ピューリタン(清教徒)とは
ピューリタンという言葉は、しばしば、黒い服を着て、あらゆる楽しみを禁じ、厳格な道徳を他人に押し付ける、気難しい人々という紋切り型のイメージを呼び起こします。しかし、16世紀から17世紀にかけてのイングランドの歴史の舞台に登場した「ピューリタン」は、そのような単純な戯画では到底捉えきれない、複雑でダイナミックな宗教的=社会的運動でした。彼らは、単一の組織化された教派ではなく、イングランド国教会の内部にあって、その改革が不徹底であると信じ、聖書の教えに、より忠実で「純粋な」教会を打ち立てることを熱望した、多様な人々の集まりでした。その名は、当初、彼らを嘲笑し、その過度な「純粋さ」へのこだわりを揶揄する、侮蔑的なレッテルとして生まれました。しかし、彼らはやがて、その名を自らのアイデンティティとして受け入れ、イングランドの宗教的、政治的、そして文化的な景観を、根底から揺るがすほどの力を持つに至ります。
ピューリタニズムの根底には、宗教改革、特にジャン=カルヴァンの神学から受け継いだ、神の絶対的な主権と聖書の至高の権威に対する、燃えるような確信がありました。彼らにとって、ヘンリー8世に始まるイングランドの宗教改革は、教皇の権威を否定したという点では評価できるものの、カトリック時代の「人間的な発明」である、祭服、儀式、そして主教制といった多くの要素を、依然として温存していました。ピューリタンは、これらを聖書に根拠のない「偶像崇拝の残滓」とみなし、教会からそれらを一掃し、新約聖書に示されている、使徒時代の純粋な礼拝と教会統治を回復することこそが、神から与えられた使命であると信じたのです。
この改革への情熱は、彼らを、エリザベス1世、ジェームズ1世、そしてチャールズ1世といった、歴代の君主や、国教会の指導者たちとの、絶え間ない緊張と対立へと導きました。彼らは、説教壇から、議会から、そして数多くのパンフレットや書物を通じて、自らの主張を訴え続けました。ある者は、国教会の内部に留まりながら、その漸進的な改革を目指し、またある者は、よりラディカルな道を歩み、国教会から分離して、独自の会衆を形成しました(分離派)。そして、その闘争は、ついにイングランド内戦(清教徒革命)という形で爆発し、国王の処刑と、オリバー=クロムウェルによる共和制国家の樹立という、前代未聞の事態へと至ります。さらに、本国での迫害を逃れた一部のピューリタンは、大西洋を渡り、新大陸アメリカの荒野に、「丘の上の町」として、世界が模範とすべき聖書的な共同体を築こうとしました。
ピューリタニズムの起源と神学的特徴
ピューリタニズムは、真空地帯から生まれたわけではありません。それは、ヨーロッパ大陸の宗教改革、特にスイスのカルヴァン主義神学と、イングランド独自の宗教改革の歴史的展開という、二つの大きな潮流が合流する地点で生まれました。
大陸宗教改革の影響=カルヴァン主義の受容
ピューリタンの神学の根幹をなしているのは、ジャン=カルヴァンの思想体系、すなわちカルヴァン主義です。16世紀半ば、カトリック女王メアリー1世の治世下で、多くの敬虔なイングランドのプロテスタントが、迫害を逃れて大陸へと亡命しました。彼らは、ジュネーヴ、チューリヒ、フランクフルトといった、宗教改革の拠点都市で数年間を過ごし、カルヴァンや、その後継者であるテオドール=ド=ベーズといった指導者たちの下で、改革派神学の神髄を直接吸収しました。
1558年にプロテスタントのエリザベス1世が即位すると、これらの「マリアン亡命者」たちは、大きな期待を胸にイングランドに帰国します。彼らが持ち帰ったのは、カルヴァン主義の厳格で体系的な神学でした。その核心には、以下のような教えがありました。
神の絶対的主権:神は、創造から救済、そして歴史の終焉に至るまで、世界のすべての出来事を支配しておられます。人間の救いは、人間の自由意志や功績によるのではなく、完全に、神の永遠の選びの計画(予定説)に基づいています。
聖書の至高の権威:聖書は、神がご自身を啓示された、誤りのない唯一の言葉であり、信仰と生活のあらゆる事柄に関する、最終的な権威です。教会の伝統や、人間の理性も、聖書の権威に従属させられなければなりません。
契約神学:神は、歴史を通じて、人間と契約という形で関わってこられました。この契約という枠組みを通して、聖書全体の統一性と、神の救済計画の一貫性が理解されます。
全的堕落:アダムの罪の結果、人間は、その本性のあらゆる部分において堕落し、自力で神を喜ばせたり、救いを求めたりすることができなくなりました。救いは、完全に、神の不可抗的な恵みによるものです。
これらの神学的確信は、ピューリタンに、神の御心を探求し、それを個人の生活と、教会の組織の隅々にまで適用しようとする、強い動機を与えました。彼らにとって、信仰は、単なる知的な同意ではなく、神との個人的な契約関係に入り、神の栄光のために生きる、全人格的な応答だったのです。
イングランド宗教改革の「不徹底さ」
ピューリタンが改革の対象としたのは、彼らが属するイングランド国教会そのものでした。ヘンリー8世に始まるイングランドの宗教改革は、大陸の改革とは異なり、神学的な動機よりも、むしろ、国王の離婚問題という、政治的な動機から始まりました。その結果、イングランド国教会は、教義的にはプロテスタントの方向へと傾きながらも、その礼拝の形式や、統治構造においては、カトリック時代の要素を、色濃く残すことになりました。
エリザベス1世は、1559年の「エリザベス朝の宗教的和解」によって、この中間的な性格を持つ国教会を確立しようとしました。彼女は、カトリックの反動と、過激なプロテスタントの両極端を避け、国民の大多数が受け入れ可能な、包括的な国民教会を創設することを目指したのです。この和解は、教義的には穏健なカルヴァン主義を反映した「39箇条」を信仰基準としつつも、統治形態としては、国王を首長とし、大主教、主教、司祭からなる階層的な「主教制」を維持しました。また、礼拝においては、『共通祈祷書』の使用を全国民に義務付け、聖職者には、サープリス(白い上衣)などの特定の祭服の着用を命じました。
大陸の改革派教会の純粋さを目の当たりにしてきたマリアン亡命者たちにとって、このエリザベス朝の和解は、到底受け入れがたい、妥協の産物でした。彼らの目には、主教制は、聖書に根拠のない、教皇制の残滓であり、聖職者と平信徒を区別する、非聖書的な階級制度に映りました。『共通祈祷書』に定められた画一的な祈りの文句は、聖霊の自由な働きを妨げる形式主義であり、サープリスなどの祭服は、カトリックの司祭職を想起させる「偶像崇拝の衣」でした。彼らは、イングランドの教会が、まだ「半ばしか改革されていない」と考え、ローマ・カトリックの「あらゆる汚物と汚点」を、完全に「浄化」するための、さらなる改革を求めました。この改革への情熱こそが、彼らが「ピューリタン」と呼ばれる所以なのです。
エリザベス朝におけるピューリタンの闘争
エリザベス1世の長い治世(1558-1603年)は、ピューリタニズムが、一つの明確な運動として形成され、国教会体制との最初の本格的な衝突を経験した時代でした。彼らの闘争は、当初、礼拝の形式をめぐる比較的小さな論争から始まりましたが、やがて、教会統治のあり方そのものを問う、より根本的な対立へと発展していきます。
祭服論争
ピューリタン運動の最初の大きな衝突は、1560年代に起こった「祭服論争」でした。エリザベス女王と、カンタベリー大主教マシュー=パーカーは、聖職者が礼拝の際に、サープリスと角帽を着用することを、国教会の一致のしるしとして、厳格に要求しました。
これに対し、多くのピューリタン牧師は、良心の呵責を覚えて、その着用を拒否しました。彼らにとって、これらの祭服は、それ自体は「どちらでもよい事柄」かもしれませんが、カトリックのミサを執行する司祭が用いていたものであり、偶像崇拝と分かちがたく結びついていました。それを着用することは、福音の純粋さを汚し、弱い信徒たちを、カトリックへの回帰へと誘う、つまずきとなりかねませんでした。彼らは、聖書に命じられていないものを、教会に強制することは、キリスト者の自由を侵害するものであると主張しました。
この論争は、多くのピューリタン牧師が、聖職禄を剥奪され、説教の場を追われるという結果を招きました。しかし、それは同時に、ピューリタンに、問題の根源が、単なる祭服ではなく、それを強制する主教たちの権威そのものにあることを、気づかせるきっかけともなりました。
長老制運動の台頭
1570年代に入ると、ピューリタン運動は、新たな、よりラディカルな段階へと移行します。ケンブリッジ大学の教授であったトマス=カートライトは、一連の講義の中で、イングランド国教会の主教制を、聖書に反するものとして、公然と批判しました。彼は、新約聖書が教える真の教会統治形態は、主教による君主制ではなく、牧師と、信徒の中から選ばれた長老たちによる、会議的な「長老制」であると主張しました。
カートライトの思想は、ジョン=フィールドとトマス=ウィルコックスが著した『議会への勧告』(1572年)によって、さらに広く知られることになりました。この文書は、主教たちの権威を激しく攻撃し、イングランド国教会を、ジュネーヴやスコットランドの教会に倣って、長老主義の原則に基づいて、根底から再組織するように、議会に要求しました。
この長老制運動は、ロンドンや、イングランド東部の諸州を中心に、秘密の「クラスィス」と呼ばれる、牧師たちの会議を組織し、草の根レベルで、長老主義的な規律を実践しようと試みました。彼らは、国教会から分離するのではなく、その内部から、議会を通じて、国家的な規模での改革を実現することを目指す、一種の圧力団体として活動しました。
しかし、エリザベベス女王と、その後継のカンタベリー大主教ジョン=ホイットギフトは、この運動を、国家の秩序に対する、深刻な脅威と見なしました。ホイットギフトは、ピューリタン牧師に対する弾圧を強化し、すべての聖職者に、国王の首長権、共通祈祷書、そして39箇条への、無条件の服従を誓うことを強制しました。この厳しい取り締まりによって、1590年代までには、組織的な長老制運動は、ほぼ壊滅状態に追い込まれました。
分離派の出現
長老派が、国教会の内部からの改革を目指したのに対し、一部のより急進的なピューリタンは、イングランド国教会が、もはや真のキリストの教会ではなく、反キリスト的な偽りの教会であると結論付けました。彼らは、真のクリスチャンは、そのような堕落した教会に留まるのではなく、そこから「分離」し、聖書に忠実な信者だけで構成される、純粋な会衆を、自発的に形成すべきであると主張しました。彼らは「分離派」、あるいは、その指導者の一人の名をとって「ブラウニスト」と呼ばれました。
ロバート=ブラウンや、ヘンリー=バローといった分離派の指導者たちは、それぞれの会衆が、キリスト以外のいかなる外部の権威(主教や国家)からも独立し、自らの役員を選び、規律を執行する権利を持つという、「会衆制」の原則を提唱しました。
分離派は、国教会と国家の両方から、最も厳しい迫害の対象となりました。彼らの指導者の多くは、投獄され、バローをはじめとする何人かは、絞首刑に処せられました。生き残った者の多くは、寛容な政策をとっていたオランダへと亡命しました。後に、アメリカのプリマス植民地を建設することになる「ピルグリム=ファーザーズ」も、この分離派の流れを汲むグループでした。
スチュアート朝初期とピューリタニズムの深化
1603年、エリザベス女王が亡くなり、スコットランド王ジェームズ6世が、イングランド王ジェームズ1世として即位したとき、ピューリタンたちは、新たな希望を抱きました。ジェームズは、長老派が国教であるスコットランドで育ったため、イングランド国教会の改革に、より同情的であると期待されたのです。
ジェームズ1世とハンプトン=コート会議
即位直後、ジェームズ1世は、ピューリタンの指導者たちから、国教会の改革を求める「千人請願」を受け取りました。これに応えて、王は、1604年、ピューリタンの代表と、主教たちを、ハンプトン=コート宮殿に召集し、討論会を開催しました(ハンプトン=コート会議)。
しかし、会議の結果は、ピューリタンにとって、大きな失望に終わりました。ジェームズ1世は、長老制を「王政と両立しない」として、きっぱりと拒絶し、「主教なくして、王なし」という有名な言葉を残しました。彼は、主教制が、王権を支えるための、不可欠な柱であると考えていたのです。会議の唯一の具体的な成果は、聖書の新しい英訳版を作成することが決定されたことでした。これが、後に、英語圏で最も広く愛用されることになる『欽定訳聖書』(1611年)です。
会議の後、ジェームズ1世は、カンタベリー大主教リチャード=バンクロフトを通じて、国教会の儀式に従わないピューリタン牧師への弾圧を再開し、約90名が聖職を追われました。
アルミニウス主義の台頭と神学的対立
ジェームズ1世と、その後継者であるチャールズ1世の治世下で、ピューリタンをさらに苛立たせたのは、国教会内で、「アルミニウス主義」と呼ばれる神学思想が、影響力を増してきたことでした。オランダの神学者ヤコブス=アルミニウスに由来するこの思想は、カルヴァン主義の厳格な予定説に異を唱え、人間の自由意志が、救いにおいて、ある程度の役割を果たすことを認めました。また、アルミニウス主義者たちは、儀式や秘跡の重要性を強調し、ピューリタンが「ポープリー」(教皇主義)と見なすような、華やかな礼拝形式を好む傾向がありました。
ウィリアム=ロード(後のカンタベリー大主教)のような、影響力のあるアルミニウス主義者の聖職者たちが、国王の寵愛を受けるようになると、ピューリタンたちは、自分たちの神学的な立場が、国教会の主流から、ますます疎外されていくのを感じました。彼らの目には、アルミニウス主義は、カトリックへの回帰を目指す、危険な「裏口からのポープリー」に他なりませんでした。神学的な対立は、国教会内の亀裂を、さらに深刻なものにしていきました。
チャールズ1世とロード大主教による弾圧
1625年に即位したチャールズ1世は、父ジェームズ1世以上に、自らの王権が神から与えられたものであるという「王権神授説」を信奉し、ピューリタンに対して、強硬な姿勢で臨みました。特に、1633年にカンタベリー大主教に任命されたウィリアム=ロードは、国教会内に、厳格な儀式的な統一性を強制しようとしました。
ロードは、ピューリタンが重視してきた説教を軽んじ、祭壇を教会の東端に移動させて手すりで囲い、聖職者がそこで跪くことを命じました。また、日曜日の午後に、スポーツなどの娯楽を奨励する『スポーツ宣言』を、説教壇から読み上げることを、すべての牧師に強制しました。これらの政策は、ピューリタンの宗教的感情を、ことごとく逆なでするものでした。ロードの政策に反対する者は、星室庁裁判所や、高等宗務官裁判所といった、専制的な裁判所にかけられ、罰金、投獄、そして耳そぎなどの、過酷な刑罰を受けました。
この容赦ない弾圧は、多くのピューリタンに、イングランドでの改革の見込みは、もはや絶望的であると確信させました。1620年代から1640年にかけて、約2万人のピューリタンが、イングランドを離れ、新大陸アメリカへと移住しました。この「大移住」は、マサチューセッツ湾植民地をはじめとする、ニューイングランドのピューリタン社会の基礎を築くことになります。
イングランド内戦とピューリタン革命
チャールズ1世とロード大主教による専制的な統治は、ついに、国家を内戦へと導きました。その直接の引き金となったのは、スコットランドにおける宗教問題でした。
内戦の勃発と長期議会
1637年、チャールズ1世は、イングランドの『共通祈祷書』に類似した、新しい祈祷書を、長老派のスコットランド教会に強制しようとしました。これに激しく反発したスコットランド人は、国民盟約を結んで武装蜂起し、イングランド軍を打ち破りました(主教戦争)。
戦費を調達するために、チャールズ1世は、11年間も召集していなかった議会を、やむなく召集しました。1640年に始まったこの「長期議会」は、ジョン=ピムや、ジョン=ハムデンといった、ピューリタンの指導者たちによって、主導権を握られていました。彼らは、国王の専制政治と、ロード大主教の宗教政策を、厳しく糾弾し、星室庁などの専制的な裁判所を廃止し、ロードを投獄(後に処刑)しました。
国王と議会の対立は、修復不可能なレベルに達し、1642年、ついに両者の間で、武力衝突が始まりました。イングランド内戦の勃発です。議会派の軍隊(円頂党)は、当初、国王軍(騎士党)に対して苦戦しましたが、敬虔なピューリタンであったオリバー=クロムウェルが、厳格な規律と、宗教的な熱意を持つ「鉄騎隊」を組織し、やがて、それを中核とする「新模範軍」を編成すると、戦況は、議会派に有利に傾いていきました。
ウェストミンスター会議と長老派の優位
内戦のさなか、議会は、イングランド国教会を、どのように改革すべきかという問題に取り組むため、1643年、ウェストミンスター寺院に、神学者と議員からなる会議を召集しました(ウェストミンスター会議)。議会は、スコットランドとの軍事同盟(厳粛同盟規約)を結ぶ見返りに、イングランド国教会を、長老主義の原則に基づいて改革することを約束していました。
ウェストミンスター会議は、5年以上にわたる審議の末、『ウェストミンスター信仰告白』、『大教理問答』、『小教理問答』といった、カルヴァン主義神学の金字塔とも言うべき、一連の文書を作成しました。これらは、イングランドでは、最終的に公式な教義基準とはならなかったものの、スコットランド教会や、世界中の長老派教会にとって、最も重要な信仰告白となりました。
会議の内部では、イングランド国教会を、スコットランドのような、中央集権的な長老制国家教会にしようとする「長老派」が、多数を占めていました。しかし、彼らに対して、各個教会の自律性を重んじる「独立派」、すなわち会衆制論者たちも、少数ながら、強力な意見を表明しました。この対立は、やがて、議会と軍隊の間の対立へと発展していきます。
独立派の台頭と国王の処刑
オリバー=クロムウェルが率いる新模範軍の内部では、長老派よりも、むしろ、独立派や、さらに急進的な分離派の思想が、支配的でした。彼らは、内戦を戦い抜く中で、自らの信仰の自由は、自らの剣によって勝ち取るべきであるという、強い確信を持つようになっていました。彼らは、議会の長老派が、国王と妥協し、画一的な長老制を、国家の新たな「専制」として、自分たちに押し付けようとしていることに、強い不信感を抱きました。
1648年、軍隊は、クーデターを起こし、議会から長老派の議員を追放しました(プライドのパージ)。残った「ランプ議会」は、クロムウェルと軍の意のままに、国王チャールズ1世を、反逆罪で裁判にかけ、1649年1月、彼を処刑するという、ヨーロッパの歴史を震撼させる決定を下しました。
国王の処刑後、イングランドは、共和制となり、やがて、1653年からは、クロムウェルを「護国卿」とする、事実上の軍事独裁政権が樹立されました。この「空位期間」において、ピューリタンは、初めて、国家の権力を掌握しました。主教制と共通祈祷書は廃止され、ある程度の宗教的寛容(ただし、カトリックと監督派は除く)が認められました。しかし、ピューリタンの厳格な道徳(劇場の閉鎖など)は、国民の広範な支持を得ることはできず、クロムウェルの死後、政権は急速に不安定化しました。
王政復古とピューリタニズムの終焉
1660年、国民が、長年の混乱と、ピューリタンの厳格な統治に疲弊する中で、亡命していたチャールズ2世が、イングランドに帰還し、王政が復古されました。これは、政治権力としてのピューリタニズムの、事実上の終わりを意味しました。
クラレンドン法典と大追放
王政復古後の議会は、国王以上に、ピューリタンに対する報復に燃えていました。1662年から1665年にかけて、議会は、「クラレンドン法典」として知られる、一連の厳しい法律を制定し、ピューリタンの宗教活動を、徹底的に弾圧しました。
特に、1662年の「統一令」は、すべての聖職者に対して、改訂された『共通祈祷書』のすべてに、心からの同意を表明し、主教による再叙階を受けることなどを要求しました。これを拒否した者は、聖職を追われることになりました。その結果、約2000人ものピューリタン牧師が、自らの良心に従い、国教会を去りました。これは「大追放」として知られ、イングランドの宗教生活に、深い傷跡を残しました。
追放された牧師たちと、彼らに従う信徒たちは、国教会の外で、独自の礼拝や集会を持つことを禁じられ(コンヴェンティクル法)、公職に就くことも、大学で教えることもできなくなりました(五マイル法)。ジョン=バニヤンが、その不朽の名作『天路歴程』を執筆したのは、この非合法な説教活動のために、投獄されていた期間中のことでした。
非国教徒としての遺産
大追放によって、ピューリタニズムは、国教会内の改革運動としては、終焉を迎えました。それ以降、かつてのピューリタンたちは、「非国教徒」あるいは「ディセンター」として、国教会の外で、自らの信仰の伝統を、守り育てていくことになります。彼らは、長老派、会衆派(独立派)、バプテスト派、そしてクエーカーといった、様々な教派へと分かれていきました。
1688年の名誉革命と、翌年の「寛容法」によって、彼らは、ようやく、一定の条件下で、自らの礼拝を持つ自由を、法的に認められることになりました。しかし、彼らが、市民としての完全な権利を回復するには、さらに長い年月を要しました。
宗教改革期に始まったピューリタンの運動は、イングランド国教会を、聖書のモデルに従って改革するという、当初の目的を達成することはできませんでした。しかし、その闘いの過程で、彼らは、英語圏の世界に、計り知れないほど、深く、そして永続的な遺産を残しました。聖書の権威、神の主権、個人の良心の自由、契約に基づく共同体、そして召命としての労働といった、彼らが命をかけて守ろうとした理念は、イングランドの政治史を形作り、大西洋を越えて、アメリカという新しい国家の精神的な土台を築き、そして、その後のプロテスタント福音主義の伝統の中に、脈々と受け継がれていくことになるのです。