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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

首長法(国王至上法)とは わかりやすい世界史用語2585

著者名: ピアソラ
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首長法(国王至上法)とは

イングランドの首長法(国王至上法)は、16世紀のイングランド史において最も重要な画期をなす立法の一つであり、イングランド国王を、ローマ教皇に代わってイングランド国教会の「地上における唯一最高の首長」として確立したものです。首長法は一度ではなく、1534年にヘンリ8世の下で、そして1558年(または1559年)にエリザベス1世の下で、二度にわたって制定されました。これらの法律は、イングランドの宗教、政治、そして国民的アイデンティティのあり方を根底から覆し、永続的な影響を及ぼしました。



1534年首長法の背景=国王の大問題

最初の首長法が制定されるに至った直接的な原因は、ヘンリ8世の個人的な問題、すなわち「国王の大問題」として知られる、彼の離婚問題にありました。
男子継承者への執着と神学的懸念

ヘンリ8世は、1509年に兄アーサーの未亡人であったキャサリン=オブ=アラゴンと結婚しました。この結婚は、イングランドとスペインの重要な同盟関係を維持するためのものであり、当初、二人の関係は良好でした。しかし、ヘンリ8世にとって、そしてテューダー朝全体にとって、最優先の課題は、薔薇戦争という長く続いた内戦の記憶がまだ新しい中で、王家の安定を確実にするための正統な男子継承者を確保することでした。
キャサリンは何度も妊娠しましたが、その多くは流産や死産に終わるか、生まれてもすぐに亡くなってしまいました。1516年に健康な女児メアリー(後のメアリー1世)が生まれたものの、その後も男子が生まれることはありませんでした。年月が経つにつれ、キャサリンは出産可能な年齢を過ぎ、ヘンリの焦りと絶望は頂点に達します。
彼は、男子継承者が生まれないのは、神の罰のしるしではないかと深く悩むようになりました。特に、彼の良心を苛んだのは、旧約聖書レビ記20章21節の「もし人がその兄弟の妻をめとるなら、それは汚れたことである。…彼らは子なきものとなる」という一節でした。キャサリンはまさに彼の兄の妻でした。この結婚は、そもそも教皇ユリウス2世による特別な許可(特免)によって成立したものでしたが、ヘンリは、この特免自体が神の法に反する無効なものであり、自分は20年近くもの間、罪深い近親相姦の関係を続けてきたのだと確信するに至ったのです。この神学的な苦悩は、彼の離婚願望を正当化する強力な論拠となりました。
アン=ブーリンの登場とローマとの交渉

ヘンリの離婚願望を決定的にしたのは、王妃キャサリンの侍女であったアン=ブーリンの存在でした。フランス宮廷で教育を受けた、若く、知的で、魅力的なアンは、ヘンリの求愛を巧みにかわし、単なる王の愛人になることを拒否しました。彼女が望んだのは、王妃の座そのものでした。アンへの激しい情熱と、彼女との間に正統な男子をもうけたいという願望が、ヘンリを婚姻の無効化へと突き動かしました。
1527年、ヘンリは、キャサリンとの結婚を無効にするための法的手続きを開始します。彼は、大法官であり教皇特使でもあったトマス=ウルジー枢機卿に、ローマ教皇クレメンス7世から婚姻無効の承認を取り付けるよう命じました。しかし、これは政治的に極めて困難な任務でした。当時の教皇クレメンス7世は、神聖ローマ皇帝カール5世の政治的、軍事的な影響下にありました。1527年の「ローマ劫掠」で、カール5世の軍隊がローマを占領し、教皇を事実上の虜囚としていたのです。そして、そのカール5世は、ヘンリが離縁しようとしているキャサリンの甥にあたる人物でした。カール5世が、自らの一族の名誉を著しく傷つける叔母の離婚を認めるはずがなく、教皇は皇帝の意向に逆らうことができませんでした。
教皇は、イングランドに特使を派遣して審問を開かせるなど、様々な引き延ばし策を講じましたが、明確な裁定を下すことを避け続けました。何年経っても進展しない状況に業を煮やしたヘンリは、すべての責任をウルジーに押し付け、1529年に彼を失脚させます。
急進的な解決策=議会による宗教改革

ウルジーの失脚後、ヘンリの側近として台頭したのが、トマス=クロムウェルとトマス=クランマーでした。法律家であるクロムウェルは、極めて有能な行政手腕と議会操縦術を持つ人物でした。ケンブリッジ大学の神学者であったクランマーは、大陸のプロテスタント思想に共感を寄せていました。彼らは、ヘンリに対して、もはやローマ教皇の裁定を待つのではなく、イングランドの問題はイングランド自身で解決すべきであるという、革命的な解決策を提示します。
その核心は、イングランド国王が、イングランドにおける教会の事柄について最高の権威を持つ、という考え方でした。これは、イングランドの君主が伝統的に持っていた教会に対するある程度の権限を、絶対的なものへと拡大するものでした。この理論的根拠として、彼らは「帝国」の概念を用いました。すなわち、イングランドは、外部のいかなる権力(特にローマ教皇庁)からも独立した主権国家(帝国)であり、その国王は、世俗の事柄だけでなく、霊的な事柄においても最高の統治者である、という主張です。
この急進的な路線を受け入れたヘンリは、クロムウェルの主導の下、「宗教改革議会」として知られることになる議会(1529年=1536年)を召集し、ローマ教皇庁の権威を段階的に切り崩していく一連の立法を推進しました。
・1532年「聖職者服従法」:イングランドの聖職者会議(カンタベリーとヨーク)が、国王の同意なしに教会法を制定することを禁じ、既存の教会法も国王の審査下に置くことを定めました。これにより、イングランドの教会は、立法において国王の支配下に置かれました。
・1533年「上告禁止法」:イングランド国内の教会法廷(婚姻、遺言、十分の一税など)で争われている事案について、ローマ教皇庁へ上告することを禁じました。これにより、イングランドの司法権は教皇から完全に独立し、国内で最終的な判決を下すことが可能になりました。この法律の前文で、イングランドが「帝国」であることが高らかに宣言されています。この法律の制定直後、新たにカンタベリー大司教に任命されたクランマーは、イングランドの法廷でヘンリとキャサリンの婚姻を無効と宣言し、ヘンリがすでに秘密裏に結婚していたアン=ブーリンとの結婚を合法と認定しました。
・1534年「聖職者服従法」(再制定):1532年の法律をさらに強化し、聖職者の服従を法的に確定しました。
・1534年「アンナート停止法」:司教が叙任される際に教皇庁へ支払っていた初年度の収入(アンナート)を、完全に停止し、国王に支払うことを定めました。
・1534年「王位継承法」:ヘンリとキャサリンの娘メアリーを庶子とし、ヘンリとアン=ブーリンの間に生まれる子ども(当時アンが妊娠していたエリザベス)を正統な王位継承者と定めました。さらに重要なことに、この法律は、国民に対して、その内容を支持する旨の宣誓を義務付けました。この宣誓を拒否することは、反逆罪と見なされました。
これらの立法を通じて、教皇がイングランドの教会に対して持っていた司法的、立法的、財政的な権限は、一つ、また一つと剥奪され、国王の手に移されていきました。そして、この一連の立法の総仕上げとして、1534年11月、議会は「首長法」を可決したのです。
1534年首長法の条文と意義

1534年の首長法は、それまでの立法措置を追認し、国王の教会に対する新たな地位を明確に定義するものでした。その条文は、比較的簡潔でありながら、その内容は革命的でした。
法律はまず、国王が「正当かつ当然に、イングランド国教会の地上における唯一最高の首長である」と宣言します。ここで重要なのは、この法律が国王に新たな権力を「与える」のではなく、国王が「すでに持っている」権力を「確認」し、「宣言」する、という形式をとっている点です。これは、国王の首長権が、議会や国民からの授与によるものではなく、神から直接与えられた生来の権利である、という王権神授説的な思想を反映しています。
そして、この「最高の首長」という地位に伴う権威、特権、管轄権のすべてが、国王とその継承者に属することが明記されました。これにより、国王は、イングランド国教会におけるすべての事柄について、最終的な決定権を持つことになりました。
さらに、この法律は、国王が「異端、誤謬、悪習、攻撃、偽善、甚大な過ちといった、いかなる種類のものを訪問し、抑圧し、矯正し、改革し、秩序づけ、抑制し、修正する」ための完全な権力と権威を持つことを定めています。これは、国王が、教会の教義、儀式、規律のすべてを監督し、是正する権限を持つことを意味しました。従来、異端の審判や教義の決定は、教皇と聖職者の専権事項でしたが、その権限が国王の手に移ったのです。これにより、イングランド国王は、事実上、自国において「紙の上の教皇」となったと評されることもあります。
1534年の首長法がもたらした最も重大な結果は、イングランドが、約1000年にわたって精神的共同体として属してきたローマ=カトリック教会から、公式かつ法的に分離したことです。イングランド国教会(アングリカン=チャーチ)は、国王を首長とする独立した国民教会として誕生しました。これは、ヘンリ自身の離婚問題という極めて個人的な動機から始まったものでしたが、その帰結は、イングランドの国家主権の確立という、はるかに大きな歴史的意義を持つものでした。外部の権力である教皇庁の介入を完全に排除し、国王と議会が国家のすべての事柄を統治するという、近代的な主権国家の原理が、ここに確立されたのです。
首長法への抵抗と強制

国王を教会の首長とするという前代未聞の変革は、すべてのイングランド国民に受け入れられたわけではありませんでした。特に、長年ローマ教皇をキリストの代理人として崇敬してきた敬虔なカトリック教徒にとって、これは神に対する冒涜であり、到底受け入れがたいものでした。
政府は、首長法と、それに先立つ王位継承法への服従を、宣誓を通じて国民に強制しました。この宣誓を拒否することは、新しく制定された「反逆法」(1534年)によって、大逆罪と見なされました。この新しい反逆法は、従来の反逆罪が国王に対する「行動」を罰するものであったのに対し、国王や王妃の称号を否定するような「言葉」を発することさえも処罰の対象とする、極めて厳しいものでした。
この宣誓を拒否して命を落とした最も著名な人物が、二人います。一人は、ロチェスター司教ジョン=フィッシャーです。彼は、高潔な聖職者として尊敬を集めていましたが、王妃キャサリンの離婚に一貫して反対し、国王の首長権を認めることを断固として拒否しました。彼が獄中にいる間に教皇が彼を枢機卿に任命したことは、ヘンリを激怒させ、1535年6月、フィッシャーは斬首されました。
もう一人は、ヨーロッパ中に名を知られた人文主義者であり、ヘンリのかつての友人でもあったトマス=モアです。彼は、大法官の職にありながら、国王の離婚に反対して辞任し、その後は沈黙を守っていました。しかし、宣誓を求められると、彼は良心に従ってそれを拒否しました。偽証によって有罪とされた彼は、裁判の場で、「いかなる俗人(国王)も、霊的な事柄の首長たりえない」と述べ、首長法そのものが神の法に反すると主張しました。1535年7月、モアもまた、ロンドン塔で処刑されました。彼の最期の言葉は、「私は国王の良き僕として死ぬ。しかし、まず第一に神の僕として」であったと伝えられています。
フィッシャーとモアの殉教は、ヨーロッパ中に衝撃を与えましたが、国内では、ヘンリの恐怖政治が反対の声を封じ込めました。また、1536年から1540年にかけて行われた「修道院の解散」は、修道院の広大な土地と富を没収し、それを貴族やジェントリ(郷紳)に払い下げることで、彼らを王の宗教改革の受益者とし、体制の強力な支持者へと変えました。
メアリー1世による廃止とカトリック復帰

ヘンリ8世の死後、イングランドの宗教政策は、彼の3人の子どもたちの治世下で大きく揺れ動きます。
息子のエドワード6世(在位1547年=1553年)の治世では、トマス=クランマーらの指導の下、宗教改革はさらにプロテスタント的な方向へと進みました。共通祈祷書の導入など、教義や礼拝の改革が進められましたが、首長法によって確立された国王の首長権は、そのまま維持されました。
しかし、若きエドワードが早世し、ヘンリ8世とキャサリン=オブ=アラゴンの娘であるメアリー1世(在位1553年=1558年)が即位すると、事態は一変します。メアリーは、母キャサリンと同様、敬虔なカトリック教徒であり、父ヘンリ8世が行った宗教改革を、神に対する罪であり、母と自分を貶めた不正義であると固く信じていました。彼女の生涯をかけた目標は、イングランドをローマ=カトリック教会へと復帰させることでした。
メアリーは、即位後すぐに、エドワード6世時代のプロテスタント的な立法を次々と覆していきました。そして1554年、議会に圧力をかけ、ヘンリ8世時代の反教皇的な立法、すなわち1534年の首長法を含むすべての法律を廃止させました。これにより、イングランドは公式にローマ教皇の権威の下へと復帰し、教皇の首長権が回復されました。
さらにメアリーは、プロテスタントを根絶するため、中世の異端取締法を復活させ、約300人のプロテスタントを火刑に処しました。その中には、かつてヘンリの離婚を主導したカンタベリー大司教トマス=クランマーも含まれていました。この過酷な弾圧は、彼女に「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」という悪名を与えることになります。しかし、彼女の治世はわずか5年で終わり、イングランドを完全にカトリック化するという彼女の願いは、達成されませんでした。
1558年首長法=エリザベス朝の宗教的解決

1558年、メアリー1世が子どもを残さずに亡くなると、王位はヘンリ8世とアン=ブーリンの娘であるエリザベス1世(在位1558年=1603年)に継承されました。エリザベスの即位は、イングランドの宗教問題に、再び大きな転換をもたらしました。
エリザベス自身は、プロテスタントとして育てられましたが、彼女の宗教的信条は、父ヘンリ8世と同様に、極めて政治的で現実的なものでした。彼女の最大の関心事は、宗教的な内乱を避け、国家の統一と安定を確保することでした。彼女が目指したのは、過激なカトリックでも、過激なプロテスタント(ピューリタン)でもない、「中道」を行く、包括的な国民教会を確立することでした。
即位後、エリザベスはただちに宗教政策の再構築に着手します。1559年、彼女の最初の議会は、「エリザベス朝の宗教的解決」として知られる二つの重要な法律を可決しました。それが、新しい「首長法」と「礼拝統一法」です。
「最高の統治者」という新たな称号

1558年(または1559年)に制定された新しい首長法は、メアリー1世によって廃止されたヘンリ8世の首長権を、本質的に復活させるものでした。それは、イングランド君主が、イングランドの教会に対して最高の権威を持つことを再び宣言し、教皇を含むいかなる外国の権力も、イングランド国内に管轄権を持たないことを明確にしました。
しかし、この新しい首長法には、ヘンリ8世の法律とは一つ、重要な違いがありました。エリザベスは、父が用いた「最高の首長」という称号を避け、代わりに「最高の統治者」という、より穏当な称号を採用したのです。
この称号の変更には、いくつかの巧みな政治的配慮がありました。第一に、「首長」という言葉は、新約聖書においてキリスト自身を指す言葉として用いられており、女性が教会の「首長」となることに対しては、多くのプロテスタントからも神学的な抵抗がありました。スコットランドの宗教改革者ジョン=ノックスは、女性の統治そのものを非難する著作を発表しており、エリザベスはこの種の批判に敏感でした。「最高の統治者」という称号は、君主が教会の霊的な事柄そのものを司るのではなく、あくまで教会の地上の組織と秩序を統治する、というニュアンスを帯びており、この神学的な反発を和らげる効果がありました。
第二に、この称号は、国内のカトリック教徒に対する配慮でもありました。彼らにとって、教会の唯一の「首長」はローマ教皇であり、国王がその称号を名乗ることは受け入れがたいものでした。「最高の統治者」という、やや曖昧な称号は、彼らが君主への政治的忠誠を誓う一方で、内心では教皇への霊的忠誠を保つという、ある種の妥協の余地を残すものでした。
宣誓の義務と礼拝統一法

1558年の首長法もまた、聖職者や公職者に対して、エリザベスを「最高の統治者」として認める宣誓を義務付けました。この宣誓を拒否した聖職者は、その職を追われましたが、メアリー時代の過酷な弾圧とは対照的に、宣誓拒否のみを理由に死刑に処せられることは、当初はありませんでした。エリザベスは、「人々の心に窓を作りたくない」と述べ、内心の信仰までは問わないという、比較的寛容な姿勢を示しました。
首長法と対をなす形で制定された「礼拝統一法」(1559年)は、イングランド国教会の教義と礼拝のあり方を定めました。この法律は、エドワード6世時代に導入された「共通祈祷書」を、若干の修正を加えた上で、再びイングランド全土で唯一使用されるべき公式な祈祷書として制定しました。この祈祷書は、カトリック的な要素とプロテスタント的な要素を巧みに融合させたものであり、幅広い信徒に受け入れられることを意図していました。また、この法律は、すべての国民に、毎週日曜日に自らの教区教会での礼拝に出席することを義務付け、違反者には罰金を科しました。
この二つの法律によって確立された「エリザベス朝の宗教的解決」は、イングランド国教会(アングリカン=チャーチ)の基本的な性格を決定づけました。それは、教義的には穏健なプロテスタントでありながら、その組織構造(司教制)や礼拝形式にはカトリックの伝統を色濃く残すという、独特の「中道」の教会でした。そして、その頂点に君臨するのが、国王(または女王)だったのです。

イングランドの首長法は、単一の法律ではなく、16世紀の宗教的・政治的激動の中で、二度にわたって制定された一連の立法の頂点をなすものでした。
1534年の最初の首長法は、ヘンリ8世の離婚問題という個人的な動機から生まれ、イングランドをローマ=カトリック教会から引き離し、国王を教会の絶対的な首長とする革命的な変革をもたらしました。それは、イングランドにおける近代的な主権国家の確立を宣言するものであり、その後の修道院解散などの社会経済的変革への道を開きました。しかし、この変革は、トマス=モアのような人々の殉教という悲劇を生み、国民に深い亀裂を残しました。
メアリー1世による一時的なカトリック復帰を経て、1558年にエリザベス1世の下で再制定された首長法は、より現実的で政治的な妥協の産物でした。国王の称号を「最高の首長」から「最高の統治者」へと変更することで、神学的な反発とカトリック教徒の感情に配慮しつつ、国王が教会に対して最高の権威を持つという基本原則を再確立しました。この法律は、礼拝統一法と共に「エリザベベス朝の宗教的解決」の中核をなし、その後のイングランド国教会のあり方を決定づけました。
首長法は、イングランドの歴史において、教会と国家の関係を根本的に再定義しました。それは、霊的な権威(教皇)に対する世俗的な権威(国王)の勝利を象徴するものであり、イングランドが独自の国民的アイデンティティと国民教会を形成していく上で、決定的な役割を果たしたのです。この法律によって確立された「国王(女王)を首長とする国教会」という構造は、幾多の変遷を経ながらも、その後のイングランド、そしてイギリスの立憲君主制の根幹の一部として、存続していくことになります。
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・首長法(国王至上法)とは わかりやすい世界史用語2585

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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