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18_80 ヨーロッパの拡大と大西洋世界 / 宗教改革

ルターとは わかりやすい世界史用語2552

著者名: ピアソラ
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ルターとは

マルティン=ルターという名は、西洋史における一つの巨大な分水嶺、すなわち宗教改革と分かちがたく結びついています。彼は、一介の無名な修道士から、ローマ=カトリック教会の絶大な権威に敢然と立ち向かい、西洋キリスト教世界を恒久的に分裂させるほどの巨大な運動の震源地となった人物です。彼の生涯は、単なる一個人の伝記にとどまらず、中世的な世界観が崩壊し、近代的な精神が胎動する時代の激しい葛藤そのものを映し出す鏡と言えるでしょう。ルターの物語は、魂の救済を求める個人的で内面的な苦闘から始まります。彼は、当時の教会が教える善行や儀式によっては決して得られない、神の義に対する深い絶望と恐怖に苛まれました。この霊的な危機との格闘の末に彼が見出した「信仰のみによって人は義とされる」という洞察は、彼自身の魂を解放しただけでなく、当時の教会の根幹を揺るがす革命的な力を持つものでした。特に、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるために大々的に販売されていた贖宥状に対する彼の批判は、眠っていた人々の不満と改革への渇望に火をつけ、ヨーロッパ全土を巻き込む大論争へと発展します。彼の意図は当初、教会内部の弊害を正すための学術的な問題提起に過ぎませんでしたが、活版印刷という新しいメディアの力を借りて、彼の思想は燎原の火のごとく広まり、もはや引き返すことのできない地点へと彼を押し流していきました。教皇からの破門、神聖ローマ皇帝からの帝国追放という絶体絶命の危機に直面しながらも、彼は自らの信念を曲げず、聖書のドイツ語翻訳という不滅の金字塔を打ち立て、新しい教会の基礎を築いていきます。しかし、彼の生涯は英雄的な側面ばかりではありません。彼の思想が引き起こした農民戦争に対する彼の厳しい態度や、晩年のユダヤ人に対する激しい非難は、彼の人物像の複雑さと、その思想が持つ光と影を浮き彫りにします。ルターの生涯を追うことは、信仰とは何か、権威とは何か、そして個人と社会はいかにあるべきかという、時代を超えた普遍的な問いと向き合う旅でもあるのです。
青年期

ルターの革命的な思想は、彼の青年期における深刻な霊的探求と内面的な葛藤の中から生まれました。
生い立ちと教育

マルティン=ルターは、1483年11月10日、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領の小都市アイスレーベンで、ハンス=ルターとマルガレーテ=リンデマンの間に生まれました。父ハンスは、元々は農民でしたが、銅鉱山の採掘事業で身を立て、上昇志向の強い市民階級の一員となっており、息子マルティンには法律家となって一族の社会的地位をさらに高めることを強く期待していました。ルターは、マンスフェルト、マクデブルク、アイゼナハの学校でラテン語を中心とする厳しい教育を受け、1501年には、父の願い通りエアフルト大学に入学し、法学を学ぶための準備として教養学部で学び始めます。この時代の教育は、暗記と体罰が中心の極めて厳格なものであり、家庭においても、罪と神の罰に対する厳しい教えが彼の精神に深く刻み込まれました。
雷雨の誓い

1505年、法学の修士号を取得し、順調に法律家への道を歩んでいたルターの人生は、一つの劇的な出来事によって大きくその方向を変えます。同年7月2日、実家から大学へ戻る途中、シュトッテルンハイムの村の近くで激しい雷雨に遭遇した彼は、落雷の恐怖に打ちのめされ、鉱夫の守護聖人である聖アンナに向かって「聖アンナ様、お助けください。私は修道士になります」と、突発的に誓いを立ててしまいました。この「雷雨の誓い」は、単なる衝動的な行動と見ることもできますが、同時に、彼がそれまで抱えていた、厳格で裁き主としての神への畏怖や、突然の死とそれに続く審判への根源的な不安が、極限状況下で噴出したものと解釈することができます。父ハンスは、息子の決断に激しく反対し、長年の投資が無駄になったと激怒しましたが、ルターは一度立てた誓いを覆すことは神への背信行為であると考え、同年7月17日、エアフルトにある厳格な戒律で知られたアウグスティノ隠修士会の修道院の門を叩いたのです。
修道生活と霊的危機

修道院に入ったルターは、模範的な修道士として、祈り、断食、徹夜、そして頻繁な告解といった、救済のために定められたあらゆる善行に誰よりも熱心に取り組みました。彼は、完璧な戒律の遵守によって、自らの力で神の前に義とされることを目指したのです。しかし、彼が努力すればするほど、彼の心は平安を得るどころか、ますます深い絶望の淵へと沈んでいきました。彼は、自分の心の奥底に潜む利己心や欲望といった罪の根深さを痛感し、どんなに外面的な善行を積んでも、全き聖性を求める神の義の基準には到底到達できないという無力感に苛まれました。特に彼を苦しめたのは、神の「義」という概念でした。彼は、神の義を、罪人を厳しく裁き、罰する「能動的な義」としてしか理解できず、その義なる神の前に、罪深い自分がどうして立ち得ようかという恐怖に絶えずおののいていたのです。この深刻な霊的危機、すなわちドイツ語で言うところの「アンフェヒトング」は、彼を自殺の瀬戸際にまで追い込みました。
神学者としての覚醒

ルターの霊的危機は、彼が聖書、特に詩編とローマの信徒への手紙を深く研究する中で、決定的な転機を迎えます。
ヴィッテンベルク大学へ

ルターの並外れた知性と、深刻な霊的苦悩を見抜いた修道院の上長であり、彼の霊的指導者でもあったヨハン=フォン=シュタウピッツは、ルターの関心を内面的な自己分析から、より客観的な神学研究へと向けさせようとしました。シュタウピッツは、ルターに神学の博士号を取得して、聖書を教える教授になる道を勧め、1508年、彼をザクセン選帝侯フリードリヒ賢公が新設したヴィッテンベルク大学へと派遣しました。シュタウピッツ自身、神の愛とキリストの受難に救いの慰めを見出す神秘主義的な神学思想の持ち主であり、裁き主としての神のイメージに苦しむルターに対して、神の恵みの側面を指し示し続けました。ヴィッテンベルクで聖書講義の準備に没頭する中で、ルターは徐々に神学者としてのキャリアを歩み始め、1512年には神学博士号を取得し、シュタウピッツの後を継いで聖書学の正教授に就任します。
ローマ旅行

1510年、ルターは修道会の用務でローマへ旅行する機会を得ました。彼は、使徒ペテロとパウロが殉教した聖なる都を訪れることに大きな霊的期待を抱いていましたが、そこで彼が目の当たりにしたのは、聖職者たちの世俗化と道徳的腐敗、そして人々の信仰が迷信的で形式的な儀式に堕している現実でした。彼は、罪の赦しを得るために、ピラトの官邸にあったとされる「聖なる階段」を膝で祈りながら登りましたが、その頂上に着いたとき、彼の心に浮かんだのは「これが真実であると誰が知ろうか」という疑念でした。このローマでの経験は、彼の教会に対する素朴な信頼を揺るがし、教会制度の改革の必要性を漠然と感じさせるきっかけとなりましたが、この時点ではまだ、彼の批判は教義そのものに向けられていたわけではありませんでした。
塔の体験

ルターの神学的な突破口、いわゆる「塔の体験」がいつ起こったかについては、正確な年代は定かではありませんが、一般的には1515年から1518年の間、彼がヴィッテンベルクの修道院の塔にあった書斎で、ローマの信徒への手紙1章17節を研究していた時とされています。この聖句には「福音には神の義が啓示されているが、その義は、信仰に始まり信仰に至らせる。
『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」とあります。ルターは長年、この「神の義」という言葉を、罪人を罰する神の裁きの義と解釈し、恐れおののいていました。しかし、この聖句と格闘する中で、彼は突如として、ここでの「神の義」とは、神が罪人を裁く義ではなく、神が信仰を持つ者に恵みとして「与える」義、すなわち、人間を義とする(正しいと見なす)神の憐れみの働きであると理解したのです。人間は自らの行いによってではなく、ただキリストを信じる信仰によってのみ、神の前に義とされ、救われる。この「信仰義認」の発見は、ルターにとって、まさに天国の門が開かれたかのような解放的な体験でした。裁き主であった神は、憐れみ深い父へと姿を変え、彼の長年の霊的苦闘は、ついに終わりを告げたのです。この新しい神学的洞察が、彼のその後の思想と行動すべての土台となりました。
宗教改革の勃発

ルターの個人的な神学的発見は、贖宥状をめぐる論争をきっかけに、公の場での教会批判へと発展します。
贖宥状販売

1517年、ルターの神学的な確信を公然たる行動へと駆り立てる直接的な出来事が起こりました。ホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯アルブレヒトが、すでに二つの司教区を保持していたにもかかわらず、さらにマインツ大司教という重要な地位を得ようとしました。複数の高位聖職を兼任することは教会法で禁じられていたため、彼は教皇レオ10世から特別の許可を得る必要があり、そのために多額の献金を支払う約束をしました。アルブレヒトは、その資金を調達するためにフッガー家の銀行から巨額の借金をしましたが、その返済計画として、彼の領内でサン=ピエトロ大聖堂改築のための贖宥状を販売する独占権を得て、その収益の半分を自らの借金返済に充てるという密約を教皇庁と結んだのです。この贖宥状販売の実務を担ったのが、ドミニコ会修道士ヨハン=テッツェルであり、彼は「金貨が箱にチャリンと音を立てて入ると、魂は煉獄から飛び上がる」といった扇情的な言葉で、人々の購買意欲を巧みに煽りました。
九十五か条の論題の掲示

ザクセン選帝侯領では贖宥状の販売が禁止されていましたが、ヴィッテンベルクの住民たちは、国境を越えてテッツェルの説教を聞き、贖宥状を買い求めていました。ルターは、告解に来る信者たちが、真の悔い改めなしに、ただ贖宥状の紙切れを示すだけで罪の赦しが得られると信じ込んでいる姿を見て、深い司牧的懸念を抱きました。彼は、この問題について学術的なレベルで討議を喚起する必要があると考え、1517年10月31日、ラテン語で書かれた「贖宥状の効力に関する討論のための九十五か条の論題」を、大学の掲示板の役割を果たしていたヴィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。この論題は、贖宥状が教会の定めた罰償は免除できても、神が課した罰や煉獄の苦しみを免除する力はないこと、そして真のキリスト者の宝は、贖宥状ではなく、神の恵みと憐れみを告げる聖なる福音であることなどを主張するものでした。
論争の拡大

ルターの当初の意図は、あくまで教会内部での改革を促すための学術討論でしたが、彼の「九十五か条の論題」は、彼の許可なくドイツ語に翻訳され、活版印刷によって驚異的な速さでドイツ全土に広まり、贖宥状や教皇庁に対する人々の積年の不満に火をつけました。事態を憂慮したマインツ大司教アルブレヒトは、ルターを異端の疑いがあるとしてローマに告発しました。1518年4月、ハイデルベルクで開かれたアウグスティノ修道会総会での討論で、ルターは自らの「十字架の神学」を説き、多くの若い神学者たちの心を捉えました。同年10月、ルターはアウクスブルクに召喚され、教皇特使である枢機卿カエタンの審問を受けます。カエタンは、ルターにただ自説の撤回のみを要求しましたが、ルターは聖書の根拠なしには撤回できないと主張し、両者の会見は決裂しました。この時、ルターは初めて、教皇でさえも誤りを犯す可能性があるという、より根本的な教会批判へと踏み込んでいったのです。
ローマとの決裂

アウクスブルクでの審問以降、ルターとローマ教会の対立は決定的なものとなり、和解の可能性は急速に失われていきました。
ライプツィヒ討論

1519年夏、ライプツィヒで、ルターの同僚であるアンドレアス=カールシュタットと、インゴルシュタット大学の神学教授ヨハン=エックとの間で公開討論会が開催され、途中からルター自身もこの論争に加わりました。巧妙な論客であったエックは、ルターの主張が、100年前にコンスタンツ公会議で異端として火刑に処されたボヘミアの改革者ヤン=フスの教えと類似していることを巧みに指摘しました。追い詰められたルターは、ついに、公会議でさえも誤りを犯す可能性があり、信仰に関する最終的な権威は聖書のみにあると公言するに至ります。この発言は、教皇だけでなく、教会の最高決定機関である公会議の権威をも否定するものであり、ローマ=カトリック教会の根幹を揺るがすものでした。この瞬間、ルターはもはや教会内部の改革者ではなく、教会の外に立つ異端者と見なされることが避けられない立場に自らを置いたのです。
三大改革文書

ライプツィヒ討論の後、ルターは自らの神学的立場をより明確にし、改革の全体像を示すために、1520年に立て続けに三つの重要な文書を発表しました。第一の『ドイツのキリスト者貴族に与う』では、聖職者と俗人を区別する「身分の壁」を打ち破り、「全信徒祭司」の原理を提唱して、ドイツの諸侯や貴族たちに、教会の改革を自らの手で断行するよう呼びかけました。第二の『教会のバビロニア捕囚』では、カトリック教会の七つの秘跡制度を聖書に基づいて批判し、洗礼と聖餐の二つ(あるいは告解を含めて三つ)のみを正当な秘跡として認め、教皇が秘跡制度によって信者の魂を束縛している様を、古代イスラエル人がバビロンに捕らえられた故事になぞらえて弾劾しました。第三の『キリスト者の自由』では、「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、だれにでも従属する」という逆説的な言葉で、信仰によって内面的に解放された人間が、隣人への愛の奉仕へと向かうという、福音的な倫理の核心を明らかにしました。これらの文書は、宗教改革の宣言書とも言うべきものであり、新しい福音主義教会の神学的・実践的な青写真を示したのです。
破門脅迫勅書と最終的破門

ルターの過激な主張に対し、教皇庁はついに断固たる措置を取ることを決定します。1520年6月15日、教皇レオ10世は、破門脅迫勅書『エクスルゲ=ドミネ』(主よ、立ち上がりください)を発布し、ルターの著作から41の命題を異端として断罪し、60日以内に撤回しなければ破門に処すと警告しました。しかし、ルターの決意は揺らぎませんでした。同年12月10日、彼はヴィッテンベルクの市民や学生たちの前で、この教皇勅書と教会法典を公然と火の中に投じ、ローマ教会との完全な決別を象徴的な行動で示したのです。これを受けて、1521年1月3日、教皇は最終的な破門勅書『デチェト=ロマヌム=ポンティフィチェム』(ローマ教皇として当然の務め)を発し、ルターは正式にカトリック教会から追放されました。一人の修道士の抗議は、今や教会共同体全体の分裂という、誰も予想しなかった事態へと発展したのです。
ヴォルムス帝国議会とヴァルトブルク城

教会から破門されたルターの運命は、今や神聖ローマ帝国の政治的判断に委ねられました。
皇帝カール5世の前の信仰告白

破門された異端者は、帝国の法の下では生命の保障さえありませんでした。しかし、ルターを支持するザクセン選帝侯フリードリヒ賢公らの尽力により、ルターには1521年4月にヴォルムスで開かれる帝国議会で、皇帝カール5世と帝国諸侯の前で自らを弁明する機会が与えられました。皇帝から身の安全を保障する通行証を得てヴォルムスに到着したルターは、4月17日と18日の二日間にわたって審問を受けます。彼の前に積まれた自らの著作を示され、それらを撤回するかどうかを問われたルターは、一日の猶予を求めた後、翌日、歴史に残る力強い言葉で答えました。「私の良心は神の言葉に捉えられています。それゆえ、私は何も撤回できませんし、またするつもりもありません。なぜなら、良心に反して行動することは、安全でもなければ正しいことでもないからです。神よ、我を助けたまえ。アーメン」。後世の伝説では、この言葉に「我、ここに立つ。他になし能わず」という句が付加されたと伝えられています。この断固たる態度は、個人の良心と聖書の権威を、教皇と皇帝という二つの最高権威の上に置くという、近代の幕開けを告げる宣言でした。
帝国追放令

ルターの頑なな態度に、若き皇帝カール5世は、自らのカトリック信仰と帝国の統一を守る決意を固めました。1521年5月25日、皇帝はヴォルムス勅令を発し、ルターを帝国の法益保護外の存在、すなわち無法者として断罪しました。この勅令は、帝国内の誰もがルターを殺害しても罪に問われず、彼に食料や宿を提供することも禁じ、彼の著作をすべて焼き捨てるよう命じるものでした。ルターの生命は、今や風前の灯火となりました。
ヴァルトブルク城への「誘拐」と新約聖書翻訳

ヴォルムスからの帰途、ルターの身を案じたフリードリヒ賢公は、彼の保護のために一計を案じます。フリードリヒの兵士たちが、あたかもルターを誘拐するかのように装って彼を連れ去り、テューリンゲンの森の奥深くにあるヴァルトブルク城へと密かに匿ったのです。ルターは、「ユンカー=イェルク(騎士ゲオルク)」と名を変え、髪と髭を伸ばして騎士に変装し、約10ヶ月間にわたる隠遁生活を送りました。この孤独な期間は、彼にとって肉体的・精神的な試練の時でしたが、同時に、驚異的な創造性の発露の時でもありました。彼は、この城で、宗教改革における最も不滅の功績の一つである、新約聖書のドイツ語翻訳に着手します。ギリシア語の原典から、わずか11週間という驚異的な速さで翻訳されたこの「九月聖書」(1522年9月に出版されたため)は、それまでのラテン語聖書に依拠した翻訳とは一線を画し、民衆が日常的に使う、力強く生き生きとしたドイツ語で書かれていました。このルター訳聖書は、聖書を聖職者の独占から解放し、一般の信徒が自ら神の言葉を読むことを可能にしただけでなく、多様な方言が話されていたドイツにおいて、近代標準ドイツ語の形成に決定的な貢献をなしたのです。
改革の混乱と再建

ルターがヴァルトブルク城に隠れている間、ヴィッテンベルクの改革運動は、彼の意図を超えて急進化し、混乱の様相を呈し始めました。
カールシュタットの急進改革とツヴィッカウの預言者たち

ルターの不在中、ヴィッテンベルクの改革の主導権を握ったのは、彼の同僚であったアンドレアス=カールシュタットでした。彼は、ルターの思想をより急進的に推し進め、ミサの廃止、聖職者の結婚、聖像や祭壇の撤去(偶像破壊)といった改革を矢継ぎ早に実行しました。さらに、ツヴィッカウからやってきた、聖霊からの直接の啓示を主張する「預言者たち」が、幼児洗礼を否定し、千年王国的な社会変革を説き始めると、市内の雰囲気はますます熱狂的で無秩序なものとなっていきました。改革運動は、ルターが目指した福音の純粋な説教という内面的な変革から、外面的な制度や儀式の破壊へと暴走し始め、社会的な混乱と不安が広がっていったのです。
ヴィッテンベルクへの帰還と説教

ヴィッテンベルクの混乱の知らせを聞いたルターは、自らの身の危険を顧みず、1522年3月、ヴァルトブルク城を出てヴィッテンベルクへ帰還することを決意します。彼は、帰還後すぐに、8日間にわたって連続説教を行い、急進的な改革者たちを厳しく批判しました。彼は、改革は暴力や強制によってではなく、神の言葉の力によって、人々の良心に働きかける形で、忍耐強く進められなければならないと説きました。彼は、外面的な儀式や制度の変更を急ぐあまり、信仰の弱い「兄弟」たちをつまずかせるべきではないと主張し、愛の配慮の重要性を強調しました。ルターの権威ある言葉と、その穏健で実践的なアプローチは、人々の心に落ち着きを取り戻させ、ヴィッテンベルクの改革運動は、再び彼の指導の下で、秩序ある歩みを取り戻していきました。この出来事は、ルターが単なる革命的な思想家であるだけでなく、現実的な教会形成の課題に取り組む、優れた司牧者でもあったことを示しています。
新しい礼拝形式と教会制度の構築=ドイツミサと教区監督

ヴィッテンベルクの秩序を回復した後、ルターは、福音主義的な信仰に基づいた新しい教会生活の具体的な形を構築する作業に精力的に取り組みました。彼は、ラテン語のミサに代わるものとして、1526年に『ドイツミサ』を著し、民衆が理解できるドイツ語による礼拝形式を定めました。この礼拝の中心には、聖書の朗読と、福音を分かりやすく解き明かす「説教」が置かれました。また、彼は、会衆が礼拝に積極的に参加できるように、多くのコラール(賛美歌)を作詞・作曲し、歌集を出版しました。彼の作った「神はわがやぐら」などのコラールは、宗教改革の力強い賛歌として、今日まで歌い継がれています。さらに、彼は、教会の組織的な基盤を固めるために、教区の巡察制度を導入し、領邦君主(諸侯)を「非常時の監督」として、教会の保護と管理を委ねるという、領邦教会制度の基礎を築きました。これは、カトリックの司教制度に代わるものであり、ドイツにおけるルター派教会のその後のあり方を決定づけることになりました。
結婚、家庭、そして論争=改革者の後半生

改革運動が軌道に乗る中で、ルターの私生活も大きな変化を遂げ、また、他の改革者たちとの間で新たな神学的論争が生じました。
カタリナ=フォン=ボーラとの結婚

長年、聖職者の結婚を神学的に擁護してきたルター自身は、当初、結婚するつもりはありませんでした。しかし、1523年に女子修道院から脱走してきた12人の修道女たちの世話をする中で、その一人であったカタリナ=フォン=ボーラとの間に縁が生まれました。他の修道女たちが次々と結婚相手を見つける中で、カタリナだけが残り、彼女はルターとの結婚を望んでいることを示唆しました。ルターは、自らの教えを実践で示すこと、父を喜ばせること、そして悪魔と教皇を苛立たせることなどを理由に、ついに結婚を決意し、1525年6月13日、41歳で26歳のカタリナと結婚しました。かつてのアウグスティノ修道院であった建物は、彼らの住まいとなり、6人の子供に恵まれ、また多くの学生や亡命者を迎え入れる、賑やかで温かい家庭が築かれました。有能で気丈なカタリナは、「我が主ケティ」とルターに呼ばれ、家計を切り盛りし、夫の健康を支え、彼の活動にとって不可欠なパートナーとなりました。この結婚は、聖職者の独身制というカトリックの伝統を打ち破り、プロテスタントにおける牧師家庭という新しいモデルを確立する上で、象徴的な意味を持つものでした。
ドイツ農民戦争

1524年から1525年にかけて、ドイツ南西部を中心に、農奴制の廃止や不当な税の軽減などを求める大規模な農民の蜂起、すなわちドイツ農民戦争が勃発しました。農民たちの一部は、ルターの「キリスト者の自由」の教えを、社会的な身分からの解放を意味するものと解釈し、自らの要求を福音によって正当化しようとしました。当初、ルターは農民たちの苦境に同情を示し、領主たちの圧政を批判しましたが、蜂起が暴力的になり、トーマス=ミュンツァーのような急進的な指導者が社会革命を煽るようになると、彼の態度は硬化します。彼は、福音の自由はあくまで霊的なものであり、この世の秩序を暴力で転覆させることを認めるものではないと主張し、1525年に発表した『人殺しをし、盗みを働く農民の徒党に対して』という激烈な文書の中で、諸侯に対して、反乱者を「打ち殺し、絞め殺し、刺し殺せ」と、反乱の無慈悲な鎮圧を呼びかけました。この彼の厳しい態度は、多くの農民たちを失望させ、彼を「諸侯の僕」と見なす批判を生みましたが、ルター自身は、社会の秩序が崩壊し、福音が説かれることさえできなくなる事態を何よりも恐れたのです。この出来事は、ルターの改革が持つ社会=政治的な限界と、彼の思想が意図せざる結果を招きうることの難しさを示しています。
聖餐論争

改革運動の内部でも、神学的な見解の相違から深刻な対立が生じました。人文主義の泰斗であったエラスムスは、当初ルターの改革に好意的でしたが、ルターの人間観、特に人間の自由意志を完全に否定する彼の主張に同意できず、1524年に『自由意志論』を発表してルターを批判しました。これに対し、ルターは『奴隷意志論』で猛反論し、両者の決別は決定的なものとなりました。さらに深刻だったのが、スイスの改革者フルドリッヒ=ツヴィングリとの聖餐をめぐる論争でした。ルターは、聖餐において、パンとぶどう酒の中にキリストの身体と血が「真に、実体的に存在する」(実在説)と固く信じていました。これに対し、ツヴィングリは、キリストは天に昇られたのであり、聖餐はキリストの死を記念する象徴的な行為に過ぎないと主張しました(記念説)。この問題を解決するため、1529年にヘッセン方伯フィリップの仲介でマールブルク会談が開かれ、両者は15項目のうち14項目まで合意に達しましたが、聖餐論における見解の相違だけは埋めることができず、プロテスタント陣営はルター派と改革派(ツヴィングリ派)に分裂することになりました。この分裂は、プロテスタントがカトリック皇帝に対して政治的に一致団結することを困難にし、その後の宗教改革の展開に大きな影響を与えました。
改革の定着と遺産

晩年のルターは、病気がちになりながらも、精力的に著作活動、大学での講義、そして教会の組織化に取り組み続けました。
アウクスブルク信仰告白とシュマルカルデン同盟=ルター派教会の確立

1530年、皇帝カール5世は、オスマン=トルコの脅威に対抗するために帝国の宗教的統一を図ろうと、アウクスブルクで帝国議会を召集しました。帝国追放中のルターは議会に出席できなかったため、彼の盟友であるフィリップ=メランヒトンが、福音主義派の信仰箇条を穏健かつ体系的にまとめた「アウクスブルク信仰告白」を作成し、皇帝に提出しました。この文書は、カトリック側からは拒絶されましたが、ルター派の基本的な信仰告白として、その後のルター派教会のアイデンティティを確立する上で決定的な文書となりました。カトリック諸侯との和解が絶望的になると、プロテスタント諸侯は自衛のために、1531年にシュマルカルデン同盟という軍事同盟を結成し、皇帝との武力対決に備えました。ルターは当初、武力抵抗に反対していましたが、やがて、不当な権力に対する抵抗は正当であるという考えを受け入れるようになります。
旧約聖書の翻訳完成と著作活動

ルターは、多くの協力者たちの助けを借りながら、長年取り組んできた旧約聖書のドイツ語翻訳を続け、1534年、ついに新旧約全書からなる完全なルター訳聖書を完成させました。この聖書は、彼の神学的業績の集大成であると同時に、ドイツ語とドイツ文化に対する最大の貢献でした。彼は晩年に至るまで、膨大な量の説教、注解、神学論文、そして手紙を書き続け、その言葉は活版印刷によって広く流布し、改革の思想をドイツの隅々にまで浸透させていきました。また、彼は信仰教育の重要性を痛感し、牧師や家庭で使えるように、1529年に『小教理問答書』と『大教理問答書』を著しました。これらは、十戒、使徒信条、主の祈り、そして二つの秘跡について、平易な言葉で解説したものであり、何世紀にもわたってルター派教会の基本的な信仰教育のテキストとして用いられました。
晩年のユダヤ人批判と死

晩年のルターは、肉体的な苦痛と、改革の進展が遅々としていることへの焦りから、しばしば不寛容で攻撃的な言説を展開するようになります。特に深刻なのが、彼のユダヤ人に対する態度の変化でした。初期のルターは、ユダヤ人がキリスト教に改宗しないのは、カトリック教会の腐敗した教えのせいだと考え、『イエス=キリストはユダヤ人として生まれた』という著作で、彼らへの寛容な態度を説いていました。しかし、彼の期待に反してユダヤ人の改宗が進まないと、彼の態度は失望から激しい憎悪へと変わり、1543年に発表した『ユダヤ人と彼らの嘘について』という悪名高い文書の中で、シナゴーグや彼らの家を焼き払い、ラビの説教を禁じ、彼らを強制労働に従事させるよう、諸侯に呼びかけるなど、極めて暴力的な反ユダヤ主義的言説を展開しました。この晩年の著作は、彼の生涯における最も暗い影の部分であり、後世、特にナチス=ドイツによって反ユダヤ主義のプロパガンダに利用されるという悲劇的な結果を招きました。1546年2月、故郷のアイスレーベンに、マンスフェルト伯爵家の兄弟間の争いを調停するために旅行していたルターは、そこで病状が悪化し、2月18日、多くの友人や息子たちに見守られながら、62年の波乱に満ちた生涯を閉じました。彼の最後の言葉は、「我々は乞食である。これぞ真実」であったと伝えられており、最後まで神の恵みにのみ頼る者としての自己認識を失っていなかったことを示しています。彼の遺体は、宗教改革の発火点となったヴィッテンベルク城教会に、彼の盟友メランヒトンの隣に葬られました。

マルティン=ルターが歴史に残した遺産は、計り知れないほど広範かつ多岐にわたります。彼は、自らが意図した以上に、西洋世界の宗教的、政治的、そして文化的な風景を根底から変革しました。彼の最大の功績は、言うまでもなく、キリスト教の信仰をその源泉である聖書へと立ち返らせ、個人の内面的な信仰と良心の自由を、教会の権威に優先させたことです。彼が再発見した「信仰義認」の教えは、何世紀にもわたって築き上げられてきた善行と儀式による救済のシステムを打ち破り、神と個人との直接的な関係を回復させました。この神学的な革命は、ローマ=カトリック教会という中世ヨーロッパの統一的な精神的権威を打ち砕き、ルター派、改革派、聖公会など、多様なプロテスタント教派の誕生を促し、現代に至るキリスト教世界の多元的な状況を生み出す直接的な原因となりました。彼の聖書のドイツ語翻訳は、単に宗教的な書物を民衆の手に取り戻しただけでなく、近代ドイツ語を形成し、ドイツの国民的アイデンティティの礎を築くという、文化史上の不滅の金字塔を打ち立てました。また、彼の「全信徒祭司」の思想や、世俗の職業を神への奉仕と見なす「職業召命観」は、聖職者と俗人の間の壁を取り払い、日常的な労働に新たな尊厳を与えることで、近代的な職業倫理の形成にも影響を与えたと言われています。しかし、彼の遺産は、光の側面ばかりではありません。彼の思想が引き金となった宗教戦争は、ヨーロッパに1世紀以上にわたる血で血を洗う対立をもたらしました。ドイツ農民戦争における彼の厳しい態度は、彼の改革が持つ社会的な限界を示し、晩年の反ユダヤ主義的な著作は、彼の思想の最も暗い側面として、後世に深刻な負の遺産を残しました。ルターは、聖人でもなければ、単純な英雄でもありません。彼は、深い信仰と、人間的な弱さ、そして時代の限界を併せ持った、極めて複雑で矛盾に満ちた人物でした。
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・ルターとは わかりやすい世界史用語2552

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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