回部とは
清朝の時代における「回部」は、現在の中国新疆ウイグル自治区の南部、タリム盆地一帯を指す歴史的・地理的呼称です。 この地域は、天山山脈によって北部のジュンガル盆地と隔てられており、歴史的、地理的、そして民族的にジュンガリアとは異なる特徴を持っていました。 清朝がこの地を征服した18世紀半ば、ジュンガリアにはチベット仏教を信仰する遊牧民のオイラト・モンゴル人が居住していたのに対し、タリム盆地にはテュルク系言語を話すイスラム教徒の定住農耕民、すなわち現在のウイグル人の祖先が暮らしていました。 清朝の文献では、このムスリムが多数を占める地域を「回部」、すなわち「ムスリムの領域」と呼びました。 また、「回疆」(ムスリムの辺境)という呼称も用いられました。 この地域は、現地の人々からは「回部(六城)」、あるいは「イェティシャフル(七城)」と呼ばれ、西欧の文献では「カシュガリア」や「東トルキスタン」といった名称でも知られています。
清朝による征服以前の回部
清朝が18世紀半ばにこの地域を支配下に置く以前、回部は複雑な歴史を経ていました。古くはインド=ヨーロッパ語族のトカラ語を話す人々がオアシス都市国家を築いていましたが、9世紀以降、モンゴル高原のウイグル可汗国の崩壊に伴い、テュルク系民族が流入し、言語的・民族的にテュルク化が進行しました。 10世紀にはカラハン朝のもとでイスラム化が始まり、西部のカシュガルなどがイスラム文化の中心地として栄えました。 その後、13世紀から16世紀にかけて、この地域はモンゴル系のチャガタイ・ハン国やティムール朝、そして東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)といった、より広大なテュルク・モンゴル系イスラム国家の一部を形成しました。
17世紀に入ると、回部はヤルカンド・ハン国によって統治されていました。 しかし、このハン国は、スーフィズムの聖者家系であるホージャ一族の内部対立に深く巻き込まれていきます。ホージャには、白山党(アク・タグルク)と黒山党(カラ・タグルク)という二つの派閥があり、その権力闘争は地域の政治を不安定にしました。17世紀後半、白山党の指導者であったアパク・ホージャは、北方のジュンガル盆地に勢力を築いていたオイラト・モンゴルの一部族、ジュンガル部に助けを求めました。 この介入をきっかけに、ジュンガル部は1680年にヤルカンド・ハン国を征服し、回部をその支配下に置くことになります。
ジュンガル部の支配は、回部の人々にとって過酷なものでした。ジュンガルは仏教徒であり、イスラム教徒の住民に対して重税を課し、抑圧的な統治を行いました。 このため、住民の間ではジュンガル支配に対する不満が高まり、特に東部のトルファンやクムル(ハミ)のオアシスでは、たびたび反乱が発生しました。 これらの地域のムスリム指導者たちは、ジュンガルの支配を覆すため、東方の大国である清朝に助けを求め、その保護下に入ることを望むようになります。 トルファンやクムルの指導者、例えばエミン・ホージャのような人物は、清朝に服属し、ジュンガル打倒のための軍事作戦に積極的に協力しました。 清朝は彼らを懐柔し、ジュンガルとの戦いにおいて、回部のムスリム住民との仲介役として利用しました。 清朝は、自分たちの目的がジュンガル(オイラト)を討つことであり、ムスリム住民に危害を加える意図はないことを彼らを通じて伝えさせました。 このように、清朝による回部征服は、ジュンガル部の支配に対する現地のムスリム住民の反発と、清朝への協力という側面を抜きにしては語れません。
清朝の征服と統治体制の確立
清朝とジュンガル部の対立は、17世紀末のガルダン・ハーンと康熙帝の時代に始まり、中央ユーラシアの覇権をめぐる長期的な闘争でした。 18世紀半ば、ジュンガル部で内紛が発生し、その勢力が弱体化したことを好機と捉えた乾隆帝は、ジュンガルへの最終的な遠征を決定します。1755年、清軍はジュンガルを破り、その指導者の一人であったアムルサナを捕らえようとしました。この過程で、ジュンガルに人質として囚われていた白山党のホージャ家の兄弟、兄のブラハーン・アッディーン(大和卓)と弟のホージャ・イ・ジャハーン(小和卓)が解放されました。
当初、清朝はホージャ兄弟を懐柔し、回部のムスリムを統治するために利用しようと考えていました。しかし、ホージャ兄弟は清朝の支配を拒否し、回部で独自の勢力を築こうとします。 さらに、清に一旦は降伏したジュンガルのアムルサナが再び反旗を翻すと、ホージャ兄弟もこれに呼応し、1757年に清朝に対して公然と反乱を起こしました。 彼らは清朝が任命した将軍を殺害し、カシュガルやヤルカンドといった回部の主要都市を掌握しました。
この「大小ホージャの乱」に対し、乾隆帝は大規模な軍隊を派遣して鎮圧にあたりました。 清軍は、エミン・ホージャをはじめとする親清派のムスリム指導者たちの協力を得ながら、数年にわたる困難な戦いを繰り広げました。 1759年、清軍はついにホージャ兄弟の軍を破り、兄弟はバダフシャーン(現在のアフガニスタン北東部)へ逃亡しましたが、現地の支配者によって殺害され、その首は清朝に引き渡されました。 これにより、回部は完全に清朝の支配下に入り、乾隆帝の「十全武功」の一つである新疆平定が完成したのです。
二元的な統治システム:軍府制とベグ制
回部を征服した清朝は、この広大な新領土を統治するために、ジュンガリア(天山北路)と回部(天山南路)で異なる統治制度を導入しました。 これは、両地域の地理的、民族的、社会経済的な違いを考慮した現実的な政策でした。
まず、新疆全域を統括する最高軍政機関として、イリ(現在のグルジャ)にイリ将軍府が設置されました。 イリ将軍は満州人の武官として任命され、新疆全体の軍事・行政の最高責任者として、国境地帯を管轄する中央官庁である理藩院に直属しました。 イリ将軍の下には、各地の戦略的要衝に満州人の総督(アンバン、大臣)が配置され、八旗兵や緑営兵といった清朝の正規軍が駐屯しました。 このように、新疆全体は軍事的な管理下に置かれ、これを「軍府制」と呼びます。
一方で、ムスリムが定住する南部の回部(清側の呼称では回部、回疆)では、ジュンガル時代から存在した現地の有力者を通じた間接統治が採用されました。 清朝は、現地のムスリム社会の有力者である「ベグ(beg)」を各オアシス都市の行政官として任命し、彼らを通じて住民を統治させました。 ベグは、ハーキムベグ(阿奇木伯克、都市の最高行政官)を頂点に、徴税、司法、灌漑管理など、様々な職務を担う階層的な官職システムを構成していました。 清朝は、ベグの任命権を掌握し、彼らに清朝の官品(位階)を与えることで、彼らを清朝の官僚機構に組み込みました。しかし、実際の行政運営は現地の慣習に大きく委ねられており、イスラム法(シャリーア)に基づく裁判も一定の範囲で認められていました。
このベグ制の採用は、清朝がムスリム社会の内部構造に深く干渉することを避け、比較的少ないコストで安定した統治を実現しようとしたことを示しています。 清朝は、ベグ層の既得権益を尊重し、彼らを統治の協力者とすることで、住民の反発を和らげようとしました。ハミとトルファンの支配者は、早期に清朝に服属し、征服に貢献した功績により、モンゴルの王侯に与えられるジャサク(旗長)の地位を授けられ、他のベグよりも高い自治権を認められました。
北路と南路の異なる植民政策
清朝は、ジュンガルを征服した後、その故地であるジュンガリア(天山北路)において、大規模な植民政策を実施しました。 これは、ジュンガル部の殲滅によって人口が激減したこの地域を開発し、国境防衛を強化する目的がありました。 清朝は、漢人や回民(中国語を話すムスリム)の農民、さらには満州八旗の兵士などを組織的に移住させ、屯田(軍屯・民屯)を開拓させました。 ウルムチやイリといった新しい都市が建設され、北路の人口は急速に増加しました。 1760年から1830年にかけて、約15万5千人の漢人が屯田に入植しましたが、これらの屯田はすべてジュンガリアとウルムチに集中していました。
これとは対照的に、南部の回部では、19世紀初頭まで漢人の永住が厳しく制限されていました。 清朝は、回部のオアシス社会の構造を維持し、漢人入植者と現地ムスリム住民との間の摩擦を避けることを意図していました。 この地域への立ち入りは、駐屯兵、官吏、そして許可を得た商人などに限定されていました。 そのため、19世紀初頭の時点で、回部の人口の大部分はテュルク系ムスリムであり、漢人や回民の人口はごくわずかでした。 1803年頃の推計では、新疆全体の漢人・回民人口約15万5千人のほとんどが北路に居住し、南路に住む約32万人のウイグル人と比較して、その数は非常に少なかったとされています。 このように、清朝は北路では直接的な植民・開発を推進し、南路では間接統治と現状維持を基本とする、二元的な辺境経営を行ったのです。
清朝統治下の経済と社会
清朝による統治は、回部の経済に大きな変化をもたらしました。最も重要な変化は、この地域が清朝帝国の広大な市場経済網に組み込まれたことです。 清朝政府は、新疆に駐屯する数万の軍隊を維持するために、毎年85万から400万両もの銀を本国から輸送しました(協餉)。 この大量の銀の流入は、地域経済を大いに潤しました。さらに、清朝の支配確立に伴い、多くの漢人や回民の商人が新疆にやって来て、さらなる銀をこの地域にもたらしました。 彼らは、現地のムスリムに対して銀を貸し付ける金融業も営みました。
清朝はまた、地域の特産品の生産と交易を奨励しました。特に重要だったのが綿花です。 清朝は回部で生産された綿花や綿織物を買い上げ、それを北路の遊牧民であるカザフ人との馬の交易に利用しました。 これにより、綿花の需要が急増し、その生産が拡大しました。また、銅の採掘も行われ、1761年には清朝の貨幣が鋳造され、その一部は採掘に従事したムスリムに分配されました。
このような中国本土との経済的な結びつきの深化は、回部の経済を前例のない規模で成長させました。18世紀半ばの征服時から19世紀後半にかけて、新疆全体の人口は6倍に増加し、耕地面積は10倍に拡大したと推定されています。 特に南部のオアシス地帯では、1772年に約20万人弱だったウイグル人の人口が、1850年代から70年代には100万人以上に増加し、耕地面積も約2倍になったとされています。 この経済的繁栄は、清朝統治の安定に寄与する一方で、新たな社会問題も生み出しました。
社会構造とベグ層の役割
清朝統治下の回部の社会は、頂点に立つ清朝の官吏と駐屯軍、その下で実質的な地方行政を担うムスリムのベグ層、そして大多数を占める一般の農民(タランチ)という階層構造をなしていました。
ベグ層は、清朝の間接統治のパートナーとして、その地位を強化しました。彼らは世襲的な有力家系であることが多く、広大な土地を所有する地主でもありました。清朝から官職と位階を与えられたことで、彼らの権威はさらに高まりました。彼らは徴税権や裁判権を掌握し、地域の灌漑水路の管理などを通じて、農民の生産と生活を支配しました。ベグの中には、清朝への協力を通じて富を蓄え、絶大な権力を振るう者も現れました。
一方で、一般の農民の多くは、ベグやその他の地主に従属する小作人でした。彼らは収穫物の一部を地代として納め、さらに清朝が課す人頭税や土地税などの税金を負担しました。灌漑が不可欠なオアシス農業において、水利権を握るベグ層の支配力は絶対的でした。また、漢人商人などから高利で銀を借り入れ、負債に苦しむ農民も少なくありませんでした。
清朝の統治は、イスラム教そのものには寛容でした。 イスラム法に基づく裁判も認められ、宗教指導者(アホーンやイマーム)は地域社会で重要な役割を果たし続けました。清朝は、仏教徒であるジュンガルを打倒したことで、結果的にこの地域におけるイスラム教の優位性を確固たるものにしました。 しかし、清朝はスーフィズムのホージャのような、政治的影響力を持つ宗教勢力に対しては強い警戒心を抱いていました。特に、国外に亡命した白山党ホージャ家の子孫は、常に清朝の支配を脅かす潜在的な脅威と見なされていました。
また、清朝の支配は、時に現地住民との間に深刻な文化的・社会的摩擦を引き起こしました。1765年にウシュ(烏什)で発生した反乱は、満州人官吏の蘇誠とその息子がウイグル人女性たちを組織的に凌辱したことが直接的な引き金となりました。 怒りに燃えた住民は反乱を起こしましたが、清軍によって徹底的に弾圧され、反乱に参加した町の男性は虐殺され、女性と子供は奴隷にされました。 このような事件は、清朝の支配に対するムスリム住民の憎悪を掻き立て、後の反乱の火種となりました。
19世紀の動揺:反乱と外部勢力の介入
ホージャ家の侵攻とコーカンド・ハン国の役割
19世紀に入ると、清朝統治下の回部は、新たな挑戦に直面します。その最大の要因は、かつてこの地を支配した白山党ホージャ家の子孫による、失地回復を目指した侵攻でした。 彼らは、回部の西に隣接する中央アジアのコーカンド・ハン国に亡命しており、そこを拠点としていました。
1820年代、アパク・ホージャの孫であるジャハーンギール・ホージャが、コーカンド・ハン国の支援を得て、あるいはその黙認のもとで、回部への侵攻を開始しました。 1826年、ジャハーンギールは数千の兵を率いてカシュガルに侵攻し、清軍の守備隊を破って、カシュガル、ヤルカンド、ホータン、ヤンギヒサールといった西部の主要都市を次々と占領しました。 彼の侵攻は、清朝の支配やベグ層の搾取に不満を抱く多くの現地住民の支持を得て、大規模な反乱へと発展しました。
清朝は、この「ジャハーンギールの乱」を鎮圧するために、数万の軍隊と莫大な戦費を投入しました。 1828年、清軍は反乱軍を破り、ジャハーンギールを捕らえて北京で処刑しました。 しかし、この反乱は清朝の回部統治に深刻な影響を与えました。清朝は、コーカンド・ハン国がホージャ家を支援し、侵攻の拠点となっていることを問題視し、同国との関係を見直さざるを得なくなりました。コーカンド・ハン国は、回部との交易で大きな利益を得ており、清朝に対してホージャ家の侵攻を黙認する見返りに、交易上の特権を要求するという、日和見的な外交を展開しました。
ジャハーンギールの乱以降も、ホージャ家の子孫による侵攻は断続的に続きました。1847年には「七人のホージャの乱」が、1857年にはワリー・ハーンによる侵攻が発生し、そのたびに回部は戦火に見舞われました。 これらの侵攻は、いずれも清軍によって撃退されましたが、清朝の軍事・財政に大きな負担を強いるとともに、回部における統治の脆弱性を露呈させました。 また、これらの反乱を経験したことで、清朝内では回部の統治方針をめぐる議論が起こります。ジャハーンギールの侵攻後、それまで禁止されていた漢人のタリム盆地への入植が許可されるなど、より直接的な支配を強化する方向へと政策が転換し始めました。
ムスリム大反乱とヤークーブ・ベク政権の樹立
1860年代、清朝は太平天国の乱(1851-1864)という未曾有の内乱によって国力を著しく消耗していました。 この混乱は辺境の新疆にも波及します。1862年、中国西北部の陝西省と甘粛省で回民(ドンガン人)が大規模な反乱(同治回乱)を起こすと、その影響は新疆にも及びました。
1864年、クチャのオアシスで、現地のムスリム住民が清朝の守備隊に対して蜂起しました。 この反乱は、重税への不満や、清朝がムスリムを虐殺する計画を立てているという噂がきっかけだったと言われています。 反乱は瞬く間に回部全域に広がり、各地のオアシスで清朝の支配が覆されました。 イリやウルムチなど北路でも同様の反乱が発生し、清朝の新疆における支配は事実上崩壊しました。
この混乱に乗じて、外部からの勢力が介入します。隣国のコーカンド・ハン国は、カシュガルのホージャ政権からの援軍要請に応じ、1865年にヤークーブ・ベクという軍人を派遣しました。 ヤークーブ・ベクは、当初はホージャ家の代理人として行動していましたが、やがて自らの野心を実現するために動き出します。彼は優れた軍事的才能と政治的手腕を発揮し、数年のうちに回部の各地に乱立していた勢力を次々と打ち破り、1867年までにタリム盆地のほぼ全域を統一しました。 彼は「カシュガリア王国(イェティシャフル・ハン国)」を建国し、自らをアミール(君主)と称しました。
ヤークーブ・ベクの政権は、十数年間にわたって回部を支配しました。彼はイスラム法に基づく厳格な統治を行い、強力な軍隊を組織しました。彼の時代は、19世紀の中央アジアにおける英露の覇権争い、いわゆる「グレート・ゲーム」の最盛期と重なっていました。 ヤークーブ・ベクは、ロシアとイギリスの双方と外交関係を結び、両国の承認と支援を得ることで、自らの政権の国際的な地位を確立しようとしました。 イギリスは、ロシアの南下を防ぐ緩衝国として彼の政権を重視し、武器や資金を提供しました。オスマン帝国も、彼にアミールの称号を授与し、その正統性を認めました。
左宗棠による再征服
ヤークーブ・ベクによる新疆の喪失は、清朝にとって大きな衝撃でした。北京の宮廷では、新疆を放棄すべきだという「海防派」(沿岸防衛優先論)と、断固として再征服すべきだという「塞防派」(辺境防衛優先論)の間で激しい論争が繰り広げられました。最終的に、塞防派の重鎮であった左宗棠の主張が受け入れられ、清朝は新疆の再征服を決定します。
1875年、左宗棠は、太平天国の乱で活躍した自らの軍隊(湘軍)を率いて、新疆への遠征を開始しました。 彼は慎重に準備を進め、兵站線を確保しながら、まず北路のウルムチなどを平定しました。彼の軍には、馬安良らが率いる回民(ドンガン人)の部隊も参加しており、ムスリムがムスリムを討つという構図も見られました。
1877年、左宗棠の軍は南路の回部に侵攻しました。ヤークーブ・ベクの軍は、近代的な装備を持つ清軍の前に次々と敗北しました。ヤークーブ・ベク自身は、同年5月に急死しました(死因については脳卒中説や暗殺説など諸説あります)。 指導者を失ったカシュガリア王国は急速に崩壊し、年末までに清軍は回部の全域を回復しました。
この再征服は、19世紀後半の清朝にとって特筆すべき軍事的成功でした。 左宗棠の軍は、ヨーロッパ製の兵器を導入し、西洋の軍事技術を研究するなど、近代的な軍事作戦を展開しました。 また、左宗棠は、反乱の指導者など一部の首謀者のみを処罰し、一般の住民には寛大な政策をとることで、人心の安定に努めました。 さらに、ロシア帝国がヤークーブ・ベク政権の混乱に乗じて占領していたイリ地方も、1881年のサンクトペテルブルク条約による外交交渉の末、清朝に返還されました。
新疆省の設置と清朝統治の終焉
省制施行と一体化の推進
新疆の再征服を達成した清朝は、この地域の統治体制を根本的に見直す必要に迫られました。左宗棠らは、従来の軍府制とベグ制による間接統治では、外部勢力の侵入や大規模な反乱を防ぐことができないと主張し、新疆を中国本土と同様の「省」に改め、直接統治下に置くべきだと強く求めました。 この背景には、中央アジアにおけるロシア帝国の活動の活発化に対する強い危機感がありました。
1884年、清朝政府はついにこの提案を受け入れ、新疆省を設置しました。 これにより、それまでジュンガリア(天山北路)と回部(天山南路、回部)として別々に管理されてきた二つの地域が、「新疆」(新しい辺境の意)という一つの行政単位に統合されたのです。 初代巡撫(省の長官)には、左宗棠の部下であった劉錦棠が就任しました。
省制の施行に伴い、統治システムは大きく変化しました。旧来のベグ制は段階的に廃止され、中国本土と同様の府・州・県といった行政区画が導入されました。 行政官には漢人の官僚が任命され、北京の中央政府の直接的なコントロール下に置かれることになりました。左宗棠の湘軍出身者が多くの官職を占め、彼らは新疆に留まり、新たな支配層を形成しました。
同時に、漢人や回民の新疆への移住が積極的に奨励され、インフラ整備や農地開拓が進められました。 また、儒教教育を推進するための学校が設立されるなど、文化的な同化政策も試みられました。 これらの政策は、新疆を名実ともに清朝帝国の一部として一体化させ、辺境防衛を強化することを目的としていました。 この過程で、それまでジュンガリアと回部という別々の地域と認識されていた領域が、単一の「新疆」という地理的アイデンティティを持つ地域として形成されていったのです。
「グレート・ゲーム」の影響と清朝の衰退
新疆省が設置された後も、中央アジアをめぐる大国の角逐は続きました。特に、ロシア帝国は商業的・領土的野心から、新疆への影響力を強めようとしました。 サンクトペテルブルク条約やその後の通商条約に基づき、カシュガルやイリなど新疆各地にロシアの領事館が設置され、治外法権を持つ租界(条約港)が開かれました。 ロシア商人は関税免除などの特権を享受し、新疆の経済に深く浸透していきました。イギリスも同様に、カシュガルに領事館を置き、ロシアの動向を牽制しました。このような英露の勢力争いは、清朝の新疆における主権を不完全なものにしました。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、清朝の国力はますます衰退していきました。省制施行後の統治は、汚職や非効率といった問題を抱え、地方官僚による住民からの搾取も横行しました。 1890年代の経済危機は新疆にも深刻な影響を与え、社会不安が増大しました。
そして1911年、中国本土で辛亥革命が勃発し、清朝は崩壊します。新疆でも、革命派と旧清朝派の間で動揺が走りましたが、最終的には省の長官であった袁大化が追放され、彼の部下であった楊増新が実権を掌握しました。 楊増新は、中華民国政府から新疆都督に任命され、その後十数年にわたり、事実上の独立王国として新疆を支配しました。 これにより、1759年から約150年間にわたった清朝による新疆、すなわち回部を含む地域の統治は、完全に終わりを告げたのです。
清朝時代の「回部」は、18世紀半ばの征服から20世紀初頭の清朝崩壊まで、大きな変容を遂げた地域でした。清朝は当初、ジュンガル時代からのベグ制を利用した間接統治を行い、現地のムスリム社会の構造を比較的温存する政策をとりました。 この統治下で、回部は中国経済との結びつきを深め、人口増加と経済発展を経験しました。
しかし、19世紀に入ると、国外のホージャ家による侵攻や、大規模なムスリム反乱によって、清朝の支配は大きく揺らぎました。 特に、ヤークーブ・ベクによる独立政権の樹立は、清朝に新疆喪失の危機を突きつけました。 これに対し、左宗棠による再征服と、その後の新疆省の設置は、清朝の統治政策における大きな転換点となりました。 間接統治から直接統治へ、そして中国本土との一体化を目指す政策は、この地域の社会、経済、そして政治的地位を根本的に変えました。
清朝の統治は、この地域に安定と経済的繁栄をもたらした側面がある一方で、異民族による支配としての抑圧や搾取、文化的摩擦も絶えず存在しました。 また、英露の「グレート・ゲーム」という国際政治の力学に翻弄され、その主権は常に脅かされていました。 清朝による「回部」の統治の歴史は、一つの帝国が多民族・多文化地域をいかに支配し、その過程でいかなる変容を経験したかを示す、複雑で多面的な事例と言えます。この時代に形成された「新疆」という枠組みと、それに伴う様々な問題は、その後のこの地域の歴史にも長く影響を与え続けることになります。