宗教による内戦(宗教戦争)
宗教による内戦(宗教戦争)は16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ全土を席巻した一連の武力紛争の総称です。これらの戦争は1517年のマルティン=ルターによる宗教改革の提唱に端を発し、カトリックとプロテスタントという二つのキリスト教信仰の対立を直接的な原因として勃発しました。しかしその背景には単なる神学論争にとどまらない複雑な政治的、経済的、社会的な要因が絡み合っていました。新興の君主国家が中央集権化を進める過程で普遍的な権威を主張するローマ=カトリック教会や神聖ローマ帝国と衝突し、宗教がその対立のイデオロギー的な旗印として利用されたのです。また貴族たちは自らの政治的影響力を維持・拡大するために、商人階級は経済的な自由を求めて、農民は社会的な抑圧からの解放を願って、それぞれが宗教的な大義名分のもとに武器を取りました。これらの戦争は騎士道的な戦闘から傭兵を主体とする大規模な軍隊による破壊的な総力戦へと変貌し、数十年間にわたってヨーロッパの広大な地域を荒廃させ数百万人の命を奪いました。その結果、中世以来のキリスト教世界の統一性は完全に失われ、主権国家を基本単位とする近代ヨーロッパの国際秩序が形成されるという歴史の大きな転換点となりました。
神聖ローマ帝国と宗教改革の発火点
宗教改革そのものが始まった神聖ローマ帝国が最初のそして最も長期にわたる宗教戦争の舞台となったのはある意味で必然でした。当時の神聖ローマ帝国は「帝国」という名とは裏腹に、数百もの領邦国家、自由都市、教会領などが分立する極めて分権的な政治体でした。皇帝の権力は名目的なものに過ぎず各地の諸侯は事実上の独立君主として振る舞っていました。この政治的な分裂状態がルターの教えが急速に広まる土壌となり、同時に宗教対立を武力紛争へと発展させる直接的な原因となったのです。
騎士戦争とドイツ農民戦争
宗教改革の初期、ルターの教えは社会の様々な階層にそれぞれの思惑を持って受け入れられました。その中で最初に暴力的な形で噴出したのが「騎士戦争」(1522年–1523年)と「ドイツ農民戦争」(1524年–1525年)でした。
騎士戦争は没落しつつあった下級騎士たちが自らの経済的苦境と政治的影響力の低下をカトリック教会の腐敗と富に結びつけ蜂起したものでした。フランツ=フォン=ジッキンゲンに率いられた騎士たちはルター派の教えを大義名分にトリーア大司教領を攻撃しました。しかし彼らの行動はルター自身の支持を得られず、また諸侯たちの迅速な反撃によってあっけなく鎮圧されました。この戦争は宗教改革が社会的な不満を持つ集団によっていかに容易に利用されうるかを示す最初の兆候でした。
それに続いたドイツ農民戦争ははるかに大規模で破壊的な紛争でした。農民たちは長年にわたる封建的な搾取と重税に苦しんでおり、ルターが唱えた「キリスト者の自由」という言葉を社会的な身分からの解放と解釈しました。彼らは「十二箇条の要求」として知られる文書を掲げ農奴制の廃止や公正な税制などを求めドイツ南西部の広大な地域で蜂起しました。急進的な説教家トマス=ミュンツァーに率いられた一部の農民は千年王国的な思想に染まり暴力的な社会変革を目指しました。
当初ルターは農民の要求に一定の理解を示しましたが、反乱が暴徒化し社会秩序そのものを脅かすようになると一転して諸侯たちに反乱農民を「狂犬のように打ち殺せ」と呼びかけ徹底的な弾圧を支持しました。カトリック、ルター派を問わず諸侯たちは利害の一致を見て連合して農民軍を攻撃し、フランケンハウゼンの戦いなどで反乱を血の海の中に鎮めました。この戦争で10万人以上ともいわれる農民が虐殺されたと言われています。この悲劇的な結末はルター派の宗教改革が社会革命ではなく、あくまで諸侯の権力と結びついた体制内の改革であることを明確にしました。
シュマルカルデン戦争
農民戦争後、宗教改革の主導権は完全にルター派の教えを受け入れた諸侯たちの手に移りました。彼らは自領内の教会をローマの支配から切り離し、その財産を没収することで自らの権力を大幅に強化しました。これに対しカトリックの信仰を堅持する神聖ローマ皇帝カール5世は帝国内の宗教的統一を取り戻そうと様々な手を打ちます。
1529年のシュパイアー帝国議会で皇帝側がルター派の信仰を公に認めることを拒否したため、ルター派の諸侯たちはこれに「抗議(プロテスト)」しました。これが「プロテスタント」という呼称の起源となります。危機感を募らせたプロテスタント諸侯は1531年にヘッセン方伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン=フリードリヒを指導者として「シュマルカルデン同盟」という軍事同盟を結成しました。
カール5世はフランスやオスマン帝国との戦争に忙殺され長らくこの同盟を放置せざるを得ませんでした。しかし1544年にフランスとの和議が成立すると、ついに帝国内のプロテスタント勢力を武力で屈服させることを決意します。
こうして始まったのが「シュマルカルデン戦争」(1546年–1547年)です。当初皇帝軍はプロテスタント側の有力諸侯であったザクセン公モーリッツの裏切りもあり優勢に戦いを進めました。1547年のミュールベルクの戦いで皇帝軍はシュマルカルデン同盟軍に決定的な勝利を収め、同盟の指導者たちを捕虜にしました。
勝利に乗じてカール5世は「アウクスブルク仮信条協定」を帝国に押し付け、カトリック的な教義と儀式を大幅に復活させようとしました。しかしこの強硬な政策はプロテスタント諸侯だけでなくカトリック諸侯からも皇帝権力の過度な強化への警戒心を招きました。かつて皇帝を助けたモーリッツが今度はフランス王アンリ2世と結んで反旗を翻し皇帝軍に奇襲をかけました。不意を突かれたカール5世はインスブルックからの逃亡を余儀なくされその権威は地に堕ちました。
アウクスブルクの和議
シュマルカルデン戦争の最終的な失敗はカール5世に帝国内の宗教問題を武力で解決することが不可能であると痛感させました。失意のうちに彼は弟のフェルディナントに交渉を委ね自らは政治の舞台から退いていきます。
1555年、帝国の諸侯と都市の代表がアウクスブルクに集まり歴史的な和議が結ばれました。これが「アウクスブルクの和議」です。この和議はドイツにおける最初の宗教戦争を終結させただけでなく、その後のヨーロッパの宗教共存のあり方を方向づける重要な原則を確立しました。
その最も重要な原則が「領主の宗教がその地の宗教」というものです。これにより各領邦の君主(諸侯)は自らの領地内の公的な宗教をカトリックかルター派か自由に選択する権利を認められました。領民は領主の選択に従うか、あるいは財産を持って他の領地へ移住する権利を与えられました。
この和議は画期的なものでした。それは中世以来の単一のキリスト教世界という理念を事実上放棄し、領邦国家ごとに異なる信仰が併存することを法的に認めたからです。しかしこの和議には将来の紛争の火種となる重大な欠陥も含まれていました。
第一に信仰の選択の自由はあくまで諸侯に与えられたものであり個々の領民には認められていませんでした。第二に選択可能な信仰はカトリックとルター派のみに限定され、当時すでに広がりを見せていたカルヴァン派は除外されました。第三に「教会領留保」の条項はカトリックの司教がプロテスタントに改宗した場合その地位と領地を放棄しなければならないと定めましたがプロテスタント側はこれを認めませんでした。
これらの問題点、特にカルヴァン派の扱いをめぐる対立は、約半世紀の不安定な平和の後、ヨーロッパ史上最も破壊的な宗教戦争である三十年戦争を引き起こすことになるのです。
フランス
神聖ローマ帝国が諸侯の分権的な権力闘争という形で宗教戦争を経験したのに対し、フランスでは中央集権化を進める強力な王権の下でより凄惨な内戦の様相を呈しました。フランスにおけるプロテスタントは「ユグノー」と呼ばれその多くはジャン=カルヴァンの教えに従っていました。彼らは人口全体から見れば少数派でしたが貴族や都市の商工業者層に多くの信者を獲得し無視できない勢力を形成していました。このユグノーとカトリック勢力との約40年間にわたる断続的な戦いは「ユグノー戦争」(1562年–1598年)として知られています。
ヴァロワ朝の動揺と対立の激化
ユグノー戦争の直接的な引き金は1559年のフランス国王アンリ2世の不慮の死でした。彼の死後、若く病弱な息子たちが次々と王位を継ぎましたが実権は王母であるカトリーヌ=ド=メディシスが握りました。カトリーヌはイタリア出身の現実的な政治家であり、当初はカトリックとユグノーの両勢力のバランスをとることで王家の権威を保とうとしました。
しかし宮廷は二つの有力な貴族の派閥によって分裂していました。一つは熱烈なカトリックでありロレーヌ公の一族であるギーズ公フランソワに率いられるカトリック派。もう一つはブルボン家のナバラ王アントワーヌやコンデ公ルイ1世、そしてコリニー提督ガスパール=ド=コリニーらに率いられるユグノー派でした。これらの大貴族たちは宗教的な信念だけでなく王権の主導権をめぐっても激しく対立していました。
1562年、カトリーヌがユグノーに一定の信仰の自由を認める「サン=ジェルマン勅令」を発布した直後、ギーズ公がヴァシーで礼拝中の非武装のユグノーを虐殺するという事件が起こりました(ヴァシーの虐殺)。これがユグノー戦争の始まりとなりました。
サン=バルテルミの虐殺
戦争は和平交渉と戦闘を繰り返しながら泥沼化していきました。カトリーヌは両派の和解を図るため自らの娘であるマルグリット=ド=ヴァロワ(カトリック)とユグノー派の若き指導者であるナバラ王アンリ(後のアンリ4世)との結婚を計画しました。
1572年8月、この結婚式のためにフランス中から多くのユグノー貴族がカトリックの牙城であるパリに集まりました。しかしこの和解の祭典はフランス史上最も悪名高い血塗られた悲劇へと転じます。
結婚式の数日後、ユグノー派の重鎮であるコリニー提督が何者かに狙撃され負傷しました。報復を恐れたカトリーヌと国王シャルル9世はギーズ公らカトリック強硬派の説得を受け入れ、パリ市内のユグノー指導者たちを一斉に殺害することを決断しました。
1572年8月24日のサン=バルテルミの祝日の未明、教会の鐘を合図に虐殺が始まりました。コリニー提督はベッドの上で殺害され、その遺体は窓から投げ捨てられました。この計画的な指導者の暗殺はたちまち制御不能な民衆の暴動へと発展しました。カトリックのパリ市民は狂乱状態に陥りユグノーと見られる人々を男女の区別なく手当たり次第に殺害しました。この虐殺の波はパリから地方の諸都市へと広がり数週間にわたって続きました。犠牲者の数はフランス全土で数万人にのぼったと推定されています。
「サン=バルテルミの虐殺」はユグノーに壊滅的な打撃を与えましたが、彼らの抵抗の意志を完全に打ち砕くことはできませんでした。むしろ生き残ったユグノーはより過激な抵抗理論を展開し、暴君に対しては武力で抵抗する権利があると主張するようになりました。戦争はさらに激しさを増し妥協の余地のない死闘へと変貌していきました。
ナントの王令(勅令)
サン=バルテルミの虐殺後、フランスは「三アンリの戦い」として知られる最終局面へと突入します。これは三人の「アンリ」という名の指導者たちが王位をめぐって争った複雑な権力闘争でした。
一人目は国王アンリ3世。彼はカトリーヌ=ド=メディシスの息子でありヴァロワ朝最後の王でした。彼には世継ぎがおらず穏健なカトリックとしてギーズ公の過激な勢力と対立していました。
二人目はギーズ公アンリ。彼はカトリック同盟(ラ・リーグ)の指導者でありスペイン王フェリペ2世の支援を受けてアンリ3世の王位を脅かすほどの勢力を誇っていました。彼はパリ市民の絶大な人気を背景に国王を傀儡にしようと画策します。
三人目はナバラ王アンリ。彼はブルボン家の当主でありユグノー派の総大将でした。アンリ3世に最も近い血縁の男子であったためサリカ法典に基づけば彼が正統な王位継承者でした。
当初アンリ3世はギーズ公アンリの圧力に屈しユグノーとの戦争を再開しました。しかしギーズ公の野心に身の危険を感じたアンリ3世は1588年、ブロワ城でギーズ公とその弟を暗殺するという大胆な挙に出ます。この行動はカトリック同盟の激しい怒りを買いアンリ3世はパリから追放されました。
孤立したアンリ3世は皮肉にもかつての敵であったナバラ王アンリと手を結び共にパリを奪還しようとします。しかしその矢先の1589年、アンリ3世は狂信的なカトリックの修道士によって暗殺されてしまいました。彼は死の床でナバラ王アンリを後継者に指名しました。
こうしてプロテスタントであるナバラ王アンリが「アンリ4世」としてフランス王位を継承することになりました。しかしカトリックが大多数を占めるフランス、特にパリはプロテスタントの王を受け入れることを断固として拒否しました。アンリ4世は数年間にわたる武力闘争を続けなければなりませんでした。
最終的にアンリ4世は現実的な政治判断を下します。1593年、彼は「パリはミサを捧げるに値する」という有名な言葉と共にカトリックに改宗することを宣言しました。この改宗によって彼は大多数のフランス国民の支持を得ることに成功し、翌年ついにパリに入城することができました。
王としてフランスを統一したアンリ4世は長年の宗教内乱を終結させるため1598年に「ナントの勅令」を発布しました。この勅令はカトリックをフランスの国教と定めつつもユグノーに対して特定の地域における信仰の自由と礼拝の権利を保障しました。また彼らに公職に就く権利や武装する権利を含む完全な市民権を認めました。
ナントの勅令は個人の信仰の自由を認めたものではなく、あくまで国家の中に特権的な少数派の存在を認めるという妥協の産物でした。しかしそれは一つの国家の中に二つの宗教が共存する道を示し、フランスに一世紀近くにわたる平和と繁栄をもたらしました。アンリ4世の現実主義的な政策は宗教的な熱狂よりも国家の統一と安定を優先させるという近代的な主権国家の論理の勝利を象徴していました。
ネーデルラント
ネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)における宗教戦争はスペイン=ハプスブルク家の強大な帝国に対する独立戦争という性格を色濃く帯びていました。この80年にも及ぶ長い闘争は「八十年戦争」(1568年–1648年)として知られ、その結果ヨーロッパで最もダイナミックで繁栄した共和国の一つであるオランダ連邦共和国が誕生しました。
ハプスブルク家の支配とプロテスタントの弾圧
16世紀半ば、ネーデルラント17州は神聖ローマ皇帝カール5世の世襲領地としてハプスブルク家の支配下にありました。この地域はヨーロッパで最も都市化が進み商業と工業が発達した豊かな地域でした。しかしカール5世とその息子であるスペイン王フェリペ2世は、この地を単なる税収源と見なし中央集権化とカトリック信仰の強制を推し進めました。
特に厳格なカトリックであったフェリペ2世はネーデルラントで急速に広まっていたカルヴァン派のプロテスタントを根絶することを決意し、異端審問を強化して厳しい弾圧を行いました。この宗教的弾圧は古くからの都市の特権や貴族の権利を侵害する政治的な中央集権化政策と相まってネーデルラントの人々の強い反感を買いました。
反乱の勃発とアルバ公の恐怖政治
1566年、ネーデルラントの下級貴族たちが摂政マルゲリータ=ディ=パルマに宗教的寛容を求める請願書を提出しました。この時、宮廷のある人物が彼らを「乞食(ゴイセン)」と嘲ったことから、反乱軍は後に誇りを持って「ゴイセン」を自称するようになります。同年、カルヴァン派の民衆による大規模な聖像破壊運動(ビルダーシュトゥルム)が各地の教会で発生し事態は一気に緊迫化しました。
この報告に激怒したフェリペ2世は1567年、ネーデルラントの反乱を徹底的に鎮圧するため冷酷で有能な将軍であるアルバ公フェルナンド=アルバレス=デ=トレドを1万の精鋭部隊と共に派遣しました。
アルバ公は「血の評議会」と呼ばれる特別法廷を設置し数千人のプロテスタントや反乱指導者を処刑しました。その中にはオラニエ公ウィレム(沈黙公)と共に穏健な抵抗運動を指導していたエフモント伯やホールン伯も含まれていました。アルバ公の容赦ない恐怖政治は一時的に反乱を鎮静化させましたが、それはネーデルラントの人々の心にスペインに対する消えることのない憎悪を植え付けました。
オラニエ公ウィレムの闘いとオランダの独立
アルバ公の弾圧を逃れドイツに亡命していたオラニエ公ウィレムはネーデルラント解放のための闘争の指導者となりました。彼は当初カトリックの大貴族でしたがネーデルラントの自由と統一を守るためにプロテスタントと手を結び、私財を投じて傭兵を雇い入れスペイン軍との戦いを開始しました。
戦争の初期の転換点となったのは1572年、「海の乞食(ゼーゴイセン)」と呼ばれるオランダ人の私掠船団がブリーレの港を占領したことでした。これをきっかけにホラント州とゼーラント州の諸都市が次々と反乱に加わりウィレムを総督として迎え入れました。
スペイン軍はハールレムやライデンといった反乱都市を包囲し残虐な攻撃を加えましたが、オランダの人々は堤防を決壊させて国土を水浸しにするなど必死の抵抗を続けました。
1576年、スペイン軍兵士が給料の未払いを理由にアントウェルペンで大規模な略奪と虐殺を行った「スパニッシュ・フューリー」事件は、南部のカトリック州でさえもスペインへの反感を決定的にしました。この結果ネーデルラント17州は一時的に団結し「ヘントの和約」を結んでスペイン軍の撤退と宗教的寛容を要求しました。
しかしこの統一は長続きしませんでした。南部のワロン地域のカトリック貴族たちはカルヴァン派の急進主義を恐れ1579年に「アラス同盟」を結んでスペインとの和解の道を選びました。これに対しオラニエ公ウィレムに率いられた北部の7州(ホラント、ゼーラント、ユトレヒトなど)は同年に「ユトレヒト同盟」を結成し最後まで戦い抜くことを誓いました。これが事実上のオランダ独立宣言であり北部と南部(後のベルギー)の分裂を決定的にしました。
1581年、ユトレヒト同盟は「離脱の勅令」を発布しフェリペ2世の統治権を公式に否認しました。しかし闘争はまだ終わりませんでした。1584年、オラニエ公ウィレムはフェリペ2世がかけた懸賞金に目がくらんだカトリックの狂信者によってデルフトで暗殺されてしまいます。
指導者を失ったオランダは最大の危機を迎えましたが、ウィレムの息子であるマウリッツ=フォン=ナッサウの優れた軍事的指導とイングランド女王エリザベス1世の支援によって持ちこたえました。特に1588年のスペインの無敵艦隊(アルマダ)の敗北はスペインの海上での優位を揺るがしオランダの独立を間接的に助けました。
1609年、両国は疲弊しきって「十二年休戦協定」を結びました。この休戦期間中にオランダ連邦共和国は事実上の独立国家として国際的な地位を確立しアムステルダムを中心とする世界的な商業帝国を築き上げました。
最終的にオランダの完全な独立が国際的に承認されたのは、ヨーロッパ全土を巻き込んだ三十年戦争が終結した1648年のヴェストファーレン条約においてでした。80年という長い歳月をかけてネーデルラントの人々は宗教の自由と国家の独立という二つの目標を勝ち取ったのです。
三十年戦争
「三十年戦争」(1618年–1648年)は宗教改革期における最後にして最大、そして最も破壊的な宗教戦争でした。この戦争は当初神聖ローマ帝国内のボヘミアにおけるカトリックとプロテスタントの対立から始まりましたが、やがてデンマーク、スウェーデン、フランスといったヨーロッパの主要国が次々と介入しドイツ全土を舞台とする国際的な大戦争へと発展しました。宗教的な対立が戦争の引き金であり重要な動機であり続けた一方で、その背後ではハプスブルク家の覇権に対する各国の政治的な思惑が複雑に絡み合っていました。この戦争は傭兵による残虐な破壊と略奪を極限にまでエスカレートさせ、ドイツの人口の3分の1から半分近くが失われたとも言われる未曾有の大惨事をもたらしました。
ボヘミアの反乱からデンマークの介入へ
戦争の直接的なきっかけは1618年にハプスブルク家が王として統治するボヘミア王国で起こりました。熱心なカトリックであったフェルディナント(後の皇帝フェルディナント2世)がボヘミアのプロテスタント貴族の権利を制限しようとしたため貴族たちが反発しました。彼らはプラハ城に押しかけ皇帝の使者を窓から投げ落とすという事件を起こしました(プラハ窓外放出事件)。
ボヘミアのプロテスタント貴族たちはフェルディナントの王位を否認し、プロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新たな王に選びました。これに対し皇帝となったフェルディナント2世はカトリック諸侯の同盟である「カトリック連盟」の軍隊とスペインの支援を得て反乱の鎮圧に乗り出しました。1620年の「白山の戦い」で皇帝軍はボヘミア軍に圧勝しフリードリヒ5世は亡命を余儀なくされました(彼は「冬王」と呼ばれました)。皇帝はボヘミアのプロテスタント貴族を徹底的に弾圧しその土地を没収してカトリック化を強制しました。
皇帝側の勝利とハプスブルク家の勢力拡大を恐れた北ドイツのプロテスタント諸侯はデンマーク王クリスチャン4世に助けを求めました。ルター派であったクリスチャン4世はプロテスタントの大義を守るという名目と北ドイツにおける自国の影響力を拡大したいという野心から1625年に戦争に介入しました(デンマーク戦争)。
しかし皇帝側にはティリー伯ヨハン=セルクラエスに加えアルブレヒト=フォン=ヴァレンシュタインという恐るべき軍事企業家が登場していました。ヴァレンシュタインは自らの資金で巨大な傭兵軍を組織し「戦争が戦争を養う」という原則のもと占領地からの徹底的な略奪によって軍を維持しました。彼の軍隊は1626年のデッサウ橋の戦いやルッターの戦いでデンマーク軍を粉砕しました。敗北したクリスチャン4世は1629年に「リューベックの和約」を結び戦争から撤退しました。
スウェーデンの介入とヴァレンシュタインの死
デンマークの敗北後、皇帝フェルディナント2世は権力の絶頂に達しました。彼は1629年に「復旧勅令」を発布し、1552年以降にプロテスタントに奪われた全ての教会領をカトリックに返還するよう命じました。この勅令はプロテスタント諸侯の財産権を根本から脅かすものであり彼らの激しい反発を招きました。またヴァレンシュタインの強大すぎる権力とその軍隊の横暴はカトリック諸侯からも警戒され、彼らは皇帝に圧力をかけてヴァレンシュタインを罷免させました。
まさにこの時、プロテスタントの新たな救世主が北から現れました。「北方の獅子」と呼ばれたスウェーデン王グスタフ=アドルフです。彼は敬虔なルター派信者でありプロテスタントの自由を守るという使命感に燃えていました。同時に彼はバルト海の覇権(バルト帝国)を確立するという政治的な野心も持っていました。フランスの宰相リシュリューからの資金援助を受けたグスタフ=アドルフは1630年、近代的な軍事システムで訓練された精強なスウェーデン軍を率いてドイツに上陸しました(スウェーデン戦争)。
グスタフ=アドルフの軍隊は軽量な大砲を巧みに活用する新しい戦術と高い士気で連戦連勝を重ねました。1631年のブライテンフェルトの戦いで彼はティリー伯率いる皇帝軍を壊滅させドイツの戦況を一変させました。
窮地に陥った皇帝は不本意ながら再びヴァレンシュタインを呼び戻し軍の全権を委ねました。1632年、リュッツェンの戦いで二人の天才的な軍事指導者はついに激突します。この戦いはスウェーデン軍の勝利に終わりましたが、グスタフ=アドルフ自身は濃霧の中で戦死してしまいました。
指導者を失ったスウェーデン軍は勢いを失いました。一方ヴァレンシュタインは皇帝の意向を無視して独断で敵と和平交渉を始めたため皇帝から裏切りを疑われました。1634年、ヴァレンシュタインは皇帝の命令を受けた部下によってエーガーで暗殺されました。
フランスの介入とヴェストファーレン(ウェストファリア)条約
グスタフ=アドルフとヴァレンシュタインという二人の傑出した指導者が舞台から去った後も戦争は終わりませんでした。むしろここから戦争はその性格を大きく変えていきます。カトリック国であるフランスが1635年、プロテスタントのスウェーデンやオランダと公然と同盟を結びカトリックのハプスブルク家(スペインとオーストリア)に対して宣戦布告したのです(フランス戦争)。
フランスの宰相リシュリューにとってこの戦争はもはや宗教戦争ではありませんでした。それはフランスの国家理性を追求するための純粋な勢力均衡の政治闘争でした。彼の唯一の目的はフランスがハプスブルク家の領土によって包囲されている危険な状況を打破することでした。
こうして戦争の最終段階はブルボン家(フランス)とハプスブルク家(スペイン・オーストリア)という二大カトリック王家によるヨーロッパの覇権をめぐる総力戦となりました。ドイツは単なる戦場と化しスウェーデン軍、フランス軍、スペイン軍、そして様々なドイツ諸侯の傭兵たちが入り乱れて略奪、虐殺、放火を繰り返しました。戦争は明確な戦略目標を失い、ただ破壊だけが延々と続く泥沼の状態に陥りました。
長い消耗戦の末、全ての当事者が疲弊しきり和平への機運が高まりました。数年間にわたる困難な交渉の末、1648年にヴェストファーレン(ウェストファリア)地方のミュンスターとオスナブリュックで歴史的な講和条約が結ばれました。これが「ヴェストファーレン条約」です。
この条約は三十年戦争を終結させただけでなく近代ヨーロッパの国際システムの基礎を築きました。その主な内容は以下の通りです。
第一にアウクスブルクの和議の原則が再確認され、さらにカルヴァン派もルター派と同様に公的な信仰として認められました。これにより帝国内の宗教問題は最終的に解決されました。
第二にフランスはアルザス地方の一部を、スウェーデンは北ドイツの重要な港を獲得し、それぞれヨーロッパ大陸における大国としての地位を確立しました。
第三にオランダ連邦共和国とスイス連邦が神聖ローマ帝国からの完全な独立を国際的に承認されました。
そして最も重要なことは、この条約によって各領邦国家が自らの領土内において完全な主権を持つことが認められたことです。これにより神聖ローマ皇帝やローマ教皇のような超国家的な権威は事実上形骸化し、主権国家を対等な主体とする国際社会(ヴェストファーレン体制)が成立しました。宗教はもはや国際政治を動かす主要な要因ではなくなり、国家の利益と勢力均衡が外交の基本原則となりました。
三十年戦争という未曾有の悲劇は皮肉にも宗教的な熱狂の時代に終止符を打ち、世俗的な国家理性が支配する近代ヨーロッパの幕開けを告げることになったのです。