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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

イギリス国教会とは わかりやすい世界史用語2586

著者名: ピアソラ
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イギリス国教会とは

イギリス国教会の成立は、16世紀のイングランドで起こった一連の宗教的、政治的、社会的な出来事の総称であり、一般的には「イングランド宗教改革」として知られています。この改革は、イングランドの教会が約1000年にわたって続いてきたローマ教皇の権威から離脱し、国王をその首長とする独立した国民教会へと変貌を遂げる過程でした。それは、一人の国王の個人的な問題から始まり、その後のイングランドの歴史、国民的アイデンティティ、そして世界中に広がるアングリカン・コミュニオンの形成に至るまで、計り知れない影響を及ぼすことになります。



改革前夜のイングランド教会

16世紀初頭のイングランドにおいて、教会は人々の生活の隅々にまで深く浸透していました。人々の生から死まで、洗礼、結婚、埋葬といった人生の重要な節目はすべて教会によって執り行われ、週ごとのミサへの参加は共同体の義務でした。教会の暦は人々の時間の感覚を支配し、聖人たちの祝日は労働からの解放と祝祭の機会を提供しました。教会は、霊的な慰めと救済の道を提供するだけでなく、社会的な秩序を維持し、教育や貧民救済といった福祉の役割も担う、社会の根幹をなす存在でした。
ローマとの結びつきと教会の構造

イングランドの教会は、西ヨーロッパの他の国々と同様、ローマに座する教皇をその霊的な首長とする、巨大な国際的組織であるローマ=カトリック教会の一部でした。教皇は、聖ペテロの後継者として、地上におけるキリストの代理人と見なされ、教義に関する最終的な決定権や、全世界の司教を任命する権限を持っていました。イングランドの教会も、この教皇の権威に従っていました。
国内では、教会はカンタベリーとヨークという二つの大司教区に分かれ、それぞれが大司教によって統括されていました。その下には多数の司教区があり、各司教がそれぞれの教区内の聖職者と信徒を監督していました。教会の階層構造の最下層には、何千もの教区があり、それぞれの教区司祭が、ミサの執行や告解の聴取といった日々の司牧活動を通じて、一般信徒と直接的に関わっていました。
また、教区教会とは別に、イングランド全土には800を超える修道院が存在しました。ベネディクト会、シトー会、フランシスコ会など、様々な修道会に属する修道士や修道女たちは、祈りと労働の日々を送り、写本の作成、学問の研究、巡礼者へのもてなし、貧者への施しといった多様な活動を行っていました。これらの修道院は、広大な土地と莫大な富を所有し、イングランドにおける最大の地主の一つとして、大きな経済的・社会的影響力を持っていました。
教会は独自の法体系である教会法と、それを執行する教会法廷を持っていました。結婚、離婚、遺言、姦通といった道徳に関わる事柄や、聖職者の犯罪は、国王の法廷ではなく、この教会法廷で裁かれました。これは、イングランド国内に、国王の権力が完全には及ばない、もう一つの権力構造が存在することを意味していました。
改革への伏流

16世紀初頭のイングランド教会は、一見すると安定しているように見えましたが、その内部には改革を求めるいくつかの伏流が存在しました。
その一つが、14世紀の神学者ジョン=ウィクリフの教えに端を発する、ロラード派と呼ばれる運動です。ウィクリフは、聖書こそが信仰の唯一の権威であると主張し、教皇の権威や、聖体拝領におけるパンとワインがキリストの肉体と血に変化するという全質変化説(聖変化)などのカトリックの主要な教義を否定しました。彼はまた、聖書を英語に翻訳することを提唱し、聖職者の特権や富を厳しく批判しました。ウィクリフの死後、彼の思想は異端とされましたが、ロラード派と呼ばれる彼の信奉者たちは、小規模ながらも、特に職人や商人といった階層の間で、その信仰を秘密裏に受け継いでいました。彼らは、公的な教会制度の外で集会を開き、手書きの英語訳聖書を読み、教会の腐敗を批判し続けていました。
もう一つの伏流は、エラスムスに代表されるキリスト教人文主義の思想です。人文主義者たちは、古典古代の文献、特にギリシャ語やヘブライ語の原典に立ち返ることを重視しました。彼らは、聖書の原典研究を通じて、より純粋で内面的なキリスト教信仰を追求しようとしました。彼らは、教会の迷信的な慣習や、聖職者の無知と道徳的退廃を痛烈に批判しましたが、ロラード派とは異なり、教会からの分離を目指すのではなく、内部からの穏健な改革を望んでいました。トマス=モアやジョン=コレットといったイングランドの指導的な知識人たちは、この人文主義の潮流に属しており、彼らの思想は、教育を受けたエリート層に大きな影響を与えていました。
これらの動きに加えて、一般の人々の間にも、聖職者の貪欲さや世俗的な生活態度、遠く離れたローマへ送られる多額の教会税に対する不満など、反聖職者主義的な感情がくすぶっていました。1517年にドイツでマルティン=ルターが「95か条の論題」を発表してプロテスタント宗教改革の口火を切ると、彼の著作はすぐにイングランドにも密輸され、特にケンブリッジ大学の学者たちの間で熱心に議論されました。ウィリアム=ティンダルやトマス=クランマーといった、後のイングランド宗教改革で重要な役割を果たすことになる人物たちは、この時期にルターの思想に触れ、大きな影響を受けています。
しかし、これらの改革を求める声は、まだ少数派であり、イングランド全体を揺るがすほどの力にはなっていませんでした。イングランドがローマと決別する直接的な引き金は、神学的な論争や民衆の不満ではなく、国王ヘンリ8世の個人的な問題、すなわち彼の世継ぎ問題でした。
ヘンリ8世の改革

イングランド宗教改革の第一段階は、国王ヘンリ8世(在位1509年=1547年)の治世に、彼の離婚問題、いわゆる「国王の大問題」を解決するために始まりました。
男子継承者問題とローマとの対立

ヘンリ8世は、1509年に兄アーサーの未亡人であったスペイン王女キャサリン=オブ=アラゴンと結婚しました。テューダー朝の安定を確実にするためには、正統な男子継承者の存在が不可欠でしたが、キャサリンは長年の結婚生活で、健康な女児メアリー(後のメアリー1世)を一人もうけただけで、男子を産むことができませんでした。
世継ぎが得られないことに焦燥感を募らせたヘンリは、旧約聖書レビ記の「兄弟の妻をめとれば、子孫が絶える」という記述を根拠に、そもそもキャサリンとの結婚が神の法に反する無効なものであったと確信するようになります。さらに、王妃の侍女であった若く魅力的なアン=ブーリンに心を奪われたヘンリは、彼女を正妻として迎え、彼女との間に正統な男子をもうけることを熱望するようになりました。
1527年、ヘンリは教皇クレメンス7世に、キャサリンとの婚姻の無効承認を求めました。しかし、これは政治的に極めて困難な状況にありました。教皇は、神聖ローマ皇帝カール5世の政治的影響下にあり、そのカール5世はキャサリンの甥だったのです。皇帝の意向に逆らえない教皇が、何年にもわたって裁定を引き延ばしたため、業を煮やしたヘンリは、より急進的な解決策へと舵を切ります。
議会による宗教改革と首長法の制定

大法官トマス=ウルジーの失脚後、ヘンリの側近として台頭したトマス=クロムウェルは、ローマ教皇の権威に頼るのではなく、イングランド国内の問題はイングランド自身で解決すべきであると進言しました。その核心は、イングランド国王こそが、イングランドにおける教会の最高の権威である、という革命的な主張でした。
クロムウェルの巧みな議会操縦の下、「宗教改革議会」(1529年=1536年)は、ローマ教皇庁の権威を段階的に解体していく一連の法律を制定しました。
・1533年の「上告禁止法」は、イングランド国内の教会法廷の事案についてローマへ上告することを禁じ、イングランドの司法権を教皇から独立させました。これにより、新たにカンタベリー大司教となったトマス=クランマーは、イングランドの法廷でヘンリとキャサリンの婚姻を無効と宣言することが可能になりました。
・そして1534年、議会はイングランド宗教改革における最も重要な法律である「首長法」を可決しました。この法律は、イングランド国王が「イングランド(イギリス)国教会(Church of England)の地上における唯一最高の首長」であることを宣言するものでした。
これにより、イングランドの教会は、公式かつ法的にローマ教皇の権威から離脱し、国王をその首長とする独立した国民教会として成立しました。これは、ヘンリ自身の離婚問題という個人的な動機から始まりましたが、その結果として、イングランドの国家主権を確立し、教会と国家の関係を根本的に覆す、歴史的な大変革となったのです。
修道院の解散とヘンリ8世の神学

首長法の制定後、クロムウェルは次なる標的として、広大な土地と莫大な富を持つ修道院に目をつけました。1536年から1540年にかけて断行された「修道院の解散」により、イングランド全土の修道院が閉鎖され、その財産はすべて王領に没収されました。これにより王室の財政は潤い、没収された土地の多くが貴族やジェントリ(郷紳)に払い下げられたことで、彼らを王の宗教改革の強力な支持者とすることに成功しました。この政策は、イングランドの社会経済構造に恒久的な変化をもたらし、中世以来の修道院文化に終止符を打ちました。
しかし、注意すべきは、ヘンリ8世自身は、神学的には保守的なカトリック教徒であり続けたという点です。彼が否定したのはあくまで教皇の権威であり、カトリックの教義そのものではありませんでした。彼は、大陸のルター派やカルヴァン派の教えを異端と見なし、1539年の「6箇条法」では、聖体拝領における全質変化説や聖職者の独身制といった、カトリックの伝統的な教義を再確認しました。また、ウィリアム=ティンダルが翻訳した英語訳聖書は、当初奨励されましたが、後にその注釈が急進的であるとして禁止されるなど、その政策は揺れ動きました。
ヘンリ8世の治世の終わりに成立したイングランド国教会は、カトリックの教義と儀式をほぼ維持しながら、その首長だけがローマ教皇からイングランド国王に代わったという、極めて特殊で矛盾をはらんだ教会でした。
エドワード6世の改革

1547年にヘンリ8世が亡くなり、わずか9歳の息子エドワード6世(在位1547年=1553年)が即位すると、イングランド宗教改革は新たな段階に入ります。エドワード自身が熱心なプロテスタントとして教育されたことに加え、摂政のサマセット公や、その後権力を握ったノーサンバーランド公といった実力者たちがプロテスタント改革の推進者であったため、イングランド国教会は急速にプロテスタント的な方向へと舵を切りました。
この改革を神学的に主導したのは、カンタベリー大司教トマス=クランマーでした。彼の指導の下、イングランド国教会の教義と礼拝は、根本から作り変えられていきました。
共通祈祷書の導入と礼拝の変革

エドワード朝改革の最も重要な成果は、「共通祈祷書」の導入です。1549年に制定された最初の共通祈祷書は、イングランドで初めてとなる、ラテン語ではなく英語による統一された礼拝様式を定めました。これは、一般信徒が礼拝の内容を理解できるようにするための画期的な試みでした。しかし、その内容は、カトリックの伝統とプロテスタントの思想の間で妥協を図ったものであり、保守派と改革派の双方から不満の声が上がりました。
そのため、1552年には、より明確にプロテスタント的な内容を持つ、第二の共通祈祷書が制定されました。この新しい祈祷書では、聖体拝領の解釈が、カトリックの全質変化説から、カルヴァン派に近い象徴説へと大きく転換しました。ミサは「聖餐式」と呼ばれ、パンとワインをキリストの肉体と血として崇拝するような儀式は廃止されました。祭壇は木製のテーブルに置き換えられ、聖職者の豪華な祭服も簡素なものに改められました。教会から聖像やステンドグラスが取り払われ、壁は白く塗りつぶされるなど、カトリック的な視覚的要素の多くが「偶像崇拝」として破壊されました。
42箇条による教義の確立

礼拝の改革と並行して、クランマーはイングランド国教会の公式な教義を確立するための作業を進めました。1553年、彼は「42箇条」として知られる信仰箇条を起草しました。これは、聖書のみを信仰の権威とすること(聖書のみ)、信仰によってのみ義とされること(信仰のみ)、予定説など、プロテスタント神学の核心的な教義を明確に採用するものでした。
エドワード6世の短い治世の間に、イングランド国教会は、ヘンリ8世時代の「首長が国王であるカトリック教会」から、明確なプロテスタント教会へと、その性格を大きく変貌させたのです。しかし、この急進的な改革は、国民の間に深く根付く前に、エドワードの早すぎる死によって中断されることになります。
メアリー1世の反動=カトリック復帰の試み

1553年、エドワード6世が若くして亡くなると、王位はヘンリ8世と最初の妻キャサリン=オブ=アラゴンの娘であるメアリー1世(在位1553年=1558年)に継承されました。敬虔なカトリック教徒であったメアリーにとって、父ヘンリ8世が行った宗教改革は、神に対する罪であり、母と自分を不当に貶めたものでした。彼女の治世の唯一の目標は、イングランドをローマ=カトリック教会へと完全に復帰させることでした。
メアリーは即位後、エドワード朝時代のプロテスタント的な立法をすべて覆し、ヘンリ8世時代の反教皇的な法律、すなわち首長法をも廃止しました。これにより、イングランドは公式にローマ教皇の権威の下へと復帰しました。
さらに彼女は、プロテスタントを根絶するため、中世の異端取締法を復活させ、約300人にも及ぶプロテスタントを火刑に処しました。その犠牲者の中には、トマス=クランマー、ヒュー=ラティマー、ニコラス=リドリーといった、エドワード朝改革の指導者たちも含まれていました。この過酷な弾圧は、彼女に「血まみれのメアリー」という不名誉な称号を与えることになりました。しかし、皮肉なことに、この殉教者たちの英雄的な死は、多くのイングランド人の心に、プロテスタント信仰への共感と、カトリック教会への反感を植え付ける結果となりました。メアリーの治世はわずか5年で終わり、彼女の死によって、イングランドをカトリックに復帰させる試みは、最終的に失敗に終わりました。
エリザベス1世の宗教的解決=中道の確立

1558年、メアリー1世が子どもを残さずに亡くなると、王位はヘンリ8世とアン=ブーリンの娘であるエリザベス1世(在位1558年=1603年)に継承されました。プロテスタントとして育てられたエリザベスの即位は、イングランドの宗教問題に最終的な解決をもたらす転機となりました。
エリザベスの最大の関心事は、宗教的な内乱を避け、国家の統一と安定を確保することでした。彼女が目指したのは、過激なカトリックでも、大陸のカルヴァン主義に傾倒する急進的なプロテスタント(後にピューリタンと呼ばれるようになる人々)でもない、「中道」を行く、包括的な国民教会を確立することでした。
首長法と礼拝統一法の再制定

1559年、エリザベスの最初の議会は、「エリザベス朝の宗教的解決」として知られる二つの重要な法律を可決しました。
一つは、新しい「首長法」です。これは、イングランド君主が教会に対して最高の権威を持つという原則を再確立し、教皇の権威を再び否定するものでした。しかし、エリザベスは、父ヘンリ8世が用いた「最高の首長」という称号を避け、代わりに「最高の統治者」という、より穏当な称号を採用しました。これは、女性が教会の「首長」であることへの神学的な反発を和らげ、君主への政治的忠誠と教皇への霊的忠誠を区別したいカトリック教徒に配慮した、巧みな政治的判断でした。
もう一つは、「礼拝統一法」です。これは、エドワード6世時代の1552年の共通祈祷書を、若干の修正を加えた上で、再びイングランド全土で唯一使用されるべき公式な祈祷書として制定するものでした。このエリザベス朝の祈祷書は、プロテスタント的な神学を基礎としながらも、聖餐式の言葉遣いを意図的に曖昧にすることで、カトリック的な解釈の余地も残すなど、幅広い信徒に受け入れられるよう工夫されていました。また、この法律は、すべての国民に毎週日曜日の教会礼拝への出席を義務付け、イングランド国教会への所属を国民統合の証としました。
39箇条とアングリカン・アイデンティティの形成

1563年、イングランド国教会の教義は、「39箇条」として最終的にまとめられました。これは、クランマーの42箇条を基に、より穏健な表現に修正したもので、イングランド国教会の基本的な神学的立場を定義するものとなりました。
こうして確立されたエリザベス朝のイングランド国教会は、教義的には穏健なプロテスタントでありながら、その組織構造においては、大司教と司教を中心とする伝統的な階層制(司教制)を維持し、礼拝形式においてもカトリックの伝統を色濃く残すという、独特の「中道」の性格を持つ教会となりました。それは、カトリックとプロテスタントの要素を併せ持つ、まさに「改革されたカトリック」とも言うべき存在でした。
この「エリザベス朝の宗教的解決」は、その後もカトリック教徒による陰謀や、より徹底した改革を求めるピューリタンからの批判にさらされ続けましたが、エリザベスの長い治世を通じて、イングランド社会に深く根を下ろしていきました。共通祈祷書による礼拝と、欽定訳聖書(1611年)として知られる美しい英語訳聖書は、イングランド人の言語と文化、そして国民的アイデンティティの形成に、不可欠な役割を果たしていくことになります。

イギリス国教会(イングランド国教会)の成立は、単一の出来事ではなく、ヘンリ8世の治世に始まり、エドワード6世、メアリー1世の激動の時代を経て、エリザベス1世の治世にようやく確立された、半世紀以上にわたる複雑なプロセスでした。
それは、国王の離婚問題という政治的な動機から始まりましたが、その過程で、大陸のプロテスタント宗教改革の神学的影響を深く受け、イングランド独自の国民教会を形成するに至りました。ヘンリ8世はローマからの分離と国王の首長権を確立し、エドワード6世は教義と礼拝のプロテスタント化を推し進め、そしてエリザベス1世は、それらの遺産を統合し、カトリックとプロテスタントの要素を巧みに組み合わせた「中道」の教会として、イングランド国教会を最終的に確立しました。
この「エリザベス朝の宗教的解決」によって定められたイングランド国教会の性格、すなわち、聖書を基礎とするプロテスタント神学、司教制というカトリック的な教会組織、そして共通祈祷書に基づく伝統的な礼拝形式という三つの要素の組み合わせは、その後のアングリカニズム(聖公会主義)の基本的な特徴となり、大英帝国の拡大とともに、世界中に広まっていくことになるのです。イギリス国教会の成立は、単にイングランドの宗教を変えただけでなく、その政治、社会、文化のあり方を根本から変え、近代イギリスという国家の礎を築いた、歴史的な大事業でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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