両属体制とは
「琉球の両属体制」は、琉球王国が歴史上、特に17世紀から19世紀にかけて、中国(明および清王朝)と日本の薩摩藩(ひいては徳川幕府)という二つの強力な国家に対して、同時に従属的な関係にあった状態を指す言葉です。この複雑で繊細な国際関係は、琉球王国の存続戦略そのものであり、その政治、経済、文化に深い影響を及ぼしました。
両属体制の黎明:薩摩の侵攻以前
琉球王国の外交関係は、その地理的な位置によって大きく規定されていました。東シナ海の中心に位置する琉球諸島は、古くから日本、中国、そして東南アジアを結ぶ海上交通の要衝でした。この立地を生かし、琉球は中継貿易の拠点として繁栄の道を歩み始めます。
中国との朝貢関係の確立
琉球の歴史における最初の大きな転換点は、14世紀に訪れます。1372年、当時沖縄本島を三分していた王国の一つである中山の王、察度が、成立間もない明王朝の皇帝に使者を送り、朝貢関係を結んだことに始まります。 これは、琉球が中国を中心とする東アジアの国際秩序、いわゆる冊封体制に組み込まれたことを意味しました。朝貢とは、周辺国の君主が中国皇帝の徳を慕って貢物を献上し、皇帝はこれに対して恩恵として返礼品を与え、その国の君主の地位を公的に認める(冊封する)という形式の外交関係です。
この関係は、琉球にとって極めて大きな利益をもたらしました。まず、明皇帝から「琉球国王」としての正統性を認められることで、国内における王権の強化につながりました。 さらに重要なのは、経済的な恩恵です。明は海禁政策(民間人の海外渡航や貿易を制限する政策)をとっていましたが、朝貢国である琉球は公式に中国との貿易を許可されました。 明は琉球の貿易活動のために船舶を提供し、限られた数の琉球人が北京の国子監(最高学府)で学ぶことを許可するなど、多大な便宜を図りました。 この特権的な地位を利用して、琉球は中国の産品(絹織物、陶磁器など)を東南アジアや日本へ、そして東南アジアの産品(香辛料、蘇木など)を中国や日本へと運ぶ中継貿易を展開し、莫大な富を築き上げました。 15世紀から16世紀にかけての約200年間は、琉球の「大交易時代」として知られ、その首都である首里や港町那覇は国際的な活気に満ち溢れていました。
この中国との関係は、単なる政治・経済的なものにとどまりませんでした。冊封使と呼ばれる中国皇帝の使節団が琉球を訪れる際には、数百人規模の使節団が数ヶ月にわたって滞在し、盛大な歓迎の儀式が執り行われました。 この交流を通じて、儒教、法律、行政制度、そして芸術や建築様式など、中国の進んだ文化が琉球にもたらされ、その後の琉球文化の形成に大きな影響を与えたのです。
日本との関係
一方で、琉球は北に位置する日本とも古くから交流がありました。特に、地理的に近い九州南部の薩摩(現在の鹿児島県)とは、貿易などを通じて密接な関係を築いていました。 琉球は、室町幕府に対しても朝貢使節を送ることがあり、日本とも一定の公的な関係を維持していました。
しかし、16世紀末になると、この関係に緊張が走ります。日本の天下統一を果たした豊臣秀吉が、次なる目標として明の征服を計画し、その足がかりとして朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)を企てました。1590年頃、秀吉は薩摩を介して琉球王国に対し、この朝鮮出兵への協力、具体的には兵糧の提供などを要求します。 しかし、琉球は明の冊封国であり、その「親」である明と敵対する戦役に協力することはできませんでした。琉球国王尚寧は、この要求を拒否します。 この拒絶が、後の薩摩による侵攻の遠因の一つとなったと考えられています。
秀吉の死後、徳川家康が新たな支配者として江戸幕府を開くと、家康は秀吉の対外政策によって悪化した明との関係改善と貿易再開を望みました。 その仲介役として琉球に期待が寄せられ、幕府は薩摩藩を通じて琉球に使節の派遣を求めましたが、琉球側はこれにも応じませんでした。 度重なる要求を無視されたこと、そして琉球が持つ中継貿易の利益に目をつけた薩摩藩主島津氏は、ついに武力行使を決意します。徳川幕府の許可を得た島津氏は、琉球への遠征軍を組織するに至りました。
薩摩の侵攻と両属体制の成立
1609年、島津家久率いる約3,000の薩摩軍が琉球に侵攻しました。 薩摩軍はまず奄美大島などの島々を制圧し、沖縄本島に上陸。琉球側も抵抗を試みましたが、長年平和を享受し、軍備を縮小していた琉球軍は、戦国時代の荒波を乗り越えてきた薩摩の武士たちの敵ではありませんでした。 首都である首里城はあっけなく陥落し、国王尚寧は捕虜として薩摩、そして江戸へと連行されました。
この出来事は、琉球王国の歴史における決定的な転換点となります。独立王国としての地位は事実上失われ、薩摩藩の支配下に置かれることになったのです。
二重の顔を持つ王国
しかし、薩摩藩は琉球王国を完全に取り潰し、直接統治下に置くという選択をしませんでした。代わりに、琉球王国という国家の形式を存続させ、国王を首里城に戻し、ある程度の自治を認めるという道を選びます。 これが、いわゆる「両属体制」の始まりです。表向きは独立した王国として中国との朝貢関係を維持させながら、その裏では薩摩藩が実質的な支配権を握るという、極めて複雑な体制でした。
薩摩がこのような一見矛盾した政策をとったのには、明確な経済的・政治的理由がありました。
第一に、中国との貿易利権の維持です。 当時、日本(徳川幕府)は明(後の清)と正式な国交がなく、直接的な貿易が禁じられていました(いわゆる鎖国政策)。 一方、琉球は明の冊封国として、独占的な貿易を許可されていました。もし薩摩が琉球を併合し、日本の一部であることが中国に知られれば、琉球が享受してきた貿易上の特権は失われてしまう可能性が高かったのです。 そこで薩摩は、琉球を「独立国」として存続させることで、琉球を隠れ蓑にして中国との貿易を続け、その利益を吸い上げることを画策しました。 琉球を通じて中国の生糸や薬種などを手に入れ、それを日本国内で販売することで、薩摩藩は莫大な利益を得て、その財政を大いに潤しました。
第二に、政治的な体面です。薩摩藩にとって、一つの「王国」を丸ごと支配下に置いているという事実は、他の大名に対する威信を高める上で非常に有効でした。 琉球国王が徳川将軍の代替わりや琉球国王自身の即位の際に江戸へ派遣する使節団(江戸上り)は、異国情緒あふれる行列として江戸の人々の耳目を集め、徳川将軍の権威を内外に示す役割も果たしました。
薩摩による支配の実態
琉球王国は形式上の独立を保ったものの、その内実は薩摩藩による厳しい管理下にありました。侵攻後、尚寧王と琉球の重臣たちは薩摩で、琉球が薩摩に永久に従属することを誓う旨の誓約書に署名を強制されました。 この中には、薩摩の許可なく中国と貿易を行わないことや、薩摩の役人の琉球駐在を認めることなどが含まれていました。
薩摩は首里に在番奉行所を設置し、役人を常駐させて琉球の内政や外交を監視しました。 琉球の法律や役人の任命、さらには王位継承に至るまで、薩摩の承認が必要とされました。 また、琉球は薩摩に対して重い年貢を納めることを義務付けられ、その経済は大きく収奪されることになります。 奄美群島は琉球王国から切り離され、薩摩の直轄領とされました。
一方で、薩摩は中国との関係を維持するために、琉球から「日本色」を消し去ることに腐心しました。 琉球の役人が公の場で日本の着物を着たり、日本の年号を使用したりすることは禁じられました。 中国から冊封使が来琉する際には、薩摩の役人たちはその姿を隠し、あたかも琉球が独立国であるかのように装うことが徹底されました。 このように、琉球は中国に対しては独立した朝貢国として振る舞い、日本(薩摩)に対しては従属国として振る舞うという、二つの顔を使い分けることを強いられたのです。
両属体制下の琉球社会
薩摩の支配という厳しい現実と、中国との朝貢関係という二つの枠組みの中で、琉球は独自の生存戦略を模索し、その中で特異な社会と文化を発展させていきました。
外交の妙技
両属体制下における琉球の外交は、まさに綱渡りの連続でした。中国と日本の間に立ち、双方の顔を立てながら自国の利益を確保するという、極めて高度な政治的手腕が求められました。
中国に対しては、従来通り定期的に朝貢使節を派遣し、皇帝の冊封を受けることで、冊封国としての立場を堅持しました。 新しい国王が即位するたびに、中国皇帝に承認を求める使節を送り、北京からやってくる冊封使を盛大にもてなしました。 この一連の儀式は、琉球が中国を中心とする華夷秩序の一員であり、独立した王国であることを国際的に示すための重要なパフォーマンスでした。
一方、日本に対しては、薩摩藩への従属の証として、定期的に年貢を納め、国王の即位や将軍の代替わりの際には「謝恩使」や「慶賀使」といった使節団を江戸に派遣しました(江戸上り)。 この使節団は、琉球の音楽家や舞踊家を伴い、道中でその独特の文化を披露することで、異国としての琉球の存在感をアピールする役割も担っていました。
この二つの大国に対する二重の外交儀礼は、琉球にとって大きな財政的負担となりました。しかし、この複雑な関係を維持することこそが、王国を存続させる唯一の道でした。琉球の役人たちは、中国語と日本語の両方に通じ、それぞれの国の儀礼や慣習を深く理解した、優れた外交官でなければなりませんでした。彼らは、薩摩の支配という事実を中国に悟られないよう細心の注意を払いながら、両国との関係を巧みに操縦していったのです。
経済の変容
薩摩の支配は、琉球の経済にも大きな変化をもたらしました。かつて琉球が独占的に享受していた中継貿易の利益の多くは、薩摩藩によって吸い上げられるようになりました。 薩摩は琉球の貿易を厳しく管理し、中国から輸入された生糸などの主要な交易品は、薩摩藩が独占的に買い上げ、日本国内で高く売りさばきました。
しかし、それでも琉球は東アジアの貿易ネットワークにおける重要な結節点であり続けました。薩摩藩も、琉球の貿易機能そのものを破壊することは自らの利益を損なうことになるため、貿易活動自体は奨励しました。 琉球は、薩摩の管理下で、日本製品を中国へ、中国製品を日本へと流すパイプ役を担い続けました。また、薩摩藩の統制を逃れる形での私的な交易も行われていたと考えられています。
さらに、薩摩への貢納品を確保するため、琉球国内では新たな産業の振興が図られました。特に、黒糖の生産は薩摩の厳しい監督のもとで奨励され、琉球の主要な輸出品目となりました。しかし、その生産は農民に重い負担を強いるものであり、琉球社会の貧富の差を拡大させる一因ともなりました。
文化の爛熟
政治的・経済的には厳しい状況に置かれた一方で、この両属体制の時代は、琉球文化が独自の発展を遂げ、爛熟期を迎えた時代でもありました。
中国と日本の二つの文化が、琉球というるつぼの中で混ざり合い、そこに古来からの琉球固有の文化が加わることで、他に類を見ないハイブリッドな文化が花開いたのです。 例えば、琉球の宮廷で演じられた組踊は、日本の能や歌舞伎の影響を受けながら、中国の故事や琉球の伝説を題材とし、琉球独自の音楽と舞踊で構成される総合芸術です。
食文化においても、中国料理と日本料理の技法が取り入れられ、琉球の気候や産物に合わせてアレンジされた独自の琉球料理が発展しました。漆器工芸である琉球漆器は、中国の技術を取り入れつつ、沖縄の自然をモチーフにした鮮やかなデザインで高い評価を得ました。また、紅型と呼ばれる染色技術も、東南アジアや中国、日本の技法が融合して生まれた、琉球を代表する工芸品です。
このように、両属という特殊な政治状況は、結果として琉球に多様な文化をもたらし、その独自性をより一層際立たせることにつながったのです。琉球は、二つの大国の文化をただ受け入れるだけでなく、それらを主体的に取捨選択し、自らの文化として昇華させる創造性を持っていました。
両属体制の終焉
250年以上にわたって続いた琉球王国の両属体制は、19世紀後半、東アジアを覆う地殻変動の波にのまれる形で、その終わりを迎えます。日本の近代化と、それに伴う国際秩序の変化が、琉球の運命を大きく変えることになりました。
近代日本の台頭と琉球併合(琉球処分)
1868年の明治維新により、日本は封建的な幕藩体制を廃し、強力な中央集権国家の建設へと舵を切りました。 新政府は、欧米列強に伍していくために「富国強兵」をスローガンに掲げ、近代的な国境線を画定する必要に迫られます。その過程で、曖昧な地位にあった琉球の帰属問題が提起されることになりました。
決定的な契機となったのは、1871年に発生した宮古島島民遭難事件(牡丹社事件)です。 琉球の宮古島から首里へ向かっていた船が遭難し、台湾に漂着した島民が台湾の先住民によって殺害されるという事件が起こりました。日本政府は、これを「日本国民」が殺害された事件であるとして清国に抗議し、1874年には台湾へ出兵します。 この交渉の過程で、日本は琉球が自国の版図に属することを既成事実化しようとしました。清国側は琉球が古くからの朝貢国であると主張しましたが、最終的に日本の出兵を「義挙」と認め、賠償金を支払うことで事件は決着します。このことは、国際的に琉球に対する日本の宗主権を黙認する結果となりました。
この事件を足がかりに、日本政府は琉球の併合を本格化させます。1872年、明治政府は一方的に琉球王国を廃して「琉球藩」を設置し、琉球国王尚泰を「琉球藩王」としました。 これは、琉球を日本の地方行政区画の一つに組み込むための第一歩でした。さらに1875年には、清国への朝貢と冊封関係の廃止を琉球に命じます。
琉球王国側は、長年の伝統である中国との関係を断つことに強く抵抗し、清国に助けを求めました。清国もまた、日本の強引なやり方に抗議し、琉球の帰属をめぐって日清間の外交交渉が行われました。 元アメリカ大統領グラントを仲介役とした交渉では、琉球諸島を南北に分割し、北部を日本、南部を中国の領土とする案(分島改約案)も提示されましたが、清国が最終的に批准を拒否したため、合意には至りませんでした。
交渉が不調に終わる中、日本政府は最終的な手段に打って出ます。1879年、軍隊と警察官を琉球に派遣し、首里城で「廃藩置県」を断行。琉球藩の廃止と「沖縄県」の設置を宣言し、国王尚泰に首里城からの退去を命じました。 尚泰は東京への移住を強制され、ここに450年続いた琉球王国は完全に滅亡し、両属体制はその歴史に幕を下ろしました。
両属体制が残したもの
琉球王国の両属体制は、大国に挟まれた小国が、いかにして自らの存続を図ったかを示す、世界史的にも稀有な事例と言えるでしょう。それは、一方では大国による支配と収奪という厳しい現実でありながら、他方では、その制約の中で独自の文化を育み、巧みな外交術を駆使して国際社会を生き抜いた、琉球の人々のしたたかな知恵の結晶でもありました。
この体制は、琉球に二重性、あるいは多面性といった特質を深く刻み込みました。中国と日本という二つの異なる文化圏に同時に属することで、琉球は独自のアイデンティティを形成しました。それは、どちらか一方に完全に同化するのではなく、双方の要素を取り入れながらも、そのどちらとも異なる「琉球」という主体性を保ち続けるというあり方でした。
1879年の沖縄県設置によって、琉球は日本の単一的な主権の下に組み込まれ、両属の状態は法的には解消されました。しかし、その歴史が育んだ文化や精神性は、現代の沖縄にも脈々と受け継がれています。中国や東南アジアとの歴史的なつながりを重視する視点、平和を希求する精神、そして外来の文化を柔軟に受け入れ、自らのものとして再創造する力は、両属という複雑な歴史を生き抜いた経験から生まれた、貴重な遺産と言えるかもしれません。