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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / 清代の中国と隣接諸地域(清朝と諸地域)

アングン川とは わかりやすい世界史用語2410

著者名: ピアソラ
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アングン川とは

清の時代のアングン川は、清王朝の歴史、特に北方の国境政策とロシア帝国との関係において、重要な地理的・政治的役割を果たしました。アングン川は、清が満洲の故地と見なした広大な領域の一部を形成し、その流域は多様な民族の生活の舞台であると同時に、清とロシアという二つの帝国の利害が衝突する最前線でもありました。



地理的概要

アングン川は、中国の内モンゴル自治区に位置する大ヒンガン山脈の西斜面にその源を発します。 上流部はハイラル川として知られています。 全長は約1,620キロメートルに及び、そのうち約944キロメートルがロシアと中国の国境を形成しています。 川は大部分が広大な渓谷を流れ、最終的にシルカ川と合流してアムール川となります。 アングン川の流域面積は約16万4,000平方キロメートルに及びます。 降水量が多い年には、通常は出口のない内モンゴルのフルン湖から水があふれ出て、アングン川に合流することがあります。
アングン川は、アムール川水系の一部を構成する主要な河川です。 アムール川は、シルカ川とアングン川の合流点から始まり、東アジアで最も長い川の一つです。 アムール川水系全体の流域面積は約185万5,000平方キロメートルに達し、その範囲はロシア、中国、モンゴルの三国にまたがります。 アングン川のほか、ゼヤ川、ブレヤ川、ウスリー川、ソンファ川(松花江)などがアムール川の主要な支流として知られています。 この広大な水系は、多様な生態系を育み、流域に住む人々の経済活動を支える重要な水資源となってきました。
清朝以前の歴史と民族

アングン川流域を含む満洲地域は、清を建国した満洲人の故郷です。 満洲人は、女真人として知られるツングース系民族の子孫であり、彼らはかつて中国北部で金王朝(1115年~1234年)を建国した歴史を持ちます。 「満洲」という名称は、1636年に清のホンタイジが女真人のために導入したものです。
モンゴル人の間には、アングン川に関連する創世神話が伝えられています。 『元朝秘史』によれば、かつてモンゴル人が他の部族との戦いに敗れ、二組の男女だけが生き残りました。 彼らは敵から逃れるために、山と森に閉ざされたエルグネ・クンと呼ばれる土地にたどり着きました。 そこは草が豊かで気候も良く、彼らはその地で子孫を増やし、鉄を精錬する技術を身につけたとされています。 この鉄を溶かす技術によって、彼らは山を抜け出し、ケルレン川やオノン川の草原地帯へと進出することができたと伝えられています。
アムール川流域には、古くから狩猟や牧畜を営む様々な遊牧民族が暮らしていました。 川の北側にはブリヤート人、サハ人(ヤクート人)、ナナイ人、ニヴフ人(ギリヤーク人)などが、南側には様々なモンゴル系や満洲系の集団が居住していました。 これらの人々は、地域の自然環境に適応した独自の文化と生活様式を築いていました。
清朝の成立と満洲統治

17世紀初頭、女真人の指導者ヌルハチが満洲の諸部族を統一し、後金(後の清)を建国しました。 彼の息子であるホンタイジは、領土をさらに拡大し、東は朝鮮半島、北はアムール川・ウスリー川流域、西は内モンゴル、南は万里の長城に至る広大な地域を支配下に置きました。 ホンタイジは民族名を「満洲」と改め、国号を「清」としました。
1644年、清は明の首都であった北京を占領し、中国全土の支配者となりました。 清朝にとって満洲は、自らの民族の起源である「龍興の地」として特別な意味を持つ場所でした。 そのため、清朝は満洲を他の省とは異なる特別な制度で統治しました。 当初、清政府は漢民族がこの地域に移住することを禁止していましたが、この規則はしばしば破られました。 18世紀には、満洲の地主が漢民族の小作人を必要としたことや、華北での飢饉や洪水から逃れてきた漢民族の難民を受け入れたことなどから、満洲における漢民族の人口は大幅に増加しました。
清朝は、満洲の広大な辺境地域を統治するため、軍事的な駐屯地を各地に設置しました。 特にアムール川下流域や沿海地方は、吉林将軍の管轄下に置かれ、ニングタ(現在の牡丹江市の南に位置した駐屯都市)から管理されていました。
ロシアの東方進出とネルチンスク条約

17世紀半ば、ロシア帝国はシベリアを越えて東方へと勢力を拡大し、アムール川流域に到達しました。 ロシアの探検家や商人たちは、毛皮交易の新たなルートを求めてこの地域に進出し、アルバジンなどの要塞を築きました。 ロシア人の進出は、この地域を自国の領土と見なす清との間で緊張を高めることになります。 当時、アムール川流域の先住民たちは、ロシア人コサックの残虐な行為から彼らを「羅刹」(仏教神話に登場する悪鬼)と呼んで恐れていました。 また、ロシアが先住民に対して正教への改宗を進めていたことも、清にとっては脅威と映りました。
清の康熙帝は、ロシアの進出を阻止するため、1685年に大軍を派遣してアルバジン要塞を攻略しました。 一度は撤退したロシア軍でしたが、再びアルバジンに戻って要塞を再建し、周辺地域への襲撃を続けました。 清は、ロシアとの紛争が長引くことで、まだ服属していなかったモンゴルの部族がロシア側につくことを懸念しました。 一方、ロシア側も清との全面的な戦争は避けたいと考えていました。
このような状況の中、両国は国境問題を解決するための交渉に臨むことになりました。 1689年8月27日、清とロシアはネルチンスクで会談し、両国初の国境条約であるネルチンスク条約を締結しました。 この条約は、ラテン語、ロシア語、満洲語で作成され、ラテン語版が正文とされました。
ネルチンスク条約では、両国の国境線が以下のように定められました。
アルグン川を国境とし、その左岸(北側)はロシア領、右岸(南側)は清領とする。
アルグン川とシルカ川の合流点から、ゴルビツァ川を遡り、その源流があるスタノヴォイ山脈(外興安嶺)の分水嶺に沿って東に進み、オホーツク海に至る線を国境とする。
この条約により、ロシアはアムール川流域から撤退し、アルバジン要塞も破棄されることになりました。 一方で、ロシアはバイカル湖とアルグン川の間の地域(ザバイカル)に対する領有権を確保し、北京での通商の権利も獲得しました。 清にとっては、アムール川流域全域に対する主権が確認され、ロシアの脅威を一時的に退けることに成功しました。 この条約によって定められたアングン川を国境とする体制は、19世紀半ばまで続くことになります。
19世紀の情勢変化とアイグン条約

ネルチンスク条約によって確立された国境は、1世紀半以上にわたって維持されました。しかし、19世紀に入ると、両国の力関係に大きな変化が生じます。清は、国内で太平天国の乱(1850年~1864年)という大規模な内乱に直面し、また、イギリスやフランスとのアヘン戦争(第二次アヘン戦争は1856年~1860年)にも敗れ、国力が著しく衰退していました。
一方、ロシアは太平洋への進出を国家的な目標として掲げ、極東地域への関与を強めていました。 特に、東シベリア総督に就任したニコライ・ムラヴィヨフは、アムール川流域の獲得に強い意欲を示しました。 彼は1850年代を通じてアムール川への探検隊を派遣し、クリミア戦争(1853年~1856年)の際には、軍事輸送路としてアムール川を利用し、沿岸に軍事拠点を次々と建設していきました。 これらの活動により、アムール川以北の地域は事実上ロシアの支配下に置かれることになりました。
中国が内憂外患に苦しんでいる好機と見たムラヴィヨフは、清に対して新たな国境条約の締結を迫りました。 彼は「イギリスから中国を守る」という名目で軍艦を率いてアイグン(璦琿)に乗り込み、清の将軍であったイシャン(奕山)に圧力をかけました。 1858年5月28日、両者はアイグン条約に署名しました。
アイグン条約の主な内容は以下の通りです。
アムール川の左岸(北側)の土地をロシア領とする。
アムール川の右岸、ウスリー川までの土地は清領とする。
ウスリー川から海までの土地(沿海州)は、両国の共同管理地とする。
アムール川、ウスリー川、ソンファ川の航行は、ロシアと清の船に限定する。
この条約により、清はネルチンスク条約で確保したアムール川以北の広大な領土(約60万平方キロメートル)を失うことになりました。 これは、満洲人の故郷である満洲の一部を割譲することを意味しました。 当初、北京の清政府はこの条約の批准を拒否しました。 しかし、1860年にロシアがアロー戦争の調停役を務めた見返りとして北京条約が締結され、アイグン条約の内容が追認されるとともに、ウスリー川以東の沿海州も正式にロシア領となりました。
これらの条約は、弱体化した清が武力的な脅威の下で不平等な内容を強制されたものであり、中国側では「不平等条約」の典型例と見なされています。 これにより、清は日本海への出口を失い、満洲の領域は大きく縮小しました。 アングン川は、かつて清帝国の内陸を流れる川でしたが、この時からロシアとの国境を画する最前線の川へとその性格を大きく変えることになったのです。
清代におけるアングン川流域の社会と経済

清代を通じて、アングン川流域は多様な経済活動の舞台でした。先住民族は伝統的に狩猟、漁労、牧畜などを営んでいました。 特に毛皮は重要な交易品であり、ロシアの東方進出の大きな動機の一つとなりました。
清朝は、満洲の経済を再興するため、当初は漢民族の遼東への移住を奨励しました。 18世紀以降は、満洲の地主が労働力を求めたことや、華北からの難民の流入により、農業が盛んに行われるようになりました。 漢民族の農民は、満洲の広大な土地を開墾し、穀物を栽培しました。 1780年代には、漢民族によって開墾された農地は満洲全体で数十万ヘクタールに達したと記録されています。 アングン川流域の肥沃な土地も、こうした農業開発の対象となりました。
また、アングン川は水上交通路としても利用されました。 ネルチンスク条約では、両国民がパスポートを所持して国境を越え、交易を行う権利が定められました。 19世紀半ばにロシアがアムール川の航行を開始すると、この地域はロシアにとって太平洋への重要な出口となり、軍事・商業の両面でその重要性を増していきました。 アイグン条約では、アムール川、ウスリー川、ソンファ川の航行権がロシアと清の船に限定され、ロシアのこの地域における影響力がさらに強まりました。
清朝は、満洲の防衛と統治のために、八旗制度と呼ばれる独自の社会・軍事組織を活用しました。 八旗に所属する満洲人の兵士は、全国の主要な都市や戦略拠点に駐屯し、国境警備の任にあたりました。 アムール川流域にも、ロシアの南下を警戒するために海軍大隊が置かれるなど、軍事的な防衛体制が敷かれていました。 しかし、19世紀になると清の軍事力は衰え、ロシアの進出を食い止めることはできませんでした。

清の時代のアングン川は、単なる地理的な存在にとどまらず、清朝のアイデンティティ、国家戦略、そして国際関係を映し出す鏡のような存在でした。満洲民族の故郷の一部として神聖視されたこの川は、17世紀にはロシア帝国との勢力圏を画定するネルチンスク条約の舞台となり、清の威信を保つ上での象徴的な国境線となりました。しかし、19世紀半ば、清の衰退とロシアの膨張という国際情勢の激変の中で、アングン川は再び両国の角逐の場となります。アイグン条約と北京条約によって、アングン川の北側と東側の広大な領土がロシアに割譲されたことは、清にとって大きな打撃であり、その後の東アジアの地政学的状況を決定づける出来事でした。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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