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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

ユグノーとは わかりやすい世界史用語2582

著者名: ピアソラ
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ユグノーとは

ユグノーとは、16世紀から17世紀にかけてのフランス王国において、宗教改革の思想、特にジャン=カルヴァンの教えを受け入れたプロテスタント信徒を指す呼称です。彼らの存在は、フランスの宗教、政治、社会に深刻な亀裂を生み、約40年間にわたる凄惨な内戦(ユグノー戦争)を引き起こしました。そして最終的には、王権による過酷な弾圧の末、多くの者が国外への亡命を余儀なくされ、その離散はヨーロッパ各地の文化や経済に大きな影響を及ぼすことになります。



起源と呼称

「ユグノー」という呼称の正確な語源については、いくつかの説があり、完全には定まっていません。当初、フランスのプロテスタントは自らを「改革派(レフォルメ)」と称しており、「ユグノー」はカトリック側の敵対者が用いた蔑称でした。
有力な説の一つは、スイスのジュネーヴにおける政治闘争に由来するというものです。1520年代、ジュネーヴの市民はサヴォイア公の支配に抵抗し、スイス盟約者団との同盟を主張しました。この愛国者グループのリーダーの一人、ブザンソン=ユーグの名が、ドイツ語で「盟約者」を意味する「アイトゲノッセ」と結びつき、フランス語風に訛って「ユグノー」となったという説です。当時、ジュネーヴはジャン=カルヴァンの宗教改革の中心地であり、フランスのプロテスタントにとっての神学的な拠点でした。そのため、ジュネーヴの政治的党派名が、やがてフランスのカルヴァン主義者全体を指す言葉として転用されたと考えられています。
また別の説では、フランスのトゥール地方に伝わる民間伝承に由来するとされます。そこでは、夜な夜な徘徊すると信じられていた「ユーグ王」という幽霊の伝説がありました。フランスのプロテスタントは、カトリック教会から異端と見なされ、しばしば夜間に密かに集会を開かざるを得ませんでした。その様子が、夜の闇に紛れて活動するユーグ王の亡霊になぞらえられ、「ユグノー」というあだ名がついたというものです。
いずれの説が正しいにせよ、「ユグノー」という言葉は、当初の侮蔑的なニュアンスを乗り越え、やがてフランスのプロテスタント自身も、自らのアイデンティティと苦難の歴史を象徴する名として受け入れていきました。
フランス宗教改革の拡大

16世紀初頭のフランスでは、ドイツのマルティン=ルターに始まる宗教改革の思想が、人文主義者や聖職者の一部に静かに浸透し始めていました。しかし、フランスにおけるプロテスタンティズムが本格的な運動として組織化されるのは、フランス出身の神学者ジャン=カルヴァンが、スイスのジュネーヴで改革を指導し、その影響がフランス国内に及んでからのことです。
カルヴァンの主著『キリスト教綱要』はフランス語で書かれ、印刷技術の発達も相まって、広くフランス国内に流布しました。彼の神学は、神の絶対主権、聖書の至高の権威、そして予定説といった教理を特徴とし、ローマ=カトリック教会の教義や慣行を厳しく批判するものでした。また、カルヴァンはジュネーヴに神学校を設立し、そこで訓練を受けた多くのフランス人牧師を秘密裏に本国へ送り込みました。彼らはフランス各地に改革派教会を組織し、精力的に説教活動を行いました。
その結果、プロテスタンティズムは、当初の知識人や職人層だけでなく、貴族階級にも急速に浸透していきました。特に、当時のフランス社会において強い影響力を持っていた大貴族の一部がユグノーの信仰を受け入れたことは、運動の拡大にとって決定的な意味を持ちました。ナバラ王アントワーヌ=ド=ブルボンや、その弟のコンデ公ルイ1世、そして海軍提督ガスパール=ド=コリニーといった有力者たちがユグノーの指導者となり、彼らの庇護の下で、ユグノーは単なる宗教的少数派から、強力な政治的=軍事的勢力へと変貌を遂げていったのです。
1559年には、パリで秘密裏に初の全国教会会議が開催され、フランス改革派教会の『信仰告白』と『教会規律』が採択されました。これにより、フランスのユグノーは、カルヴァンの神学と長老制の教会統治に基づいた、全国的な組織として確立されるに至ります。最盛期には、フランスの人口の約10パーセント、200万人以上がユグノーであったと推定されており、特に南部や西部の都市部、そして貴族階級の約半数がユグノーであったと言われています。
ユグノー戦争

ユグノーの勢力拡大は、フランス王権と、カトリック教会を熱心に支持する大貴族ギーズ家との間に深刻な危機感を生み出しました。フランス国王フランソワ1世やアンリ2世の治世下で、プロテスタントに対する弾圧は次第に強化されていましたが、アンリ2世が馬上槍試合の事故で急死し、若年の息子たちが次々と即位すると、王権は不安定化します。この権力の空白に乗じて、カトリックのギーズ家とプロテスタントのブルボン家=コリニー家という二大貴族派閥の対立が激化し、国を二分する内戦へと突入しました。この一連の紛争は、16世紀後半のフランスを荒廃させた「ユグノー戦争」(1562年=1598年)として知られています。
戦争の勃発とサン=バルテルミの虐殺

戦争の直接的な引き金となったのは、1562年にヴァシーの町で起こった事件でした。カトリック派の首領であるギーズ公フランソワが、礼拝中の非武装のユグノーを襲撃し、多数を殺害したのです(ヴァシーの虐殺)。この事件をきっかけに、ユグノー側もコンデ公の下で武装蜂起し、フランス全土が戦場と化しました。
ユグノー戦争は、単なる宗教的な対立にとどまらず、貴族間の権力闘争、都市の自治権をめぐる争い、さらにはスペイン(カトリック側を支援)やイングランド(ユグノー側を支援)といった外国勢力の介入も絡み合い、複雑な様相を呈しました。戦争は断続的に繰り返され、一時的な和解や勅令が発布されては、すぐに破られるという状況が続きました。
この戦争の中でも最も悲劇的で、ユグノーの記憶に深く刻み込まれた事件が、1572年8月24日の「サン=バルテルミの虐殺」です。この事件は、カトリック教徒である王妹マルグリット=ド=ヴァロワと、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(後のアンリ4世)の結婚式を祝うために、全国から多くのユグノー貴族がパリに集まっていた際に起こりました。この結婚は、両派の和解を象徴するものと期待されていました。
しかし、8月22日、ユグノーの指導者であるコリニー提督が何者かに狙撃され、負傷します。これに激昂したユグノー側の報復を恐れた国王シャルル9世とその母カトリーヌ=ド=メディシスは、先手を打ってパリ市内のユグノー指導者たちを粛清することを決断したと言われています。8月24日の未明、サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の鐘を合図に、王の衛兵とギーズ公の兵、そして扇動されたパリの民衆がユグノー狩りを開始しました。コリニー提督は殺害され、その遺体は無残に扱われました。虐殺はパリ市内で数日間にわたって続き、その後、リヨン、オルレアン、ボルドーなど地方の諸都市にも波及しました。この一連の虐殺による犠牲者は、パリだけで数千人、フランス全土では数万人に上ると推定されています。
サン=バルテルミの虐殺は、ユグノーに壊滅的な打撃を与えました。多くの指導者を失い、恐怖に駆られた多くの信徒がカトリックへの改宗を強制されました。しかし、生き残ったユグノーは、王権に対する徹底抗戦の意志を固めます。彼らは、暴君に対しては抵抗する権利があるとする「暴君放伐論」を唱え、南フランスを拠点に「プロテスタント連合(ユグノー国家)」とも言うべき独自の政治=軍事組織を形成し、抵抗を続けました。この虐殺は、ユグノーのアイデンティティを「殉教者の教会」として決定づけるとともに、フランス王権への根深い不信感を植え付けたのです。
ナントの勅令

サン=バルテルミの虐殺後も、戦争は泥沼化しました。シャルル9世、アンリ3世と国王が相次いで亡くなり、ヴァロワ朝が断絶します。フランスの王位継承法(サリカ法)によれば、次に王位を継ぐべきは、ブルボン家の当主であり、ユグノーの指導者であったナバラ王アンリでした。しかし、カトリック勢力はプロテスタントの王を断固として認めず、スペインの支援を受けて「カトリック同盟」を結成し、アンリの即位を阻みました。
パリをカトリック同盟に押さえられ、絶体絶命の窮地に立たされたアンリは、1593年、「パリはミサを捧げるに値する」という有名な言葉を残し、自身の信仰を捨ててカトリックに改宗するという政治的決断を下します。これにより、彼はフランス国民の大多数を占めるカトリック教徒の支持を得ることに成功し、翌年、アンリ4世としてパリに入城、正式にフランス国王として即位しました。
国王となったアンリ4世は、長年にわたる内戦で疲弊した国家を再建するため、宗教的寛容政策へと舵を切ります。1598年、彼は「ナントの勅令」を発布しました。この勅令は、フランスにおけるカトリックの優位性を認めつつも、ユグノーに対して、限定的ではあるものの、信仰の自由と市民権を保障する画期的なものでした。
ナントの勅令により、ユグノーは個人の良心における信仰の自由を認められ、特定の都市や貴族の領地内では公的な礼拝を行うことが許可されました。また、彼らは公職に就く権利や、大学で学ぶ権利など、カトリック教徒と平等の市民権を保障されました。さらに、最も重要な点として、彼らの安全を保障するための「保障都市」として、ラ=ロシェルをはじめとする約100の要塞都市を保持し、独自の軍隊を駐留させる権利が認められました。これは、ユグノーを単なる宗教的少数派としてではなく、「国家の中の国家」として、その政治的=軍事的な自治を公認するものでした。
ナントの勅令は、一個人が国家の公的な宗教とは異なる信仰を持つことを認めた、ヨーロッパの歴史における寛容政策の先駆けと評価されています。これにより、ユグノー戦争はようやく終結し、フランスには一時的な平和が訪れました。
寛容の終焉と亡命

ナントの勅令によってもたらされた平和は、しかし、永続的なものではありませんでした。アンリ4世が1610年に狂信的なカトリック教徒によって暗殺されると、ユグノーの立場は再び不安定になります。
リシュリュー枢機卿とラ=ロシェルの陥落

アンリ4世の息子ルイ13世の治世下で、宰相として実権を握ったリシュリュー枢機卿は、フランス王権の絶対主義化を強力に推進しました。彼にとって、ナントの勅令によって保障されたユグノーの政治的=軍事的な自治、特に彼らが保持する要塞都市は、国家の統一を妨げる許しがたい脅威と映りました。リシュリューの目標は、ユグノーの信仰そのものを根絶することではなく、彼らの政治力を剥奪し、国王に忠実な臣下とすることでした。
1627年、リシュリューはユグノーの最大拠点であった大西洋岸の要塞都市ラ=ロシェルに対する包囲攻撃を開始します。ラ=ロシェルは、イングランドからの支援を期待して王権に抵抗しましたが、リシュリューは港を封鎖する巨大な堤防を築き、徹底した兵糧攻めを行いました。1年以上にわたる過酷な包囲戦の末、飢餓によって市民の大多数が死亡し、1628年、ラ=ロシェルはついに降伏しました。
ラ=ロシェルの陥落は、ユグノーの軍事力に決定的な打撃を与えました。翌1629年、ルイ13世は「アレスの恩恵勅令」を発布します。これにより、ナントの勅令が保障したユグノーの信仰の自由と市民権は再確認されましたが、彼らの要塞都市を保持する権利や軍隊を駐留させる権利といった、すべての政治的=軍事的な特権は剥奪されました。ユグノーは武装を解除され、「国家の中の国家」としての地位を完全に失ったのです。
ルイ14世とナントの勅令の廃止

ルイ14世(太陽王)の親政が始まると、ユグノーに対する圧力はさらに増大しました。「一つの国、一つの法、一つの信仰」という絶対王政の理念の下、ルイ14世は国内の宗教的統一を国家の至上命題としました。彼の治世下で、ユグノーに対する組織的な迫害政策が次々と実行されていきます。
まず、ナントの勅令の条文を極めて厳格に解釈し、ユグノーの活動を制限する法令が乱発されました。新しい教会の建設は禁止され、既存の教会も些細な理由で次々と破壊されました。ユグノーは多くの公職から追放され、特定の職業(医師、弁護士、出版業など)に就くことも禁じられました。カトリックへの改宗を促すために、改宗者には金銭的な報酬が与えられ、一方でユグノーの家庭から子供を強制的に引き離し、カトリックとして育てることも行われました。
さらに、1681年からは「竜騎兵の迫害」として知られる、より直接的で暴力的な弾圧が始まります。これは、竜騎兵(騎馬歩兵)の部隊をユグノーの家庭に強制的に宿泊させ、その費用をすべて負担させるというものでした。兵士たちは、略奪、暴行、破壊行為など、あらゆる手段を用いて家主一家に改宗を迫りました。この残忍な政策は大きな「成果」を上げ、恐怖に駆られた何十万人ものユグノーが、形式的にでもカトリックへの改宗を宣言せざるを得ませんでした。
そして1685年10月、ルイ14世は、国内のユグノーはもはや存在しないと判断し、絶対王政の総仕上げとして「フォンテーヌブローの勅令」を発布します。これは、ナントの勅令を公式に廃止するものでした。この勅令により、フランス国内におけるプロテスタントの礼拝は一切禁止され、すべての教会は破壊され、牧師は国外追放か改宗を迫られました。信徒が国外へ逃亡することは固く禁じられ、違反した者はガレー船の漕ぎ手として送られるか、投獄されました。
大亡命

ナントの勅令の廃止は、ユグノーにとって最終的な破局を意味しました。信仰を守るためには、すべてを捨てて国を脱出するしか道は残されていませんでした。国王の厳しい禁令にもかかわらず、推定20万人から40万人のユグノーが、危険を冒してフランスから逃亡したと言われています。この大亡命は「ル=ルフュージュ(避難)」として知られています。
彼らは、プロテスタントを受け入れてくれる近隣の国々、すなわちスイス、ネーデルラント(オランダ)、イングランド、そしてドイツのプロテスタント諸邦(特にブランデンブルク=プロイセン)へと向かいました。さらに、そこからアイルランド、北米(特にサウスカロライナ、ニューヨーク、バージニア)、南アフリカのケープ植民地など、世界各地へと離散していきました。
この亡命は、フランスにとって計り知れない損失となりました。亡命したユグノーには、熟練した技術を持つ職人(織物工、時計職人、銀細工師など)、有能な商人、銀行家、知識人、軍人などが数多く含まれていました。彼らが持ち去った技術、資本、そして知識は、受け入れ国の産業革命や経済発展に大きく貢献した一方で、フランス自身の経済力と文化的多様性を著しく損なう結果となったのです。例えば、プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム大選帝侯は、ポツダム勅令を発してユグノー難民を積極的に受け入れ、彼らをベルリンに定住させました。彼らがもたらした絹織物業やその他の産業は、当時まだ後進国であったプロイセンの近代化の礎を築きました。同様に、ロンドンのスピタルフィールズ地区は、ユグノーの織物職人たちによって世界的な絹織物産業の中心地へと発展しました。
一方、フランス国内に残ったユグノーは、「砂漠の教会」と呼ばれる地下活動を余儀なくされました。彼らは山中や野原で密かに集会を開き、信仰を守り続けましたが、発覚すれば過酷な弾圧が待ち受けていました。特に南フランスのセヴェンヌ山脈では、1702年に「カミザールの乱」と呼ばれる大規模な農民反乱が勃発し、数年間にわたってルイ14世の軍隊を苦しめました。
寛容の回復とその後

18世紀に入り、啓蒙思想が広まるにつれて、宗教的不寛容に対する批判の声が高まっていきました。ヴォルテールのような思想家は、カラス事件(無実のユグノーが息子を殺害したという冤罪で処刑された事件)などを通して、カトリック教会の狂信と司法の不正を厳しく告発しました。
このような時代の変化を受け、1787年、ルイ16世は「寛容の勅令(ヴェルサイユ勅令)」を発布し、ユグノーに対して、カトリック教徒とは区別されながらも、法的な存在を認め、市民としての身分登録(出生、結婚、死亡)や財産所有の権利を回復しました。これは完全な信仰の自由ではありませんでしたが、1世紀以上にわたる過酷な弾圧の時代の終わりを告げる重要な一歩でした。
そして、1789年に勃発したフランス革命は、状況を根本的に変えました。革命によって採択された「人権宣言」は、第10条で「何人も、その意見、たとえ宗教上のものであっても、その表明が法によって定められた公の秩序を乱さない限り、不安を与えられることはない」と謳い、信教の自由を基本的人権として確立しました。これにより、ユグノーはついに、他のすべてのフランス市民と完全に平等の権利を獲得したのです。
ナポレオン時代には、プロテスタント教会は国家の公的な管理下に置かれましたが、その信仰活動は保障されました。19世紀を通じて、ユグノーはフランス社会の様々な分野で再び活躍し始め、政治、経済、学術の世界で多くの著名人を輩出しました。

ユグノーの歴史は、信仰の自由をめぐる長く困難な闘争の物語です。16世紀フランスにおいて、宗教改革の波に乗って力強い勢力として台頭した彼らは、国家の統一を目指す王権とカトリック勢力との間で激しい対立を引き起こし、ユグノー戦争という未曾有の内戦を経験しました。サン=バルテルミの虐殺という悲劇に見舞われながらも、彼らは不屈の精神で抵抗を続け、ナントの勅令によって一時的な平和と共存の時代を勝ち取ります。
しかし、絶対王政の確立を目指すルイ14世の下で、その寛容は終わりを告げ、ナントの勅令の廃止という最終的な破局を迎えました。これにより、多くのユグノーが故国を追われ、世界各地へと離散する「大亡命」が起こります。この出来事は、フランスに大きな損失をもたらした一方で、彼らを受け入れた国々の発展に多大な貢献をしました。
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・ユグノーとは わかりやすい世界史用語2582

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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