ネルチンスク条約の歴史的背景
17世紀、ユーラシア大陸の東方で二つの巨大な帝国がその勢力圏を拡大し、やがて互いの境界線で衝突することになりました。一つは西からシベリアを越えて太平洋を目指すロシア・ツァーリ国、もう一つは明王朝に取って代わり、中国大陸の支配を確立したばかりの満洲族による清王朝です。この二つの帝国がアムール川流域で繰り広げた領土と資源を巡る争いは、最終的に1689年のネルチンスク条約の締結へと至ります。この条約は、単なる国境紛争の解決にとどまらず、異なる文化、価値観、そして外交的伝統を持つ二大国家が、初めて対等な立場で交渉し、国際法の原則に基づいて合意に達した画期的な出来事でした。
16世紀後半、イヴァン雷帝の時代にカザン・ハン国とアストラハン・ハン国を征服したロシアは、ウラル山脈を越えてシベリアへの本格的な進出を開始しました。 この東方拡大の原動力となったのは、主にコサックと呼ばれる辺境の武装集団と、毛皮を求める商人たちでした。 当時のヨーロッパ市場では、クロテン(セーブル)をはじめとするシベリア産の毛皮は極めて高価で取引されており、国家の重要な収入源となっていました。 コサックたちは、シベリアの広大な河川網を利用して次々と東へ進み、先住民の部族を服属させながら、「ヤサク」と呼ばれる毛皮の貢納を課していきました。 彼らは要所に「オストログ」と呼ばれる木造の砦を築き、そこを拠点としてさらなる探検と徴税活動を展開しました。 このようにして、ロシアの支配領域は驚異的な速さで東へと広がり、1639年にはイヴァン・モスクヴィチン率いる一隊がオホーツク海の沿岸に到達し、ついに太平洋へと至りました。
ロシアの探検家たちが次に目を向けたのが、アムール川流域でした。この地域は、シベリアの厳しい気候とは対照的に、比較的温暖で農業に適した肥沃な土地が広がっていました。また、アムール川を下れば太平洋へ直接出ることができ、海上交通の要衝となる可能性を秘めていました。1643年、ヴァシーリー・ポヤルコフ率いる探検隊が初めてアムール川流域に足を踏み入れ、続いて1649年にはイェロフェイ・ハバロフがより大規模な遠征隊を率いてこの地に進出しました。 ハバロフは、ダウール族などの現地住民に対して極めて暴力的な手段で支配を確立しようと試み、彼らの集落を焼き払い、食料を略奪しました。 1651年、ハバロフはダウール族のアルバザ公の集落跡にアルバジンと呼ばれる砦を築き、アムール川中流域におけるロシアの拠点としました。
しかし、この地域はロシアにとって未開の地ではありませんでした。アムール川流域は、古くから満洲族をはじめとするトゥングース系民族の居住地であり、彼らは当時中国大陸で新たな王朝を築きつつあった清王朝に臣従していました。 1636年に満洲で建国を宣言した清は、1644年に北京を占領し、明王朝に代わって中国の支配者となりました。 しかし、清の支配はまだ盤石ではなく、国内では明の残存勢力との戦いが続き、南方では「三藩の乱」と呼ばれる大規模な反乱(1673-1681年)に直面していました。 このような状況下で、清王朝にとって祖先の地である満洲の安定を確保することは、極めて重要な課題でした。
ロシアのコサックがアムール川流域に現れ、清に臣従する部族から貢納を要求し始めたことは、清王朝にとって看過できない挑発行為でした。 清朝は、これらのロシア人を「羅刹(ロチャ)」と呼び、自らの支配領域を侵犯する野蛮な侵略者と見なしました。1652年、清はアムール川に軍隊を派遣し、ハバロフの部隊と最初の武力衝突が発生しました。 その後も散発的な戦闘が続き、1658年にはオヌフリー・ステパノフ率いるロシア部隊が清軍の待ち伏せ攻撃を受けて壊滅的な打撃を受けました。 この敗北により、ロシアは一時的にアムール川下流域から撤退を余儀なくされます。
しかし、ロシアの東方への意欲が衰えることはありませんでした。アルバジン砦は、一度は放棄されたものの、1665年にニキフォル・チェルニゴフスキー率いるコサックの一団によって再建されました。 彼らはモスクワ政府の許可を得ずに独自に行動していましたが、事実上、アムール川におけるロシアの存在感を再び示すことになりました。清王朝は、南方の三藩の乱の鎮圧に追われていたため、すぐには大規模な軍事行動を起こすことができませんでした。 この間、アルバジンは毛皮交易と農業の拠点として発展し、周辺地域からの入植者も増えていきました。
1681年に三藩の乱を鎮圧した康熙帝は、満洲の北方国境問題に本格的に取り組む決意を固めます。 康熙帝は、清王朝の最も偉大な皇帝の一人とされ、幼少期から儒学を学び、中国の統治伝統を深く理解していました。 彼は自ら政務を執り、国力の増強に努め、広大な帝国を巧みに統治しました。 康熙帝にとって、ロシアの脅威を取り除くことは、帝国の北東辺境を安定させ、満洲族の故地を守るための最優先事項でした。 1682年から、清はアムール川支流のゼヤ川流域などでロシアの小規模な拠点を掃討し始め、アルバジンへの攻撃準備を着々と進めました。
1685年6月、ついに清の大軍がアルバジンを包囲しました。 彭春(ペンチュン)将軍率いる約3,000人の清軍は、大砲などの近代兵器で砦を攻撃しました。 アレクセイ・トルブジンが指揮する約450人のロシア守備隊は奮戦しましたが、圧倒的な兵力差の前に降伏を余儀なくされました。 清軍は、降伏したロシア兵がネルチンスクへ撤退することを許可しました。 この時、一部のロシア兵は清に投降し、北京に移り住むことを選びました。彼らは「アルバジン人」として知られるようになります。
しかし、ロシアはアムール川を諦めませんでした。清軍が撤退すると、トルブジンは生き残った兵士と援軍を率いてアルバジンに戻り、砦を再建し、収穫を行いました。 この時、プロイセン出身の軍事技術者の助けを借りて、土と木の根を編み込んだ強固な城壁が築かれました。 この報せを受けた康熙帝は激怒し、翌1686年7月、ランタン将軍率いるさらに大規模な軍隊を派遣して、再びアルバジンを包囲させました。 今回の包囲戦は長期に及び、ロシア守備隊は頑強に抵抗しましたが、食糧不足と壊血病などの病気に苦しめられました。 砦の守備兵800人以上のうち、生き残ったのは11月時点で150人にも満たない状況でした。 一方の清軍も大きな損害を被りました。
この第二次アルバジン包囲戦の最中、両国は外交交渉の道を模索し始めます。ロシア側は、アムール川流域を防衛し続けることの困難さを認識していました。 当時、ロシアは西側でオスマン帝国との戦争を控えており、極東に大規模な軍隊を派遣する余力はありませんでした。 一方、清王朝もまた、西方のモンゴル高原でジュンガル部のガルダン・ハーンが勢力を拡大し、清の支配を脅かし始めていたため、ロシアとの紛争を早期に解決したいと考えていました。 ガルダンがロシアと結託する可能性を恐れた康熙帝は、ロシアとの和平交渉に傾いていきます。
こうして、長年にわたるアムール川流域での武力衝突と、それぞれの地政学的な事情が、ロシアと清という二つの帝国を交渉のテーブルへと導きました。それは、互いの力を認め合い、武力だけでなく外交によって国境問題を解決しようとする、当時としては画期的な試みの始まりでした。交渉の場所として選ばれたのは、アルバジンから西に位置するロシアの拠点、ネルチンスクでした。この地で、両国の運命を左右する歴史的な条約が結ばれることになります。
交渉の過程と主要人物
ネルチンスク条約の交渉は、17世紀の外交史において類を見ない、複雑かつ困難なものでした。異なる言語、文化、そして外交儀礼を持つ二つの大国が、通訳を介して国境という近代的な概念を定義しようと試みたのです。この困難な交渉を成功に導いたのは、両国の代表団の現実的な判断力と、交渉の仲介役を果たしたイエズス会士たちの存在でした。本章では、ロシアと清の代表団の構成、交渉に至るまでの道のり、そしてネルチンスクでの具体的な交渉過程を、主要人物の役割に焦点を当てながら詳述します。
ロシア側の全権大使に任命されたのは、フョードル・ゴロヴィンでした。 彼はソフィア摂政政府によって極東へ派遣され、後にピョートル大帝の側近としてロシアの外交政策を担うことになる有能な政治家です。 ゴロヴィンは1686年1月にモスクワを出発し、500人の銃兵隊を率いて長い道のりを経て、1687年10月にバイカル湖近くのセレンギンスクに到着しました。 当初、交渉は1688年にセレンギンスクで行われる予定でしたが、ジュンガルのガルダン・ハーンが東モンゴルのハルハ部族を攻撃したため、交渉地はより東方のネルチンスクに変更されました。 ゴロヴィンの使命は、可能な限りアムール川流域の権益を確保しつつ、清との平和的な関係を確立することでした。彼は、アムール川の完全な支配が困難であるならば、通商関係の樹立を優先するという現実的な選択肢も視野に入れていました。
一方、清の代表団を率いたのは、康熙帝の叔父にあたるソンゴトゥでした。 彼は満洲族の重鎮であり、宮廷内で絶大な権力を持つ有力者でした。ソンゴトゥは、康熙帝の意向を忠実に実行する役割を担っており、その主な目的は、ロシア勢力をアムール川流域から完全に排除し、国境を画定して北方の安全を確保することでした。 清の代表団には、ソンゴトゥの他に、トン・グオガン(康熙帝の母方の叔父)やランタン(アルバジン包囲戦を指揮した将軍)といった軍事・政治の要人が含まれていました。
そして、この交渉において極めて重要な役割を果たしたのが、清の代表団に同行した二人のイエズス会士、ポルトガル人のトマス・ペレイラとフランス人のジャン=フランソワ・ジェルビヨンでした。 彼らは北京の宮廷で康熙帝に仕えており、科学技術や語学の知識を高く評価されていました。康熙帝は、ロシア側との意思疎通を円滑にするため、彼らをラテン語の通訳として交渉に参加させました。 当時、ラテン語はヨーロッパの外交公用語であり、ロシア代表団にもラテン語を解する者がいたため、中立的な共通言語として採用されたのです。 イエズス会士たちは、単なる通訳にとどまらず、交渉が行き詰まった際には双方の主張を仲介し、妥協点を探るための助言を行うなど、交渉の潤滑油として機能しました。 彼らの参加は、この交渉が単なる二国間の問題ではなく、ヨーロッパの知と外交術が介在する国際的な性格を帯びていたことを示しています。彼らにとっても、この任務は清朝における自らの地位を固め、布教活動の足がかりを得るための重要な機会でした。
1689年8月、両国の代表団はネルチンスクで対面しました。しかし、交渉の開始時点での状況は、ロシア側にとって著しく不利でした。ネルチンスクの町は、交渉のために集結した15,000人以上ともいわれる清の大軍によって事実上包囲されていました。 これに対して、ゴロヴィンが率いるロシア側の兵力は、銃兵隊とコサックを合わせても2,000人程度に過ぎず、食料や弾薬も十分ではありませんでした。 この軍事的な圧力は、交渉の全過程を通じて清側に有利に働きました。
交渉は開始早々から難航しました。最大の争点は、国境線の画定、特にアムール川の帰属でした。清側は当初、バイカル湖に至るまでの広大な領域の割譲を要求し、ロシアの全権大使であるゴロヴィンを「辺境の一役人に過ぎない」と見下すなど、高圧的な態度で臨みました。彼らは、アムール川流域が古来より清の支配下にあったと主張し、ロシアの即時撤退を求めました。
対するロシア側は、アムール川こそが国境線として最も自然であると主張し、アルバジンを含むアムール川北岸の領有権を強く求めました。ゴロヴィンは、ロシアがすでに長年にわたってこの地を実効支配してきた事実を盾に、清側の要求を拒否しました。双方の主張は真っ向から対立し、交渉は決裂寸前に陥りました。ゴロヴィンは一時、武力衝突も辞さない構えを見せ、交渉の中断を宣言する事態にまで発展しました。
この危機的な状況を打開したのは、イエズス会士のペレイラとジェルビヨンでした。彼らは両陣営の間を往復し、粘り強く説得を続けました。彼らは清側に対して、ロシアとの全面戦争になれば、西方のジュンガル問題への対応が手薄になる危険性を説き、一方でロシア側には、現状の軍事力では清に太刀打ちできず、交渉決裂はアルバジンの完全な喪失と通商の途絶を意味することを伝えました。彼らの仲介により、双方は再び交渉のテーブルに着くことになります。
交渉が再開されると、より現実的な妥協案が模索され始めました。ロシア側は、アムール川全域の領有は断念せざるを得ないと判断し、その代償としてバイカル湖周辺の領土(トランスバイカリア)の確保と、北京での通商権の確立を求めました。 清側も、ジュンガルという西方の脅威を考慮し、ロシアとの国境を確定させて北東方面を安定させることの戦略的重要性を認識していました。
最終的に、双方は大きな譲歩を経て合意に達しました。ロシアは、紛争の最大の原因であったアルバジン砦を放棄し、アムール川流域から撤退することに同意しました。 国境線は、アムール川の支流であるアルグン川と、アムール川の北方に連なるスタノヴォイ山脈(外興安嶺)と定められました。 これにより、ロシアはアムール川を通じた太平洋への出口を失うことになりましたが、代わりにバイカル湖以東の広大な領土の領有を清に認めさせ、長年求めてきた中国市場への公式なアクセス権を獲得しました。
1689年8月27日、フョードル・ゴロヴィンとソンゴトゥは、ネルチンスク条約に署名しました。 条約の正文は、交渉の共通言語であったラテン語で作成され、さらにロシア語訳と満洲語訳の計3つの言語で文書が作成されました。 しかし、これらの各言語版の間には、特に地理的な記述において少なからぬ相違点が存在し、これが後の国境問題の火種となることもありました。 それでも、この条約は、軍事的な圧力と外交的な駆け引き、そして文化的な仲介者という複数の要素が複雑に絡み合いながら、最終的に平和的な解決へと結実した、17世紀の国際関係における特筆すべき成果であったと言えます。
条約の主要な内容と条文
1689年8月27日に署名されたネルチンスク条約は、ロシア・ツァーリ国と清王朝との間で締結された史上初の条約であり、両国の関係を規定する上で極めて重要な法的基盤となりました。 この条約は全7条から構成され、国境の画定、領土の割譲、通商関係、そして犯罪人や越境者の取り扱いといった多岐にわたる項目を網羅していました。条約の正文はラテン語で作成され、ロシア語と満洲語の公式な翻訳版が付属しました。 以下では、ネルチンスク条約の各条文の内容を詳細に検討し、その歴史的意義を考察します。
第1条と第2条は、条約の中核をなす国境線の画定に関する規定です。
第1条では、国境線をアルグン川と定め、その左岸(北岸)はロシア領、右岸(南岸)は清領とされました。 具体的には、アルグン川がシルカ川と合流する地点から上流に向かって国境が設定されました。これにより、現在のモンゴル国境の西側部分の大枠が定まりました。
第2条は、より複雑で、紛争の主要因であったアムール川流域の帰属を定めています。条文によれば、アルグン川とシルカ川の合流点から東に向かう国境線は、スタノヴォイ山脈(外興安嶺)の稜線をたどってオホーツク海に至るとされました。 この山脈の南側に源を発しアムール川に注ぐ河川の流域はすべて清の領土とし、一方で山脈の北側に源を発する河川の流域はロシアの領土とされました。この規定により、ロシアはアムール川流域の広大な土地を放棄することになりました。
しかし、この国境線には曖昧な部分が残されました。スタノヴォイ山脈とウド川(ウダ川)の間の地域の帰属については、両国ともに正確な地理的知識を欠いていたため、明確な決定がなされず、係争地として棚上げにされました。 この地理的な不正確さは、当時の測量技術の限界と、両国が探検の途上にあった広大な未踏の地を扱っていたことに起因します。 条約の各言語版(ラテン語、ロシア語、満洲語)で、山脈や河川の名称の表記に微妙な違いがあったことも、後の解釈を巡る問題の一因となりました。 それでも、この国境画定は、約170年間にわたって両国関係の安定の基礎となり、大規模な紛争を回避する上で重要な役割を果たしました。
第3条は、紛争の直接的な原因であったアルバジン砦の処遇について定めています。この条文に基づき、ロシアはアルバジン砦を完全に取り壊し、「跡形もなく破壊する」ことが義務付けられました。 また、砦にいたロシア人とその財産は、すべてロシア領内に撤退させることが定められました。これは、アムール川流域からのロシア勢力の完全な撤退を求める清側の強い要求が反映された結果です。一方で、清側もこの地域に新たに入植しないという暗黙の了解があったとされ、一種の緩衝地帯としての性格を持たせる意図があった可能性が指摘されています。 この条項は、清の軍事的勝利を象徴するものであり、康熙帝の威信を高める上で重要な意味を持ちました。
第4条は、将来の紛争を未然に防ぐための規定であり、逃亡者や越境者の相互送還について定めています。 条約締結以前に相手国へ逃亡した者については不問とする一方、条約締結後に発生した逃亡者や犯罪者については、捕らえて相手国に引き渡すことが義務付けられました。この条項は、国境地帯の秩序を維持し、無法な越境者が両国間の新たな火種となることを防ぐための重要な取り決めでした。これは、両国が互いの主権を尊重し、法的な手続きに基づいて国境管理を行うという近代的な国際関係の原則を共有したことを示しています。
第5条は、ロシアにとって経済的に極めて重要な意味を持つ通商に関する規定です。この条文により、両国の国民は、公式な旅券を所持している限り、互いの国を旅行し、通商活動を行うことが許可されました。 これにより、ロシアは長年の悲願であった中国との公式な貿易ルートを確保することに成功しました。 ロシアの商人たちは、毛皮などの商品を中国に輸出し、代わりに絹、茶、陶磁器、金銀などの貴重品を輸入することができるようになりました。 この貿易は、ネルチンスクや、後に国境貿易の中心となるキャフタといったシベリアの都市に多文化的な性格をもたらし、ロシア、中央アジア、中国の文化が交わる場となりました。 ロシアにとって、アムール川流域の領土を失ったことの大きな代償として、この通商権の獲得は条約を受け入れる上で決定的な要因の一つでした。
第6条は、国境線の画定を物理的に示すための規定です。条文では、国境を示す標石を設置することが定められました。これらの標石には、両国の合意内容がラテン語、ロシア語、満洲語、そして中国語で刻まれることになっていました。 これは、条約の内容を国境地帯に住む人々に明確に示し、将来の紛争を防ぐための措置でした。複数の言語で国境標識を設置するという取り決めは、この条約が多文化的な背景を持つ交渉の産物であったことを物語っています。
第7条は、条約の誠実な履行を誓約する最終条項です。両国の使節は、この条約の全条項を神聖なものとして遵守し、いかなる口実があってもこれを破らないことを誓いました。
総じて、ネルチンスク条約は、双方の妥協の産物でした。 ロシアは、軍事的に劣勢な状況下で、アムール川流域という戦略的に重要な土地を失いました。 しかし、その見返りとして、バイカル湖以東の広大な領土(トランスバイカリア)の領有権を確保し、待望の中国との貿易関係を公式に開くことができました。 一方、清は、ロシア勢力を満洲の故地から排除し、北東辺境の安全を確保するという最大の目的を達成しました。 さらに、この条約によってロシアがジュンガルとの戦争において中立を保つことが保証され、清は西方の脅威に集中することが可能になりました。 この結果、清は1696年にガルダン・ハーンを破り、中央アジアにおける地政学的な優位を固めることになります。
ネルチンスク条約は、中国がヨーロッパの国家と対等な立場で締結した最初の条約として、歴史的に大きな意義を持っています。 それまでの中国の対外関係は、皇帝を世界の中心とみなし、周辺諸国を朝貢国として位置づける伝統的な華夷秩序に基づいていました。しかし、ネルチンスク条約では、両国は互いを対等な主権国家として認め、国際法の原則に則って交渉を行いました。 これは、清王朝が伝統的な枠組みにとらわれず、現実的な外交政策を展開したことを示す好例です。この条約によって確立された国境と通商関係は、その後19世紀半ばまで約170年間にわたり、両国関係の基本的な枠組みとして機能し続けました。
条約の歴史的意義と影響
ネルチンスク条約は、17世紀末のユーラシア大陸東部における地政学的秩序を大きく規定し、ロシアと清という二つの帝国のその後の歴史に深遠な影響を及ぼしました。この条約は、単なる国境紛争の解決策にとどまらず、両国の外交、経済、文化、そして国際社会における自己認識に至るまで、多岐にわたる変化をもたらしました。本章では、ネルチンスク条約がロシアと清それぞれに与えた影響、両国関係の安定化への寄与、そしてより広範な歴史的文脈におけるその意義について多角的に分析します。
ロシアにとって、ネルチンスク条約は領土的な後退と経済的な前進という二つの側面を持つものでした。最大の損失は、アムール川流域の領有権を放棄したことでした。 これにより、ロシアはアムール川という不凍港に通じる可能性のある水路を失い、極東における太平洋へのアクセスが大きく制限されました。 この制約は、その後約1世紀半にわたり、ロシアのシベリアおよび極東開発の方向性を決定づけることになります。 しかし、この領土的譲歩は、当時のロシアが置かれていた状況を考えれば、避けられない選択でした。西側ではオスマン帝国やスウェーデンとの対立が迫っており、極東での大規模な軍事衝突は国力を著しく消耗させる危険をはらんでいました。 ゴロヴィン率いる交渉団は、軍事的に不利な状況下で、清との全面戦争を回避し、潜在的な敗北を防ぐという現実的な判断を下したのです。
領土的な損失を補って余りある成果が、第5条で保障された通商権の獲得でした。 この条約により、ロシアの商人たちは公式に北京へ隊商(キャラバン)を派遣し、貿易を行うことが可能になりました。 シベリアで産出される毛皮は中国市場で高い需要があり、ロシアは莫大な利益を得ることができました。 その見返りとして、ロシアは中国から絹、茶、陶磁器、大黄(薬草)といった商品を輸入しました。 この貿易は、ロシアの国家財政を潤しただけでなく、シベリアの都市、特に国境貿易の拠点となったネルチンスクや後のキャフタの発展を促しました。 これらの都市は、ロシア、中国、中央アジアの文化が交錯する多民族的な交易センターとして繁栄し、ヨーロッパの経済圏をアジアの深部まで拡大させる役割を果たしました。 ネルチンスク条約は、武力による領土拡大から、通商による経済的利益の追求へと、ロシアの東方政策の重点を転換させる契機となったのです。
一方、清王朝にとって、ネルチンスク条約は外交的・軍事的な大勝利でした。最大の成果は、ロシア勢力を満洲の故地であるアムール川流域から完全に排除し、北東辺境の安全を確保したことです。 アルバジン砦の破壊は、清の威信を内外に示し、康熙帝の統治の正当性を強化する象徴的な出来事となりました。 さらに重要なのは、この条約が清の地政学的な戦略に与えた影響です。当時、清にとって最大の脅威は、西方のモンゴル高原で勢力を拡大するジュンガル部のガルダン・ハーンでした。 ネルチンスク条約によってロシアとの国境問題が解決し、ロシアがジュンガルとの戦争で中立を保つことが保証されたため、康熙帝は西方の脅威に全力を注ぐことが可能になりました。 実際に、清は条約締結後の1696年にジュンガル軍に決定的な勝利を収め、ガルダンを自決に追い込みます。 これにより、外モンゴル(ハルハ)が清の支配下に入り、中央アジアにおける清の覇権が確立されました。 ネルチンスク条約は、清が「多民族帝国」としての体制を固めていく上で、不可欠な戦略的布石であったと言えます。
ネルチンスク条約の最も画期的な意義の一つは、それがヨーロッパの国際法体系に基づいて、二つの非ヨーロッパ大国が対等な立場で締結した史上初の条約であったという点です。 それまでの中国は、自らを世界の中心とする「華夷秩序」という世界観に基づき、周辺諸国を朝貢国として扱う階層的な外交関係を基本としていました。 しかし、ネルチンスク条約の交渉において、清はロシアを対等な主権国家として認め、国境画定、通商、犯罪人引渡しといった項目を相互主義の原則に基づいて定めました。 これは、清が伝統的な外交観念に固執せず、現実的な国益を追求するために、ヨーロッパ的な外交の枠組みを柔軟に受け入れたことを示しています。ラテン語が交渉と条約の正文に用いられたこと、そしてイエズス会士が仲介役として重要な役割を果たしたことも、この条約が東西の文化と知性が融合した産物であったことを物語っています。 この条約を通じて、清はロシアから対等な国家としての承認を得ることに成功しました。これは、他のヨーロッパ諸国が長年求めても得られなかった成果でした。
ネルチンスク条約によって確立された国境線と通商関係は、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって改定されるまでの約170年間にわたり、両国関係の安定した基盤として機能しました。 この長い平和の期間は、両帝国がそれぞれの国内問題や他の方面での領土拡大に集中することを可能にしました。ロシアは西方や南方へ、清は中央アジアやチベットへと、それぞれ勢力を拡大していきました。
しかし、この条約が内包していた問題点も指摘しなければなりません。国境線の定義、特にスタノヴォイ山脈東部の係争地に関する曖昧さは、将来の紛争の火種を残しました。 また、ラテン語、ロシア語、満洲語の各条文間に存在した解釈の相違も、後の交渉で問題となることがありました。 そして、19世紀半ばになると、両国の力関係は劇的に変化します。アヘン戦争などで国力が衰えた清に対し、産業革命を経て国力を増強させたロシアは、再びアムール川流域への進出を狙うようになります。 1858年のアイグン条約と1860年の北京条約により、ロシアはネルチンスク条約で放棄したアムール川北岸の領土(アムール併合)と、さらに沿海州(ウラジオストクを含む)を獲得し、ネルチンスク体制は完全に崩壊しました。
結論として、ネルチンスク条約は、17世紀末におけるロシアと清の力関係を反映した現実的な妥協の産物でした。それは、武力衝突を外交交渉によって解決し、異なる文明圏に属する二つの大国間に長期的で安定した関係を築き上げた、近代初期の国際関係史における画期的な事例です。領土、通商、安全保障という国家の根幹に関わる問題を、対等な立場で、国際法の原則を用いて解決したこの条約は、その後の両国の発展とユーラシア大陸の歴史に、消すことのできない大きな足跡を残したのです。
条約後の両国関係と現代への継承
ネルチンスク条約によって築かれたロシアと清の関係は、約170年間にわたる比較的安定した時代をもたらしました。この期間、両国は条約の枠組みの中で、主に通商と国境管理という二つの側面で関係を維持・発展させました。しかし、19世紀半ばになると、両国の力関係の変化と国際情勢の変動が、ネルチンスク体制を根底から揺るがし、新たな国境条約の締結へとつながっていきます。本章では、ネルチンスク条約締結後の両国関係の展開、特にキャフタ条約による補完と、19世紀のアイグン条約および北京条約によるネルチンスク体制の崩壊、そしてそれが現代の中露関係に与える歴史的遺産について論じます。
ネルチンスク条約は国境の東部区間を定めましたが、モンゴル方面の広大な国境線は未画定のままでした。また、条約で認められた隊商貿易も、運営を巡る様々な問題からしばしば中断しました。これらの問題を解決するため、両国は再び交渉のテーブルに着き、1727年にキャフタ条約を締結しました。 この条約は、ネルチンスク条約を補完・拡大するものであり、主にモンゴルとシベリアの間の国境線を画定しました。 具体的には、西はシャビン・ダバガ峠から東はアルグン川に至るまでの国境が定められ、これにより現在のロシア・モンゴル国境の原型が形成されました。
さらにキャフタ条約は、両国間の貿易システムを大きく変革しました。ネルチンスク条約で認められた不定期の国家隊商による北京での貿易は廃止され、代わりに国境上の二つの町、ロシア側のキャフタと清側の恰克図(キャフタ)でのみ、恒常的な民間貿易を行うことが定められました。 この「キャフタ体制」は、その後1世紀以上にわたって中露貿易の中心となり、両国に大きな経済的利益をもたらしました。 ロシアは毛皮や毛織物を輸出し、清からは茶が大量に輸入されるようになりました。特に茶は、18世紀を通じてロシアの国民的飲料としての地位を確立していきます。 また、キャフタ条約では、ロシアが北京に正教会の伝道団を常駐させることも認められました。 この伝道団は、宗教的な役割だけでなく、ロシア政府にとって中国の情報を収集する外交・情報機関としても機能し、両国間の文化・学術交流の窓口となりました。 このように、キャフタ条約はネルチンスク条約の枠組みを強化し、18世紀における両国の平和的共存関係を確固たるものにしました。
しかし、19世紀に入ると、この安定した関係は徐々に変容していきます。ヨーロッパで産業革命を経験し、軍事力を近代化させたロシアは、再び東方への拡大意欲を強めていきました。特に、不凍港を求めて太平洋への出口を確保することは、ロシアの国家戦略にとってますます重要な課題となっていました。 一方、清王朝はアヘン戦争(1840-1842年)やアロー戦争(1856-1860年)、そして国内での太平天国の乱(1851-1864年)といった内外の危機に直面し、国力が著しく衰退していました。
この力関係の劇的な変化を背景に、ロシアはネルチンスク条約の見直しを画策します。東シベリア総督に就任したニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、アムール川流域の領有を強く主張し、清の反対を無視して探検隊を派遣し、軍事拠点を次々と建設していきました。清は国内の反乱鎮圧に追われ、極東の辺境にまで手が回らない状況でした。
1858年、アロー戦争で英仏連合軍が天津に迫る中、ムラヴィヨフは清の代表に軍事的な圧力をかけ、アイグン条約の締結を強要しました。 この条約により、ネルチンスク条約で定められた国境は完全に覆され、アムール川の左岸(北岸)はロシア領とされました。アムール川右岸のウスリー川以東の地域(後の沿海州)は、両国の共同管理地とされましたが、事実上ロシアの支配下に置かれました。清政府はこの条約の批准を拒否しましたが、もはやロシアの進出を止める力はありませんでした。
さらに1860年、英仏連合軍が北京を占領するという清にとって最大の国難の中、ロシアの外交官ニコライ・イグナチェフが調停役として介入します。その見返りとして、ロシアは清に北京条約の締結を認めさせました。 この条約はアイグン条約の内容を追認し、さらにウスリー川以東の共同管理地(沿海州)を完全にロシア領とすることを定めました。 これにより、ロシアは長年の悲願であった太平洋への不凍港ウラジオストク(「東方を支配せよ」の意)を建設する足がかりを得て、極東における確固たる地位を築きました。
アイグン条約と北京条約は、ネルチンスク条約とは対照的に、著しく不平等な状況下で締結されたものであり、中国では「不平等条約」の典型例と見なされています。 ネルチンスク条約が対等な交渉と相互の妥協によって成立したのに対し、これらの19世紀の条約は、ロシアが清の弱みに付け込んで一方的に領土を獲得した結果でした。 これにより、ネルチンスク条約によって約170年間維持された国境線は完全に書き換えられ、現在の中露東部国境が確定しました。
ネルチンスク条約とその後の国境画定の歴史は、現代の中露関係においても複雑な遺産として残っています。 20世紀、ソビエト連邦と中華人民共和国は、イデオロギーを共有する社会主義国として当初は友好関係にありましたが、1960年代には路線対立から深刻な関係悪化に至りました。 この中ソ対立の過程で、過去の国境条約の解釈が再び問題となりました。 中国側は、アイグン条約や北京条約を帝政ロシアが押し付けた「不平等条約」であると非難し、これらの条約によって失われた領土の歴史的な権利を主張しました。 1969年には、ウスリー川の中州であるダマンスキー島(珍宝島)を巡って両国軍が衝突する大規模な武力紛争(中ソ国境紛争)が発生し、両国は核戦争の寸前にまで至りました。
しかし、1980年代末からの中ソ関係正常化、そしてソ連崩壊後のロシア連邦と中国の関係改善の中で、両国は国境問題を平和的に解決する道を選びました。 長年にわたる粘り強い交渉の末、1991年の「中ソ国境東部協定」を皮切りに、両国は国境線の大部分を法的に画定していきました。 紛争の焦点であったアムール川とウスリー川の合流点にある大ウスリー島(黒瞎子島)などの島の帰属についても、2004年の協定で最終的な合意に達し、島の西側を中国、東側をロシアが領有することで決着しました。 2008年には国境標識の設置が完了し、約4,300キロメートルに及ぶ中露東部国境は、40年以上にわたる紛争の歴史に終止符を打ち、完全に画定されました。
この国境問題の最終的な解決は、両国が過去の歴史問題に固執するのではなく、現在の戦略的パートナーシップを優先するという現実的な判断を下した結果です。 ネルチンスク条約が対等な交渉によって平和を築いたように、現代の中露両国もまた、対話と交渉を通じて長年の懸案を解決し、新たな協力関係の時代を築き上げました。