」と名を変え、その歴史の新たな章を開始します。
ただし、この主権移譲には、重要な条件が付されていました。オランダ共和国は、フランスに対する防衛線として、オーストリア領ネーデルラント南部のいくつかの要塞に守備隊を駐留させる権利(要塞条約)を認められました。これは、南部ネーデルラントが、依然として大国の戦略的利益に翻弄される緩衝地帯であることを示していました。
オーストリア領ネーデルラントの時代

オーストリアの統治下に入った南部ネーデルラントは、18世紀を通じて、比較的平和で安定した時代を享受しました。ウィーンのハプスブルク宮廷は、ブリュッセルから遠く離れており、統治の多くは現地の貴族や聖職者に委ねられました。この時代は、啓蒙思想の影響を受け、経済的、文化的な復興が見られました。
マリア=テレジアとカール=アレクサンダーの統治

オーストリア領ネーデルラントの黄金時代と見なされているのが、女帝マリア=テレジアの治世(1740年=1780年)です。彼女は、義理の弟にあたるカール=アレクサンダー=フォン=ロートリンゲンを総督としてブリュッセルに派遣しました。カール=アレクサンダーは、1744年から1780年までの長期にわたりその職を務め、住民から深く敬愛されました。
彼の統治下で、ブリュッセルは「北の小パリ」とも呼ばれる洗練された都市へと変貌しました。王宮広場やブリュッセル公園といった壮麗な都市計画が実行され、宮廷は活気ある社交と文化の中心となりました。経済面では、農業の近代化が進み、道路網が整備され、石炭産業や繊維産業が発展の兆しを見せ始めました。
しかし、この平和な時代も、オーストリア継承戦争(1740年=1748年)によって一時中断されます。フランス軍が再び侵攻し、オーストリア領ネーデルラントの大部分を占領しました。しかし、1748年のアーヘンの和約により、領土はオーストリアに返還され、カール=アレクサンダーの統治が再開されました。
ヨーゼフ2世の急進的改革

マリア=テレジアの死後、息子のヨーゼフ2世が皇帝となると、オーストリア領ネーデルラントの穏やかな時代は終わりを告げます。啓蒙専制君主の典型であったヨーゼフ2世は、帝国のあらゆる部分を合理的かつ中央集権的に改革しようとしました。
彼は、南部ネーデルラントの古くからの特権や伝統を無視し、上からの急進的な改革を次々と断行しました。彼は、司法制度を完全に再編し、ギルドを廃止し、そして教会の権力を制限しようとしました。特に、1781年の「寛容令」は、プロテスタントにも信教の自由と市民権を認めるものであり、カトリックが支配的なこの地域で大きな波紋を呼びました。また、彼は、オランダとの要塞条約を破棄し、スヘルデ川の自由航行を要求しましたが、これは「やかん戦争」として知られる小競り合いに終わり、失敗しました。
ヨーゼフ2世の改革は、その意図がどれほど啓蒙的であったとしても、あまりに急進的で、現地の感情を完全に無視したものでした。彼の政策は、聖職者、貴族、そして一般市民まで、あらゆる階層の激しい反発を招きました。長年培われてきた地方の自治と特権が、ウィーンの皇帝によって一方的に踏みにじられたと感じたのです。
ブラバント革命と終焉

ヨーゼフ2世の改革に対する不満は、ついに暴力的な反乱へと発展します。1789年、フランスで革命が勃発したのと同じ年に、オーストリア領ネーデルラントでも革命の火の手が上がりました。
二つの派閥

反乱勢力は、大きく二つの派閥に分かれていました。一つは、ヘンドリック=ファン=デル=ノートに率いられた「スタティステン(国家派)」です。彼らは、主に聖職者や貴族から成り、ヨーゼフ2世の改革に反対し、古くからの特権とカトリック教会の優位性を回復することを目指す保守的な勢力でした。
もう一つは、ジャン=フランソワ=フォンクに率いられた「フォンキステン」です。彼らは、より民主的な改革を志向する進歩的なブルジョワジーであり、フランス革命の理念に影響を受けていました。
当初、この二つの派閥は、オーストリアの支配を打倒するという共通の目的のために協力しました。1789年10月、反乱軍はトゥルンハウトの戦いでオーストリア軍を破り、勢いに乗ってヘント、そしてブリュッセルを解放しました。1790年1月、彼らは「ベルギー合衆国」の独立を宣言しました。
革命の失敗とオーストリア支配の終焉

しかし、独立を達成した途端、スタティステンとフォンキステンの間の対立が表面化します。保守的なスタティステンが権力を掌握し、フォンキステンを弾圧し始めました。この内紛によって、若い共和国は弱体化していきました。
一方、1790年にヨーゼフ2世が亡くなり、弟のレオポルト2世が皇帝となると、オーストリアはより穏健な姿勢で事態の収拾に乗り出しました。内紛で分裂した革命政府は、オーストリア軍の前にほとんど抵抗できず、1790年末までには、オーストリアの支配が回復されました。ブラバント革命は、わずか1年で失敗に終わったのです。
しかし、オーストリアによる支配の回復も、つかの間のことに過ぎませんでした。1792年、革命フランスがオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が始まります。フランス革命軍は、ジュマップの戦いでオーストリア軍に勝利し、南部ネーデルラント全土を占領しました。オーストリアは一時的にこの地を奪還しますが、1794年のフルーリュスの戦いでの決定的な敗北により、南部ネーデルラントの支配を完全に、そして永久に失いました。
1795年、フランスは南部ネーデルラントを正式に併合し、9つの県に再編しました。これにより、スペイン領、そしてオーストリア領として約2世紀にわたって存続した南部ネーデルラントの歴史は、完全に終わりを告げました。しかし、この地域が共有した独自の歴史と文化、そしてブラバント革命に見られた独立への希求は、後のナポレオン時代を経て、1830年のベルギー独立革命へとつながっていくことになるのです。

ネーデルラントの南部10州が歩んだ道は、大国の狭間で自らのアイデンティティを模索し続けた、苦難と栄光の歴史でした。八十年戦争の動乱の中で、宗教と政治の断層線に沿って北部の兄弟たちと袂を分かち、スペイン=ハプスブルク家のカトリック世界に留まることを選びました。アルブレヒトとイサベラの治世下でつかの間の平和と文化の爛熟を経験したものの、その地政学的な位置から、常にフランスの野心の標的となり、「ヨーロッパの戦場」としての運命を甘受せざるを得ませんでした。
主権がスペインからオーストリアに移っても、その緩衝地帯としての役割は変わらず、18世紀には啓蒙専制君主の急進的な改革が、ブラバント革命というアイデンティティの爆発を引き起こしました。この革命は短命に終わりましたが、それはフランス革命の巨大な波に飲み込まれる前の、最後の独立への試みでした。最終的にフランスに併合されることで、その長いハプスブルク支配の歴史に幕を下ろしましたが、この2世紀にわたる経験は、言語、宗教、文化のモザイクの上に、後のベルギーという国家の礎となる、独特の共通意識を育んでいったのです。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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